わたしが嗅いだことのない、海のものと思しき潮風の肌ざわりとにおい……勿論、すべてまぼろしだった。
わたしはなぜか目覚めてしまった。砂漠を行く途中で倒れ、相当ひどい状況で、お先真っ暗だったはずだ。生き延びることをほとんど諦めたくらいだ。
喉がヒリヒリして、飲み水が欲しいが、とりあえずは身の回りがどうなっているのか、確認するのが先決だろう。
砂上で力尽きたわたしは、やはり砂上に仰向けに横たわっていたが、日陰で、すぐ上に覆いがあった。砂中に差し込んだ杭を支えに出来たテントのようで、真っ暗というわけではなく、隙間より入ってくる日差しで、外側ほど明るく、中央がいちばん暗い。わたし、ファーチェ、そしてティークさんは、暗い中央に固まって寝ていた。
しかし、いったいなぜ、こういったことに……?
ふと、何かの気配がし、にわかに緊張感が走ったが、ある動物が寝ているわたしに近寄って来、黒い瞳で顔を覗き込んできたのだった。ヤギだった。
「気が付いたかい」、という男の声。
ファーチェもティークさんも、まだ意識がないみたいだ。生きているかどうかさえ、定かではない。
「この砂漠は広く禁足地だと知られているというのに、どうしてノコノコくたばりに入ってくるヤツがいるんだろうか」
男は、テントの中で座り、誰に対してでもなく、話した。だが、わたしが目覚めたことは、何となく分かっている感じがする。向こうを向いていて、彼の人相は、陰で暗いのも相まって、よく見えない。
「自分から進んで死にに来たのかい?」
その問いと共に、彼はわたしの方を振り向いた。その面差しは、見覚えがないこともないものだったが、空目だろうか。
ヤギはわたしへの興味を失い、その辺をブラブラしている。
「み……ず……」
わたしの喉は、乾ききって使い物にならなくなっていた。
その状態を見てとった彼は、やれやれといった感じで「ミゼル」、と誰かの名前と思われる音声を発して呼び、水を指示した。
すると、ひとりの女性が返事し、わたしのそばに近寄って来、彼女の持つ容器の口をわたしの口に当てがった。見たことのない衣装を彼女はまとっていた。薄地のゆったりしたもので、帽子が付いていて頭を覆っている。
わたしは口を開き、水が注がれた。量は少なかったが、喉が使えるくらいには潤いを確保することが出来たようだ。
わたしは、かすれた声で「ありがとうございます」、と『ミゼル』に礼を述べると、彼女はにっこりと柔和に微笑んでくれた。
「まったく、旅人なんて馬鹿ばっかりさ。救いようがないくらいにね」
――男のそのセリフは、悪態の割には、突き放した感じがあまりせず、言外に何か含みがあった。
「悪いが、あまり水はやれないぞ。ここはオアシスじゃないから、水を無駄に消費するわけにはいかないんだ」
テントには、男とミゼルとわたしたちと、そしてヤギだけのようだった。彼等は、夫婦なのだろうか。
「聞きたいんですが」
と、わたしは男に向かって言うが、彼等が夫婦かどうかは、実際気になっていても、質問事項では優先されないのだった。
「どうして、わたしたち三人を助けてくれたんですか」
「わざわざ述べるほどの理由はない。いわば、おれの気まぐれだ」
彼がそうぶっきらぼうに、やや考えてから言うと、ミゼルが笑い、「嘘ですよ」、とわたしの耳元でささやいた。「あのひと、ずっと砂漠をさまよっていて、わたしとだけしか人付き合いがないので、寂しかったんだろうと思います」
わたしは、いまひとつ釈然としないけど、彼女の推測に納得し、とにかく落ち着ける場所に目覚めることが出来、偶然やさしい(かどうかは実際のところ不明だが)ひとに拾って貰えて、僥倖だった。
ミゼルに他の二人の容態が気になって訊いてみると、彼等はらわたしと同じく脱水症状だろうという話だった。呼吸があるので、死んではいないだろうが、あるいは剥き身で砂に倒れていたことで、日射と砂を浴び続け、体の内外に損傷があるかも知れないということだった。
わたしたちは、九死に一生を得たというべきなのだろうか。わたしの命は生存へと繋がれることになったが、まだ、行くべき道が残されているということなのだろうか。
すっかりダメになってしまいかけていたわたしの体は、中途半端に水分を恵まれたことで、神経が生き返ったのか、あちこちにずっとあったはずの痛みと不快さを改めて感じだし、感覚が戻ったことで、わたしは、ちゃんと回復して健やかになるように促されるようだった。