ストヘス区の壁上は騒然としていた。
壁の側面から覗く巨大な顔。
露出した筋肉。
閉じられた瞼。
そして何より。
それが壁の中に埋まっていたという事実。
誰もが言葉を失っていた。
「分隊長……指示を」
モブリットの声で、ようやくハンジが我に返る。
「えっ? 何? ちょっと待って」
だが視線は壁から離れない。
あの巨人はたまたまあそこにいたのか。
それとも。
もしそうではないのだとしたら──。
考えがまとまらない。
その時だった。
肩を強く掴まれる。
驚いて振り返ると、そこにはニック司祭がいた。
息を切らしている。
よほど急いでここまで駆け上がってきたのだろう。
「……当てるな」
か細い声だった。
ハンジが眉をひそめる。
「え?」
「あの巨人に日光を当てるな!」
壁上の空気が変わった。
「……何だって?」
「急げ! 頼む!」
ニックの顔色は真っ青だった。
ただ怯えているだけではない。
確信がある顔だった。
ハンジは再び壁の中の巨人を見上げる。
閉じられた瞼。
動く気配はない。
だが。
その頬の筋肉が僅かに動いたような気がした。
背筋を冷たいものが走る。
「モブリット!」
「はっ!」
「布だ! 帆布でも何でもいい! 壁面を覆え!」
モブリットも即座に動いた。
「全員聞いたな! 急げ!」
兵士達が一斉に駆け出す。
倉庫へ向かう者。
ワイヤーを運ぶ者。
杭を持ってくる者。
壁上は瞬く間に慌ただしくなった。
アスカもワイヤーへ手を伸ばす。
事情は分からない。
だがニック司祭は何かを知っている。
それだけは確かだった。
巨大な帆布が運び込まれる。
滑車が組まれ、ワイヤーが固定される。
「引け!」
怒号が飛ぶ。
アスカも全身に力を込めた。
重い。
両腕が軋む。
それでも誰一人手を離さない。
風を受けた布が大きく膨らんだ。
「もっと右だ!」
「固定しろ!」
「押さえろ!」
汗を流しながら兵士達が動く。
やがて。
巨大な布が壁面を覆い尽くした。
壁の中の巨人は完全に影へと沈む。
全員が固唾を呑んで見守る。
変化はない。
しばらくして。
ニックが小さく息を吐いた。
「……これで大丈夫だ」
その言葉に、逆にアスカは警戒を強める。
──知っている。
この男は知っている。
そして恐れている。
それほどまでに。
ハンジも同じことを考えたのだろう。
ゆっくりとニックへ向き直った。
「さて」
ゴーグル越しの視線がニックを捉える。
「そろそろ話してもらいましょうか」
ニックは答えない。
壁面を見下ろしたまま動かない。
「この巨人は何ですか?」
沈黙。
「なぜ壁の中に巨人がいるんですか?」
風だけが吹く。
「そして、なぜ貴方方はそれを黙っていたんですか?」
返答はなかった。
長い沈黙の後。
ニックは壁から目を逸らし、ゆっくり立ち上がる。
「私は忙しい」
アスカは目を細めた。
──来たな。
「教会も信者もめちゃくちゃにされた。貴様らのせいだ」
話題逸らし。
しかも下手だ。
「後で被害額を請求する」
──答える気はない。
最初から。
「さぁ、私を下に降ろせ」
ハンジが静かに目を閉じる。
そして額へとゴーグルを押し上げた。
「……いいですよ」
そう言って笑う。
だが。
アスカは違和感を覚えた。
いつもの笑顔じゃない。
──怒ってる。
いや。
それだけじゃない。
もっと深い。
長年積み重なった何かがそこにはあった。
次の瞬間。
ハンジがニックの胸倉を掴む。
「なっ!?」
そのまま壁の縁まで引きずった。
ニックの身体が大きく仰け反る。
あと一歩押されれば落ちる。
「ここからでいいですか?」
「分隊長!」
モブリットが思わず声を上げる。
だが。
「寄るな」
低い声だった。
壁上の空気が凍り付く。
モブリットも足を止めた。
「ふざけるな」
ニックを見据えたまま吐き捨てる。
「お前らは知っていたのか?」
風が吹く。
「我々調査兵団が何のために血を流しているか」
アスカは黙ってその横顔を見た。
こんな顔は初めて見る。
巨人を前に目を輝かせる変人でもない。
飄々と笑う上官でもない。
調査兵団第四分隊長。
その顔だった。
「巨人に奪われた自由を取り戻すためだ」
ニックは黙っている。
「そのためなら命だって惜しくなかった」
ハンジの声に怒鳴り声のような激しさはない。
だが、その静けさが余計に恐ろしかった。
「何百人も死んだ」
壁の向こうを見据える。
「何千人も死んだ」
握る手に力が入る。
ニックの身体がさらに壁の外へ傾いた。
「それでも前に進んだ」
調査兵団の誰も口を挟まない。
モブリットも。
アスカも。
皆同じ気持ちだった。
「お願いはしてない」
ハンジの声が低くなる。
「命令したんだ。話せと」
ニックの額に汗が浮かぶ。
「お前が無理なら次だ」
さらに一歩。
ニックの踵が壁の縁から浮いた。
「何にせよ」
ハンジが言う。
「お前一人の命じゃ足りないと思っている」
「手を……離せ!」
ニックが叫ぶ。
アスカは目を細めた。
──虚勢か?
