地下に眠るダイヤモンド   作:ニャンニャンコポン

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残された言葉

 

 

 

 

 ストヘス区の壁上は騒然としていた。

 

 壁の側面から覗く巨大な顔。

 

 露出した筋肉。

 

 閉じられた瞼。

 

 そして何より。

 

 それが壁の中に埋まっていたという事実。

 

 誰もが言葉を失っていた。

 

「分隊長……指示を」

 

 モブリットの声で、ようやくハンジが我に返る。

 

「えっ? 何? ちょっと待って」

 

 だが視線は壁から離れない。

 

 あの巨人はたまたまあそこにいたのか。

 

 それとも。

 

 もしそうではないのだとしたら──。

 

 考えがまとまらない。

 

 その時だった。

 

 肩を強く掴まれる。

 

 驚いて振り返ると、そこにはニック司祭がいた。

 

 息を切らしている。

 

 よほど急いでここまで駆け上がってきたのだろう。

 

「……当てるな」

 

 か細い声だった。

 

 ハンジが眉をひそめる。

 

「え?」

 

「あの巨人に日光を当てるな!」

 

 壁上の空気が変わった。

 

「……何だって?」

 

「急げ! 頼む!」

 

 ニックの顔色は真っ青だった。

 

 ただ怯えているだけではない。

 

 確信がある顔だった。

 

 ハンジは再び壁の中の巨人を見上げる。

 

 閉じられた瞼。

 

 動く気配はない。

 

 だが。

 

 その頬の筋肉が僅かに動いたような気がした。

 

 背筋を冷たいものが走る。

 

「モブリット!」

 

「はっ!」

 

「布だ! 帆布でも何でもいい! 壁面を覆え!」

 

 モブリットも即座に動いた。

 

「全員聞いたな! 急げ!」

 

 兵士達が一斉に駆け出す。

 

 倉庫へ向かう者。

 

 ワイヤーを運ぶ者。

 

 杭を持ってくる者。

 

 壁上は瞬く間に慌ただしくなった。

 

 アスカもワイヤーへ手を伸ばす。

 

 事情は分からない。

 

 だがニック司祭は何かを知っている。

 

 それだけは確かだった。

 

 巨大な帆布が運び込まれる。

 

 滑車が組まれ、ワイヤーが固定される。

 

「引け!」

 

 怒号が飛ぶ。

 

 アスカも全身に力を込めた。

 

 重い。

 

 両腕が軋む。

 

 それでも誰一人手を離さない。

 

 風を受けた布が大きく膨らんだ。

 

「もっと右だ!」

 

「固定しろ!」

 

「押さえろ!」

 

 汗を流しながら兵士達が動く。

 

 やがて。

 

 巨大な布が壁面を覆い尽くした。

 

 壁の中の巨人は完全に影へと沈む。

 

 全員が固唾を呑んで見守る。

 

 変化はない。

 

 しばらくして。

 

 ニックが小さく息を吐いた。

 

「……これで大丈夫だ」

 

 その言葉に、逆にアスカは警戒を強める。

 

 ──知っている。

 

 この男は知っている。

 

 そして恐れている。

 

 それほどまでに。

 

 ハンジも同じことを考えたのだろう。

 

 ゆっくりとニックへ向き直った。

 

「さて」

 

 ゴーグル越しの視線がニックを捉える。

 

「そろそろ話してもらいましょうか」

 

 ニックは答えない。

 

 壁面を見下ろしたまま動かない。

 

「この巨人は何ですか?」

 

 沈黙。

 

「なぜ壁の中に巨人がいるんですか?」

 

 風だけが吹く。

 

「そして、なぜ貴方方はそれを黙っていたんですか?」

 

 返答はなかった。

 

 長い沈黙の後。

 

 ニックは壁から目を逸らし、ゆっくり立ち上がる。

 

「私は忙しい」

 

 アスカは目を細めた。

 

 ──来たな。

 

「教会も信者もめちゃくちゃにされた。貴様らのせいだ」

 

 話題逸らし。

 

 しかも下手だ。

 

「後で被害額を請求する」

 

 ──答える気はない。

 

 最初から。

 

「さぁ、私を下に降ろせ」

 

 ハンジが静かに目を閉じる。

 

 そして額へとゴーグルを押し上げた。

 

「……いいですよ」

 

 そう言って笑う。

 

 だが。

 

 アスカは違和感を覚えた。

 

 いつもの笑顔じゃない。

 

 ──怒ってる。

 

 いや。

 

 それだけじゃない。

 

 もっと深い。

 

 長年積み重なった何かがそこにはあった。

 

 次の瞬間。

 

 ハンジがニックの胸倉を掴む。

 

「なっ!?」

 

 そのまま壁の縁まで引きずった。

 

