〇桐生院光一郎とは
桐生院光一郎(1889年5月1日~1980年11月1日)は旧日本軍(大日本帝国陸軍)の元軍人であり、18代目桐生院家当主。
先進的な考えを持っていて多くの投資を成功させ、日本初のゲーム開発会社を作った人である。
最終階級は陸軍少将。
補給と駆兵運用について優れた軍人であり投資家。
ウマ娘レースと人材発掘が趣味の人。
〇概要
一言で彼を表現するならば「ウマ娘の守護者」と呼ばれている。他にも「世界一のウマ娘狂い」というのがある。
幼い頃は神童と呼ばれ、4歳の頃から勉強熱心だったという。
特に歴史に関しては強い興味を示し、日本史から世界史まで幅広く、そして深く学んだともいう。
その中で最も勉強していたのがウマ娘に関することだ。
幼い頃からウマ娘に囲まれ、添い寝もしてもらっている全男子があこがれるハーレム生活をしていた。
その影響で日本だけでなく、世界各地のウマ娘に関するグッズや書籍、サインなどを収集している。
ウマ娘関連だけで桐生院資料館を作っている。作った理由は家や倉庫だけで保存しきれなくて妻と愛人たちに怒られたからだそうだ。
この桐生院資料館は増築を続け、今にいたるまでのウマ娘の資料を集め続けている。
勲等や勲章は日本だけでなく、イギリスやフランスからももらっている。
ウマ娘レースの普及、突飛な兵器開発、先進的ファッションの発想で有名。
医学に関する理解が高く、兵器開発では複数の兵器を開発や助言をしている。
このため異世界から来た、前世があると言われても信じられそうなぐらいに発想の自由度が高い。
〇幼少期から軍学校まで
森林太郎と共に脚気を治す食べ物、玄米とその元である米ぬかを発見。
飛行機の開発者、二宮忠八の作った模型に興味を持って資金援助をして飛行機が開発された。
これらは日露戦争で役に立った。
日本で初めてマスクメロンを食べ、その味に感激して自身でメロンパンを作っている。
このメロンパンは親を通じて販売されて強い人気が出ている。
またオムライスも開発し、陸軍で採用された。今では日本全国に普及されて家庭の味となっている。
軍学校では生涯の友となる秋山好古と出会い、ウマ娘愛をさらに爆発させている。
岩崎家がイギリスから小岩井農場に呼んだウマ娘を、桐生院家がウマ娘指導のために派遣してもらった関係で三菱財閥とも縁ができている。
〇第一次世界大戦あたり
日本はイギリスがいる連合国側として参戦。
このときに光一郎は派遣され、フランス戦線で色々としている。
賭けで負けてイギリスウマ娘に切り詰めた20mm対物小銃を渡し、軍から怒られた。
フランスウマ娘相手には似顔絵や立ち姿を描いた絵と交換に様々な物資を手に入れる。その絵はココ・シャネルの手に渡り、死ぬまでシャネルに付き合わされファッションの流行を作り出している。
敗戦国となったドイツ、オーストリア=ハンガリーから亡命してきた一部の人を桐生院家で受け入れている。
日本に戻ってからは酒の席で海軍技術者と話し合って噴進式魚雷を開発し、日本海軍に大きな影響を与えた。
1922年には結婚し、4人の愛人ウマ娘を持つ。
その3年後の1925年には妻との間に初めての子供が生まれている。これ以降愛人ウマ娘との間に子供を作るようになる。
関東大震災には偶然にも神奈川で訓練をしていたため、部隊と共に救助活動をした。
そのときに被災した人たちのために駆兵部隊のウマ娘たちでレースをして、喜ばせている。
1926年にはハンガリーウマ娘を『白雪』と改名して昭和天皇の終生の友となった。
昭和天皇は白雪を育てた光一郎と会い、白雪と一緒に3人で写真を撮っている。
世界恐慌が起きたときには以前買っていた株を売り、儲けている。
少し時間がたった頃にはアメリカでたくさんの買い物をし、ウマ娘やウマ娘に関係する人たちを呼び寄せて日本の技術力向上をしてもらった。
このとき、親に捨てられた幼いシービスケットもついてきていて日本で練習をしてアメリカに戻ったときは大活躍をした。
〇第二次世界大戦あたり
関東軍が勝手に戦闘をして1932年に中国大陸にある満州を国として独立させたことで光一郎は怒った。
石原
この言葉が効いたのか、中国を統一させないようそれぞれの軍閥に対して日本は武器輸出で儲けている。