そう思った。
だが違う。
恐怖はある。
だが覚悟もある。
震えているのに、折れてはいない。
「今、離していいか?」
静かな問いだった。
ニックは息を呑む。
そして。
「今だ!」
叫んだ。
壁上の空気が凍り付く。
モブリットが目を見開いた。
アスカも思わずニックを見る。
ハンジの目が細くなる。
「……分かった」
低い声。
「死んでもらおう」
「分隊長!」
モブリットが一歩踏み出す。
だが止まる。
止められない。
ニックは目を閉じた。
「私を殺して学ぶがいい!」
声が震える。
それでも叫ぶ。
「我々は必ず使命を全うする!」
風が吹く。
マントが揺れる。
「だから……今!」
握り締めた拳が白くなる。
「この手を離せ!!」
誰も動かない。
誰も喋らない。
壁上を沈黙が支配した。
「か……み……さ……ま……」
掠れた声が漏れる。
その時だった。
「……ハンジさん」
アスカが口を開く。
呼び掛けただけだった。
それだけだった。
だが。
ハンジは大きく息を吐いた。
「はぁ……」
肩の力が抜ける。
次の瞬間。
ニックの身体を反対側へ放り投げた。
「うわぁっ!?」
無様な悲鳴を上げながら転がるニック。
ハンジは壁の縁に腰を下ろした。
「ハハッ」
ゴーグルを掛け直す。
「ウソウソ。冗談」
先程までの空気が嘘のようだった。
だが。
誰も笑わない。
ニックは地面にへたり込み、荒い呼吸を繰り返している。
ハンジはしばらく何も言わなかった。
ただ壁の外を見ている。
やがて。
「ねぇ、ニック司祭」
返事はない。
「壁って全部、巨人で出来てるの?」
モブリットの眉が僅かに動いた。
長い付き合いだ。
だから分かる。
今のハンジがおかしいことに。
「あー……」
ハンジは頭を掻いた。
「いつの間にか忘れてたよ」
空を見上げる。
雲が流れている。
「こんなの」
壁の中の巨人。
存在するはずのない存在。
守ってくれていたはずの壁。
その前提が崩れた。
「初めて壁の外に出た時以来の感覚だ」
アスカも壁を見た。
ただの巨人なら怖くない。
訓練兵時代とは違う。
今なら分かる。
殺せる。
戦える。
生き残れる。
だが。
これは違う。
巨人から守ってくれていた壁。
その中に巨人がいた。
知っていた世界が音を立てて崩れていく。
理解が追いつかない。
「怖いなぁ」
ぽつりと呟く。
誰も笑わない。
誰も否定しない。
風だけが吹く。
遮光布が微かに揺れた。
「でもさ」
ハンジは壁の向こうを見たまま続ける。
「知らないままの方が、もっと怖い」
アスカは黙っていた。
──怖い。
確かにそうだ。
知らないことを知るのは怖い。
真実を知るのは怖い。
けれど。
知らないまま生きるのは。
もっと怖いのかもしれない。
初めて。
アスカは少しだけ理解した気がした。
この人がなぜ調査兵団にいるのかを。
☆☆☆
調査兵団本部へ戻る頃には、日が傾き始めていた。
壁の中の巨人。
ニック司祭。
ハンジの言葉。
頭の中で整理しようとしても上手くいかない。
考えれば考えるほど分からなくなる。
だからアスカは考えるのをやめた。
今は目の前のことだ。
歩きながら廊下の窓を見る。
ストヘス区はまだ混乱の最中にあった。
瓦礫の撤去。
負傷者の搬送。
兵士達の怒号。
あちこちから聞こえてくる。
その光景を見ながら、一つの部屋の前で足を止めた。
ノックはしない。
扉を開ける。
病室だった。
ベッドの上にエレンがいる。
全身に包帯が巻かれていた。
起きてはいる。
だが天井を見つめたまま動かない。
扉の音でようやく視線が向いた。
「……生きてたな」
先に口を開いたのはエレンだった。
アスカは鼻で笑う。
「お前もな」
それだけ。
また沈黙が落ちる。
窓の外から聞こえる騒音だけが部屋に流れていた。
「身体は」
「そのうち治る」
「そうか」
会話が続かない。
互いに言いたいことはある。
だが上手く言葉にならない。
