巨大樹の枝の上から、アスカは女型を見下ろしていた。
無数の鋼線。
木々に固定された拘束装置。
その中心で身動きを封じられた女型の巨人。
間違いなく捕らえている。
誰が見てもそう思うだろう。
だが。
「……」
アスカは目を細めた。
女型は暴れない。
叫ばない。
拘束を解こうともしない。
諦めたようには見えなかった。
むしろ逆だ。
何かを待っているような。
そんな不気味さがあった。
気のせいだろうか。
そう思いながら枝を蹴る。
立体機動で隣の木へ。
さらに移動し、エルヴィンとリヴァイのいる枝へ降り立った。
「団長」
「アスカか」
エルヴィンが振り返る。
隣ではリヴァイがこちらを見る。
無言。
だが。
生きていたか。
そう言われた気がした。
アスカは女型へ視線を戻した。
「何から何までお見通しだったわけですね。兵士の犠牲まで」
エルヴィンはしばらく黙った。
やがて静かに首を振る。
「……いや」
視線は女型へ向いたまま。
「想定より甚大な被害が出た。敵は私の想定を超えたんだ」
アスカは言葉を失う。
あの団長が。
失敗を認める。
それだけで今回の敵がどれほど異常か分かった。
「アイツが巨人達を引き連れて右翼にぶつかってきたんです」
「甘かったということだ。私の想定が」
エルヴィンは続ける。
「敵はいつだって我々の理解を超える」
「……はい」
返事をしながら、アスカは女型を見た。
知性。
判断。
学習。
そして今。
完全拘束されながらも落ち着いている。
理解したと思えば、また分からなくなる。
知れば知るほど不気味だった。
「よく生き残ってくれた」
不意にエルヴィンが言った。
アスカは少しだけ目を伏せる。
「仲間達が命を掛けて情報を伝えてくれたおかげです」
脳裏に浮かぶ。
黒煙弾。
迎撃に向かった兵士達。
女型に潰された仲間達。
「最初に相対したのが俺なら、どうなっていたか分かりません」
「ああ」
エルヴィンは頷く。
「その仲間達の犠牲の上で、この巨人を捕らえることが出来た」
その通りだった。
誰一人欠けても。
ここまで辿り着けなかったかもしれない。
犠牲は無駄ではなかった。
そう考えても、軽くなるものではなかったが。
「おい」
リヴァイが口を開く。
「反省会なら後にしろ」
鞘から刃を抜く。
「今はこの巨人の中身を取り出すのが先決だ」
女型は両手でうなじを覆っている。
中の人間を守るように。
リヴァイは飛び出そうとする。
「待て、リヴァイ」
エルヴィンが右手を上げた。
「念には念を入れる」
そのまま腕を振り下ろす。
「第二波、第三波! 撃てーっ!!」
轟音。
森中から追加の拘束装置が射出される。
無数の鋼線。
女型の腕。
肩。
胴。
脚。
ありとあらゆる場所へ突き刺さる。
拘束が増える。
固定が増える。
女型の身体はさらに縛り上げられた。
今や身じろぎ一つ出来ない。
それでも。
暴れない。
「……というか」
アスカが呟く。
「捕縛作戦のこと、俺にも教えてくれてよかったんじゃないですか?」
エルヴィンは苦笑した。
「すまない」
「……」
「だが、あの巨人をここへ誘導していると悟られる訳にはいかなかった」
命懸けで戦う。
エレンを守る。
逃げる。
それを本物に見せなければ。
女型はここまで来なかったかもしれない。
アスカは納得した。
納得したくはなかったが。
「でも」
視線を女型へ向ける。
「これでほぼ確定ですね」
「ああ」
エルヴィンも頷いた。
「我々調査兵団の中に裏切り者がいるのは間違いない」
裏切り者。
その言葉は思った以上に重かった。
壁の外には巨人がいる。
それは知っていた。
だが。
敵は壁の内側にもいた。
調査兵団の中に。
同じ制服を着て。
同じ敬礼をして。
