*** 影の中の軍靴
冬の夜、冷たい風が吹き荒れる山奥の演習地で、田村一等兵は眠れない夜を過ごしていた。新兵の彼にとって、この演習場での一週間は厳しい訓練と先輩たちの怒号で彩られた地獄そのものだった。しかし、それ以上に彼を苦しめているのは、ここ数日聞こえる「それ」だった。
夜になると、兵舎の外から微かに聞こえてくる軍靴の音。ザッ、ザッと一定の間隔で地面を踏みしめる音が耳に届く。それは、決して他の誰かが聞いているようには思えなかった。先輩たちは笑いながら、「幽霊だろう」「夜中に歩哨でも出る夢を見てるんだ」とからかうばかりだった。
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三日目の夜。田村は意を決して音の正体を確かめることにした。深夜、隊員たちが眠りにつくと、彼はそっと寝袋を抜け出した。兵舎の外に出ると、冷えた空気が肌を刺すようだった。月明かりが地面を青白く照らし出し、演習場全体が不気味な静けさに包まれていた。
軍靴の音は間違いなく聞こえる。ザッ、ザッと、規則正しく遠くの闇から響いてくる。田村は音のする方向に足を向けた。草を踏む自分の足音と、耳を澄ます先の軍靴の音。次第にその音は近づいてくるようだった。
やがて、音は古びた倉庫の前で止まった。田村の心臓は高鳴っていた。ここは訓練で使わなくなった旧式の兵器を保管する場所で、普段は誰も近づかないはずだ。彼は息を整え、倉庫の扉を押して中に入った。
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倉庫の中はひどく寒く、埃の匂いが鼻をついた。月明かりが窓から差し込み、古びた銃や錆びた弾薬箱が不規則に並んでいるのが見える。田村が慎重に奥へと進むと、不意に背後から「誰だ」と低い声が聞こえた。
振り返ると、そこにはかつての軍服をまとった男が立っていた。肩章のデザインからして、彼は古い世代の軍人であることが分かった。だが、その顔は無表情で、目は空虚だった。
「……あなたは誰ですか?」田村は恐怖を抑えながら尋ねた。
男はゆっくりと口を開いた。「我々は忘れられた者だ。この演習地で、かつて命を散らした兵士たちだ。お前たちはここで何をしている?」
田村は震える声で答えた。「演習のために……ここに来ています。」
男の目が鋭く光った。「演習だと? ならばお前も知っているはずだ、この地に染み込んだ我々の無念を。演習ではなく、戦場だったこの場所を。」
田村は頭が真っ白になり、その場にへたり込んだ。男の姿は薄れていき、倉庫全体に無数の軍靴の音が響き渡る。見渡すと、月明かりの中に無数の影が揺れていた。彼らは皆、軍服をまとい、銃を構えたまま田村を見つめていた。
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翌朝、田村は目を覚ますと兵舎のベッドの中にいた。倉庫での出来事は夢だったのか? だが、彼の軍服のポケットには錆びた弾薬が一発入っていた。彼はそれを握りしめ、昨夜の出来事が現実だったことを確信した。
「俺たちは忘れられた者だ……」
その言葉は、彼の耳から離れることはなかった。
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田村は倉庫での出来事以来、夜中に目覚めるたびに冷や汗でびっしょりになっていた。その錆びた弾薬は、まるで手放すことを拒む呪いのように、彼の頭の中で重くのしかかっていた。だが、それを誰かに打ち明ける勇気はなかった。恐怖を語れば、自分自身が狂っていると思われるに違いない。
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数日後、演習の終盤に入った頃、隊長の命令で演習地全域を巡る夜間哨戒任務が下された。田村は、同じ新兵の鈴木と組むことになった。倉庫の近くを通る可能性があると知り、田村は内心で強く拒否したかったが、上官の命令には逆らえない。
夜、星も見えない曇天の下で、二人は懐中電灯を頼りに暗闇を進んでいった。風が木々を揺らし、遠くで何かがきしむ音が響くたびに田村の神経は尖っていった。
「なあ、田村。ここって、本当に幽霊が出るって噂、知ってるか?」
鈴木が軽い調子で話しかけてきた。田村はぎこちなく笑みを浮かべるだけだった。
「ここに来た兵士が、夜中に姿を消したことがあるらしいぞ。行方不明のままだってさ。噂じゃ、古い倉庫が関係してるとか……」
その言葉を聞いた瞬間、田村の心臓は跳ね上がった。
「おい、その話やめろよ……」
彼は震える声で鈴木を制したが、そのとき不意に、またあの音が聞こえてきた。ザッ、ザッという軍靴の音。規則正しく、一歩ずつ近づいてくる。
「……聞こえたか?」鈴木が動きを止めた。
田村は言葉を失い、音のする方向を懐中電灯で照らした。そこには何もない。ただし、音だけは確実に近づいてきている。
「な、なんだこれ……」鈴木も恐怖を隠せない様子だった。
音は彼らを追い詰めるようにどんどん近づき、とうとう二人は倉庫の前にたどり着いてしまった。扉は半開きになっており、内側から冷たい風が流れ出ていた。
「……入るしかないだろ。」
鈴木が震える声で言い、田村を促した。田村は全身を硬直させながら、ゆっくりと倉庫の中に足を踏み入れた。
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倉庫の内部は、先日と同じく静まり返っていた。だが、今度は空気が異様に重く、視界の端に何かが動いているような錯覚を覚えた。
「……誰かいるのか?」鈴木が声を張り上げたが、返事はない。
その瞬間、背後の扉がバタンと音を立てて閉じた。二人は悲鳴を上げたが、振り返ってもそこには何もいなかった。ただ、薄暗い倉庫の奥から声が響いた。
「命令に従え……進め……」
それは人間の声とは思えない、低くうねるような声だった。その声に引き寄せられるように、鈴木がふらふらと奥へ進み始めた。
「おい、鈴木! どこへ行くんだ!」
田村が必死に叫んだが、鈴木は振り返らない。その背中が闇に飲まれる瞬間、田村は鈴木を追いかけようとしたが、足がすくんで動かなかった。
そして目の前に現れたのは、またあの男だった。古い軍服を身にまとい、虚ろな目で田村を見つめている。
「お前たちは、我々の無念を晴らすべきだ……」
男は冷たい声で告げた。その言葉の意味を理解する間もなく、田村の視界が真っ暗になった。
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次に目を覚ましたのは、演習地の別の場所だった。田村は一人で倒れており、鈴木の姿はなかった。周囲を探しても彼の痕跡はなく、やがて捜索隊が出動することになったが、鈴木は見つからなかった。
後日、田村は上官に事件を報告したが、まともに取り合ってもらえなかった。それどころか、「お前の怠慢だ」と叱責され、さらに厳しい訓練を課される羽目になった。
だが、田村は確信していた。あの倉庫の中には何かがある。そして、それは鈴木を連れて行ったのだ。
錆びた弾薬は今も田村の手元にある。夜中、彼はそれを見つめながら、次に「奴ら」が何を求めてくるのかを考えずにはいられなかった。
彼はただ一つ確信している。あの倉庫の影は消えることはない。そして、演習地に足を踏み入れる者を一人ずつ飲み込んでいくのだ。