求とは意外にも、次の昼休みも一緒に過ごしていた。
「なあ求。自分のクラスで食わないのか?昼飯」
「……僕が何処で食べようと自由だと思いますけど」
「まあ確かに」
「先輩こそ、自分の教室で食べればいいじゃないですか」
「んー、そこは求の言う通り」
思いのままに鍵を借り、音楽室に入りそそくさと弁当をかきこんでいた所に再び求はやってきた。ただし警戒心をバリバリに働かせた昨日みたいな雰囲気は鳴りを潜め、最寄りのコンビニの袋を左手に提げてやって来た。
その求は別口で提出したのかどうかはさておき、今日は入部届を抱えていない。代わりにその手で菓子パンの袋を持っている。
「ここが開いてなかったらどうするつもりだったんだ?」
「だから何処だっていいじゃないですか、関係ないですよね」
「……まあそうだなあ、詮索してごめんな」
俺の謝罪を受け止めた求は扉から一番近い席に座り、黙って菓子パンの袋を開けて千切って食べ始めた。
こう見えて大柄な方だと自覚してる俺に対して臆そうともせず、自分の事でも投げやりに返事を寄越す後輩は、それはそれはマイペースな人間だった。出会ったばかりの釜屋さんとも色々引っ掻き回してきたあの眼鏡の副部長とも違うベクトルの、こっちが空振る掴みどころのないタイプ。昨日の別れ際よりはずっと大人しい態度ながら、施設の子達ともまた別の接し方を捻り出す必要性を感じさせられた。
「……」
「……」
二人もいながら黙って食べる、行儀としては間違いなくいい。箸先が弁当の容器に当たる軽い音、菓子パンのビニールがくしゃっと小さくがさつく音、どっちも昼飯を食べているのは変わらないのに、違う時間を過ごしている奇妙な昼休み。折角知り合えたんだし喋ろうぜ!という気遣いはこっちの身勝手になりそうな予感がする。
そんな求の様子を、三つ隣の席から横目で観察してみた。
なんというか、外見に品がある。人形みたいだなんて表現があるけど、求にはしっくり来る表現だ。学ランと喋る声さえなければ男子か女子かも分からない。
佇まいにも品があった。入部届を渡してきた時も賞状でも渡されるのかと思ったし、俺なら齧りつくそのパンも右手で千切っては口元に運ぶ。最低限の物音だけ立てて静かに食べている。淡々と昼食を済ませる……というよりは粛々と食に向き合っている、と表す方が正しいのかもしれない。少なくとも俺よりは育ちがいい。
ただ、マイペースすぎるのか妙な所で鈍い気がする。釜屋さんですら気付く程に見ていても振り向く素振りすらみせない。言葉は俺の知る誰よりも警戒する割に、視線を気にして食べてはいない。周りに興味がないのか、或いは意地っ張りな後輩の一面なのかどうにも計りかねていた。
そんな後輩の人となりを探りつつ頭を捻っていると、求が現れる前には食べて進めていた昼飯を米粒一つすら食べ終わってしまった。それはそれとしてピアノを弾きたいという欲望が食の速さにまで出ていた俺に対して、弁当箱から早く弾けと背中を押されている気分だった。
「ごちそうさまでしたっと。あー、求」
「……なんですか」
「音、鳴らしていいか?食ってる時に嫌じゃなければな」
「……好きにすればいいんじゃないですか。昨日もどうせ、弾いてたし」
「じゃあお言葉に甘えて」
両手を合わせ、箸と空になった弁当箱をそそくさと片付けてピアノへと向かう。
九年ピアノを弾き続け、その内ジャズに触れたのは一年未満。それでも、一年が過ぎようとしている。この手が今日奏でようとしているテーマは、元を辿ればフランスの童謡でもある『きらきら星』。片手で初めて弾けた思い出の曲を両手で、俺なりのメロディーラインを敷いた今日限りの『きらきら星』を。
寒色の照明がグランドピアノを照らして、くすんだ表面が鈍く光を反射する。こいつは一体、北宇治のピアノ歴としては何年になるだろうか。
ピアノ椅子に腰かけて、指に柔軟を施す。この場にいる観客は変わらずパンを食べる求だけ。窓は幾つか開けてあるからどうせ誰かに聴かれる、構わない。
「ワンツースリー」
何時もの儀式を済ませてから、鍵盤を押した。遅れてもいい、走ってもいい、ミスってもいい、ただ懸命に。毎日毎秒このスタンスで向き合ってきた俺に、ピアノと『きらきら星』が青く呼応してくれた気がした。