同じように馬を走らせている。
女型よりも。
その事実の方が不気味だった。
「……だからエレンの位置も偽装したんですね」
アスカが呟く。
右翼前方。
本当は違う。
だから女型は右翼から現れた。
全て繋がる。
エルヴィンは否定しなかった。
それだけで十分だった。
その時。
轟音が響く。
ハンジ班だ。
「もっと縛れー!!」
ハンジの声が森に響く。
追加の拘束装置。
対特定目標拘束装置。
調査兵団が作り上げた切り札。
巨大な樽の内部に詰め込まれた無数の鋼線が女型へ降り注ぐ。
絡み付く。
締め上げる。
再生すればするほど。
関節へ食い込むように。
逃げられないように。
「ははっ!」
ハンジは心底楽しそうだった。
「すごいよ君!! 本当にすごい!!」
女型は動かない。
ただ見ている。
その片目だけが生きていた。
リヴァイとミケが飛ぶ。
狙いは両手。
うなじを覆う障害を排除するためだ。
刃が振るわれる。
火花。
甲高い音。
そして。
折れた。
「……なに?」
アスカが眉をひそめる。
もう一撃。
また折れる。
リヴァイが距離を取る。
ミケも戻ってきた。
両手には折れた刃。
「通らん」
短く言う。
エルヴィンが女型の手を見る。
そこだけ色が違う。
皮膚が変質していた。
まるで鉱石のように。
「体の一部の表面を硬質な皮膚で覆う能力か」
静かな声。
「『鎧の巨人』と似た性質だな」
まただ。
アスカは思う。
ワイヤーを狙った。
支点を壊した。
巨人を呼んだ。
そして今度は硬質化。
巨人の常識が通用しない。
知れば知るほど。
分からなくなる。
それでも。
女型の目だけは変わらない。
拘束されたまま。
じっと前を見ていた。
まるで。
これから起こる何かを知っているかのように。
女型の口が開く。
拘束されたまま。
身動き一つ取れないまま。
それでも。
その青い瞳だけは揺らがなかった。
嫌な予感がした。
根拠は無い。
ただ。
胸の奥がざわつく。
見落としている何かがある。
そんな感覚だけが消えなかった。
その瞬間だった。
「────────―ッ!!」
絶叫。
巨大樹の森全体が震える。
空気が揺れる。
鼓膜が軋む。
思わず顔をしかめた。
音というより振動だった。
胸骨の奥まで響いてくる。
「なっ……!?」
ハンジが目を見開く。
周囲の兵士達も思わず耳を塞いだ。
だが。
それは攻撃ではない。
誰も傷付いていない。
木々も。
拘束装置も。
何一つ壊れていない。
なのに。
嫌な感じだけが残る。
女型は叫び続けた。
長く。
執拗に。
まるでどこか遠くへ向けて何かを伝えるみたいに。
やがて。
叫びが止む。
静寂。
風が枝葉を揺らす音だけが残った。
「……終わったか?」
誰かが呟く。
誰も答えない。
アスカも黙ったままだった。
終わった気がしない。
むしろ。
今から何かが始まる気がした。
「エルヴィン」
低い声。
ミケだった。
鼻を鳴らしている。
一度。
二度。
三度。
その表情が僅かに険しくなる。
「来る」
エルヴィンが振り返った。
「巨人だ」
ざわり、と空気が揺れる。
ミケはさらに鼻を鳴らした。
「一体や二体じゃない」
そして。
「全方向からだ」
沈黙。
直後。
森の外縁で黒煙弾が上がった。
一本。
また一本。
さらに一本。
離れた方角でも。
別の方角でも。
黒煙が立ち昇る。
奇行種。
あるいは重大な危険。
その報せが巨大樹の森を取り囲むように連続していた。
「総員警戒!」
エルヴィンの声が飛ぶ。
兵士達が一斉に動き出す。
武器を構える者。
立体機動装置を確認する者。
周囲を見張る者。
だが。
誰もまだ理解していなかった。
何故巨人が集まっているのか。
何故この森へ向かっているのか。
そして。
