灰狼の宰相 作:瀬戸内弁慶
1.楽園追放
「
その名を聞いたのは、初めてではなかった。
だが、女はさもそうであるかのような響きを持たせて問い返した。
長い手脚、白磁のような肌を白い法衣を通し、絹糸を散らしたがごとき髪を長く流して後ろで束ねる。
顔のいずれの部分をとっても理想的なラインと均衡を保ち、名工の手による硝子細工のようだった。
だが、そこに脆さや儚さを感じさせないのは、無表情であっても青く鋭く烈しく輝く、その双眸ゆえだろう。
それが、テレサ・シンヴレスであった。
大陸北方の過半を領有する大帝国、アルカ朝エスケーシア。
首都ベガサガート。中央大聖堂。
天主に捧ぐが如き壮麗さと高さを持つその聖域の後陣にて、大司教は「うム」と眠たげに相槌を打った。
「『西の
西の方。東隣のクリムト流に言えば
口に出すことも憚られる、
五十年前に南部の大国
……彼らを蔑む言葉は、山のほどにある。
「と言っても、所詮は蛮族の長。暴力に任せて強引に他の一族を力づくで従わせるしか能のない獣ではあろうが」
「恐れながら、大司教様」
女司祭は淡雪が如き前髪と睫毛を垂れさせ、氷礫がごとき目を伏せながら冷ややかに口を挟んだ。
「軍事力を背景に諸侯を束ねたという点においては、帝国や、我々
「……滅多なことを申すなっ! まったく、下らぬ理論のすり替えなどをしおって」
氷の礫が如き反論を、叱責が聖堂に谺することで遮る。
聖職者らしからぬ険しさが、老人の目元に浮かぶ。もっとも、この発言ゆえではなく、元より好かれてはいなかったが。
「……まぁ良い。そのように彼らを擁護したいのであれば、まさしくこの辞令は君の天命と言うべきであろう」
別に擁護したわけではないですけど、と口を挟む暇は今度こそなく、冷厳に
「テレサ・シンヴレス。彼の地に赴任し、天主の御威光を蛮人どもに疾く遍く知らしむべし」
は、と漏れる呼気は応諾の意思でなく、当惑のそれである。
だがこれ以上の差し出口無用、否一言さえ聴きたくないとさえ言わんばかりに、その声ならぬ声を露骨に無視し、遮り、大司教は強引に続けた。
「先方へはすでに渡りをつけてある。なんでも、族長のルフは自らの不明、蒙昧を常々恥じており、我らに教えを乞いたいそうだ。ついてはそのために然るべき人物を招聘したいと求めてきた」
「で、それがなぜ私……」
「いや我らとしても、君ほどの才媛をむざむざ僻地へ遣ることは非常に惜しまれるのだが。しかして君を推す声がとても多くてね。良き朋友たちを持ったようで何よりだ」
なるほど、と頷く。師や自称友人らに対する感謝共感ではなく、愚かしい考えと自らの立場に対する理解の下に。
元より呆れてそれ以上何を言うつもりもなかったが、晴れ晴れと勝ち誇った様子で、間を置かず早口で
「君は学識豊かにして才気煥発。しかして振る舞いには慎みが無く奢り高ぶり、主に対する尊崇の念に薄く、その心は禽獣が如し。いっそ獣どもと交わることで己を見つめ直し、魂の修練でもしてはどうかね」
などと、最後の最後に好き放題に言ってのけたのだった。