### **お供え物**
村外れにある神社は、いつからか「供え神社」と呼ばれていた。理由は明白だった。そこには奇妙な風習が根付いていたのだ。
毎年、霜月の十五日。村人たちは家々から一つ、何かを供え物として持ち寄る。食べ物、道具、衣類──供え物はどれも、一見何の変哲もないものだった。しかし、村人たちはそれを「神様の意志」として、決して軽んじることはなかった。誰もがその日、どこか重苦しい顔をして神社へ向かう。それが昔からの掟だった。
その神社の拝殿は、昼間でも不気味な暗さに包まれている。苔むした屋根の下、供え物は静かに積み上げられる。何十年も続くこの風習に、村人たちは慣れているようで慣れていなかった。なぜなら、その供え物には「選ばれる」人間の存在が関係していたからだ。
ある年、青年の達夫は不満を抱いていた。
「こんなの、ただの迷信じゃないか。」
村に戻ってきたばかりの彼は、長い間都会で暮らしていた。機械的な都会の喧騒を捨て、自然の中で暮らしたいという思いから帰郷したが、すぐに村の古い慣習に苛立ちを覚えるようになった。特に、このお供えの風習には反発心を抱かざるを得なかった。
「どうして物を捧げなきゃならないんだ? 神様なんて見たこともないのに。」
達夫の父親は、彼の言葉を無視するかのように酒を煽りながら静かに言った。
「達夫、お前にはまだわからん。この村の掟は守らなきゃいけないんだ。守らないと、あの『災い』が戻ってくる。」
霜月十五日、達夫はついに村の掟に背く決意をした。
「俺は供え物をしない。もし何も起きなかったら、これで村のみんなも迷信だって気づくだろう。」
夜、村人たちが神社に集まる中、達夫は家に留まった。彼は強い決意で、どんな結果でも受け止めるつもりだった。しかし、深夜になっても何も起きない。
「やっぱり何もないじゃないか。」
ほっと息をついたその時だった。突如、外から重々しい音が聞こえてきた。ぎぃ、ぎぃ、と何かが擦れるような音。窓を覗くと、そこには影が揺れていた。
暗闇の中、何かが彼の家に近づいてくる。いや、何者かが家の中に既にいる。
「誰だ……?」
達夫の問いかけに応じる声はない。ただ、影がじわりじわりと近づいてくる。その瞬間、彼の耳元で囁き声が響いた。
「お前の供え物はどこだ?」
達夫は全身を凍らせて振り向いた。そこには、顔のない人影が立っていた。その影はただじっと彼を見つめる。否、顔がないのだから「見つめる」という表現もおかしい。それでも達夫は、その視線の重さを感じた。
「俺は……供え物なんて、しない……!」
声を振り絞った達夫だったが、その瞬間、影の腕が伸びた。冷たい感触が彼の胸に触れる。そして、暗闇が彼を覆い尽くした。
翌朝、村人たちが神社に集まると、達夫の姿はなかった。代わりに、拝殿の中央に彼のものと思われる靴が供えられていた。誰も言葉を発さなかった。ただ、黙ってそれを見つめていた。
それ以来、村人たちは再びお供えを怠らなくなった。どんなに些細なものでも、「神様」の望む供え物を届けるのだ。なぜなら、誰もが達夫の「選ばれた」運命を目の当たりにしたからだ。
そして神社には、今日も新たな供え物が積まれていく。その中に、達夫の痕跡が混じっていることに気づく者は、誰もいなかった。
達夫が姿を消した翌年から、村ではさらに不気味なことが起こり始めた。供え物をする日になると、誰かが必ず「夢を見る」と言い出すのだ。その夢の内容は皆ほぼ同じだった。
「暗闇の中で、達夫の声が聞こえるんだ。『供え物を忘れるな』って、何度も何度も。」
村人たちは恐怖しつつも、夢が警告であることを受け入れざるを得なかった。もし誰かが供え物を怠れば、今度は自分が「選ばれる」のではないかという不安が渦巻く。
村に住む少女、沙也香はまだ14歳だったが、達夫のことを鮮明に覚えていた。幼い頃からよく面倒を見てくれていた彼が、なぜ神様に連れて行かれたのか、理解できなかった。
「神様が本当にいるなら、どうして達夫お兄ちゃんを奪ったの?」
そう母親に問うと、彼女はひどく怯えた顔で沙也香を叱りつけた。
「そんなことを言うものじゃない! 神様はいつも見ているんだから!」
しかし、沙也香は納得がいかなかった。もし本当に神様がいるのなら、なぜ誰もそれを確かめようとしないのか。そして、達夫のように犠牲になる人が再び現れるのをただ待つだけなのか──。
沙也香は決意した。次の霜月十五日、神社で一人、神様の正体を確かめることにした。
その夜、沙也香は村人たちが帰った後の神社へ忍び込んだ。冷たい風が木々を揺らし、不気味な音を立てる。拝殿の中に入り込むと、供え物が山のように積み上げられていた。布で覆われたものや、籠に入ったものがある中で、一際目を引いたのは、中央に置かれた錆びたランタンだった。
「これが……神様に捧げるもの?」
沙也香は震える手でランタンを掴んだ。その瞬間、背後から囁くような声が聞こえた。
「供え物に触れるな。」
振り返ると、そこには顔のない影が立っていた。沙也香はその姿に息を呑んだ。影は動くことなく、ただ彼女を見下ろしていた。恐怖に足がすくむ中、沙也香はなんとか声を振り絞った。