テーマでもある『きらきら星』の譜面は、ピアノどころか音楽の初心者が最初に目指すような優しい曲だ。同じ音符が二つずつ、二小節単位で休符も挟まる。たった十二小節に込められたテーマを通せるようになると音楽が楽しくなる、不思議な引力の譜面だ。
片手でゆっくり弾いても数十秒もあれば終わるテーマのその先、インプロでここから俺なりの『きらきら星』に入る。ブルーノート、ホールトーン、ディミニッシュ、ミクソリディアン。元が短いからこそ覚えている限りのスケールで新しいフレーズを弾く。そこに混ざるオブリガートに控えめなゴーストノート、敢えて遅らせるレイドバック、手持ちのカードを目が追い付かない速度で繰り出して重ねていく。そうして生まれるラテン、ワルツ、バラードの『きらきら星』達。
これが福岡に届かないのは承知の上で、音を放ち続ける。片手で済んでいたテーマはインプロで両手になり、左手が踊って右手が後を追う。右手が疾走り左手が受ける。遠くに見える求と一瞬目が合った。まだ覚束ない頃の『きらきら星』から、随分遠くの星まで来た。
「ふう……」
再びテーマに戻ってクールダウンしながら、ゆっくり両手を離して鍵盤を見る。ここだけはキーボードもアップライトも変わらない。
そのまま視線を時計に移す。気が付けばインプロだけで五分は使っていたらしい。自分が思っていたよりずっと長く鍵盤を叩いていた熱に充てられて、唯一この場に居合わせた観客につい、感想を求めたくなってしまった。
「なあ、求」
「……なんですか」
既に袋の中身も食べ終えていたにも関わらず、去ろうともせず、何時終わるかも分からないインプロを黙って聴いてくれていたらしい。俺の事なんてどうでも良さそうに昼飯のパンを食べていた癖に、袋の中身を空にしても尚席を立たずに聴いてくれていた。
少しだけ、嬉しかった。
「どうだった?今の『きらきら星』」
「……まさか、聴かされた感想を求めてるんですか?」
「そのまさかだな」
今のやり取りに既視感があったのは、強ち間違いじゃない。去年校舎裏で田中先輩に課題曲を聴かされた俺が、その時の先輩と同じ事を後輩に言っている。立場が違うけど、既視感の正体はこれだろう。当時のオーディションを控えた田中先輩は何を思って感想を求めたんだろうか。卒業前に訊けば良かったな。
「はっきり言っていいですか」
「勿論」
「……ピアノなんて、誰が弾いたって同じです」
斜め上からの感想が飛んできた。賛辞でも批判でもなく、聞く人が聞いたら侮辱にもなりかねない棘のある感想が。刺されはせず言葉こそ失わなかったものの、なんて調子のいい人間なんだと自分の頬を心で抓った。少し丁寧に接するべきか。
「同じかどうかなんて知らねえけど、今と同じ演奏は二度と出来ねえと思うぜ。少なくとも俺はな」
「……アドリブで誤魔化してるからじゃないんですか」
「詳しいな!もしかして経験者?」
「別に……」
バツが悪そうに、なんとなくやりにくそうに求は頭を掻いている。それもそうだ、昨日出会ったばかりのほぼ初対面の人間と、ましてや学年が上の先輩と社交的になれってのは普通無理な話だ。眉間に皺を寄せられても仕方ない、吹部の連中に田中先輩みたいになってると言われても不思議じゃない……かもしれない。
本来馴れ合いたくないであろう俺に対して精一杯言葉を絞り尽くそうとしたのか、求は困ったように口を開いてくれた。
「……なんで、ピアノを弾くんですか」
「なんでって?」
「……そのままの意味です」
「そりゃあピアノが好きだから、ってのもあるけどよ……」
原動力を辿ればただ一つ、施設の隅で膝抱えて泣いてたガキの頃の俺の為だ、でも。
「居場所が作りたいんだ、俺なりに」
「居場所?」
「そう。それとは別に演奏を聴いてほしい、一緒に合奏したい奴がいるんだ。そいつとまた会った時により上手くなっていたいし、そいつに恥じない生き方もしていたい。んでもっと上手くなって、その上で合奏が出来たらより嬉しいなーって」
「……」