 ニックの身体が大きく仰け反る。

 

 あと一歩押されれば落ちる。

 

「ここからでいいですか?」

 

「分隊長!」

 

 モブリットが思わず声を上げる。

 

 だが。

 

「寄るな」

 

 低い声だった。

 

 壁上の空気が凍り付く。

 

 モブリットも足を止めた。

 

「ふざけるな」

 

 ニックを見据えたまま吐き捨てる。

 

「お前らは知っていたのか?」

 

 風が吹く。

 

「我々調査兵団が何のために血を流しているか」

 

 アスカは黙ってその横顔を見た。

 

 こんな顔は初めて見る。

 

 巨人を前に目を輝かせる変人でもない。

 

 飄々と笑う上官でもない。

 

 調査兵団第四分隊長。

 

 その顔だった。

 

「巨人に奪われた自由を取り戻すためだ」

 

 ニックは黙っている。

 

「そのためなら命だって惜しくなかった」

 

 ハンジの声に怒鳴り声のような激しさはない。

 

 だが、その静けさが余計に恐ろしかった。

 

「何百人も死んだ」

 

 壁の向こうを見据える。

 

「何千人も死んだ」

 

 握る手に力が入る。

 

 ニックの身体がさらに壁の外へ傾いた。

 

「それでも前に進んだ」

 

 調査兵団の誰も口を挟まない。

 

 モブリットも。

 

 アスカも。

 

 皆同じ気持ちだった。

 

「お願いはしてない」

 

 ハンジの声が低くなる。

 

「命令したんだ。話せと」

 

 ニックの額に汗が浮かぶ。

 

「お前が無理なら次だ」

 

 さらに一歩。

 

 ニックの踵が壁の縁から浮いた。

 

「何にせよ」

 

 ハンジが言う。

 

「お前一人の命じゃ足りないと思っている」

 

「手を……離せ!」

 

 ニックが叫ぶ。

 

 アスカは目を細めた。

 

 ──虚勢か? 

 

 そう思った。

 

 だが違う。

 

 恐怖はある。

 

 だが覚悟もある。

 

 震えているのに、折れてはいない。

 

「今、離していいか?」

 

 静かな問いだった。

 

 ニックは息を呑む。

 

 そして。

 

「今だ!」

 

 叫んだ。

 

 壁上の空気が凍り付く。

 

 モブリットが目を見開いた。

 

 アスカも思わずニックを見る。

 

 ハンジの目が細くなる。

 

「……分かった」

 

 低い声。

 

「死んでもらおう」

 

「分隊長!」

 

 モブリットが一歩踏み出す。

 

 だが止まる。

 

 止められない。

 

 ニックは目を閉じた。

 

「私を殺して学ぶがいい!」

 

 声が震える。

 

 それでも叫ぶ。

 

「我々は必ず使命を全うする!」

 

 風が吹く。

 

 マントが揺れる。

 

「だから……今!」

 

 握り締めた拳が白くなる。

 

「この手を離せ!!」

 

 誰も動かない。

 

 誰も喋らない。

 

 壁上を沈黙が支配した。

 

「か……み……さ……ま……」

 

 掠れた声が漏れる。

 

 その時だった。

 

「……ハンジさん」

 

 アスカが口を開く。

 

 呼び掛けただけだった。

 

 それだけだった。

 

 だが。

 

 ハンジは大きく息を吐いた。

 

「はぁ……」

 

 肩の力が抜ける。

 

 次の瞬間。

 

 ニックの身体を反対側へ放り投げた。

 

「うわぁっ!?」

 

 無様な悲鳴を上げながら転がるニック。

 

 ハンジは壁の縁に腰を下ろした。

 

「ハハッ」

 

 ゴーグルを掛け直す。

 

「ウソウソ。冗談」

 

 先程までの空気が嘘のようだった。

 

 だが。

 

 誰も笑わない。

 

 ニックは地面にへたり込み、荒い呼吸を繰り返している。

 

 ハンジはしばらく何も言わなかった。

 

 ただ壁の外を見ている。

 

 やがて。

 

「ねぇ、ニック司祭」

 

 返事はない。

 

「壁って全部、巨人で出来てるの?」

 

 モブリットの眉が僅かに動いた。

 

 長い付き合いだ。

 

 だから分かる。

 

 今のハンジがおかしいことに。

 

「あー……」

 

 ハンジは頭を掻いた。

 

「いつの間にか忘れてたよ」

 

 空を見上げる。

 

 雲が流れている。

 

「こんなの」

 

 壁の中の巨人。

 

 存在するはずのない存在。

 

 守ってくれていたはずの壁。

 

 その前提が崩れた。

 

「初めて壁の外に出た時以来の感覚だ」

 

