もしも青海つくしが武士道シリーズの磯山香織に辻斬りを仕掛けたら…というお話です
その日の晩あたしはすこぶる気分がよかった。
理由は簡単だ。腹が満杯で風が気持ちいい――以上。
「磯山さん、お腹弱いのに大丈夫あんなに食べて」
後ろから心配げな声をかけるのは甲本早苗。仲間というか同志というか――戦友、ああこれがしっくりくる戦友だ。
「あたしの金で買ったラーメンを、あたしの腹が求めるだけ喰っただけだ心配無用。お前こそあんなんで足りたのか?」
「うん。私はあんなもので大丈夫」
今日は早苗の大学入学祝兼あたしの進級祝い。あたしたちは同級生なのだが、早苗は高校時代の怪我もあって一年浪人している。
それが先日なんとか志望大学に合格できたのは喜ばしい。
なので心の広いあたしは哀れなもと浪人生の戦友に、ラーメンをご馳走してやったという訳である。
早苗は心配するが、稽古の後だったのであれぐらいの量は軽い物だ。
「駅への近道、こっちなの?」
「おお、あの公園を横切ればすぐだ」
そう言ってあたしは前方の公園を指さした。
あたしの稽古が終わってからなので、大学に呼び出し近くのラーメン屋で祝杯(ジュースとウーロン茶)を上げたのは1時間ほど前か。
久しぶりに話も弾みすっかりこんな時間である。夜空には大きな満月。
早苗が住んでいるマンションの最寄り駅は、あたしの通う明応大学の最寄り駅から数駅。
駅まで送っていくという申し出に、早苗は最初はいいよといったが暴漢が出たらどうすると同行した。
「あたしが呼び出した帰りに、もし襲われたらあたしにも責任がある」
「ええーっ、磯山さん気にし過ぎじゃないかなぁ。それに私を送ってくれた後磯山さんも一人で帰るんでしょ」
「バカ。あたしはいいんだよ。暴漢なんぞに引けはとらん」
そう言って般若がプリントされた、ストラップ付の袋に入った竹刀を掲げて見せる。
あたしは常に竹刀を持ち歩いている。まだ経験はないが冠婚葬祭にも持って行こうと思っている。
「まあ竹刀持った娘を襲う人はいないかぁ」
「そうそう、大体女性を襲おうなんて輩は…」
駅まで近道の公園を横切ろうとあたしたちがその中を歩いていると、目の前に不意に竹刀を持った幽霊が現れた。
「ひっ………さ、侍?」
「下がれ、早苗。それによく見ろ、アレは侍じゃない剣道着だ」
あたしは早苗を下がらせながら、袋からゆっくりと竹刀を取り出す。
あたしたちの目の前にいるのは剣道着を着こみ、右手には包帯が巻かれ、編み笠で顔隠した多分――女、それもそうとう若い。
編み笠には切込みが入っていて、その隙間から幽鬼のようなまなざしであたしたちを睨んでいる。
体つきは痩躯むしろガリガリに近いか。腕なんか軽く打っても折れそうだ。
歳は多分高校いや、中学生ぐらいじゃないか?春には変なのが湧くと言うがまさか中高生の辻斬りとは。
東京とは面白いもとい、恐ろしい所だ。
「………言わずとも抜いてくれるとは話が早い。常に竹刀を持っているという噂は本当だったんですね」
小さくどこか幼い声で辻斬り少女は呟いた。
「…って事はあたしが誰かを、分かった上で辻斬りって訳かいお嬢ちゃん」
「昨年の女子剣道インターハイ優勝者磯山香織……ご相手願いたい」
スーっと竹刀を鞘に納めるように構える。へえ、居合かい?堂に入ってるじゃん。
嫌いじゃないよ、こういうの。アンタみたいなハネっ返りも含めて。
「い、磯山さん警察…」
早苗は携帯を取り出している。
「よせ、相手は高校…下手したら中坊だ。あたしがキョーイクテキ指導をしてやる」
これが質の悪い不良や変質者なら、官憲に頼るのもいいだろう。
だが昨年のインターハイ王者のあたしに、辻斬りを仕掛けるような元気なガキいや少女はむしろ揉んでやらねば失礼だ。
あたしは中段に構える。居合の相手をするなんて初めてだ。
満月の光と公園のライトがあたしと辻斬り少女、2人の剣士を照らす。
そのままジリジリとお互い間合いを図る。
当然あたしの方がリーチは上だ。どうする?どう仕掛ける辻斬り少女。
もうすぐあたしは間合いに入るぞ。どうするんだ腕に覚えがあるんだろう。
正直あたしはこの時調子に乗っていたというか、この辻斬り少女を侮っていたと思う。
一瞬空気が歪んだ気がした。―――速い!