中国に関連してアメリカや連合国と関係が悪化し、アメリカから石油輸出停止をされたあとに解除条件を突き付けられて、じっくりと交渉をせずに連合国と開戦をしている。
光一郎はビルマ攻略戦を終えたあとに指揮官の牟田口廉也と言い争い、インドを攻めるか攻めないかで揉めている。
この間に日本海軍がイギリスの東洋艦隊や本国艦隊の一部、海上補給線をつぶす大活躍の結果、イギリスと和平をしてインド侵攻のインパール作戦は中止となっている。
マリアナ沖海戦で日本が勝ったあとにアメリカと停戦。
だがルーズベルト大統領がアメリカ有利なものを望んだため和平交渉は進まず、和平がなる間までの軍の暴走防止のため光一郎が非暴力的な勝負をして両軍を抑えようと努力した。
その結果が硫黄島で日米の陸軍によるウマ娘コースを建設してのレースである。
第一次世界大戦時に起きたクリスマス休戦のような、穏やかな感じだったらしい。その理由としては日本とアメリカの陸軍による戦闘の回数は少なかったこと。
アメリカに批判が強すぎる兵士は除いて連れていったため。
アメリカ側はシービスケットやコウイチ焼き(お好み焼き)の影響で多少ながら日本と光一郎を知っていた者がいたからだ。
硫黄島でコースを作り、将官が勝敗で賭け事をしてレースをやっている間に和平がなった。
1944年にアメリカの大統領選挙でルーズベルト大領領が負けてトマス・E・デューイが勝利し、日本と和平を結んだ。
日本がイギリスとアメリカの戦力を削った結果、ドイツが快進撃を続けてソ連のモスクワやバクー油田の陥落。
交通事故でスターリンを亡くしたソ連がウラル山脈で必死の防衛をしているときに、アメリカやイギリスがドイツに対して日本の参戦を頼み込んだ。
日本は中国に関して苦情を言わないことやソ連領土の一部侵略、物資提供や金銭を要求する条件を突き付けて了承された。
そして軍をヨーロッパへと派遣。イタリアは中東とアフリカに部隊が分散していたため、日本海軍が頑張ったあとに連合軍が一気に上陸して降伏させることができた。
対ドイツではイギリスへ行った部隊の中に光一郎は入っている。
イギリスでフランス上陸のために訓練と準備を重ねているとき、光一郎は休暇のときは当然のようにイギリス各地のウマ娘レース場へと行っている。
戦時中のため、大部分のレースが中止となっていたのを悔しがっていたが、イギリスのトリプルティアラを取ったサンチャリオットというウマ娘と出会った。
サンチャリオットは光一郎の話を聞いたことがあり、写真を撮って欲しいというお願いを聞いて翌日ならOKと言われた。
その写真にはサンチャリオットと親友であるイギリス国王ジョージ6世も写っている。
イギリスで訓練と準備を終え、光一郎はオーヴァーロード作戦に参加して駆兵部隊と共にゴールドビーチからフランスへと上陸。
その後は日本軍は連合軍と共に進軍し、冬の森で包囲されているアメリカの第101空挺師団を救出した。
このときは静かに進軍させ、夜の森林内で銃剣や軍刀による攻撃をひっそりと実行して成功している。
ドイツによる冬の攻勢を耐え、連合軍がドイツ各地に原爆を投下しつつベルリンを占領したときにヒトラーが自殺してドイツが降伏したため、1946年に戦争は終わった。
〇戦後
日本はナチスドイツとの戦争中から戦争後まで極秘に進めた、科学技術に関する書類を入手する『紙留め作戦』を実行している。
日本は人に対しての興味が薄かったため、光一郎が独自にヴェルナー・フォン・ブラウンなどの技術者たちをスカウトすることに成功。
この軍人や技術者はのちにすごい成果を上げていて、口説きがうまい光一郎ならではの成果だ。
ソ連はドイツとの戦争が終わると権力闘争が激しくなり、国内が不安定となって独立運動が起きる。
それによって多くの国が独立し、日本もついでとばかりにデンマークで暮らしていたロマノフ王朝の末裔であるオリガ・アレクサンドロヴナを呼び、ハバロフスク地方とウラジオストックがある沿海地方を奪って親日国を作った。
この国ができた頃に退役して、会社経営や趣味に力を入れるようになった。
あらたに作られた新ロシアに光一郎は訪れ、有能なウマ娘や指導者を日本に呼んで教育をしたあとはロシアで走らせている。
日本で学んだ指導者の元で育ったウマ娘で有名なのはアニリンだ。
