第三回「しぶきころしあむ」投稿作品です。
テーマは「酒のつまみになる話」2500字以内。
大事なものに気付く主人公の物語。

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本当に美味しい物

 富永がマグロの刺身を口へと運ぶ。味わって咀嚼する姿が鼻につく。高級料理店のマグロだからさぞかし美味しい物なのだろうが、こいつの馬鹿舌では回転寿司で回っているマグロと殆ど変わらないはずだ。

 まだ時計が正午を回ってから早い時間、有休を使って早上がりした富永に連れられて、彼行きつけの料理店に俺は連れて来られていた。随分と気に入ってもらっている様子だが、正直良い迷惑だ。こんな所で嫌いな人間と食事をするくらいなら溜まっている仕事を処理している方が何十倍とマシだった。業務量の限界も考えずに依頼された仕事を何でも受諾し、その全てを俺たち部下に押し付けて自分は何もせず、手柄が出れば自分の手腕を猛アピールし、ミスは全て部下のせいにするという極め付き。こんな典型的クソ上司を好きな人間なんてどこにいるというのだろう。

 とはいえ、上司に変わりはないので断ることができなかったのだが。

「どうした、遠慮しないでお前を食えよ」

「……いただきます」

 富永に合わせて醤油を軽く付けたマグロを口に含む。脂の乗った濃厚な味が舌から広がったが、何も感動しなかった。お猪口に注がれた純米大吟醸の高級日本酒を続けて呷る。スッキリとした甘みが鼻から抜けていき、嚥下と共に喉が軽く焼かれる。間違いなくとても良い日本酒だった。

 けれど美味しくなかった。刺身と酒だけじゃない。天ぷらも汁物も焼き魚も、香ばしい匂いは鼻に届くのにどれも美味しそうに見えなかった。

「おい、お前明日の休み暇だろ? 俺ゴルフの打ちっぱなしにいくからさぁ、お前も来いよ」

「あ、いや、すみません。明日と明後日は用事があって――」

「なんだよ、どうせ大した用事じゃないんだろ? 急な用事ができたってそっちに言えばいいって!」

 こちらの言葉も待たずまくし立てる富永に、俺はもう言葉を返すのを止め、適当に相槌だけするようになった。

 

 

 

「じゃあ、また明日なー。遅れるなよ!」

 夕方、富永が乗り込んだタクシーが出発するのを見送って、盛大に俺は溜息をついた。

 明日と明後日のこと、どうしたらいいんだ。

ズボンのポケットからスマホを取り出して、普段使っているチャットアプリを起動する。最新のメッセージに里彩の名前が出てきていた。彼女の名前をタップすると、彼女から送られてきたメッセージが表示される。

『啓介、今日もお疲れ様!』

『美味しい物、たくさん作って待ってるね!』

 里彩の嬉しそうな声が聞こえてきそうなメッセージだった。ズキリと心が痛む。その場をウロウロと歩いて天を仰いだ。自分自身だって何か月も前から彼女の元へ帰るのを楽しみにしていたのだ。里彩だって同じことぐらい分かっていた。

 再びスマホに視線を落とす。重たい指を動かして、メッセージの入力欄に『ごめん』と入力したところで手が止まる。こんなもの送りたくないと、必死に自分の中の本能みたいなものが抵抗していた。

 それでもさらに指を動かそうとした時だった。

 里彩からのメッセージが更新された。

『お仕事大変? 嫌な事とか愚痴とかあったら、電話でもここでも吐いてくれていいからね。大好きだよ』

 里彩のメッセージが心に突き刺さる。同時になんて馬鹿な事をしようとしたのかと自分を恥じた。自分を思ってくれる人を蔑ろにして、あんなクソ上司を優先しようとするなんて。

 もう、気持ちは止まらなかった。俺は『ごめん』と書かれた入力欄に続きを書いて、里彩にメッセージを返した。

『ごめん、今すぐ帰ってもいいかな。深夜になると思うけど』

 メッセージを送ると、画面にすぐ既読と表示された。それから少しばかり待つと、再び里彩のメッセージが更新された。

『分かった。起きて待ってるね』

 メッセージを見るが早いか、俺はすぐに仕事用のスマホで富永へのメールアドレスを探して断りの連絡を入れ、そちらのスマホは電源を切った。

 それから俺はすぐに自宅へと帰り、二日分の着替えだけ持って家を出た。日用品などは向こうで買えばいい。何よりも早く、里彩に会いたい。その気持ちが全てだった。

 新幹線の当日券を手に入れ、立ちっぱなしで二時間揺られ、ようやく里彩の住むマンションの最寄り駅に着く頃にはすっかり深夜になっていた。

電車のドアが開いたと同時に俺は走り出した。改札を抜けて、寝静まった世界に俺は足音と荒い息を響かせる。隣を時々走り抜けて行く車の音だけがそれに重なった。

 里彩の家はマンションの三階で、流石にそこばかりは気持ちを抑えて静かに上った。里彩の部屋の前に到着すると、俺は少しだけ息を整えて、それからチャイムを押した。

 玄関はすぐに、だけど静かに開かれた。

 ドアを開けた里彩は俺を見るなり、花を咲かせるように笑顔を見せてくれた。

「おかえ――」

 里彩の言葉が遮られる。いつの間にか俺は彼女を抱きしめていた。彼女はびっくりした様子だったが、すぐに俺の背中に手を回してくれた。

「ただいま」

 俺がそう言うと、里彩はまた「おかえり」と言ってくれた。

 

 

 

 目が覚める。目の前には里彩がいて、自分が彼女のベッドで寝ていると理解する。里彩はいつの間にか肩紐のついたインナーを着て寝ていた。最近寒くなってきたから当然といえば当然である。

 俺は体を回して里彩の部屋の方を見た。テーブルには昨日二人で楽しんだ晩酌の跡が残っていた。里彩がスーパーで買っておいてくれた、よく冷えた缶のお酒や脂っぽい唐揚げ等のお惣菜、それから里彩お手製の少し甘いきんぴらごぼう。

 どれもとても美味しかった。

 その時、肩をポンポンと叩かれた。再び体を回すと、里彩が目を覚ましていた。

「何見てるの?」

「いや、昨日の晩酌、美味しかったなって」

「きんぴら、何点?」

「満点」

 そう言うと、里彩はニコリと笑顔になった。

「啓介、お腹空いた?」

「うん。味噌汁とか汁物あれば飲みたいな」

「インスタントでいい?」

 首を傾げる里彩に俺は頷き返すと、彼女は立ち上がって台所へ向かおうとした。きっと絶品のインスタント味噌汁を出してくれるに違いない。そんな彼女を俺は呼び止めた。

「里彩」

「ん?」

「俺も、里彩の事、大好きだよ」

 昨日のメッセージの返しだと分かったのか、里彩は少しだけ頬を染め、「知ってる」と笑顔で返してくれた。

 


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