しばらくして。
エレンが拳を握った。
「アニは」
アスカは目を伏せる。
「結晶の中だ」
拳に力が入る。
「……そうか」
エレンはそれ以上何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
あの時。
女型の巨人のうなじに噛み付いた感触。
結晶化するアニ。
自分を制御出来なかったこと。
色々なものが残っているはずだ。
「何があったんだ」
ぽつりとエレンが呟く。
「何が?」
「俺だよ」
視線が天井へ戻る。
「最後……よく覚えてねぇ」
アスカは黙った。
覚えている。
狂ったように女型へ食らいついていた。
まるで何かに取り憑かれたように。
だが。
それを今ここで言うべきかは分からない。
「……勝ったんだろ」
だから別の答えを返した。
エレンが少しだけ笑う。
「そうだな」
勝った。
結果だけ見ればそうだ。
だが。
その代償はあまりにも大きかった。
再び沈黙が落ちる。
その時だった。
「失礼するよ」
扉が開く。
アルミンだった。
その後ろにはミカサもいる。
アスカの姿を見て少しだけ表情を和らげた。
「アスカ」
「よう」
軽く手を上げる。
アルミンはエレンの様子を確認し、ほっと息を吐いた。
「良かった。起きてたんだね」
「寝てろって言われても無理だろ」
エレンが言う。
ミカサは無言のままベッドの横へ移動した。
相変わらずだ。
アスカは少し口元を緩める。
「何だよ」
「別に」
エレンが怪訝そうな顔をする。
ミカサは気にしない。
本当にいつも通りだった。
それが少しだけ安心出来る。
アルミンは椅子へ腰を下ろした。
しかしその表情はどこか沈んでいる。
アスカは気付いた。
「考え事か」
アルミンが視線を上げる。
「ああ……うん」
少し迷う。
そして口を開いた。
「壁の中の巨人」
やはりその話だった。
「ハンジさんから聞いた」
エレンも眉をひそめる。
「意味分かんねぇよな」
「うん」
アルミンは頷く。
「でも」
そこで言葉を選ぶように止まった。
「もし壁が巨人と関係しているなら」
病室の空気が変わる。
「今まで僕達が信じていたこと全部が変わるかもしれない」
誰も答えない。
窓の外から風が吹き込む。
アスカはニック司祭の顔を思い出した。
あの怯えた表情。
そして。
ハンジの言葉。
──知らないままの方が、もっと怖い。
あれが頭から離れなかった。
「面倒臭ぇ話だな」
エレンが吐き捨てる。
アルミンが苦笑した。
「それは同感かな」
少しだけ空気が軽くなる。
そんな中。
ずっと黙っていたミカサが口を開いた。
「それでも進むしかない」
三人が視線を向ける。
ミカサは真っ直ぐだった。
「壁の中に巨人がいても」
迷いなく続ける。
「敵が何であっても」
そして。
隣のエレンを見る。
「やることは変わらない」
エレンが小さく笑った。
「違ぇねぇ」
病室の空気が少しだけ和らぐ。
アスカは壁に背中を預けながらそれを見ていた。
──相変わらずだな。
そう思う。
少しだけ羨ましくもあった。
この三人は。
どれだけ状況が変わっても。
根っこの部分は変わらない。
だから強いのかもしれない。
しばらくして病室を後にする。
扉を閉める直前。
エレンがこちらを見た。
「アスカ」
「あ?」
「……ありがとな」
何についてかは言わない。
聞かない。
アスカは片手を上げるだけだった。
「次はもっと早く起きろ」
扉が閉まる。
廊下に静寂が戻った。
そしてその先。
窓際にもたれながら待っていた人物がいた。
ジャンだった。
アスカの姿を見つけると、小さく顎を上げる。
「終わったか」
「何がだ」
「お見舞いだよ」
そう言って壁から背中を離す。
アスカは鼻を鳴らした。
「お前も入れば良かっただろ」
「遠慮しといた」
即答だった。
「何だそれ」
「別に」
ジャンは窓の外を見る。
ストヘス区の街並み。