彼女はロシア出身のウマ娘でロシア三冠を達成し、アメリカにも遠征した。
ウマ娘のためなら光一郎は世界中どこにでも行く男だという印象がこれによってさらに強くなっている。
お金を稼ぐために、イギリスやアメリカの成長しそうな会社の株を買って儲けを上げている。
儲かる会社を予想して株を買うのは天才的で、彼が株を買った会社の多くは大成長を遂げてすべてが有名企業となっている。
ウマ娘への活動を熱心にしつつ、日本で初めてのゲーム会社『ウマ娘一ゲームス』を設立している。
以前に作ったモルゲンレーテ航空機と合わせて2つ目となる会社だ。
この会社は今でいうブラック労働を禁止し、給料や休暇が充実している。忘年会といった飲み会を強要するのを禁止とした。
会社には労働法をよく守らせていて社員からは評判がいい。
だが、他の会社経営者からはバカにされていた。社員のためにあまりにも金を使って利益が少なく、軍人出身は経営がわからないと笑った。
労働法を守っていたら会社が倒産する、との言葉に切れたのか、普通に人が欲しかったのかわからないが、そう言った社長たちの会社からは有能な社員をたくさん引き抜いた。
その結果、引き抜きに慌てた他社でも少しは労働法を守るようになったという。
1965年にはアーケードゲームとして潜水艦から戦艦を噴進式魚雷で狙う『潜望鏡』を発売。
1972年には日本初のコンピューターゲームを出している。
のちにこの会社はウマ娘関連に集中してゲームタイトルを多く作っている。
その中でも有名なのが『ウイニングウマ娘』と『ウマ娘のアトリエ』シリーズだろう。
スポーツ系ゲームが多く作られているが、光一郎の意向により亡くなったあともシューティングゲームが多く作られている。
そちらは知名度が先のふたつより低いが『ウマ姫さま』『ウマ娘 大往生』『ウマスマイルズ』がある。
第二次世界大戦が終わったあとのモルゲンレーテ航空機は輸送機と水上機が得意なのを生かし、民間向けの販売を強く進めている。
水上機は日本国内では独占状態となっている。これは水上機を発売しても売れる数が低く利益が少ないためだ。
光一郎は水上機は特に熱心であり、イタリアでシュナイダーカップ用に作られたレース機のマッキ M.33を鮮やかな赤色に塗らせてはたびたび搭乗するほどに好きであった。
日本海軍が作った水上戦闘機の強風や水上偵察機の瑞雲もお気に入りで、軍にお願いをして武装やエンジンを外したのを観賞用として購入している。
それほどまでに水上機に熱心であり、会社への方針にも反映されている。
今では日本軍の水上機はすべてモルゲンレーテ航空機製である。
軍を退役したあとは趣味であるウマ娘レースの見物やウマ娘に関する研究を始めた。
ウマ娘に関する研究では、ウマ娘の神様についての書籍を出版している。
今ではウマ娘の神様といえば、イギリスから伝わった三女神のことだが日本古来の神様もいる。
それが東北で信仰が続いている蒼前さまだ。
蒼前さまは真っ白な毛色をした神様であり、畜産・農耕・厄除け・家内安全のご利益がある。
この蒼前さまに関する資料は少なかったが、みずから東北の色々な蒼前神社に訪れて信仰が広まった理由や東北だけでの信仰範囲について調べている。
このように数多くのことを成し遂げた光一郎は1980年11月1日に孫やひ孫たちに見守られながら89歳で亡くなる。
死因は老衰であった。
葬儀のときに、胸につけられたのはウマ娘たちが手作りで作ってくれた勲章だった。
光一郎がもらった勲章は数多くあるが、遺言によって遺族がつけた。
折り紙の勲章はトレセン学園で事務員として働いていた頃、トレーナーが見つからなくて成績が悪い中等部ウマ娘たちに助言をし続け、怪我や成績が悪くて引退したときにお礼としてもらっている。
ウマ娘たちは感謝の気持ちを伝えるために贈り物をしたかったが、立派な物を買うお金がなく手作りで勲章を作った。
これはとても嬉しかったらしく、妻や子供たちに自慢している。
〇ウマ娘の守護者
ウマ娘レースに関連するものはなんでも大事にしており、外国からウマ娘を保護し面倒をよく見たりしたことで、いつからか『ウマ娘の守護者』と呼ばれ、彼について書かれた書籍にもこの名称が多用されている。
この言葉は戦中あたりから使われたらしい。