 アスカも壁を見た。

 

 ただの巨人なら怖くない。

 

 訓練兵時代とは違う。

 

 今なら分かる。

 

 殺せる。

 

 戦える。

 

 生き残れる。

 

 だが。

 

 これは違う。

 

 巨人から守ってくれていた壁。

 

 その中に巨人がいた。

 

 知っていた世界が音を立てて崩れていく。

 

 理解が追いつかない。

 

「怖いなぁ」

 

 ぽつりと呟く。

 

 誰も笑わない。

 

 誰も否定しない。

 

 風だけが吹く。

 

 遮光布が微かに揺れた。

 

「でもさ」

 

 ハンジは壁の向こうを見たまま続ける。

 

「知らないままの方が、もっと怖い」

 

 アスカは黙っていた。

 

 ──怖い。

 

 確かにそうだ。

 

 知らないことを知るのは怖い。

 

 真実を知るのは怖い。

 

 けれど。

 

 知らないまま生きるのは。

 

 もっと怖いのかもしれない。

 

 初めて。

 

 アスカは少しだけ理解した気がした。

 

 この人がなぜ調査兵団にいるのかを。

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 調査兵団本部へ戻る頃には、日が傾き始めていた。

 

 壁の中の巨人。

 

 ニック司祭。

 

 ハンジの言葉。

 

 頭の中で整理しようとしても上手くいかない。

 

 考えれば考えるほど分からなくなる。

 

 だからアスカは考えるのをやめた。

 

 今は目の前のことだ。

 

 歩きながら廊下の窓を見る。

 

 ストヘス区はまだ混乱の最中にあった。

 

 瓦礫の撤去。

 

 負傷者の搬送。

 

 兵士達の怒号。

 

 あちこちから聞こえてくる。

 

 その光景を見ながら、一つの部屋の前で足を止めた。

 

 ノックはしない。

 

 扉を開ける。

 

 病室だった。

 

 ベッドの上にエレンがいる。

 

 全身に包帯が巻かれていた。

 

 起きてはいる。

 

 だが天井を見つめたまま動かない。

 

 扉の音でようやく視線が向いた。

 

「……生きてたな」

 

 先に口を開いたのはエレンだった。

 

 アスカは鼻で笑う。

 

「お前もな」

 

 それだけ。

 

 また沈黙が落ちる。

 

 窓の外から聞こえる騒音だけが部屋に流れていた。

 

「身体は」

 

「そのうち治る」

 

「そうか」

 

 会話が続かない。

 

 互いに言いたいことはある。

 

 だが上手く言葉にならない。

 

 しばらくして。

 

 エレンが拳を握った。

 

「アニは」

 

 アスカは目を伏せる。

 

「結晶の中だ」

 

 拳に力が入る。

 

「……そうか」

 

 エレンはそれ以上何も言わなかった。

 

 言えなかったのかもしれない。

 

 あの時。

 

 女型の巨人のうなじに噛み付いた感触。

 

 結晶化するアニ。

 

 自分を制御出来なかったこと。

 

 色々なものが残っているはずだ。

 

「何があったんだ」

 

 ぽつりとエレンが呟く。

 

「何が?」

 

「俺だよ」

 

 視線が天井へ戻る。

 

「最後……よく覚えてねぇ」

 

 アスカは黙った。

 

 覚えている。

 

 狂ったように女型へ食らいついていた。

 

 まるで何かに取り憑かれたように。

 

 だが。

 

 それを今ここで言うべきかは分からない。

 

「……勝ったんだろ」

 

 だから別の答えを返した。

 

 エレンが少しだけ笑う。

 

「そうだな」

 

 勝った。

 

 結果だけ見ればそうだ。

 

 だが。

 

 その代償はあまりにも大きかった。

 

 再び沈黙が落ちる。

 

 その時だった。

 

「失礼するよ」

 

 扉が開く。

 

 アルミンだった。

 

 その後ろにはミカサもいる。

 

 アスカの姿を見て少しだけ表情を和らげた。

 

「アスカ」

 

「よう」

 

 軽く手を上げる。

 

 アルミンはエレンの様子を確認し、ほっと息を吐いた。

 

「良かった。起きてたんだね」

 

「寝てろって言われても無理だろ」

 

 エレンが言う。

 

 ミカサは無言のままベッドの横へ移動した。

 

 相変わらずだ。

 

 アスカは少し口元を緩める。

 

「何だよ」

 

「別に」

 

 エレンが怪訝そうな顔をする。

 

 ミカサは気にしない。

 

 本当にいつも通りだった。

 

 それが少しだけ安心出来る。

 

 アルミンは椅子へ腰を下ろした。

 

 しかしその表情はどこか沈んでいる。

 

 アスカは気付いた。

 