「言ってしまえば、鍵借りてまで弾いてるのは俺自身のエゴだな。どうせ聴いてもらえるならより楽しい音を、より上手い音楽をって感じでさ」
釜屋さんとは違う類いの人見知りの後輩が、周囲に興味も関心もないなりに絞り出してくれた言葉に対して、礼儀を払うつもりで動機を語る。
「経験則だけど……エゴで弾こうがなんだろうが、巡り巡って誰かの為の特別な音になれるんだよ。ここ最近それがやっと分かったんだ。だから俺は何時でも何処でもピアノを弾いていたくてさ」
居場所はあるんだって、叫ぶつもりで。これは食べ終わった以上立ち去っても良かったのに、居座って聴いてくれた事に対する一人の観客への、後輩に対する礼儀。
「悪い、喋りすぎたな」
「いえ、別に……」
折角の昼休みを先輩との触れ合いで消耗した後輩は、肩をドッと下ろして息を吐いた。随分気を遣わせたんだろうな。求の喋り易そうな話に切り替えてやるか。
「話変えるか。なあ求、吹奏楽部に入るのは確定なのか?」
「……そうですけど」
「パートも決まってんのか?より詳しく言うなら担当楽器」
「コントラバスの希望ですけど……」
「コントラバス、低音か」
よりにもよって、母数の少ないコントラバス。でも今は、それが一番良かった。
コントラバスなんて縁の下の力持ちな上に担い手が存在していなかった楽器だ。ただし、それも去年までの話。少なくとも、俺の年代にはたった一人で去年の北宇治を支えてきた小柄で器の大きなコントラバス奏者がひとり。
「求は今俺の演奏を黙って聴いててくれた訳だけどさ?もし、今の演奏が求にとって、誰が弾いても変わらない代わり映えしない音って思ったんなら……直ぐじゃなくてもいいけど低音の先輩にそれとなく伝えてみな。パートの、じゃなくてコントラバスの先輩にだ」
「それがなんだって言うんですか」
「俺の知る限り……あの根城で今一番、求に必要なもんを叩き込んでくれっから」
クラスメイトとして過ごした日も含めて交流を重ねてきた印象で語るなら、明るいし他人を慮れるし、それにとても音楽に対して真摯というか、音楽が好きという姿勢を隠さない子だ。自身の腕前も然ることながら、堺さんみたいにジャンルそのものにも造詣が深い。半ば賭けではあるが、求が川島さんの後輩になるのならきっといい方向へと導いてくれる。
「……そろそろ教室に戻ります」
「おう、じゃあな」
相変わらず視線を逸らしつつ最低限の挨拶だけを交わして、求は音楽室を後にした。他人に関心の薄そうな後輩がどれだけ俺の言葉を覚えてくれたか知らないが、忘れていようときっと、どうにかなるだろう。後は頼んだぞ、川島さん。
コンクールが終わり、新体制の北宇治高校吹奏楽部が発足。それから暫くして定期演奏会の日取りや曲決めとかで忙しかった、粉雪が羽毛みたいに降り続けていた去年の冬……プレゼントのお返しとして秀一から渾身の告白を受け、幼馴染から一歩進んだ恋人という関係になった。
あの一瞬、あの一瞬だけは雪が降るというよりも私が昇っていくような、私達を乗せた世界が上へ上へと押し上げられている気分だった。
それからの日々は全体練習の度にドギマギしたり、周りにバレないよう人目を避けつつ肩を並べて下校する、どこか背徳的な日常に私の心はより浮つく……事はなかった。付き合いの長い腐れ縁でもある秀一と恋人になったからといって、特段過ごし方が変わったりしなかったのだ。
そんな日常を謳歌しつつ、進級してから一週間になる頃。今日もその腐れ縁の彼氏と宇治橋で待ち合わせて下校した、変わり映えのしないある夕方の事。
「……押すなよ久美子、見えないだろ」
「……ここからだとよく聴こえないんだってば」
駄弁るつもりで訪れた夕暮れの公園に、誰かと楽しそうに喋っている先客がいた。深くブランコに座りながら、スマホを耳に当てている。
「──なんか高そうな喫茶店とかレストランとかにさ、シェフの気まぐれって付く感じのメニューあるだろ?シェフの気まぐれサラダとか、シェフの気まぐれフルコースって付いたさあ」
「……何話してるんだろうな」
「さぁ……」
そこにいたのは、二年生になって初めてクラスメイトになった矢田君だった。弾むような明るさの声で電話越しの誰かに話し掛けている。二人して隠れて思わず聞き耳を立てていた。やっている事はまるで獲物を発見したあすか先輩だ。