最初にそれが見えたのは森の西側だった。
「巨人接近!」
警戒兵の叫び。
木々の隙間。
十数体。
いや。
二十体近い。
無垢の巨人達が森へ雪崩れ込んでくる。
だが。
様子がおかしかった。
「……?」
アスカは眉をひそめる。
こちらを見ていない。
兵士を追っていない。
全員。
同じ方向を見ている。
森の中央。
拘束された女型を。
巨人達は兵士達を無視して駆け抜けていく。
一体。
また一体。
目の前を通過していく。
まるで最初から目的が決まっているみたいに。
「おいおい……」
ハンジが呆然と呟く。
「まさか」
巨人達が女型へ殺到する。
拘束された知性巨人へ。
その異様な光景を前に。
アスカは確信した。
あの叫びには意味があった。
偶然じゃない。
女型は呼んだのだ。
この巨人達を。
自分の元へ。
先頭の巨人が飛び付いた。
女型の肩へ。
噛み付く。
肉が裂ける。
蒸気が噴き出した。
「止めろ!!」
ハンジが飛び出す。
立体機動。
一閃。
巨人のうなじが裂ける。
倒れる。
だが。
次が来る。
さらに次。
女型へ群がる。
腕。
肩。
脚。
拘束された身体へ次々と食らいついていく。
「迎撃しろ!!」
エルヴィンの号令。
兵士達が一斉に飛び出した。
アスカも枝を蹴る。
ガス噴射。
身体が前へ飛ぶ。
女型へ飛び付こうとしていた巨人の背後へ回り込む。
一閃。
うなじが裂ける。
蒸気。
巨体が崩れ落ちた。
止まらない。
ワイヤーを回収。
別の木へ射出。
加速。
次の巨人へ。
また一閃。
討伐。
さらにもう一体。
討伐。
巨人達は兵士など見ていない。
ただ女型だけを目指していた。
だからこそ。
迷いなく斬れる。
時間を稼ぐ。
今はそれだけだった。
「右後方」
声。
ミケ。
アスカは振り向かない。
木を蹴る。
身体を捻る。
次の瞬間。
巨人が視界へ飛び込んできた。
女型へ一直線。
ちょうどアスカが飛び込んだ軌道上だった。
一閃。
うなじが裂ける。
蒸気。
「助かる」
短い声。
振り返れば。
別方向の巨人へ向かうミケの背中が見えた。
返事をする暇はない。
アスカも次へ向かう。
巨人が二体。
同時に女型へ迫る。
ミケは近い方へ。
もう一体には届かない。
アスカは即座に判断した。
討伐ではない。
阻止。
旋回。
加速。
巨人の膝裏へ刃を走らせる。
肉が裂ける。
巨体が前のめりに倒れた。
女型へ届かない。
その瞬間。
上空から影。
ミケだった。
一体目を討伐した勢いそのまま。
落下と同時にうなじを断つ。
蒸気。
討伐。
無駄がない。
まるで最初から打ち合わせていたようだった。
だが違う。
互いに状況を見て。
互いの動きを読んでいるだけだ。
女型へ群がる巨人はまだいる。
四体。
五体。
次々と現れる。
「左」
ミケ。
アスカが飛ぶ。
「前方二体」
アスカ。
ミケが軌道を変える。
言葉は短い。
それで十分だった。
一体。
また一体。
巨人が倒れる。
蒸気が森を覆う。
討伐。
討伐。
討伐。
女型へ辿り着く前に全て斬り伏せる。
最後の一体が地面へ崩れ落ちた時。
ようやく静寂が戻った。
蒸気の向こう。
女型の残骸だけが横たわっている。
ミケが鼻を鳴らした。
一度。
二度。
三度。
周囲を確認する。
新しい匂いは無い。
「終わりだ」
短い報告。
アスカも周囲へ視線を巡らせる。
巨人は残っていない。
全滅だった。
「勘がいいな」
不意にミケが言った。
アスカは少しだけ目を瞬かせる。
「そうですか?」
「ああ」
それだけ。
だが。
人類第二位の兵士が口にするには十分な評価だった。
☆☆☆
巨大樹の森の上空へ一本の煙が昇る。
青色。
帰投命令。
撤収の合図だった。
アスカはゆっくりと刃を鞘へ戻す。
結局。
何も分からなかった。