崩れた建物。
忙しなく動く兵士達。
少しの沈黙。
先に口を開いたのはジャンだった。
「結局よ」
「?」
「アニだったんだな」
その声は妙に静かだった。
怒っている訳でもない。
悲しんでいる訳でもない。
ただ事実を確かめるような声だった。
「……あぁ」
アスカも短く返す。
ジャンが苦笑する。
「全然気付かなかった」
窓の外へ視線を向けたまま続ける。
「マルコなら気付いてたのかもな」
その名前が出た瞬間。
空気が少しだけ重くなる。
アスカは黙った。
「アイツはよ」
ジャンが小さく笑う。
「人を見るのだけは本当に上手かったよな」
それには同意だった。
訓練兵団の頃からそうだった。
誰が何を考えているのか。
誰が何に悩んでいるのか。
不思議なくらい察する奴だった。
「お前のことも買ってたぞ」
ジャンが言う。
「は?」
「忘れたのか」
呆れたような顔を向けてくる。
「訓練兵団の頃だよ」
アスカは視線を逸らした。
忘れていた訳じゃない。
むしろ覚えている。
だから反応に困る。
「アスカは案外人を見る、ってな」
マルコらしい言葉だった。
人を見るのが上手い奴だからこそ、そんなことを言ったのだろう。
「……アイツは人を褒め過ぎなんだよ」
そう返すのが精一杯だった。
ジャンが吹き出す。
「お前な」
「何だよ」
「照れてんのか?」
「うるせぇ」
即答だった。
ジャンは肩を震わせて笑う。
そのやり取りだけで、少しだけ空気が軽くなった。
だが。
「でも」
ジャンは再び窓の外へ視線を向けた。
「アニか」
静かな声だった。
「正直まだ信じられねぇ」
アスカも同じだった。
理屈では理解している。
だが感情が追いついていない。
「なぁ」
ジャンが言う。
「お前はどうなんだ」
「何が」
「アニだよ」
視線が向く。
「止めたかったんだろ」
アスカは少しだけ黙った。
そして。
「……あぁ」
認める。
否定する理由もない。
ジャンは小さく頷いた。
「だろうな」
それ以上は聞かない。
理由も。
感情も。
踏み込まない。
ただ受け止める。
それがジャンだった。
しばらくして。
「まぁ」
ジャンが息を吐く。
「死んでなくて良かったじゃねぇか」
アスカが眉をひそめる。
「結晶の中だぞ」
「それでもだ」
ジャンは即答した。
「まだ死んでねぇ。聞きたいことも沢山あるしな」
その言葉に。
アスカは少しだけ目を伏せた。
確かにそうだ。
少なくとも。
まだ終わってはいない。
「お前さ」
ジャンが笑う。
「昔からそういう顔するよな」
「どんな顔だ」
「考え込み過ぎてる顔」
アスカは舌打ちした。
ジャンがまた吹き出す。
「図星か」
「うるせぇ」
「ハハッ」
短い笑い声。
そして。
少しだけ真面目な顔になる。
「なぁ」
「今度は何だ」
「死ぬなよ」
アスカは一瞬だけ言葉を失った。
ジャンは窓の外を見たままだ。
こちらを見ない。
気恥ずかしいのだろう。
「俺はお前みたいに強くねぇ」
そう言う。
「だからよ」
少しだけ笑った。
「お前までいなくなると困る」
アスカは数秒黙った。
それから。
「お前もな」
短く返す。
ジャンは鼻で笑った。
「善処する」
「兵長に言ったら蹴られるぞ」
「知るか」
そんなやり取りを交わしながら。
二人は並んで窓の外を見た。
ストヘス区はまだ騒がしい。
だが。
ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。
──仲間か。
ふとそんなことを思う。
そして同時に。
アニの顔が脳裏を過った。
考えるのをやめるように目を閉じる。
その時。
「おい」
聞き慣れた低い声がした。
二人が振り返る。
廊下の先。
腕を組んだリヴァイが立っていた。
相変わらず仏頂面だ。
ジャンが反射的に姿勢を正す。
「兵長」
「チッ」
返ってきたのは舌打ちだった。
「暇そうだな」
「暇じゃありません」
即答するジャン。