「──昼飯を自分で作り始めた今ならそのシェフの部分になれる気がするんだよな、料理の技術はあんまりねえけど!あっははは!」
「……何話してんだろうな」
「私に聞かないでよ……」
矢田君とは浅からずとも深からずの曖昧な仲だ。初めてその名前を聞いたのはあすか先輩の口からだったと思う。そして初めて出会ったのも、みんなに連れて行かれる形で。とても、他人任せの上にある仲だ。
そんな矢田君と同じクラスになり一週間過ごして改めて思ったのは、割と噂通りの人だったという事。美知恵先生に物怖じしないし、真っ先に委員長に立候補して、掃除当番や係の仕事も手伝ってる面倒見の良さ……弟か妹がいても不思議じゃない雰囲気が滲み出ていた。
「──なんていうかさ、和歌山にいた頃じゃ想像もつかなかった光景ばっかりでな。いやあのまま和歌山にいても同じ事してただろうけどよ。さっきも言ったけど、今もすげー楽しいのなんの!今度写真送るわ、作った弁当の!」
「……あそこまでくだけた感じのアイツ俺も初めて見たけど、地元のダチとかかな」
「……実際そうじゃない?和歌山出身って自己紹介してたもん。一年の時はどうだったの」
「……普通に仲良かったぞ、休日は遊びに行ったりしてたし。女子とも気さくに喋ってたな。井上とか堺辺りとかは特に」
あくまでも、割と。基本的に伝聞ばかりが伝わる矢田君像だと人となりが掴めてなくて、人物像が曖昧なまま二年生になった。噂の一割が吹部関係、また一割が秀一から。そしてその八割を占めていたのが……彼をデスティニーだと呼称するあすか先輩。矢田君に関する情報源は酷く偏っていた。
在るかどうかも曖昧だった噂以外の情報を、私は矢田君自身との関わりで手に入れる事になる。並んだら秀一より身長が高そうだとか、麗奈も認めたピアノの腕前とか──それから、面倒見が良すぎたせいで吹部のあれこれに色々巻き込まれた事とか。あの性格だからきっと、能動的に首を突っ込みに行っていたんだと思う。
部分的でも噂が確信に変わる過程を今、私は通りつつあるのかもしれない。
「──そうだ茶葉の詰め合わせも一緒に送るわ、玉露にかぶせ茶に深蒸しの!どれもこれも美味いんだぜ?梅干しの時みたいにこれなら親御さんも喜んでくれるんじゃねえかな!」
「……秀一」
「……なんだよ」
「……やっぱり帰らない?なんか楽しそうだし、邪魔しちゃ悪いよ」
「……もうちょっとだけ聞かせてくれ、相手が女子だとしたら俺には色々と問い詰める権利が──」
「……女子だとしたら尚悪いでしょー」
呆れながら腐れ縁でもある秀一の耳を軽く引っ張った。駄弁るつもりで来た公園で、何時終わるか分からない友達との電話に聞き耳をずっと立てるのは……あすか先輩ならやりそうで余計に躊躇われた。
でも、気になるのは嘘じゃない。噂の中にはそういう誰を狙ってるという恋バナも混ざっていたからだ。香織先輩に元部長副部長コンビを狙ってるかもしれないという、そんな噂が立っていた。確か……パーカッションの先輩達や同じパートの井上さん、堺さん、そして何故か副委員長に立候補したつばめちゃんですら、その対象として一時期囁かれていた程には。
「他の公園でもファミレスでもいいから行くよー」
「痛てててわかったわかった引っ張るなって……」
灼けつきそうな好奇心に鍵をかけ、心の底に埋めて秀一と一緒に公園に背を向ける。こうでもしないと鍵を開けて居座ってしまいそうになるからだ。
「──ところでクロエはどうなんだよ、二年目の福岡暮らし。セイラジョシの新入生は入部──」
他に落ち着ける場所へと歩き出した瞬間、これまでの情報のせいで脳の理解が遅れる単語を私の耳が拾った。クロエ、二年目、福岡、セイラジョシ。その羅列の理解を止めたまま立ち去って行く。こうでもしないと這い出て来そうな好奇心への防御本能か、盗み聞きしていた相手への後ろめたさか。よぎった疑問すら反芻する前に、私は蓋をした。
原作やアニメの幕間的な二次創作なので、本編以外かつ独自の描写が多いです。拙作はそういう立ち位置のつもりで書いています。