ひとつの予感があった。いい予感ではなく、悪い予感だった。
お母さんは多分、災難に遭遇しているのだろう。勿論、わたしの予感がそう示唆するだけで、はっきりした根拠はない。
龍の谷を歩いているわたしは、胸の動悸がキツくなり、お腹の辺がギュウとつねられるように痛み、吐き気がした。
時間は絶えず進んでいく。わたしが怖れや怠惰などで前進することを中断すれば、全てが止まる。わたしは試練を課されており、その試練は、決して避けて通ることの出来ないものなのだ。
ガルドさんの部屋まで、わたしは来た。
扉の前にはふたりの番兵がおり、わたしの来訪に際し、待っていたとばかりにいやに丁重に歓待し、中へと招じ入れた。
がらんとした室内。奥の大きい机には、そのサイズに比例した体格の巨漢がおり、ガルドさんは、机上に肘を突いて手を組み、わたしの来るのを待ち構えていたように見える。机上には燭台があり、灯火が揺らめいている。
彼に話しに行く前に、わたしは部屋をザッと見渡してお母さんの姿を探したが、彼女は窓辺の椅子に座って、ズンと沈んだように俯いている。わたしの訪れに、お母さんは気付かず、顔を上げもしない。どうしたというのだろう。
「お母さん……?」
「誰も来ないのかと思いかけてたところだよ。お嬢さん」
野太い声がする。ガルドさんだ。わたしは否応なしに彼の方へ目を転じさせられる。
「マントなど着て、いったいどういうつもりかね。依然として、秋の陽気が快いというのに」
「わたしたち、旅に出るんです」
そう言って、わたしはガルドさんのすぐ前まで近付く。
「ほぉ、どこへかね」
「言う必要があるでしょうか」
わたしと彼の目線は、わたしが見下ろし、彼が見上げる恰好で、交差している。一触即発という感じが、しないでもない。
「確かに言う必要はないが、ちょっと個人的に、気になったものでね」
ふと気が付いたが、お母さんは、別に眠ったりしているわけではなく、ちゃんと起きて目を開いているみたいだ。だが、お母さんのぐったりした感じは、どこか病的で、わたしには、彼女の具合が朝より悪化していることが推察される。
「他のふたり――男と娘はどうしたのかと訊いても、きっと同じように、君は返すのだろうね」
「……」
緊張感が徐々に高まってくるのが分かる。またお腹の辺が苦しい感じがする。
わたしはガルドさんとは、心より打ち解けることの叶わない敵同士だと、すでに分かっているつもりだった。わたしと彼は、干渉しないで済む、相応しい距離感さえきちんと守っていれば、互いに平穏のはずだった。ところが今では、彼の敵意は増大しており、わたしは、目に見えないその圧力に晒され、見方を改めざるを得ないのだった。
ガルドさんの机にある燭台の火をわたしは見つめた。ゆらゆらと火が揺れて、わたしは、催眠術にでもかかったかのように、眠気が昂じてきた。
「お母さんを返してください」
と、わたしは強がりと共にガルドさんに請うた。
「お母さんは、今弱ってるんです。ふたりで何の話をしていたのか知りませんが、あまり長時間、お母さんを縛らないで欲しいものです」
ぶっきらぼうにそう言うと、わたしは返事を待たずにお母さんの方へと行き、手を取って連れていこうとした。
お母さんを立ち上がらせようとして腕を引っ張りあげることでようやく、お母さんはわたしを認知し、わたしたちは目が合った。
クローネ、とお母さんは消え消えの声で発したが、その青い顔とあいまって、病人の感じがひどく、痛々しかった。
重たいようで軽いお母さんと肩を組んで部屋を去ろうとすると、扉が開き、表にいたふたりの番兵が入室して来、とおせんぼうするように立ちはだかった。
「失礼します」
そう言ってわたしがそそくさと通り過ぎようとすると、「待ちたまえ」、とガルドさんが叫び、兵士ふたりは手を広げて行く手を遮った。
