むしゃくしゃして書いた。後悔している。

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敗北

日差しが差し込んで鬱陶しく部屋を照らす昼下がり、私は目を覚ました。何かをする気概もないくせ時間を浪費することを嫌ってかけたアラームは今朝も役立たずだった。 怠い。倦んでいる。

私の生活は言葉で表せばそんなところだった。

平日に友人と顔を合わせれてみれば幾らか空元気をまわせるものの、休日となれば穴蔵にこもって惰眠を貪る。昼にのそのそと起き出して、焦燥感だけは一丁前に芽生えるので机に向かうものの思う通りに進まずペンを放り投げる。腹が減ったと飯を食えば減る一方の銀行残高を思って溜息一つ。そんな有様で、私の暮らしは順調な右肩下がりであった。

思うに、私には根性骨というものが無いのだ。駄文書きなどとふざけた自虐をしているだけで筆を執らなくなったのが良い証拠だ。

好きなものを探すことも、嫌いなものを遠ざけることも出来はしない。己の暮らしのために自分が出来ることなど払底しているように思えて、などと何度目かも分からぬオチで終わりそうな思考を回している内に部屋にいるのが嫌になった。そうして私は鬱憤が貯まるだけの日々を、じめじめと腐っていくだけの私を、丸ごと吹き飛ばしてくれるようなミサイルじみた何かを求めて外出することを決意したのだった。

 

外へ出たとして、何処へ行こうか。ルンペン癖故の無計画な散歩しかしない私は気晴らしが出来る場所など知らない。

ここで私の悪癖の中で一番の悪癖、衒学の癖が顔を出した。見栄っ張りの癖は背骨にへばりついて片時も離れたことがない。威張る相手もいないというのに、絵画を見てうんうん頷いてみせる為だけに美術館へ足を運ぼうと言うのである。そうして私は電車に乗り込んだ。揺られること30分ほど。駅に着く。

人混みをかき分けて進んで、美術館へ。北欧の神秘とやらが見られるらしい。

意気込んで美術館に来たはいいものの、私は絵画の見方など分からない。口を開けてぼんやり眺めて一言、綺麗、とだけ呟いて終わりである。遠い北欧の地の郵便路も宮殿も白樺の木立も、ただ視界に捉えるだけである。美しい色彩で描かれた油絵も、目に映るだけで心まで落ちてこない。当然といえば当然である。私のような、画家の情熱を受け取る水瓶を心に持ち合わせぬ人間が絵画から一体何を受け取ろうというのか。そうして見て回っている内に一つの絵に目が留まった。大気の乙女、イルマタル。彼女はカンヴァスの中央からこちらを見つめていた。私の目を留めたのは彼女の美しさではなく、彼女の血が通った肌だった。ふっくらとした頬には薄く赤みが差していて鮮やかだ。濃い紅で彩られた唇は柘榴のよう。彼女の細い指先や脚の先にも、薄い肌を透かして血の赤が見える。暗い波で埋め尽くされたカンヴァスの中で血が通った生き物は彼女だけだった。天と海だけがあった夜の時代に降り立った若き乙女は、波風と交わって身ごもった。海上を飛ぶ金目の鴨が、イルマタルの膝頭に巣を作り、産み落とされた卵から大地、太陽、月が生まれたという。ならばこれは、暗い波の中で唯一光に包まれたイルマタルの絵は、創世の瞬間を切り取ったのだろうか。叙事詩カレワラにおいて、彼女は天地創造の後、創造意欲に任せて触れるもの全てに命を吹き込んでゆく。足跡は魚たちの棲み家に。指で大陸の輪郭を刻み、彼女は彼女だけの線を世界に残して、原初の景色を生み出してゆく。              

丁度、イルマタルを描いたこの画家もそんな気持ちだったのではないか。美しい絵を描こうなどとは思っていなかったに違いない。画家も乙女も同じように、根源的な欲求、世界に触れたいという思いから線を引いたのだ。雄大な光景を綴った叙事を読んだ画家はまっさらなカンヴァスに筆を走らせた。時の隔たりを超えて、乙女の創世を白紙の世界に描き出していった。そうして出来たのがこの『イルマタル』なのだろう。彼女の頬が赤いのは、彼女の指先まで伸びた血管が脈打っているのは、画家の息吹が未だに生きているからだろう。叙事詩の光景に惹かれて筆を走らせた画家の息吹こそが、乙女の心臓を今も脈打たせている。乙女の無垢な創造を描写しようとした作家の情熱は確かに私の胸を打った。

止まっていた心臓が熱く脈打ち始めたようだった。

数年前に執筆を始めた時、私は自分の憂鬱を刺し殺してやるためにペンを握っていたはずだった。どうしようもない苛立ちを吐き出すために執筆を始めた。後ろ向きでしかない動機で始めた執筆だが、以前の私は自分の言葉を紙面に刻みつけるその行為を確かに楽しんでいたのだ。どれだけ後ろ向きであっても、自分の心の風景をそのままに描写する喜びを見出していたはずなのだ。私は私の生活のつぶやきというようなものを、のろのろと紙面に落としながら暮らしていた。自分の胸の内から出た言葉だけで世界を描く喜びがあった。

それなのにいつの間にか、文の巧拙ばかりを気にするようになった。

それっぽい言葉の羅列で紙面を埋めたような文章を書く奴も、そんな空虚な作品を評価するような奴も嫌いだった。表面だけをなぞって満足して、したり顔をする輩がこの世界を駄作塗れにしてしまったんだと、かつてはそう思っていたのに。気付けば私は自分の言葉が嘲笑を浴びることだけを恐れるようになって。外連味に塗れた言葉でそんな奴らの片棒を担ぐようになった。松葉杖代わりにしていたペンも、いつからかペン先に力が入ることがなくなった。他人には破り捨てられるちっぽけな一行であってもそれが私の袂からでた言葉である限り、黄金にも勝る価値を持つと息巻いていたはずなのに。

 画家は自らが触れたカレワラの世界を描写する喜びのままに筆を走らせたから、乙女に命が吹き込まれたのだ。純粋な創作意欲の発露こそが乙女の心臓を脈打たせている。肌を撫でる波と髪を抜ける風に目を細めながらカンヴァスの中で息をしている乙女を見ているとそう思わずにはいられなかった。

私は私の初期衝動をすっかり粗末にしてしまっていたのだ。居るかどうかも分からない他人のくちばしにつつかれる事に怯えて、ついには書くことすらやめてしまった。

 

『イルマタル』の後に見た絵はろくに覚えていない。カンヴァスの中の乙女とその頬に差した赤を思い返して居る内に展示スペースを回り切っていた。私は呆然としたまま美術館を出た。敗北であった。私自身にか、創作を純粋に楽しむ人にかは分からないが、確かに負けたと思った。しかしこれは、良い敗北である。今度こそは。これからはきっと、私の内から湧いた言葉だけで小説を書いてやろう。

私の世界に居ない他人に怯えるのはもうやめだ。どれだけ不細工で、稚拙であっても、私は自分の血で書いた作品を至高と信じる。身綺麗なだけの虚像などお断りだ。乙女との出会いは私の枯れきった泉に情熱を注ぎ直してくれた。私の世界をむき出しにした小説を、呼んだ者に私の息吹が伝わるような小説を書いてやる。誰にも聞こえない宣戦布告が夕方の街に木霊した。


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