リヴァイは興味なさそうに視線を逸らした。
そしてアスカを見る。
「お前だ」
「何ですか」
「少し来い」
短い。
理由も説明しない。
それだけ言うと踵を返して歩き始めた。
アスカはジャンと顔を見合わせる。
「……何かやらかしたか?」
「いや……あ。単独行動の件かな」
「あぁ……。ご愁傷様」
「ふざけんな」
ジャンの軽口を背に、アスカはリヴァイの後を追った。
しばらく無言で歩く。
石造りの廊下。
窓から差し込む夕日。
足音だけが響いていた。
やがて人気の少ない場所まで来たところで、リヴァイが足を止める。
振り返らない。
窓の外を見たまま口を開いた。
「傷はどうだ」
「問題ありません」
「嘘つけ」
即座に返される。
アスカは肩を竦めた。
「まぁ多少は」
「そうか」
それで終わりだった。
会話が続かない。
だが不思議と気まずくはない。
しばらくして。
リヴァイが窓の外を見たまま言った。
「お前」
「?」
「無茶が増えたな」
アスカは少しだけ黙る。
思い当たる節はあった。
女型との戦い。
市街地での追撃。
壁際での突撃。
どれも冷静だったとは言い難い。
「はは。やっぱりそれですよね」
「そうだ」
即答だった。
「お前は……もっと自分の命を勘定に入れてもいいんじゃねぇか」
言われてみればそうかもしれない。
地下街では常にそうしていた。
死ねば終わり。
だから生き残るために動く。
それが当たり前だった。
「兵長はどうなんですか」
アスカが聞く。
リヴァイの眉が僅かに動いた。
「何がだ」
「昔と比べて」
少し考える。
「変わりました?」
数秒。
沈黙。
やがてリヴァイは鼻で笑った。
「知らねぇな」
本当に興味がなさそうだった。
だが。
アスカには分かった。
嘘ではない。
本当に分からないのだ。
変わったかもしれないし。
変わっていないかもしれない。
そんな返答だった。
「一つだけ言っとく」
リヴァイが言う。
「はい」
「死ぬな」
短い言葉だった。
だが重い。
アスカは思わず笑った。
「善処します」
その瞬間。
鈍い衝撃が後頭部に飛んできた。
「痛っ!」
振り返る。
リヴァイの蹴りではなかった。
ただの手刀だ。
それでも十分痛い。
「善処じゃねぇ」
低い声。
「生きろ」
それだけだった。
リヴァイは再び歩き出す。
話は終わりらしい。
アスカは頭を擦りながらその背中を見る。
──生きろ、か。
簡単に言う。
だが。
あの男が言うと妙に重かった。
リヴァイの過去のことをアスカは知らない。
リヴァイ班の全員が死んだ時の気持ちも知らない。
それでも。
あの言葉の裏に何かがあることくらいは分かった。
だから何も言わない。
「おい」
歩きながらリヴァイが呼ぶ。
「何ですか」
「地下へ行くんだろ」
アスカは足を止めた。
「……何で分かったんですか」
リヴァイが振り返る。
その目は呆れていた。
「顔だ」
それだけ言う。
「終わったら報告しろ」
そして今度こそ去っていった。
一人残される。
静かな廊下。
夕日が差し込んでいる。
アスカはしばらくその場に立っていた。
──顔に出てたか。
小さく息を吐く。
向かう先は決まっている。
地下。
ストヘス区の地下深く。
結晶の中で眠り続ける少女のもとへ。
聞きたいことがある。
山ほどある。
だが。
答えが返ってくることはない。
それでも。
行かなければならない気がした。
アスカは歩き出す。
薄暗い地下通路へと続く階段に向かって。
☆☆☆
地下へ続く階段を降りる。
石段を踏む度に足音が響いた。
調査兵団本部の喧騒はもう聞こえない。
上では兵士達が慌ただしく動いているはずだった。
壁の中の巨人。
ニック司祭。
ストヘス区の復旧。
やるべきことはいくらでもある。
それなのに。
アスカは地下へ向かっていた。
自分でも理由は上手く説明できない。
行かなければならない気がした。
ただそれだけだった。