辻斬り少女は一瞬であたしの目の前まで入り込んできた。
「磯山さん、巻き上げ!」
「っ――――!」
早苗の悲鳴めいた声とほぼ同時に強烈な巻き上げ、竹刀と竹刀がぶつかる音が公園に響いた。
あたしは吹っ飛ばされそうな自分の竹刀をなんとか掴んだまま後ろに引いて間合いを取る。
……危なかった。なんて巻き上げだよ。
早苗が声かけてくれなかったら、竹刀を吹っ飛ばされてたかもしれない。
だけど安堵している時間なんてない。
辻斬り少女は不安定な体勢なあたしに、次々と打突を繰り出してきた。
それもかなり不規則な、少なくともスタンダートな剣道とはかけ離れた刎ねるような、独特のアクロバティックな打突。
おいおいこんなの試合じゃ絶対旗上がんねーだろ。どこの道場だこんな剣道仕込んだの。
やりにくい。ヒジョーにやりにくいぞ早苗。まるでお前と黒岩を足したみたいな動きだ。
だけど4・5歳は離れた少女に負けるわけにはいかない。
あたしはその変則的な攻撃を体裁きと竹刀でいなしていく。
そうしていると一瞬だが辻斬り少女の隙を見つけた。
――今だ。ツキ…………と思った瞬間辻斬り少女のあまりにも細く白い首が目に映った。
「はっ……!」
あたしは咄嗟にツキからドウに変えて竹刀を振るったが、気の入ってないそれは簡単に防がれてしまった。
そのまま辻斬り少女は、後ろに飛びのいて間合いが大きく開いた。
そして不満げにまた小さい声を漏らす。
「………今突きを躊躇しましたね?なぜですか」
「中学生は突き禁止だろ…高校生かもしれないが、大学生がそんな大人気ねえマネするかよ」
嘘だ。本当はあんまり首が細いから、あのまま思いきりツキを入れたら、こいつを再起不能にしてしまうと確信したからだ。
大分年下とはいえ、辻斬りを仕掛けてくる相手の心配とは、あたしも随分優しくなったものだと思う。
だがこいつはあたしの優しさがお気に召さなかったようで、編み笠の切れ込みから幽鬼のような瞳をさらに歪ませて睨み付ける。
さながら親の仇を見つけでもしたように―――。
「……つまらない。磯山香織といったら、相手を無慈悲に怒りのままに打倒する剣の使い手じゃなかったんですか?」
おまっ、いつの話だそりゃ。
「……情報が古りーよ。あたしはそんな剣道卒業したんだ。相手も自分も傷つけず勝つ。真の意味で敵はいない相手はみな同志ってな」
これは本音。それがあたしの剣道であり武士道。いや……あたし『たち』か?なあ早苗。
「……くだらない。無駄に声もでかいし、あなたにはガッカリです………どうしたら本気で――私を打倒すつもりで来てくれるんですか?」
「嫌だね。あたしはアンタも自分も傷つけず勝つさ」
そして桐谷道場にでも引っ張ってって事情を聴いてやるよ。
どーもアンタは他人のような気がしないんだ。
「…そういうの良いですから……あっ、そうだ、そこのあなたがずっと私との間に入って守ってるご友人。その人を狙いましょうか?そうしたら本気で来てくれますか」
辻斬り少女はその暗い目と竹刀の切っ先をあたしの後ろ―――早苗に向けた。
「えっ?」
呆気にとられたような声を出す早苗。
あたしはその時自分の中から、怒りと殺意が漏れるのを抑えきれなかった。
おい辻斬り少女、分かってんのか。今アンタはあたしの逆鱗に触れてんだぞ?