「考え事か」

 

 アルミンが視線を上げる。

 

「ああ……うん」

 

 少し迷う。

 

 そして口を開いた。

 

「壁の中の巨人」

 

 やはりその話だった。

 

「ハンジさんから聞いた」

 

 エレンも眉をひそめる。

 

「意味分かんねぇよな」

 

「うん」

 

 アルミンは頷く。

 

「でも」

 

 そこで言葉を選ぶように止まった。

 

「もし壁が巨人と関係しているなら」

 

 病室の空気が変わる。

 

「今まで僕達が信じていたこと全部が変わるかもしれない」

 

 誰も答えない。

 

 窓の外から風が吹き込む。

 

 アスカはニック司祭の顔を思い出した。

 

 あの怯えた表情。

 

 そして。

 

 ハンジの言葉。

 

 ──知らないままの方が、もっと怖い。

 

 あれが頭から離れなかった。

 

「面倒臭ぇ話だな」

 

 エレンが吐き捨てる。

 

 アルミンが苦笑した。

 

「それは同感かな」

 

 少しだけ空気が軽くなる。

 

 そんな中。

 

 ずっと黙っていたミカサが口を開いた。

 

「それでも進むしかない」

 

 三人が視線を向ける。

 

 ミカサは真っ直ぐだった。

 

「壁の中に巨人がいても」

 

 迷いなく続ける。

 

「敵が何であっても」

 

 そして。

 

 隣のエレンを見る。

 

「やることは変わらない」

 

 エレンが小さく笑った。

 

「違ぇねぇ」

 

 病室の空気が少しだけ和らぐ。

 

 アスカは壁に背中を預けながらそれを見ていた。

 

 ──相変わらずだな。

 

 そう思う。

 

 少しだけ羨ましくもあった。

 

 この三人は。

 

 どれだけ状況が変わっても。

 

 根っこの部分は変わらない。

 

 だから強いのかもしれない。

 

 しばらくして病室を後にする。

 

 扉を閉める直前。

 

 エレンがこちらを見た。

 

「アスカ」

 

「あ?」

 

「……ありがとな」

 

 何についてかは言わない。

 

 聞かない。

 

 アスカは片手を上げるだけだった。

 

「次はもっと早く起きろ」

 

 扉が閉まる。

 

 廊下に静寂が戻った。

 

 そしてその先。

 

 窓際にもたれながら待っていた人物がいた。

 

 ジャンだった。

 

 アスカの姿を見つけると、小さく顎を上げる。

 

「終わったか」

 

「何がだ」

 

「お見舞いだよ」

 

 そう言って壁から背中を離す。

 

 アスカは鼻を鳴らした。

 

「お前も入れば良かっただろ」

 

「遠慮しといた」

 

 即答だった。

 

「何だそれ」

 

「別に」

 

 ジャンは窓の外を見る。

 

 ストヘス区の街並み。

 

 崩れた建物。

 

 忙しなく動く兵士達。

 

 少しの沈黙。

 

 先に口を開いたのはジャンだった。

 

「結局よ」

 

「?」

 

「アニだったんだな」

 

 その声は妙に静かだった。

 

 怒っている訳でもない。

 

 悲しんでいる訳でもない。

 

 ただ事実を確かめるような声だった。

 

「……あぁ」

 

 アスカも短く返す。

 

 ジャンが苦笑する。

 

「全然気付かなかった」

 

 窓の外へ視線を向けたまま続ける。

 

「マルコなら気付いてたのかもな」

 

 その名前が出た瞬間。

 

 空気が少しだけ重くなる。

 

 アスカは黙った。

 

「アイツはよ」

 

 ジャンが小さく笑う。

 

「人を見るのだけは本当に上手かったよな」

 

 それには同意だった。

 

 訓練兵団の頃からそうだった。

 

 誰が何を考えているのか。

 

 誰が何に悩んでいるのか。

 

 不思議なくらい察する奴だった。

 

「お前のことも買ってたぞ」

 

 ジャンが言う。

 

「は?」

 

「忘れたのか」

 

 呆れたような顔を向けてくる。

 

「訓練兵団の頃だよ」

 

 アスカは視線を逸らした。

 

 忘れていた訳じゃない。

 

 むしろ覚えている。

 

 だから反応に困る。

 

「アスカは案外人を見る、ってな」

 

 マルコらしい言葉だった。

 

 人を見るのが上手い奴だからこそ、そんなことを言ったのだろう。

 

「……アイツは人を褒め過ぎなんだよ」

 

 そう返すのが精一杯だった。

 

 ジャンが吹き出す。

 

「お前な」

 

「何だよ」

 

「照れてんのか?」

 

「うるせぇ」

 

 即答だった。

 

 ジャンは肩を震わせて笑う。

 