階段を降り切る。
薄暗い通路。
揺れる松明。
冷たい空気。
見張りの兵士が敬礼する。
軽く手を上げて応じる。
そして。
足が止まった。
透明な結晶。
その中心にアニがいた。
変わらない。
本当に何一つ変わらない。
まるで時間だけが止まったみたいだった。
ストヘス区で見た時と同じ顔。
訓練兵団の頃と変わらない顔。
少し眠そうで。
少し不機嫌そうで。
今にも目を開けそうだった。
だが。
開かない。
返事もしない。
動きもしない。
それが現実だった。
アスカはしばらく立ち尽くした。
何を言うつもりだったのか。
ここへ来る途中までは覚えていたはずなのに。
顔を見た途端、全部どこかへ消えてしまった。
「……お前さ」
ようやく出た言葉だった。
「ズルいよな」
結晶へ近付く。
当然返事はない。
分かっている。
それでも続けた。
「言うだけ言って寝やがって」
苦笑する。
頭の中に浮かぶ。
『少なくとも……アンタには死んでほしくなかった』
思い出すだけで胃が重くなる。
「意味分かんねぇんだよ」
壁にもたれるように結晶へ背中を預ける。
冷たい。
やけに冷たかった。
「敵なら敵で良かった」
ぽつりと呟く。
「全部嘘だったって言われた方が楽だった」
あの時。
そう言われていたら。
きっと今より楽だった。
憎めた。
斬れた。
割り切れた。
なのに。
『全部じゃない』
アニはそう言った。
迷いなく。
嘘を吐く顔じゃなかった。
「余計分かんなくなった」
天井を見上げる。
松明の火が揺れている。
静かだった。
「俺はさ」
言葉が続く。
返事が来ないからかもしれない。
誰にも聞かれないと思うと不思議と口が軽くなる。
「結構本気で考えてたんだ」
目を閉じる。
「何か理由があるんじゃねぇかって」
女型の森。
巨大樹。
握り潰されそうになった瞬間。
ストヘス区。
何度も思い出した。
「何で俺を殺さなかったのか」
答えは出なかった。
「なのに」
小さく笑う。
「お前は分からないって言うんだからな」
それが一番困る。
嘘でもいい。
理由を言われた方がまだ納得できた。
だがアニはそうしなかった。
本当に分からない顔をしていた。
だから。
今も引っ掛かっている。
それが一番困る。
嘘でもいい。
理由を言われた方がまだ納得できた。
だがアニはそうしなかった。
本当に分からない顔をしていた。
だから。
今も引っ掛かっている。
アスカは長く息を吐いた。
「まぁ」
頭を掻く。
「今聞いても仕方ねぇか」
目の前にいるアニは何も答えない。
当然だ。
結晶の中なのだから。
聞こえているはずもない。
そう思っている。
だから少しだけ気が楽だった。
しばらく沈黙が続く。
地下は静かだった。
松明の火が小さく揺れる音だけが聞こえる。
アスカは結晶へ背中を預けたまま天井を見上げた。
「壁の中に巨人がいた」
ぽつりと呟く。
自分でも唐突だと思った。
だが構わず続ける。
「意味分かるか?」
苦笑する。
「俺は分からん」
ニック司祭。
ハンジ。
壁の中の顔。
思い出すだけで頭が痛くなる。
「お前なら何か知ってそうだけどな」
返事はない。
アスカは肩を竦めた。
「まぁ聞いても無駄か」
沈黙。
少しして。
「エレンも起きたぞ」
今度は自然に言葉が出た。
「相変わらずだった」
少し笑う。
「ボロボロのくせに動こうとするし」
呆れたように言う。
「ミカサはそれ見て怒るし」
訓練兵団の頃から変わらない。
本当に変わらない。
「アルミンはまた考え込んでたな」
少しだけ目を閉じる。
「ジャンは──」
そこで止まる。
少し考えて。
「まぁジャンもジャンだった」
思わず笑った。
本人がいたら文句を言われそうだ。
地下に小さな笑い声が響く。
そして。
ふと気付く。
何をしているんだろうな、と。
アスカは天井を見上げたまま固まった。
返事の返らない相手に。
同期の話をしている。
意味なんてない。
