眼鏡を外して覚醒するな教にも入信しています。外していいのは老眼鏡だけだ。
稲妻は島国である。
テイワットの七国同盟として名を馳せてはいるが、他の六国とは物理的に距離が離れている。ゆえに稲妻は情勢に左右されることが少なく、悠久の時を持つ永遠の国として名高い。
──が、しかし。どうやら近頃の稲妻には、変化が訪れているようだった。
「………人、おおいなあ」
「せやねぇ」
「まだ明け方やのに、忙しないなぁ」
「そういうお嬢ちゃんは、なァんで僕の家におるんかいね」
「うちは仕事や。今は在庫がすっからかんやし。来年の夏に向けて花火の仕込みがいるんやもの」
「僕はまだ店じまいなんやけどなァ……」
明け方。まだ息が真っ白に染まり、サクサクと霜を踏む音が耳に心地よい微睡の頃合い──に、叩き起こした結果、
そうして伝票を切っている洛風を横目に、宵宮は障子の向こうへ視線を向けた。洛風の家──離島の借家からは、朝霧にくゆる港が伸びる。
離島にはいつになくざわめきが走っていた。入港する船の多くはスネージナヤの軍艦であり、
激しいのは
同時に、稲妻国内で流れる噂には、宵宮の耳にも聞き捨てならないものがあった。
曰く──「外国人への法が厳しくなる」というものだ。
宵宮は生粋の稲妻人であるからして、例え法が厳しくなろうが関係はないのだが。
気にするべきは、宵宮の取引相手である洛風だった。彼は璃月人であり、外国人として離島に暮らしている。彼への法律が厳しくなった場合、宵宮の職場・長野原花火屋にもなにかしらの被害があるのではないか、という心配があった。
それに洛風が困ったら大変やし。助けてやりたいし。
別に洛風のことが心配とか、そういうのではない。
──と、己に言い聞かせ、宵宮は視線を戻す。
「ンン……ふァ、ぁー……」
おっきく口を開けて欠伸をする洛風──の口にちらりと見えた八重歯。思ったよりも鋭くて、肉食の獣のような連想をした。あれでかぷっと噛まれたら痛いんやろかな、でも洛風だったら力加減してくれるかも。意外と雄々しいところもあるんや。なんていうばかばかしい思考を脳裏から払い、「口に手ぇあてて欠伸しぃや」と苦言を申す。
「へぇへ…」
「気の抜けた返事やなぁ」
「そら気も張りッぱやったら疲れるやろ。色々考えなあかんことも多いんやし」
「例えば?」
「んー……身の振り方とか?」
寝ぐせまみれの頭をぼりぼりと掻く洛風の声はくたびれたまま。寝起き特有のリラックスした声色で、何の気なしに口にした言葉に──宵宮の心臓が、イヤな跳ね方をする。
身の振り方。将来に対する指針のことだ。
他の人間、特に商人なんかは稲妻から離れるものもいた。先見の明があれば、不穏なうわさが立つ稲妻からは離れていくものだろう。
洛風も、先見の明がある方だ。彼が売り出す商品がヒットを飛ばすことは多いし、宵宮とて、洛風の突発的な仕入れに助けられたことが多々ある。
もしもここで洛風が〝ほな稲妻は危ないんで帰りますわ〟……などと言ったら。このちゃらんぽらんな男は、自国──瑠月へ行ってしまうのだろうか。
宵宮の喉がヒクつき、手が勝手に動く。……ぱしり、という軽い音を聞いて、ようやく洛風の腕を掴んだことに気がついた。
きょとん顔の洛風と、自分の腕。交互に見てから、宵宮はぱっと手を離す。なんで腕なんか掴んだんやろ。──と、問うたところで、答えは掴んだ本人である宵宮にしかないのはわかり切っている。
なにか、なにか誤魔化さねば。
「………璃月に帰るん?」
狼狽えて考えた結果、馬鹿正直な本心を問いかけた。
璃月に帰ったからといってなんだと言うのだ。洛風のようなこうるさくて意地悪ばかりの男など、さっさと帰ってもらったほうがいいのでは。