あの巨人は何者だったのか。
何故エレンを狙ったのか。
何故自ら食われる道を選んだのか。
残されたのは疑問だけだった。
その時。
「アスカ」
呼ばれた。
振り返る。
エルヴィンだった。
「君もガスと刃を補充した後、リヴァイ班へ合流してくれ」
「……俺もですか?」
思わず聞き返す。
リヴァイ兵長は既に補給へ向かっている。
ガスと刃を補充し、エレン達と合流するはずだ。
「リヴァイ兵長が向かうのであれば、俺より優先すべき兵士がいるのでは?」
「今は説明する時間が惜しい」
即答だった。
「命令だ。従ってくれ」
アスカは数秒だけ考える。
理由は分からない。
だが。
エルヴィンが理由もなく兵士を動かす人間ではないことは知っていた。
「……了解」
敬礼。
補給班の元へ行き、ガスと刃を交歓する。
次の瞬間には枝を蹴っていた。
ワイヤー射出。
ガス噴射。
身体が巨大樹の間を駆け抜ける。
背後では青煙弾が上がっていた。
帰投命令。
壁外調査において最優先で従うべき合図。
兵士達も撤収を始めている。
だが。
何故だ。
何故自分まで向かわせる。
リヴァイがいる。
エルドがいる。
オルオがいる。
ペトラがいる。
グンタがいる。
十分な戦力だ。
ならば。
何を警戒している?
木々の間を飛びながらしばらく考える。
だが答えは出ない。
その時だった。
鳥が飛び立つ。
遠く。
森の奥。
何かが動いた。
風が変わる。
嫌な予感。
そして──
「ォオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
咆哮。
巨大樹の森を揺らす雄叫び。
聞き間違えるはずがない。
エレンだ。
「っ!」
アスカの目が見開かれる。
瞬間。
ガスを吹かす。
速度が上がる。
枝を蹴る。
さらに加速。
何かが起きた。
間違いない。
エレンが巨人化した。
理由は分からない。
だが。
エレンが命令を無視してまで巨人化したという事実だけで十分だった。
全身の神経が警鐘を鳴らす。
急げ。
もっと。
もっと速く。
巨大樹の森を切り裂くようにアスカは飛んだ。
「……まさか」
呟いた瞬間。
理解した。
女型だ。
理由は分からない。
根拠もない。
だが。
そうとしか思えなかった。
ガスを限界まで吹かす。
身体が加速する。
風が唸る。
巨大樹の森が流れていく。
その頃。
エルヴィン率いる本隊も森を離れつつあった。
馬を駆る。
撤収準備は完了している。
だが空気は重かった。
誰もが考えている。
女型の巨人。
そして失われた情報について。
「ねぇ」
沈黙を破ったのはハンジだった。
「なんでリヴァイに補給を命じたの?」
馬を並べながら続ける。
「それにアスカまで同行させるなんて。あの子、一応私の班員なんだけど」
エルヴィンは前を向いたまま答えた。
「君は見たか?」
「何を?」
「女型の中身が食い尽くされる瞬間を」
ハンジは言葉を失った。
「……見てない」
「私もだ」
沈黙。
蹄の音だけが続く。
エルヴィンは続けた。
「あの巨人は今日だけで何度も我々の想定を超えてきた」
誰も口を挟まない。
「ならば今回も同じだ」
「……」
「敵とエレンを同列に扱うべきではない」
静かな声だった。
「巨人化の技量だけで見れば、明らかに向こうが上だ」
ハンジの表情が変わる。
「まさか……」
「ああ」
エルヴィンは頷いた。
「短時間でも再び巨人化できる余力を残している可能性は十分にある」
言いようのない沈黙が走る。
そんなはずはない。
そう思いたかった。
だが。
今日一日だけで。
女型は何度も常識を覆している。
否定する材料はどこにも無かった。
その時だった。
「ォオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