実行すればどうなっていたかで有名なインパール作戦(別名ジンギスカン作戦)を止めて、ウマ娘たちに大感謝されてからだ。インパール作戦の無謀な補給線構築などの詳細は各自で調べて欲しい
この『ウマ娘の守護者』というのは新聞で報道されて日本各地で広まっていった。
現在でもこの名称は使われており、人生を通してウマ娘のためにしてきたことが評価され続けている。
〇光一郎の友人たち
・秋山好古
軍を退役後、トレセン学園(旧ウマ娘教練学校)で校長となる。
ウマ娘たちの教育や教師の能力向上に功績をあげた。
・森林太郎
日本の栄養学を大きく発展させた。
脚気を倒した男として知名度が高い。
ペンネームは森鴎外。
こちらも医者と同じぐらいに知名度が高く、彼が書いた『舞姫』は多くの人たちに読まれた。
また、近年では文豪ストレイドッグスというアニメに登場している。
・ココ・シャネル
フランスの有名ファッションデザイナー。
光一郎に刺激を受けながら斬新なファッションを発表し続ける。
第二次世界大戦後にフランスで店を開いたものの、雑誌では服のデザインが古すぎると酷評された。
光一郎から資金提供を受け、アメリカで店を出すと大ヒット。
常に先進的なファッションを作るシャネルは死ぬまでファッション界で君臨し続ける。
そして彼女が作ったシャネルブランドは世界的に有名となった。
・高村幸太郎
彫刻家・画家・詩人・歌人。
詩集と彫刻は評価が高く、教科書にも掲載されている。
東京レース場にある複数のウマ娘像、智恵子抄や十和田湖にある乙女の像が有名だ。
・西竹一
ロサンゼルスオリンピック(1932年)ウマ術障害飛越競技の金メダリスト。
オリンピックウマ娘を育てた名指導者。
戦争後は教員免許を取得してトレセン学園で働いた。
・シービスケット
世界恐慌の頃にアメリカ最強となったダートウマ娘。通算成績は89戦33勝。
いくつもの小説の主人公となり、2度映画化された。
アメリカではかっこいい姿ばかり目立つが、小さい頃に来日したときは光一郎の娘になりたかったと甘えたがり。
引退したあとは日本にたびたび来ては光一郎に甘えつつトレセン学園で指導をした。
戦争終結後は以前と同じように日本へ来て文化や伝統芸能を勉強し、アメリカで日本文化とコウイチ焼き(お好み焼き)を広めた。
・有馬
農林大臣。
年末にある、有馬記念の名前の元となった人物。
URA第2代理事長。
光一郎と一緒にレースを観戦する人たちを楽しませようと尽力した。
レース場内に託児施設や遊園地、人気投票でウマ娘を選ぶレースを作る。
〇子孫について
妻との間にできた長男は桐生院家を継ぎ、トレセン学園やURAの経営に関わる。ひ孫にはトレセン学園で名トレーナーとなっている桐生院葵がいる。
桐生院葵はハッピーミークをはじめとしてアパパネ、ミッキークイーンなどのG1ウマ娘を育成した。ティアラ路線の育成が上手で光一郎が書いた『トレーナー白書』を持ち歩いている。
愛人たちとの間にできた子孫たちはウマ娘レースに携わっている。
子孫で有名なウマ娘はイッツコーリング、エキサイトスタッフ、ブリッジコンプ、ドカドカなどがいる。
それ以外だと軍人や警官になっているものが多い。
ココ・シャネルの下で学び、日本でファッションブランドや香水ブランドを立ち上げた。
光一郎の書き残したスケッチやメモを再現しようとして技術者やSF作家になっている。
三菱財閥に就職している人も多い。
光一郎の死後、趣味で集めたウマ娘たちとの写真やグッズを見せるために建物を作り、桐生院資料館として一般に開放されている。
日本だけでなく、海外のウマ娘関係のものもあるため海外からの観光客が来ている。
この資料館の運営も子孫たちがやっている。
〇登場作品
・艦隊これくしょん
噴進式魚雷を発想した人物として潜水艦娘から名前が挙がっている。
・Fate/Grand order
英雄として登場。多くの英雄たちを芝やダートで走らせた。
・ストライクウィッチーズ
フランスを取り戻すときに光一郎をモデルにしたキャラが日本側将校として登場。坂本少佐と一緒に2年式20㎜駆兵対物小銃の改良案を検討している。
劇場版や漫画版では陸戦ウマ娘ウィッチを指揮している。
誤字報告、ありがとうございます。助かっています。