 そのやり取りだけで、少しだけ空気が軽くなった。

 

 だが。

 

「でも」

 

 ジャンは再び窓の外へ視線を向けた。

 

「アニか」

 

 静かな声だった。

 

「正直まだ信じられねぇ」

 

 アスカも同じだった。

 

 理屈では理解している。

 

 だが感情が追いついていない。

 

「なぁ」

 

 ジャンが言う。

 

「お前はどうなんだ」

 

「何が」

 

「アニだよ」

 

 視線が向く。

 

「止めたかったんだろ」

 

 アスカは少しだけ黙った。

 

 そして。

 

「……あぁ」

 

 認める。

 

 否定する理由もない。

 

 ジャンは小さく頷いた。

 

「だろうな」

 

 それ以上は聞かない。

 

 理由も。

 

 感情も。

 

 踏み込まない。

 

 ただ受け止める。

 

 それがジャンだった。

 

 しばらくして。

 

「まぁ」

 

 ジャンが息を吐く。

 

「死んでなくて良かったじゃねぇか」

 

 アスカが眉をひそめる。

 

「結晶の中だぞ」

 

「それでもだ」

 

 ジャンは即答した。

 

「まだ死んでねぇ。聞きたいことも沢山あるしな」

 

 その言葉に。

 

 アスカは少しだけ目を伏せた。

 

 確かにそうだ。

 

 少なくとも。

 

 まだ終わってはいない。

 

「お前さ」

 

 ジャンが笑う。

 

「昔からそういう顔するよな」

 

「どんな顔だ」

 

「考え込み過ぎてる顔」

 

 アスカは舌打ちした。

 

 ジャンがまた吹き出す。

 

「図星か」

 

「うるせぇ」

 

「ハハッ」

 

 短い笑い声。

 

 そして。

 

 少しだけ真面目な顔になる。

 

「なぁ」

 

「今度は何だ」

 

「死ぬなよ」

 

 アスカは一瞬だけ言葉を失った。

 

 ジャンは窓の外を見たままだ。

 

 こちらを見ない。

 

 気恥ずかしいのだろう。

 

「俺はお前みたいに強くねぇ」

 

 そう言う。

 

「だからよ」

 

 少しだけ笑った。

 

「お前までいなくなると困る」

 

 アスカは数秒黙った。

 

 それから。

 

「お前もな」

 

 短く返す。

 

 ジャンは鼻で笑った。

 

「善処する」

 

「兵長に言ったら蹴られるぞ」

 

「知るか」

 

 そんなやり取りを交わしながら。

 

 二人は並んで窓の外を見た。

 

 ストヘス区はまだ騒がしい。

 

 だが。

 

 ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。

 

 ──仲間か。

 

 ふとそんなことを思う。

 

 そして同時に。

 

 アニの顔が脳裏を過った。

 

 考えるのをやめるように目を閉じる。

 

 その時。

 

「おい」

 

 聞き慣れた低い声がした。

 

 二人が振り返る。

 

 廊下の先。

 

 腕を組んだリヴァイが立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 相変わらず仏頂面だ。

 

 ジャンが反射的に姿勢を正す。

 

「兵長」

 

「チッ」

 

 返ってきたのは舌打ちだった。

 

「暇そうだな」

 

「暇じゃありません」

 

 即答するジャン。

 

 リヴァイは興味なさそうに視線を逸らした。

 

 そしてアスカを見る。

 

「お前だ」

 

「何ですか」

 

「少し来い」

 

 短い。

 

 理由も説明しない。

 

 それだけ言うと踵を返して歩き始めた。

 

 アスカはジャンと顔を見合わせる。

 

「……何かやらかしたか?」

 

「いや……あ。単独行動の件かな」

 

「あぁ……。ご愁傷様」

 

「ふざけんな」

 

 ジャンの軽口を背に、アスカはリヴァイの後を追った。

 

 しばらく無言で歩く。

 

 石造りの廊下。

 

 窓から差し込む夕日。

 

 足音だけが響いていた。

 

 やがて人気の少ない場所まで来たところで、リヴァイが足を止める。

 

 振り返らない。

 

 窓の外を見たまま口を開いた。

 

「傷はどうだ」

 

「問題ありません」

 

「嘘つけ」

 

 即座に返される。

 

 アスカは肩を竦めた。

 

「まぁ多少は」

 

「そうか」

 

 それで終わりだった。

 

 会話が続かない。

 

 だが不思議と気まずくはない。

 

 しばらくして。

 

 リヴァイが窓の外を見たまま言った。

 

「お前」

 

「?」

 

「無茶が増えたな」

 

 アスカは少しだけ黙る。

 

 思い当たる節はあった。

 

 女型との戦い。

 

 市街地での追撃。

 