意味なんてないはずだ。
なのに。
不思議と嫌じゃなかった。
むしろ。
少しだけ気が楽になっている。
それが余計に意味が分からない。
「……何やってんだろうな、俺」
小さく笑う。
自嘲だった。
アニは当然何も言わない。
静かなまま。
眠ったまま。
それでも。
訓練兵団の頃なら。
今の言葉を聞いたアニは。
きっとこう言う。
『さぁね』
脳裏に浮かんだ声に、思わず鼻で笑った。
「そればっかだな」
結晶を見る。
「都合悪くなるとすぐそれだ」
返事はない。
だが。
少しだけ。
本当に少しだけ。
訓練兵団の頃みたいな気がした。
もちろん錯覚だ。
アニはそこにいる。
だがいない。
話せる距離にいるのに。
届かない。
それが現実だった。
アスカはゆっくり立ち上がる。
「そろそろ戻るか」
まだ仕事は山ほどある。
ハンジ班も動いている。
壁の中の巨人の件もある。
立ち止まっている暇はない。
出口へ向かう。
数歩進み。
ふと足を止めた。
振り返る。
結晶の中のアニは変わらない。
眠ったままだ。
しばらく見つめる。
そして。
「……また来る」
自然にそう言っていた。
言ってから少し驚く。
何を言っているんだ。
自分でもそう思った。
だが訂正はしなかった。
別にいいか。
そんな気分だった。
アスカは踵を返す。
足音が遠ざかっていく。
やがて地下には静寂だけが残った。
透明な結晶は何も語らない。
だが。
その日を境に。
アスカは時折この場所へ足を運ぶようになる。
地下通路を歩く。
足音だけが響く。
アニの姿はもう見えない。
結晶も。
松明の火も。
全部後ろへ遠ざかっていく。
それなのに。
頭の中には残っていた。
『少なくとも……アンタには死んでほしくなかった』
アスカは小さく舌打ちする。
「だから何なんだよ……」
誰もいない通路へ呟く。
答える人間はいない。
分かっている。
それでも口に出さずにはいられなかった。
地上へ続く階段を上る。
扉を開く。
夕日が差し込んでいた。
眩しさに目を細める。
地下にいたせいか、やけに明るく感じた。
そのまま本部の廊下を歩く。
部屋へ戻るつもりだった。
少し休みたい。
何も考えたくない。
だが。
妙に落ち着かない。
胸の奥に小さな棘が刺さっているような感覚。
理由は分からない。
分かりたくもなかった。
それでも。
頭から離れない。
『全部じゃない』
アニの声が蘇る。
『嘘じゃなかったこともある』
だから何なんだ。
敵なら敵で良かった。
全部嘘だと言われた方が楽だった。
そうすれば割り切れた。
そうすれば憎めた。
そうすれば──。
「いた!!」
突然の声に思考が途切れる。
反射的に顔を上げた。
一人の調査兵がこちらへ走ってきていた。
息が上がっている。
顔色も悪い。
ただ事ではない。
「アスカ!」
「どうしたんですか?」
足を止める。
兵士は壁へ手を付きながら荒い呼吸を繰り返した。
「はぁ……はぁ……!」
よほど急いでいたのだろう。
数秒してようやく呼吸を整える。
「伝令だ!」
嫌な予感がした。
こういう予感は大抵当たる。
「ウォール・ローゼ内に巨人出現!」
アスカの表情が消える。
「……今、何て?」
「ウォール・ローゼ内だ!」
兵士も混乱していた。
「住民避難中! 調査兵団全隊招集命令が出ている!」
数秒。
理解が追い付かなかった。
ローゼ内。
壁内。
今そう言ったか。
「待ってください」
思わず聞き返す。
「壁外じゃなくてですか?」
「違う!」
兵士は首を振った。
「壁内だ!」
沈黙。
アスカはゆっくり目を伏せる。
壁の中の巨人。
ニック司祭。
そして今度はローゼ内の巨人。
嫌な予感しかしない。
「……分かりました」
考えるのは後だ。
今は動く。
「本部ですか?」
「あぁ! 全員集められてる!」
「了解です」
アスカは踵を返した。
嫌な予感を抱えたまま。
本部へ向かって走り出す。