「真実」の歩み   作:ライダー☆

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二十七話 副官バルド

 翌朝、ラグナの空は低かった。

 雲が厚く、陽光が届かなかった。それでも街は動いていた。騎士たちの巡回が続き、石畳の上を蹄の音が渡り、荷を運ぶ者たちが無言で行き交っていた。笑い声はなかった。立ち話もなかった。人々は必要最低限の動作だけをして、互いの顔をなるべく見ないようにして、それぞれの場所へと向かっていた。

 ヒエンが一行を連れて行ったのは、城壁の内側、騎士団の詰所に隣接した小さな会議室だった。

 表向きは、ヒエンが定期的に使う作戦会議の間として知られていた。しかし実際には、ヒエンが信頼する者だけを集める時に使う場所だった。窓は一つだけ、外に向いていない。扉は厚く、声が漏れない。その部屋の存在を知る者は、この王都に数えるほどしかいなかった。

 扉を開けた時、中に男が一人いた。

 立っていた。椅子があるのに、立っていた。部屋の中央に、両腕を組んで、壁のように立っていた。

 大きかった。ガランと比べれば話にもならないが、人間としては異様なほど大きかった。肩の幅が、扉枠の幅と大して変わらなかった。首が太く、顎が四角く、額に古い傷跡が一本、斜めに走っていた。年齢は四十の手前か過ぎたあたり——判然としなかった。老けているのではなく、最初からこういう顔をしていたのかもしれなかった。髪は短く刈り込まれ、顎には無精髭が均一に生えていた。鎧は外していたが、その下の体は、長年の鍛錬が刻んだ鋼のようだった。

 

 その男が、ガランを見た。

 

 一秒。二秒。三秒。

 動かなかった。

 しかしその眼が——変わった。驚愕でも恐怖でもなかった。もっと根源的な何かだった。長年培った本能が、目の前の存在を分類しようとして、既存のどの分類にも収まらなかった時の、あの眼だった。それはほんの一瞬だった。しかし次の瞬間には、その眼が静かに定まった。結論を出した者の眼だった。

 

「……ヒエン将。」

 

 男が、低い声で言った。視線はガランから外れなかった。

 

「紹介しよう。」

 

 ヒエンが言った。

 

「バルドという。私の副官だ。この王都で、最も信頼できる男だ。」

「………なぜここにいる。」

 

 バルドは言った。ヒエンにではなく、ガランに向けて言った。その声は低く、落ち着いていた。怒鳴らなかった。しかしその静けさの中に、鉄のような重さがあった。

 

「ヒエン将。なぜ、こんなものを連れてきた。」

「こんなもの、とは聞き捨てならんのう。」

 

 ガランが、おだやかに言った。おだやかすぎて、却って重かった。

 

「……魔人族。なぜここにいる?」

 

 バルドは、一切の迷いなく言った。断言だった。問いかけではなく、確認でもなく——ただ、見て、わかった者の声だった。

 その言葉に、マキシリアが眉を上げた。スプレッドが静かに目を細めた。アンがガランの肩の上でぴんと体を固くした。

 

「……よくわかったのう。」

 

 ガランが言った。

 

「儂を一目見て、魔人族と断じた人間は、そう多くはない。大抵は、でかい何かとしか思わん。」

「私は、知っている。」

 

 バルドは言った。その声に、個人的な重みがあった。蓄積された重みだった。

 

「三十年前——まだ若い騎士見習いだった頃、上官に命じられて古い文書を読み漁る時期があった。聖戦の記録だ。王都の書庫に眠っていた、一般には公開されていない文書群だ。その中に、魔人族に関する詳細な記述があった。体躯の特徴、纏う闘気の質、眼の色、そして——存在そのものが空間に与える影響が、細かく書き留められていた。」

 

 バルドは、ガランから視線を外さなかった。

 

「三十年間、一度も実物を見たことがなかった。しかし——お前が扉から入ってきた瞬間に、わかった。この部屋の密度が変わった。空気が重くなったのではない。空気の格が変わった。人間の魔力使いがどれほど力を持っていても、決して生み出せない種類の圧だ。それは文書にも記されていた。魔人族の存在圧は、生き物としての格が根本的に異なることによって生じる、と。」

 

 バルドの目が、ガランの全身を一度だけ、上から下まで動いた。

 

「文書の記述と、一致した。だから——魔人族と断じた。」

「筋の通った話じゃ。」

 