 壁際での突撃。

 

 どれも冷静だったとは言い難い。

 

「はは。やっぱりそれですよね」

 

「そうだ」

 

 即答だった。

 

「お前は……もっと自分の命を勘定に入れてもいいんじゃねぇか」

 

 言われてみればそうかもしれない。

 

 地下街では常にそうしていた。

 

 死ねば終わり。

 

 だから生き残るために動く。

 

 それが当たり前だった。

 

「兵長はどうなんですか」

 

 アスカが聞く。

 

 リヴァイの眉が僅かに動いた。

 

「何がだ」

 

「昔と比べて」

 

 少し考える。

 

「変わりました?」

 

 数秒。

 

 沈黙。

 

 やがてリヴァイは鼻で笑った。

 

「知らねぇな」

 

 本当に興味がなさそうだった。

 

 だが。

 

 アスカには分かった。

 

 嘘ではない。

 

 本当に分からないのだ。

 

 変わったかもしれないし。

 

 変わっていないかもしれない。

 

 そんな返答だった。

 

「一つだけ言っとく」

 

 リヴァイが言う。

 

「はい」

 

「死ぬな」

 

 短い言葉だった。

 

 だが重い。

 

 アスカは思わず笑った。

 

「善処します」

 

 その瞬間。

 

 鈍い衝撃が後頭部に飛んできた。

 

「痛っ!」

 

 振り返る。

 

 リヴァイの蹴りではなかった。

 

 ただの手刀だ。

 

 それでも十分痛い。

 

「善処じゃねぇ」

 

 低い声。

 

「生きろ」

 

 それだけだった。

 

 リヴァイは再び歩き出す。

 

 話は終わりらしい。

 

 アスカは頭を擦りながらその背中を見る。

 

 ──生きろ、か。

 

 簡単に言う。

 

 だが。

 

 あの男が言うと妙に重かった。

 

 リヴァイの過去のことをアスカは知らない。

 

 リヴァイ班の全員が死んだ時の気持ちも知らない。

 

 それでも。

 

 あの言葉の裏に何かがあることくらいは分かった。

 

 だから何も言わない。

 

「おい」

 

 歩きながらリヴァイが呼ぶ。

 

「何ですか」

 

「地下へ行くんだろ」

 

 アスカは足を止めた。

 

「……何で分かったんですか」

 

 リヴァイが振り返る。

 

 その目は呆れていた。

 

「顔だ」

 

 それだけ言う。

 

「終わったら報告しろ」

 

 そして今度こそ去っていった。

 

 一人残される。

 

 静かな廊下。

 

 夕日が差し込んでいる。

 

 アスカはしばらくその場に立っていた。

 

 ──顔に出てたか。

 

 小さく息を吐く。

 

 向かう先は決まっている。

 

 地下。

 

 ストヘス区の地下深く。

 

 結晶の中で眠り続ける少女のもとへ。

 

 聞きたいことがある。

 

 山ほどある。

 

 だが。

 

 答えが返ってくることはない。

 

 それでも。

 

 行かなければならない気がした。

 

 アスカは歩き出す。

 

 薄暗い地下通路へと続く階段に向かって。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 地下へ続く階段を降りる。

 

 石段を踏む度に足音が響いた。

 

 調査兵団本部の喧騒はもう聞こえない。

 

 上では兵士達が慌ただしく動いているはずだった。

 

 壁の中の巨人。

 

 ニック司祭。

 

 ストヘス区の復旧。

 

 やるべきことはいくらでもある。

 

 それなのに。

 

 アスカは地下へ向かっていた。

 

 自分でも理由は上手く説明できない。

 

 行かなければならない気がした。

 

 ただそれだけだった。

 

 階段を降り切る。

 

 薄暗い通路。

 

 揺れる松明。

 

 冷たい空気。

 

 見張りの兵士が敬礼する。

 

 軽く手を上げて応じる。

 

 そして。

 

 足が止まった。

 

 透明な結晶。

 

 その中心にアニがいた。

 

 変わらない。

 

 本当に何一つ変わらない。

 

 まるで時間だけが止まったみたいだった。

 

 ストヘス区で見た時と同じ顔。

 

 訓練兵団の頃と変わらない顔。

 

 少し眠そうで。

 

 少し不機嫌そうで。

 

 今にも目を開けそうだった。

 

 だが。

 

 開かない。

 

 返事もしない。

 

 動きもしない。

 

 それが現実だった。

 

 アスカはしばらく立ち尽くした。

 

 何を言うつもりだったのか。

 

 ここへ来る途中までは覚えていたはずなのに。

 

 顔を見た途端、全部どこかへ消えてしまった。

 

「……お前さ」

 

 ようやく出た言葉だった。

 