口をはくはくと開け言葉に詰まった宵宮に、洛風はフゥと白い息を吐いた。煙ではなく、部屋の寒さでの息だった。
「なんでそないなコト聞くん?」
「べ、……別に、ほら、最近離島から帰ってく商人さん多いし。気になって」
「ほォ。そら商人なら帰るわなァ」
「洛風も?」
「まァ僕も帰るよ。次に璃月に行く船で出るつもりやけど」
「それは……今稲妻で流れとる、悪い噂のせい?」
「
「あー……」唸る宵宮は、そういえば今年も花火を納品したなと思い出して。「来月やっけ?」
「そうそ。今年もご贔屓にどうも」
「もうそんな時期なんやなぁ……」
「僕がおらんと寂しい?」
「
噛みつくように叫ぶが、心のどこかでは否定できない。今はそんなに寒くも感じない洛風の家だが、もしも彼がいなかったら──ひどく冷えるのだろうなと、ぼんやり察した。
自分が素直になれないことすら宵宮には理解できず「……あんたがおらんと、仕事にならんだけ」と、ぶっきらぼうに口をとがらせる。
「ふ──ん?」
によによによ。洛風が怪し気に目じりを吊り上げて肩眉を持ち上げるのは、〝愉悦〟の感情から笑っているときだ。また
「噂、といえばぁ」
「うン?」
「うち、聞いたんよね。洛風って好きな子がおるんやろ?」
「…………」
「も~すぐ海灯祭で、地元に帰るんやろうけどぉ──告白せんで帰るん?」
洛風は表情をがらりと変え、押し黙った。顔を伏せていると、前髪が影になって顔色が覗きにくい。しかし図星を指されたことは間違いないようだった。意味も無いのに、火も着いていない煙管を咥えて吸おうとしている。
宵宮は窓から離れ、洛風の元へと擦り寄った。揶揄い返してやったのだから、顔を見てやらねば気が済まない。いつもしてやられている身からすれば、洛風が狼狽する姿と言うのは非常に気分が良いものだ。
「告白、なァ……」
「思いも告げずに帰るんは不誠実やろ?」
「へェ。せやね」
「それで、誰なん?」
「……」
「誰が好きなん? 離島の子? それとも紺田村の子? もしくは……城下町の子、とか?」
によによによ。今度は宵宮が笑う番だった。どうにかして聞き出してやろうとして──聞いてその女の子の顔を見たとてどうなるのかと心のどこかが突っ込むが、それよりも興味が勝った──洛風の頬をつんつん
〝城下町〟の言葉にぴくんと肩を震わせた洛風が、前髪の隙間から宵宮を見た。きゅん、と心臓を刺すほどの眼力。糸目からは瞳の色は伺えないが──瞳孔を広げ、じィッと宵宮を見ているのだという確信があった。
「………………ッフ────…」
深い呼吸。または深いため息。煙管を手に持ち替えて、洛風は自分の黒い前髪をくしゃくしゃと掻きまわす。
怒ったのか。拗ねたのか。それとも照れているのか。彼の目からは伺えない。
宵宮がたじろぎ、僅かに身を引いた。──その瞬間。
「ふぎゅッ!?」
「ニブチンの小娘が気にすることやないわ」
「んやゃ! はな
鼻をつんと上向きにひっぱられる鈍い痛みと、呼吸器官を塞がれる不快感。ギュッと鼻を
「んぇ、う゛……ひどい……」
「どっちがやの」
「あんたのほうに決まっとるやろ!」
未だにひりひりと痛む鼻を擦って、宵宮はキャン! と子犬のように吠えた。やっぱり洛風はいじわるだ。こんな男に好かれているという女の子が可哀想で仕方ない。
これ以上抓まれないようにと洛風から距離をとり、宵宮は窓の下に身を寄せた。外から吹き込む冷気が頬を撫でる。
炎元素の〝神の目〟を持つ宵宮は基礎体温が高く、寒さには強い。
だから部屋の真ん中で
「宵宮」
「ふんっ! いじわるさんのとこには行かんもん。湯たんぽ代わりももうやらんから!」
「宵宮。……僕はちゃんと帰ってくるよ」
