積み重なった心労によるお母さんの具合の変化に当てられて、わたしは、自身においても、本来感じなければいけない感情が呼び覚まされてくるという気がした。
劣等感、恨み、敵意、復讐心。そういったものが、わたしの中にはあって然るべきだった。旅することに無我夢中で、忘れていただけであって、ちょっと安息の時が訪れると、心中に潜んでいたわだかまりが、じわじわと浮上してくるようだった。
毎日、わたしは求められる分の料金をコインより宿に出した。まだ、お金は充分残っていた。ガベラー夫人は、よっぽど大金をくれたみたいだ。
「お母さんの具合は?」、とファーチェがやや聞きにくそうに尋ねる。
わたしと彼女、そしてティークさんは、町の井戸のある広場で寄り集まって話していた。お母さんは宿の部屋のベッドでまだ寝ている。
「大丈夫。ちょっと疲れが出て、落ち込んでるけど、きっとすぐ立ち直るよ」
「そうですか。でしたら、安心です」
と、ティークさん。
「クローネさんとロナさんの今までを考えると、心境はおのずと察せられます」
「本当はわたし」、とわたしは口を開く。「海へ行きたいんです」
「海?」
「えぇ。ちょっと憧れがあって、生まれてこの方見たことがないんです」
「海。懐かしいなぁ」、とファーチェ。
「そうだなぁ」、とティークさん。「ポルトオレアの港町が思い出される。陽光に輝く波の綾に、絶えず打ち寄せる波音。カモメの飛ぶ姿に、漁師が持ち帰る魚の生臭いにおい、夏の潮風のムッとしたにおい……」
彼が挙げる海の思い出を耳にして、わたしは、想像力が刺激され、イメージがおのずと生まれ、それ自身の力で膨らもうとする。
ポケットより宝物の貝殻を取り出して、手の中に見つめる。
だが、程なくしてわたしの心象風景は色褪せてしぼんでいく。
わたしは、ガルドさんとの対話を思い出す。お互いが決して認め合うことがないだろうという推測が生んだ対立による、微かに緊張感を孕んだ対話。
わたしが自身の過去を打ち明けると、彼は色を正し、ことのあらましを説明してくれた。
……サラメーナのある陸地を遠く離れた彼方に、帝国“ギルツァー”がある。
ギルツァーは、世界全体において広がる傾向を見せる、領土争いのより規模の大きくなった戦争と、『国家』の樹立への各地の領主の志向に合わせ、元々一領土だったのが、領主の覇権への意欲により、その勢力を拡大させた。
ガルドさんは、ギルツァーの領主に恩給地を与えられた小領土の領主だったが、戦争の群発により、兵役を課されるようになり、戦場で武功を上げることによって、昇格し、今ではサラメーナという宿場町の長である。
サラメーナへの進出の際、戦争せざるを得ない状況となれば、彼は最高指揮官として出陣してくる予定だったが、トニオ村長との交渉がすんなり進んだことで、戦争せずに済み、穏便にことが運んだ。(その裏では、わたしを始めとして難民が生まれたわけだが。)
現在においてもサラメーナはギルツァーとの支配・被支配の関係性を保っており、帝国は尚、領土拡張への意欲が旺盛で、メイローゼへと攻勢を掛け、その後は……当該地まで、獲得したという。
お母さんを病ませた心労には、メイローゼで起こっただろう惨劇への想像による精神的負担が、その原因のひとつとしてあったことが推測される。加えて、メイローゼが無事であることに賭けて帰っていった旅の同行者の末路の想像もまた、同じように……。
知らない内に、わたしは手をギュッと握り締め、中の貝殻を後少しで潰しそうになっていた。
「――クローネ?」
「え?」
ファーチェに呼ばれて、わたしは我に返る。
「大丈夫? 怖い顔してる」
「嘘」
わたしは俯いて、静かに深呼吸する。
大丈夫、とわたしは答えたが、沈んだ雰囲気を和らげることは叶わなかったようだ。