「ズルいよな」

 

 結晶へ近付く。

 

 当然返事はない。

 

 分かっている。

 

 それでも続けた。

 

「言うだけ言って寝やがって」

 

 苦笑する。

 

 頭の中に浮かぶ。

 

『少なくとも……アンタには死んでほしくなかった』

 

 思い出すだけで胃が重くなる。

 

「意味分かんねぇんだよ」

 

 壁にもたれるように結晶へ背中を預ける。

 

 冷たい。

 

 やけに冷たかった。

 

「敵なら敵で良かった」

 

 ぽつりと呟く。

 

「全部嘘だったって言われた方が楽だった」

 

 あの時。

 

 そう言われていたら。

 

 きっと今より楽だった。

 

 憎めた。

 

 斬れた。

 

 割り切れた。

 

 なのに。

 

『全部じゃない』

 

 アニはそう言った。

 

 迷いなく。

 

 嘘を吐く顔じゃなかった。

 

「余計分かんなくなった」

 

 天井を見上げる。

 

 松明の火が揺れている。

 

 静かだった。

 

「俺はさ」

 

 言葉が続く。

 

 返事が来ないからかもしれない。

 

 誰にも聞かれないと思うと不思議と口が軽くなる。

 

「結構本気で考えてたんだ」

 

 目を閉じる。

 

「何か理由があるんじゃねぇかって」

 

 女型の森。

 

 巨大樹。

 

 握り潰されそうになった瞬間。

 

 ストヘス区。

 

 何度も思い出した。

 

「何で俺を殺さなかったのか」

 

 答えは出なかった。

 

「なのに」

 

 小さく笑う。

 

「お前は分からないって言うんだからな」

 

 それが一番困る。

 

 嘘でもいい。

 

 理由を言われた方がまだ納得できた。

 

 だがアニはそうしなかった。

 

 本当に分からない顔をしていた。

 

 だから。

 

 今も引っ掛かっている。

 

 それが一番困る。

 

 嘘でもいい。

 

 理由を言われた方がまだ納得できた。

 

 だがアニはそうしなかった。

 

 本当に分からない顔をしていた。

 

 だから。

 

 今も引っ掛かっている。

 

 アスカは長く息を吐いた。

 

「まぁ」

 

 頭を掻く。

 

「今聞いても仕方ねぇか」

 

 目の前にいるアニは何も答えない。

 

 当然だ。

 

 結晶の中なのだから。

 

 聞こえているはずもない。

 

 そう思っている。

 

 だから少しだけ気が楽だった。

 

 しばらく沈黙が続く。

 

 地下は静かだった。

 

 松明の火が小さく揺れる音だけが聞こえる。

 

 アスカは結晶へ背中を預けたまま天井を見上げた。

 

「壁の中に巨人がいた」

 

 ぽつりと呟く。

 

 自分でも唐突だと思った。

 

 だが構わず続ける。

 

「意味分かるか?」

 

 苦笑する。

 

「俺は分からん」

 

 ニック司祭。

 

 ハンジ。

 

 壁の中の顔。

 

 思い出すだけで頭が痛くなる。

 

「お前なら何か知ってそうだけどな」

 

 返事はない。

 

 アスカは肩を竦めた。

 

「まぁ聞いても無駄か」

 

 沈黙。

 

 少しして。

 

「エレンも起きたぞ」

 

 今度は自然に言葉が出た。

 

「相変わらずだった」

 

 少し笑う。

 

「ボロボロのくせに動こうとするし」

 

 呆れたように言う。

 

「ミカサはそれ見て怒るし」

 

 訓練兵団の頃から変わらない。

 

 本当に変わらない。

 

「アルミンはまた考え込んでたな」

 

 少しだけ目を閉じる。

 

「ジャンは──」

 

 そこで止まる。

 

 少し考えて。

 

「まぁジャンもジャンだった」

 

 思わず笑った。

 

 本人がいたら文句を言われそうだ。

 

 地下に小さな笑い声が響く。

 

 そして。

 

 ふと気付く。

 

 何をしているんだろうな、と。

 

 アスカは天井を見上げたまま固まった。

 

 返事の返らない相手に。

 

 同期の話をしている。

 

 意味なんてない。

 

 意味なんてないはずだ。

 

 なのに。

 

 不思議と嫌じゃなかった。

 

 むしろ。

 

 少しだけ気が楽になっている。

 

 それが余計に意味が分からない。

 

「……何やってんだろうな、俺」

 

 小さく笑う。

 

 自嘲だった。

 

 アニは当然何も言わない。

 

 静かなまま。

 

 眠ったまま。

 

 それでも。

 

 訓練兵団の頃なら。

 

 今の言葉を聞いたアニは。

 

 きっとこう言う。

 