それも雑に乱暴に適当にだ。数年前のあたしならもう飛びかかってんぞ。
「……やっぱり磯山サンはそっちのがいいですよ」
辻斬り少女が笑ったような気がした。
「だめっ!磯山さんっ!絶対ダメ!その子本気で言ってない!磯山さんを怒らせようとしてるだけ!」
早苗が金切り声で叫ぶ。分かってるよあたしもそれぐらい。
やらねえよ本気でツキなんて、けどそうしそうに見えるぐらいには、怒りが出ちまってるみたいだ。
あたしが竹刀を構え直そうとしたその時、公園の入り口でキャーッと言う悲鳴が響いた。
「な…なにをやってるのあなた達!?」
みれば妙齢のご婦人(要するにオバサマ)が顔を引きつらせて立っている。
たしかに夜の公園で、竹刀構えて睨み合いやってりゃ怖いわな。しかも片方は剣道着姿だ。
「……この勝負預けます」
「あっ、おいコラ待て」
三十六計なんとやら。辻斬り少女は身をひるがえしさっさと公園から逃げ去って行く。
しかも結構脚が早い。なんなんだアイツは。
「くっ……おい、行くぞ早苗」
「ふえっ?」
あたしは早苗の手を引いた。
「長居は無用だ。下手したらあたしもお前も退学になっちまうぞ。お前なんか入学前にだ」
「そ、それはご勘弁」
ご婦人が面食らっている間に逃げてしまうに限る。
あたしと早苗も脱兎のごとく、一目散に公園から走り去った。
「ったく………はぁ…はぁ…折角食ったラーメンが出そうだ」
「だ…だから食べ過ぎだって言ったのに…」
確かに常在戦場をモットーとしている、あたしとした事が面目ない。そこは反省しよう。
「でも……凄い怒ってたね磯山さん…昔みたいに」
「ああっ、あの辻斬り少女がお前を狙うとか言うからな…嘘なんだろうけどよ。目つきは暗かったけどそーいう暗さじゃなかった」
手合わせしても竹刀も持たない早苗を打ち据えるような、そういう悪辣さは感じなかった。
ではなぜあそこまで怒ったのか。それは多分―――。
「磯山さんってそういう所あるもんね。怖いけど優しいっていうか」
「早苗、お前しばらく竹刀持って出かけろよ。あたしの貸すから。あーいうのがまた出ると危ない」
「えーっ!?いいよ。私なんか襲わないってあの子」
予想通り躍起になって断る早苗。良かったこいつに悟られてなくて。
言えないよなぁ。あの辻斬り少女がお前と出会うまでのあたし――世界中の皆を敵みたいに感じてて、全員ブっ倒してやるなんて思ってた。
あの頃のあたしにどこか似てたから、知らず知らずのうちにイライラしてたなんて。
なあ名も知らない辻斬り少女、その道はつまんねーぞ寂しーぞ虚しーぞ。
経験者が言うんだから間違いない。……なんて言ってやれば良かったのかな。
あたしはそんな事を考えつつ、月に照らされながら早苗と駅まで歩き続けた。
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ああなんて無駄な時間を過ごしたんだろう。
私如きが、がっかりというのは失礼だろうか。昨年の高校女子の王者に向かって。
いや、これは私のせいだ。本命に行くまでの練習がてら、なんて思ったのがいけなかった。
辻斬りなんてマネをするのに、予行演習を挟もうなんて甘いぞ青海つくし。
しかし心臓はまるで私の物じゃないみたいに、うるさく鳴り続けている。練習でこれなら本番は破裂しちゃうかも。
――でも、やはり女性ではだめだ。例えどれほど強くても。
いや、あの時の怒りを前面に出した磯山サンならまだよかったが、あの妙に分別ぶった磯山サンはダメだ。
なんの面白味もない。やはり私が狙うべきはあの人―――高砂シンしかいない。
あの現役男子剣道チャンピオン。あの人を倒さなければ。
それが再確認できただけでも良しとしよう。
それがこの夜の唯一の成果だ。
私はそんな事を考えながら、次の本番の計画をもう練り始めていた。