 ガランは静かに言った。

 

「では、見た上でどうする。剣を抜くか。」

「いや、抜かない。」

 

 バルドは即座に言った。

 

「まだ、お前が何をしに来たかを聞いていない。私は戦場で三十年を過ごしてきた。剣を抜く前に相手を見る、その習慣だけは、死んでも捨てるつもりはない。」

 

 それからバルドは、ヒエンへと視線を向けた。

 

「将。」

 

 その声が、わずかに変わった。威厳は失われていなかった。しかしその奥に、長年仕えてきた者だけが持つ、信頼と困惑の入り混じった色があった。

 

「説明してくれ。なぜこれを連れてきた。私には、わからん。」

「バルド。まず——」

「………いや、やはりいい。」

 

 バルドは、ヒエンの言葉を静かに遮った。それからガランへと向き直った。一歩、前に出た。床が、わずかに沈んだ気がした。

 

「お前に聞く。魔人族。この王都に、何をしに来た。目的を言え。それが全てだ。」

「女神族を探しに来た。」

 

 バルドの目が、細くなった。部屋の空気が、ぴんと張り詰めた。

 

「女神族。」

「この王都の民が、記憶を抜かれ続けている。端から、静かに、確実に。その原因が女神族だ。私たちはそれを追っている。ここはその途中だ。ヒエン殿に出会い、話を聞いた。それで来た。」

 

 バルドは、黙った。その沈黙は長くはなかった。しかし濃かった。

 

「……それが本当だとして。」

 

 バルドは言った。その声は、先ほどよりもわずかに低くなっていた。問い詰める声ではなかった。本質に近づこうとする声だった。

 

「なぜ信じられる。魔人族が人間の味方をする理由がどこにある。聖戦で敵対していた存在が、なぜ今更人間のために動く。」

「ない。」

 

 ガランは、あっさりと言った。

 

「理由など、ない。ただ儂は動く。それだけじゃ。信じるかどうかは、お主が決めればいい。儂がここで何を言っても、お主の中にある答えは変わらん。ならば言葉より行動を見ればいい。」

 

 バルドは黙った。その沈黙の中で、何かと戦っていた。長年培った警戒心と、目の前の事実と、ヒエンへの信頼と——それらが、バルドの中でぶつかり合っていた。大きな体が、微動だにしなかった。しかしその目だけが、激しく動いていた。

 

「……バルド。」

 

 今度はヒエンではなかった。ゴウセルが、静かに言った。バルドの視線が、初めてゴウセルへと向いた。小柄な人形のような存在を、バルドは一瞬だけ意外そうに見た。

 

「君は、シルヴァ王子を、知っているかい。」

 

 その名が出た瞬間、バルドの体が変わった。

 固まった、というよりも——止まった。巨大な何かが、一瞬だけ動くことを忘れたような、そういう止まり方だった。大きな肩が、ほんのわずかに、音もなく落ちた。その一動作だけで、この男の内側に何があるかが、言葉よりも雄弁に伝わってきた。

 

「……なぜ、その名を。」

「「侵入」その魔力で……記憶を抜かれた三十二人の中に、王子の側近だった者がいたということがわかったんだ。」

 

 ゴウセルは続けた。穏やかな声だったが、その言葉の一つ一つが、確かな重みを持っていた。

 

「端から狙われているのは、偶然ではないかもしれない。王子のことを近くで知る者が、意図して消されている可能性がある。王子の失踪に関わる何かを——誰かが、消したがっている。」

 

 バルドの目が、揺れた。

 揺れた——その事実が、この男の内側に何があるかを、雄弁に語っていた。四角い顎が、わずかに動いた。何かを言おうとして、言えなかった。巨大な拳が、ゆっくりと、音もなく握られていった。

 

「……王子は。」

 

 バルドは、絞り出すように言った。その声は、先ほどまでの威厳ある低音とは、根本的に何かが違っていた。剥き出しになった傷口のような、そういう声だった。

 

「王子は、私が戦場に送り出した。私が、隊の編成を担当した。私の判断で、あの霧の中に進ませた。」

 

 誰も、何も言わなかった。

 

「バルド。」

 

 ヒエンが、静かに言った。その声には、責める色がなかった。しかしその一言に、長い年月が凝縮されていた。この事実を知っていたこと。知った上で、四年間、バルドの傍にいたこと。それが、その一言に滲んでいた。