優しい声。たまにしか聞かない声色に、宵宮は「………えっ?」と、戸惑いがちに振り返った。
やはり部屋の中心から動かないでいる洛風を慌てて見ると、彼は珍しく目尻を垂らして笑んでいた。見慣れない顔だった。
恋慕。愛情。慈愛。柔和。そういった感情が詰め込まれたらこんな顔をするのだろうな、と思える。甘ったるい表情。なぜだか、その〝甘ったるい顔〟が自分に向けられているような気がして、宵宮はキュッと口を噤む。膝を立てて座り、身体もキュッと丸めてしまった。
「璃月には花火の納品に行って、実家に挨拶するくらいや。すぐ帰ってくる」
「…そ、……そうなん。帰ってくるんや。ふーん、」
「やからそんな寂しがらんでええの」
「さ、さ、さみしくなんかないったら!」
キャン! と噛みつくように叫んで洛風の顔を見ると、彼の表情はすでにすっかりいつもの通り。にやにやと狐のように目尻を上げた、いけ好かない顔をしていた。
──さっきのは見間違いやったんやな。と、宵宮は決めつけて立ち上がる。これ以上洛風の借家に居ては調子が崩されそうだったのだ。
縁側に飛び出て、いつものように転がっている下駄を履く。背後から聞こえる「さむいぃ……閉めてってや…」というか細い悲鳴は無視だ。
そのまま背を向け、ずかずかと庭を横断して帰ろうと──し。フト気になったことが脳裏に浮かんで、宵宮は振り返った。
「ところで……」
「ン?」
「実家に挨拶て、なんの挨拶なん? 洛風が実家に帰る、なんて初めて聞くし……気になるんやけど」
「ああ、マア……最近縁談の話がしょっちゅうくるもんやから、〝好きな女の子がおるんで稲妻に永住します〟って言いに行くんよ」
「ふーん……」
宵宮が聞いたことのある限り、洛風の実家はかなり大きな商家だ。彼の父がいろいろとやらかし──詳しくは聞いていないが──大変だったとは聞いているが、しかし彼の家の権威が失われたわけではない。次男坊の洛風は国外に出てはいるのだが、お家のために結婚せねばならない……というのは、大きな家ならままあること。宵宮の友達である綾華も、そういった縁談の話に困っているのだと言っていた。
ならばまぁ、彼にも縁談の話はくるのだろう。
彼はお家のための結婚すら断って、最悪の場合に家との縁が切れても良いくらいには、その〝女の子〟のことが好きなのだな。
──もやっ。とした、妙な感覚が宵宮に走る。それは鳩尾から心臓まで伝わって、チキチキと胸を刺した。不快感だ。妙に重たくて苦々しい。慣れない感覚。
何がもやっとしたのだろうか。それが恋心だと自覚していない宵宮には分からなかった。もやっとした〝イヤな感覚〟だけが意識に残り、投げやりになって「ほな気ぃつけてな」と声を投げる。
返事は聞かなかった。なんとなく、聞きたくなくて、足早に庭先から去っていく。
借家の中に残った洛風がどんな顔をしているのかを見ることも無かった。
稲妻が鎖国する、一か月前の話である。
短編書き出し予定です。読みたい章を教えてください。
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洛風、スメール留学中(出会い前)
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無自覚宵宮、洛風と海遊び(鎖国前)
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洛風、神里兄に絡まれる(鎖国前)
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自覚済宵宮、八重神子に遊ばれる(鎖国後)