『さぁね』

 

 脳裏に浮かんだ声に、思わず鼻で笑った。

 

「そればっかだな」

 

 結晶を見る。

 

「都合悪くなるとすぐそれだ」

 

 返事はない。

 

 だが。

 

 少しだけ。

 

 本当に少しだけ。

 

 訓練兵団の頃みたいな気がした。

 

 もちろん錯覚だ。

 

 アニはそこにいる。

 

 だがいない。

 

 話せる距離にいるのに。

 

 届かない。

 

 それが現実だった。

 

 アスカはゆっくり立ち上がる。

 

「そろそろ戻るか」

 

 まだ仕事は山ほどある。

 

 ハンジ班も動いている。

 

 壁の中の巨人の件もある。

 

 立ち止まっている暇はない。

 

 出口へ向かう。

 

 数歩進み。

 

 ふと足を止めた。

 

 振り返る。

 

 結晶の中のアニは変わらない。

 

 眠ったままだ。

 

 しばらく見つめる。

 

 そして。

 

「……また来る」

 

 自然にそう言っていた。

 

 言ってから少し驚く。

 

 何を言っているんだ。

 

 自分でもそう思った。

 

 だが訂正はしなかった。

 

 別にいいか。

 

 そんな気分だった。

 

 アスカは踵を返す。

 

 足音が遠ざかっていく。

 

 やがて地下には静寂だけが残った。

 

 透明な結晶は何も語らない。

 

 だが。

 

 その日を境に。

 

 アスカは時折この場所へ足を運ぶようになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 地下通路を歩く。

 

 足音だけが響く。

 

 アニの姿はもう見えない。

 

 結晶も。

 

 松明の火も。

 

 全部後ろへ遠ざかっていく。

 

 それなのに。

 

 頭の中には残っていた。

 

『少なくとも……アンタには死んでほしくなかった』

 

 アスカは小さく舌打ちする。

 

「だから何なんだよ……」

 

 誰もいない通路へ呟く。

 

 答える人間はいない。

 

 分かっている。

 

 それでも口に出さずにはいられなかった。

 

 地上へ続く階段を上る。

 

 扉を開く。

 

 夕日が差し込んでいた。

 

 眩しさに目を細める。

 

 地下にいたせいか、やけに明るく感じた。

 

 そのまま本部の廊下を歩く。

 

 部屋へ戻るつもりだった。

 

 少し休みたい。

 

 何も考えたくない。

 

 だが。

 

 妙に落ち着かない。

 

 胸の奥に小さな棘が刺さっているような感覚。

 

 理由は分からない。

 

 分かりたくもなかった。

 

 それでも。

 

 頭から離れない。

 

『全部じゃない』

 

 アニの声が蘇る。

 

『嘘じゃなかったこともある』

 

 だから何なんだ。

 

 敵なら敵で良かった。

 

 全部嘘だと言われた方が楽だった。

 

 そうすれば割り切れた。

 

 そうすれば憎めた。

 

 そうすれば──。

 

「いた!!」

 

 突然の声に思考が途切れる。

 

 反射的に顔を上げた。

 

 一人の調査兵がこちらへ走ってきていた。

 

 息が上がっている。

 

 顔色も悪い。

 

 ただ事ではない。

 

「アスカ!」

 

「どうしたんですか?」

 

 足を止める。

 

 兵士は壁へ手を付きながら荒い呼吸を繰り返した。

 

「はぁ……はぁ……!」

 

 よほど急いでいたのだろう。

 

 数秒してようやく呼吸を整える。

 

「伝令だ!」

 

 嫌な予感がした。

 

 こういう予感は大抵当たる。

 

「ウォール・ローゼ内に巨人出現!」

 

 アスカの表情が消える。

 

「……今、何て?」

 

「ウォール・ローゼ内だ!」

 

 兵士も混乱していた。

 

「住民避難中! 調査兵団全隊招集命令が出ている!」

 

 数秒。

 

 理解が追い付かなかった。

 

 ローゼ内。

 

 壁内。

 

 今そう言ったか。

 

「待ってください」

 

 思わず聞き返す。

 

「壁外じゃなくてですか?」

 

「違う!」

 

 兵士は首を振った。

 

「壁内だ!」

 

 沈黙。

 

 アスカはゆっくり目を伏せる。

 

 壁の中の巨人。

 

 ニック司祭。

 

 そして今度はローゼ内の巨人。

 

 嫌な予感しかしない。

 

「……分かりました」

 

 考えるのは後だ。

 

 今は動く。

 

「本部ですか?」

 

「あぁ! 全員集められてる!」

 

「了解です」

 

 アスカは踵を返した。

 

 嫌な予感を抱えたまま。

 

 本部へ向かって走り出す。

 

 

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