森の奥から咆哮が響く。
巨大樹を震わせる雄叫び。
エレンだ。
誰もが顔を上げた。
エルヴィンだけが静かだった。
「……始まったか」
ハンジが目を見開く。
「アスカを向かわせたのも?」
「ああ」
短く答える。
「彼は二度女型と交戦している」
馬は止まらない。
「今の調査兵団で、あの巨人との実戦経験を持つ兵士は彼を除いていない」
「経験は武器になる……ってことか」
「それもある」
エルヴィンは前を向いたまま言った。
「それに」
「?」
「彼は生き残った」
ハンジは黙る。
右翼。
壊滅。
女型との交戦。
それでも帰ってきた。
その事実をエルヴィンは評価している。
「ここには歴戦の兵士達が集まっている」
エルヴィンの視線は巨大樹の森へ向いていた。
「ならば一人送り出したところで問題は無い」
そして。
静かに呟く。
「むしろ必要なのは、あちらだ」
森の奥で。
戦いが始まろうとしていた。
☆☆☆
風を裂く。
巨大樹の森を駆け抜ける。
ガスを吹かす。
さらに。
さらに加速する。
遠くから響く轟音。
木々が揺れる。
戦闘はまだ終わっていない。
間に合え。
そう願いながら枝を蹴った。
次の瞬間。
視界が開ける。
そして──
アスカは息を呑んだ。
エレン巨人が膝をついていた。
女型が立っている。
その眼前に。
勝敗は既に決していた。
女型が軸足を捻る。
腰を回す。
硬質化した脚が唸りを上げた。
回し蹴り。
轟音。
エレン巨人の首が吹き飛ぶ。
巨大樹を砕きながら転がっていく。
蒸気。
土煙。
女型は止まらない。
吹き飛ばした勢いのまま踏み込む。
うなじへ。
噛み付く。
肉が裂ける音。
蒸気が噴き出す。
女型は容赦なくエレン巨人のうなじを抉り開いた。
そして。
中にいる人間を掴み出す。
エレンだった。
力なくぶら下がる身体。
抵抗はない。
意識があるのかも分からない。
それでも。
生きている。
女型はエレンを持ち上げる。
ゆっくりと。
まるで勝利を噛み締めるように。
口元へ運ぶ。
巨大な口が開く。
エレンを口に含んだ。
その瞬間だった。
本来の女型の巨人であれば防げたであろう手法。
勝利を確信した者への、強襲。
アスカは枝を蹴った。
ガス噴射。
一直線。
女型の死角へ。
気付く。
だが遅い。
もう届く。
狙うのはうなじではない。
目でもない。
顎。
耳の下。
下顎と頭蓋を繋ぐ関節部。
一閃。
刃が深く食い込む。
肉を裂く。
骨を削る感触。
「────ッ!?」
女型の顔が跳ね上がった。
痛覚。
反射。
大きく開いた口。
そして。
含んでいたはずのエレンの身体が宙へ投げ出される。
落ちる。
血と唾液に濡れた小さな身体。
だが。
それを見逃す者はいなかった。
ミカサだった。
考えない。
迷わない。
ワイヤー射出。
ガス噴射。
視界にはエレンしか映っていない。
女型も。
アスカも。
巨大樹も。
何も見えていなかった。
ただ。
届く。
そう確信していた。
伸ばした腕がエレンを捉える。
抱き締める。
軽かった。
信じられないほど。
力が入っていない。
「エレン……」
小さな声。
返事はない。
だが呼吸はある。
生きている。
それだけで十分だった。
ミカサは即座に方向転換する。
ワイヤーを射出。
巨大樹へ。
距離を取る。
少しでも遠くへ。
少しでも安全な場所へ。
エレンを連れて。
一方。
女型は振り向いていた。
奪われた。
あと少しだった獲物を。
その視線の先。
離脱するミカサ。
追う。
そう決めたのが分かった。
脚が沈む。
踏み込む。
追撃の予備動作。
だが。
その進路へ人影が割り込む。
アスカだった。
刃を構える。
呼吸は荒い。
ガスも減っている。