「あなたは……誰なの? 本当に神様なの?」
影は答えない。ただ静かに手を伸ばし、沙也香の額に触れた。その瞬間、頭の中にいくつもの記憶が流れ込んできた。古い村の風景、炎に包まれる神社、そして達夫の絶望の表情──。
沙也香は理解した。この影は「神様」などではなかった。これは、村が何世代にもわたって積み上げた恐怖と犠牲によって形作られた「存在」だった。村人たちが供え物という名の儀式を続ける限り、影は永遠にその姿を保ち続ける。
沙也香は影に向かって叫んだ。
「こんなの間違ってる! あなたなんか怖くない! 村を、達夫お兄ちゃんを返して!」
その言葉に影はわずかに揺らめいた。だが次の瞬間、影の姿が急激に膨れ上がり、沙也香を飲み込もうと迫ってきた。
「帰れ……帰れ……!」
沙也香は必死に逃げ出した。冷たい夜風に煽られながら、なんとか村まで辿り着くと、そこには怯えた村人たちが待っていた。
「沙也香、何をしたんだ! 神様を怒らせたのか!」
沙也香は必死に訴えた。
「神様なんていない! あそこにいるのは、私たちが作り出した“何か”なの!」
しかし、村人たちは耳を貸さなかった。それどころか、次の年から供え物はさらに増え、より豪華なものが供えられるようになった。沙也香の言葉は風に流れるだけだった。
数年後、村の風習は変わらず続いていた。だが、一人の青年が村に帰ってきた。顔立ちは変わり果てていたが、それが達夫であることに気づく者もいた。彼の目は虚ろで、言葉を発することはなかった。誰もその理由を尋ねなかった。なぜなら、村人たちは彼が「戻ってきた」ことを、ただ恐怖と共に受け入れるしかなかったのだから。
そして、供え物は今日も神社に積み上げられていく。その中に、達夫の目をじっと見つめている少女の姿を重ねる者がいるかもしれない。しかし、それは誰にも語られることはない。
村の風習は変わらず続いていたが、沙也香の心にはまだ疑問が渦巻いていた。達夫が「戻ってきた」とはいえ、それが本当に彼なのかどうか、沙也香には確信が持てなかった。何よりも、彼の虚ろな目と、あの神社で見た影の記憶が消えない。
ある晩、沙也香は決意を固めた。もう一度神社へ向かい、全てを確かめると。
霜月十五日、村人たちが供え物を終え、それぞれの家へ戻った頃。沙也香はランタンを手に、再び神社の拝殿へ足を運んだ。夜は冷え込み、風が木々を揺らして不気味な音を立てている。
拝殿の中に入ると、例年通り供え物が積み上げられていた。だが、その中に一つ、不自然に輝くものがあった。達夫が戻ってきた年から置かれるようになった奇妙な石だった。青白く光り、まるで生き物のように脈動している。
沙也香はその石に近づき、そっと手を伸ばした。その瞬間、背後で声が響いた。
「触れてはならない。」
振り返ると、再びあの影がそこにいた。しかし今回は、はっきりとわかる違いがあった。その影の中には、達夫の顔が浮かび上がっていたのだ。
「お兄ちゃん……?」
沙也香の声に、影は微かに揺らめいた。しかし、答えは返ってこない。ただ、達夫の顔が彼女をじっと見つめるだけだ。
「あなたは本当に達夫お兄ちゃん? それとも……影に取り込まれたの?」
その問いに影は静かに手を伸ばし、沙也香の額に触れた。再び彼女の頭の中に記憶が流れ込む。だが今回は、もっと鮮明だった。
村の過去が次々と映し出される。
かつて、村には大きな災害が起きた。洪水、飢饉、疫病──それを鎮めるために、村人たちは「生け贄」を捧げるようになった。最初は動物だったが、次第にその犠牲は「人間」に移っていった。供えられた人間の魂が積み重なり、それが影となって神社に宿るようになったのだ。
達夫もその一部となり、「影」の一員として取り込まれていた。村人たちはその事実を知りながらも、恐怖から目を背けていたのだ。
沙也香は涙を流しながら叫んだ。
「そんなの、間違ってる! お兄ちゃんを助ける方法があるなら、教えて!」
影は初めて僅かに動き、彼女の手を取ると供え物の山へ導いた。そして、青白い石の前で立ち止まる。
「これを……壊せばいいの?」
影は答えない。しかし、その静かな佇まいが肯定しているように思えた。沙也香は震える手で石を持ち上げた。冷たく、そして重い。意を決して地面に叩きつけると、石は鈍い音を立てて砕け散った。
その瞬間、神社全体が激しく揺れた。積み上げられていた供え物が崩れ、拝殿の中を覆っていた影が激しく暴れ出す。しかし、次第にその動きは弱まり、影は霧のように消え去っていった。
沙也香が気を失う直前、微かに達夫の声が聞こえた。
「ありがとう、沙也香……お前のおかげだ……。」
翌朝、沙也香は村人たちに囲まれて目を覚ました。拝殿は崩れ、供え物もすべて失われていた。村人たちは状況を理解できず混乱していたが、沙也香は一つの確信を持っていた。影は消え、村に平穏が訪れるのだと。
それ以来、村では供え物の風習が廃れた。沙也香は時折、風に乗って達夫の声を聞くことがあった。
「もう安心していい。ありがとう。」
それが最後の別れの言葉だった。