宿での夜は快適に明けていった。苦難や不便と無縁の夜は、ずいぶんと久方ぶりだった。この夜は、わたしには、ずっとしがみついていたいと思えるほどやさしいものだった。
屋根に守られて雨を不安視する必要もなく、寝床にしやすい綺麗でまったいらの地面を争う必要もなく、外敵や猛獣の出現を危ぶむ必要もなかった。
眠りは安らかで、快く――死んだように深かった。
時間が許すなら、わたしはきっと、丸一日ベッドの上で横になっていたに違いない。だが、朝は惨いくらいに早く訪れ、わたしの安眠を中断させた。
宿屋の二階が食堂になっていて、わたしたちは朝餉を食べた。パンもフルーツもハムもあり、食堂は気の利いたものだった。
ずっと人目を意識せざるを得ない恰好だったわたしは、宿屋をひとまず出て町を巡り、衣服の買い求められる店を探し、装いを改めた。着飾ることに意識がなく、またお金の乱費が出来ない事情から、わたしたちの買い求めたのは、元々着用していたのとほとんど同じ、動き回ったり、作業したりするのに都合のいい、丈夫で飾り気のない庶民の服だった。(ファーチェが服選びにご執心で、高いものを買うことを諦めさせるのに、ひどく骨が折れた。)
新しい服に着替えると、見違えるほど変わるもので、わたしたちの風貌は、小汚かったのが清潔感を帯びるようになり、イメージがガラリと一転して悪い風評がずいぶん聞かれなくなった。わたしたちは、とりあえず浮浪者っぽい外見を脱することは出来たようだ。(わたしたちはしかし、実のところ、定住地を持たないさまよえる浮浪者だったのだけれど。)
お金は、まだ残っていた。
身辺を清め、整理することがある程度済むと、今度は別の用事が待っていた。
まずは、サラメーナの模様をザッと確認することだった。
以前は農村だったサラメーナは、今では完全に様変わりし、誰かが言ったように、宿屋ばかりの宿場町となり、宿の営業で、町がほぼ運営されているという感じだった。
田畑と果樹園が多かった土地は開発されて、視界を遮る建物が乱立している。生態系も結構変わっており、作物を狙う害獣の動物がめっきり見えなくなり、ゴミを漁るカラスや汚れた野犬などが増えた。
サラメーナの寄合所に顔を出してみると、やはり宿屋の同業者組合が最大の組合で、この町のギルドの中心であり、仕立屋やパン屋など、他の組合があるにはあったが、おまけのようだった。
わたしたちは、ただの旅行者のフリをして、農業はどうなっているのか、寄合所で暇そうにしていた男(宿屋のオーナーのようだった)に尋ねてみた。
彼曰く、サラメーナを少し離れたところに、農地があり、そこで労働者が働き、町で必要とする食物を生産し、町に供給しているようだった。田畑があり、家畜を飼育する小屋があるという話だった。ただ、農地の労働者は百姓ではなく、宿屋の従業員が兼業で農作業や家畜の世話をやっているようだった。
道が通っていると彼が言うので、わたしたちは門を出て、教えられた行き方で、農地の方へと足を運んでみた。
道ではせわしく人々と荷車が行きかい、町との間では、頻繁に物資の移動が行われているようだった。
農地は簡素で、限られたスペースに生産地がギュッと合理的に集まっており、種々の作物が実っていて、小屋の中からは、鶏だの豚だのの家畜の気配がした。
どこへ行ってみても、故郷の面影がないというのは、出身者であるわたし、そしてお母さんにしてみれば、寂しい思いのするもので、わたしたちの住んでいた頼りない藁小屋が跡形なく消失しているのは、忌まわしい思い出ごとなくなった感じがしてすっきりするようで、他方、悲しみを覚えるのだった。