勝てるとは思っていない。
それでも。
足止めなら出来る。
「行け!!」
叫ぶ。
視線は女型から逸らさない。
「ミカサ!!」
女型が踏み込む。
同時にアスカも動く。
「撤退しろ!!」
次の瞬間。
拳と刃が交錯した。
☆☆☆
轟音。
衝撃が腕を貫く。
アスカは即座にワイヤーを射出した。
反動。
身体を引く。
次の瞬間、女型の拳が通過した空間が弾け飛んだ。
巨大樹の樹皮が抉れる。
木屑が舞う。
直撃していれば終わりだった。
「──ッ」
速い。
だが。
見える。
最初に戦った時ほどではない。
女型が腕を振るう。
アスカは木の幹を蹴った。
急上昇。
空中で姿勢を変える。
そのまま背後へ回り込もうとする。
だが女型も振り返る。
蹴り。
硬質化。
脚が鈍く光る。
アスカは即座にワイヤーを戻した。
掴まれる。
そう感じたからだ。
次の瞬間。
硬質化した脚が通過する。
空気が裂ける。
あと半歩遅ければ真っ二つだった。
距離を取る。
再び接近。
牽制。
一撃離脱。
女型の視線を自分へ向け続ける。
それだけでいい。
ミカサが離脱する時間を稼げれば。
それだけで。
女型が踏み込む。
地面が沈む。
速い。
直線的な突進。
アスカは横へ飛ぶ。
回避。
同時に刃を振るう。
一閃。
女型の手首を深く裂く。
肉が飛ぶ。
蒸気。
再生。
だが止まる。
一瞬だけ。
その一瞬で十分だった。
女型が視線を動かす。
ミカサ。
離れていく。
エレンを抱えて。
追いつけない距離になりつつある。
焦り。
初めて見た。
女型の表情に。
ほんの僅か。
焦燥が混じる。
「そう簡単に行くかよ」
アスカは呟いた。
女型は答えない。
ただ視線だけがミカサを追っていた。
エレンを抱えたまま離脱していく。
その背中を。
執拗に。
諦めず。
次の瞬間。
女型が動く。
ミカサの進路へ。
一直線。
「させるか!」
アスカは飛ぶ。
横から接近。
刃を振るう。
一閃。
女型は腕を引く。
肉が裂ける。
蒸気。
だが止まらない。
再生しながら前へ進む。
エレンだけを見ている。
執念だった。
女型が腕を振るう。
払い。
巨大な腕が迫る。
アスカは急制動。
ワイヤー回収。
身体を沈める。
腕が頭上を通過した。
直後。
女型は再びミカサへ向かう。
「っ……!」
追いつけない。
脚が長い。
巨人の一歩は大きい。
距離が縮まる。
ミカサとの距離が。
アスカは歯を食いしばる。
ガスを吹かす。
限界まで。
追う。
その時だった。
風が吹いた。
違う。
誰かが通った。
あまりにも速く。
女型の目が見開かれる。
反応が遅れる。
一閃。
女型の腕が裂けた。
蒸気。
肉片。
アスカは目を見開く。
誰だ。
そう思うより先に。
理解した。
速すぎる。
こんな動きが出来る人間は。
知っている。
ただ一人。
「……兵長」
女型とアスカの間。
一本の枝の上。
リヴァイが立っていた。
補充された真新しい刃。
微かに揺れるマント。
その目だけが冷たく女型を見据えている。
「随分派手にやってくれたじゃねぇか」
低い声。
怒りは見えない。
だが。
それが逆に恐ろしかった。
女型が後退する。
本能的に。
危険だと理解したのだろう。
アスカは息を吐いた。
間に合った。
そして同時に思う。
ここから先は。
自分の戦いじゃない。
人類最強の戦いだと。
そう理解した。
女型の巨人が後退する。
一歩。
また一歩。
先程までの余裕は消えていた。
アスカには分かった。
怯えている。
あの巨人が。
初めて。
リヴァイだけを見ていた。
「……」
リヴァイは何も言わない。
ただ立つ。
女型との間に。
刃を握ったまま。
静かに。
それだけなのに。
女型は動けない。
距離を詰めれば斬られる。
