(1)
海を見たことがなかった。
海というものについて、わたしは、聞き知っているだけで、実際にその広い水面や、潮風のにおいや、彼方の水平線を、実際に目にするという経験を欠いているのだった。
ある夜、わたしは夢を見た。
ザブザブという音が小さい耳鳴りのように、遠くの方より聞こえ、やさしい音色で、水でも流れているようだった。
わたしは砂場に倒れていて、目が覚めると、まばゆい陽光が目にしみた。日中のようだった。
うつ伏せにぐったりと倒れているわたしは、四肢に力を集中し、重たい体を何とか起こした。
砂場は広かった。砂漠のようだった。わたしは遭難でもしたのかも知れない。絶対に足を踏み入れてはいけないという砂漠に、あるいは好奇心から、あるいは何らかの目的から、立ち入ってしまったのかも知れない。
だが、わたし自身、何が何だかさっぱり分からないという具合だ。
やれやれといった心境で、ボロを着たみっともないわたしは、苦笑いをこぼした。
周りには誰もいない。家族も、友達も、知人も、誰もいない。ひと気が、絶えてなかった。
水の音はまだ聞こえている。
目を瞑って耳を澄ましているわたしはふと、風の涼しい流れを肌に感じ、目を開けた。
ずっと向こうまで、雲を抱く青空まで、砂漠は続いている。
風は、向こうより吹いてくるようだ。
わたしは、風を手掛かりに歩き出した。裸足を砂地に沈めて、上げて、前へと進んだ。
その内、段々と、日が暮れるように、辺りが暗くなっていき、間に合わなかったと残念に思いかけると……
――夢が醒めた。眠っていたわたしは、目蓋が開き、朝の来たことを知る。
藁の感触がチクチクする。着ているボロに覆われていない部分が、藁の尖端に刺激される。藁の布団の、包まれる感覚が、わたしは好きだけど、ちょっとムズムズするのが好きじゃない。
外の朝日が、わたしのいる小屋のブラインドの隙間より漏れてきている。
体をひねり、横を向くと、お母さんの寝顔が見える。安らかだが、目元がたるみ、表情を悪くして、憔悴しているように見せている。
実際、お母さんは憔悴しているに違いない。
ゆっくりと半身を起こすと、地面に漏れる日光が、屋内にぼんやりと反射して、部屋に置かれているものが、色々と見える。
鍬や鍬などの農具に、食器やかまどなどの生活道具。設備。
余り多くは持てない。わたしの家は、そういう家柄というか、立場だからだ。
くわしい時間は分からないけど、多分、早朝なのだろう。いつも、わたしより、お母さんの方が、早く目覚める。
――あの後目覚めずにしばらく眠りが続いていたら、夢路を行くわたしは、未だ見たことのない、そして、いずれ見てみたいと思う、海へと、到ることが叶ったのだろうか。
そう考えて、再び目を閉じてみても、最早あの光景は、わたしの目の前に現れないのだった。