「君たちの思うことはだいたい分かる。故郷を奪われた悲しみや憎しみは、計り知れない。そうだろう? 心底気の毒だと思うよ」
わたしは兵士たちに威圧感を覚えて後退りし、振り返ってまたガルドさんの方に向くと、お母さんの手を離した。お母さんはその場に、人形がそうなるように、ペタリと無力に崩れた。
わたしたちは、ガルドさんと兵士たちに挟まれる格好となった。
「同情はする。だが、復讐を許すことは出来ない」
「復讐? わたしたちが?」
わたしは、呆気に取られて思わず聞き返した。ガルドさんの目に、わたしとお母さんは、故郷を奪い返しに来た敵方の密偵に見えるようで、彼はそう信じ込んで疑わなかった。
「君のお母さんは、ご立派だよ――皮肉だがね。何度化けの皮を剥がしてやろうと訊問しても、口を割ろうとしないんだ」
「お母さんをいじめないでよ!」、とわたしは叫んだ。「ただでさえ弱ってるっていうのに……」
感情をむき出しにすると、その勢いに誘発されるように、わたしの目に涙が溢れた。
ガルドさんはわたしの泣き顔を見て、どこかバツが悪そうにしたが、終始冷淡で、容赦してはくれそうになかった。
「お嬢さんには悪いが、帝国の流儀は峻厳なのだ。異分子は根絶やしにせねばならない。たとえ相手が女、子供であっても、だ」
ガルドさんが顎で合図する――どこかで見たことのある身振りだ。彼に合わせて、わたしの背後に並ぶ兵士たちが、抜刀する音が聞こえる。
この後の展開がどうなるかは、想像するにたやすい。わたしとお母さんはきっと、彼等に殺されるに違いない。
だが――
わたしはマントより手をサッと伸ばしてガルドさんの机の燭台を取ると、マントの内側にしまい込んだ。すると、程なく燭台の火がマントに燃え移り、わたしは燃えるマントをその場に落とした。
瞬く間に炎が燃え広がり、切りかかろうと近付いてきていた兵士はにわかにうろたえ、後ろに下がっていった。
「貴様!」、とガルドさんは激昂して呶鳴ったが、部屋の中は完全に乱され、兵士はふたりとも一散に走って部屋を出ていき、わたしはお母さんの手を持って引っ張っていこうとしたが、お母さんは床にくっついたように離れず、手が離れ、お母さんはうつ伏せに倒れた。
「お母さん!」
「クローネ……あぁっ!」
お母さんのそばに、巨漢の影。
ガルドさんがお母さんの背中を片足で踏み付け、彼はサーベルを手にしている。
「くそったれが!」
憤激したガルドさんが再び呶鳴り、サーベルでお母さんの背中に切り込みを入れる。血がドバッと出、お母さんはだが、健気に意識を保っている。
わたしは駆け寄ろうとしたが、炎が遮って妨げた。
「お母さん!」
「クローネ……!」
と、お母さんは、号泣と共に叫ぶ。
「クローネ! わたしはいいから、あなたは行きなさい!」
「無理だよ! お母さん、燃えて死んじゃうよ!」
「わたしは、ここまでみたい……ごめんね、クローネ……あなたの成長を、見届けてあげられなくて……」
無情にも、サーベルがまた振り下ろされ、お母さんはビクンと痛みに反応して仰け反ると、今度は完全に、意識を失って――
「あぁぁああああぁぁああぁぁ!!」
わたしは思い切り、声が裏返るほど叫び、泣いたが、ガルドさん――否、殺人鬼が標的をお母さんよりわたしに切り替えたのが瞬時に察知されると、わたしは危ういと判断して、頭がおかしくなるほどの憎悪を噛み殺し、火中を飛ぶように逃げた。
全速力で走りつつ、わたしの心臓は激しく鼓動し、『ヤツを殺せ』、という悪魔の誘いの声が、わたしの内側で、うるさいくらい反響していた。
ヤツを殺せ! ガルドを殺せ! 殺人鬼に復讐し、母の仇を取ってやれ!
だが、そういった激しい怨念は、深すぎるほど深い悲しみに相殺され、わたしの頬は真っ赤になり、流れる涙が、ずっと滴ってやまなかった。