逃げれば追いつかれる。
そう理解しているのだろう。
緊張が張り詰める。
風の音すら聞こえない。
その瞬間だった。
リヴァイが消えた。
「──」
違う。
見失ったのではない。
速すぎた。
女型の右腕。
蒸気が噴き出す。
次の瞬間には左脚。
さらに次には顔面。
肉片が飛び散る。
視線で追えない。
だが。
何が起きているかは分かった。
兵長は止まらない。
方向転換のために速度を殺さない。
加速したまま軌道を変える。
加速したまま斬る。
斬った勢いで次へ移る。
移動と攻撃が繋がっている。
一本の線だった。
線が女型の身体を駆け巡り。
通過した場所だけが崩れていく。
「……そういうことか」
思わず呟く。
自分も空中で方向転換は出来るようになった。
だが違う。
兵長は速度を失っていない。
減速という概念そのものが存在しないようだった。
女型が拳を振るう。
空振り。
蹴る。
空振り。
掴む。
届かない。
そして。
一撃。
女型の右目が裂けた。
蒸気。
悲鳴。
視界を奪う。
さらに。
手首。
肘。
膝裏。
足首。
関節。
関節。
関節。
うなじを狙わない。
最初から。
そこだけを狙っていない。
兵長は倒そうとしているんじゃない。
解体している。
巨人という生物を。
戦えなくするためだけに。
必要な場所から順番に。
確実に。
削り取っていく。
女型が後退する。
初めてだった。
あの巨人が。
逃げようとしている。
死を感じたのだろう。
戦えば負ける。
そう本能で理解したのかもしれない。
女型が大きく飛び退く。
距離を取る。
森の外へ向かって。
生き延びるために。
「逃がすか」
アスカは枝を蹴った。
追う。
今なら届く。
背中が見えている。
あと少し。
あと一撃。
その時だった。
女型の肩が僅かに動く。
嫌な予感。
気付く。
遅い。
振り向きざま。
巨大な手の甲が薙ぎ払われる。
死角からの一撃。
まともに受ければ終わる。
「──っ!」
身体が浮いた。
景色が流れる。
巨木。
空。
蒸気。
何が起きたか理解する前に。
轟音が響いた。
振り返る。
巨木が粉々に砕け散っていた。
冷や汗が流れる。
あれを受けていたら。
考えるまでもない。
そして。
目の前には男がいた。
リヴァイ。
女型の手の甲へ着地している。
そのまま刃が閃く。
肉を裂く。
手首。
腕。
蒸気。
女型は苦悶の表情を浮かべながら距離を取る。
逃走。
もう戦う気は無かった。
森の向こうへ。
命からがら。
それでも生き延びるために。
リヴァイは追わなかった。
追えなかった。
着地した瞬間。
僅かに体勢が崩れる。
右足。
先程。
自分を突き飛ばした時だ。
アスカは歯を食いしばる。
女型の姿が木々の向こうへ消えていく。
悔しさが込み上げる。
あと少しだった。
届いていた。
そう思ったからこそ。
「……すいません」
声が漏れた。
リヴァイは黙ったまま女型が消えた方向を見ている。
「俺のせいで……」
沈黙。
やがて。
「お前のせいじゃねぇ」
低い声だった。
「ですが──」
「勘違いするな」
言葉を遮る。
リヴァイはようやく視線を向けた。
「俺が勝手に割り込んだ」
アスカは何も言えない。
リヴァイは続ける。
「死ぬと思ったからな」
その言葉だけだった。
責めるでもない。
慰めるでもない。
ただ事実だけを告げる。
そして。
「行くぞ」
短く言った。
「……はい」
ワイヤーを射出する。
飛び上がる。
夕陽が巨大樹の森を赤く染めていた。
失われた命は多い。
得られた情報は少ない。
だが。
敵は確かに存在する。
壁の外ではない。
人の中に。
調査兵団は帰還する。
多くを失いながら。
それでも前へ進むために。
こうして──
第五十七回壁外調査は幕を閉じた。