 バルドは、ヒエンを見た。

 

「やはり……将は、知っていたか。」

「知っていた。」

 

 ヒエンは短く答えた。

 

「お前が隊の編成を担当したことも、あの霧の中に王子を進ませたことも。報告書で読んだ。その日のうちに。」

「それでも、何も言わなかった。」

「お前が自分を責め続けているのも、知っていた。」

 

 ヒエンの声は、静かだった。静かすぎるほどだった。

 

「言葉で何かが変わるとは、思えなかった。だから——言わなかった。間違いだったかもしれん。しかし、それが儂の判断だった。」

 

 バルドは、しばらくヒエンを見ていた。その目に、様々なものが浮かんでは沈んだ。怒りではなかった。悲しみでもなかった。それよりもずっと複雑な何かが、あの大きな眼の奥で、静かに動いていた。やがて、視線を床へと落とした。

 

「……戻らなかった。何も残らなかった。遺体も、武具も、共に戦っていた騎士たちの証言も——全部が、霧の中で途切れていた。霧が晴れた時、王子だけがいなかった。私はその日から、何が起きたか調べ続けている。四年間。一日も、忘れたことがない。」

 

 バルドは、そこで一度だけ息を吸った。

 

「ただの戦場での行方不明では、ないと思っている。あの霧が出たのは、あの日だけだった。その霧の質が——普通ではなかった。霧の中に、白銀の光が混じっていた。一瞬だけ。気づいた者は少なかった。しかし私は見た。確かに見た。あれは、自然の霧ではなかった。」

「その白銀というのは——」

 

 ゴウセルが、慎重に言った。その声には、感情よりも先に、冷静な分析があった。

 

「僕たちは知ってる。女神族の魔力に、近い色だ。」

 

 部屋が、静まり返った。

 静まり返った、という言葉では足りなかった。空気そのものが、凝固したようだった。

 バルドの顔が、ゆっくりと上がった。その目に、今度こそ明確な感情が宿った。怒りだった。静かで、深く、四年間かけて岩になった怒りだった。しかしそれと同時に——何かが溶けていく気配もあった。四年間、一人で抱えてきたものが、初めて他者に触れた瞬間の、あの気配だった。溶けていくことへの安堵と、溶けていくことへの恐れが、同時にあった。

 

「女神族が——王子の失踪に、関わっているというのか。」

「断言はできん。」

 

 ガランは静かに言った。

 

「しかし——儂たちが追ってきたものと、繋がっている気がする。ここに来る前、ヨナという街でも、女神族は人間を利用した。街を作らせ、民を育てさせ、その全てを自分たちの力の糧にしようとした。もし王子の失踪に女神族が関わっているなら——それにも、何かしらの目的がある。王子という存在を、何かに使おうとした可能性がある。」

 

 バルドは、その言葉を聞いていた。聞きながら、その意味を、一つ一つ自分の中で確かめるように、処理していた。

 

「……王子が、生きている可能性があるということか。」

 

 その問いは、静かだった。しかしその静けさの底に、四年間が全て込められていた。

 

「わからん。」

 

 ガランは正直に言った。

 

「しかし——死んでいると断言する理由も、今はない。」

 

 バルドは、しばらく黙っていた。

 それから——拳が、机の上に置かれた。静かに、しかし確かな重さで。

 

「私も、動く。」

 

 その声は、短かった。しかし、その短さの中に、全てが込められていた。四年間の問いへの答えが、ようやく形を持ち始めた者の声だった。自分を責め続けた四年間が、今この瞬間から、別の意味を持ち始めたような声だった。

 

「ならば、いざこざは終いじゃな。」

 

 ガランが言った。

 

「……終いだ。ただし。」

「まだあるか。」

「魔人族。お前が、この王都の民に一指も触れるようなことがあれば——」

「わかっておる。」

 

 ガランは遮った。

 

「続きは言わんでいい。」

 

 バルドは、もう一度だけガランを見た。長い間、見た。測るような目だった。しかし、その測りの答えが出た時——組んでいた腕を、ゆっくりと、音もなく解いた。

 それが、答えだった。

 ヒエンが、小さく息を吐いた。この老騎士が、これほど長く息を止めていたとは、誰も気づいていなかった。

 

 

 

 

 

────

 

 

 

 

 

 その日の昼過ぎ、ヒエンとバルドから王都の現状を聞き込むための時間が設けられた。バルドは地図を広げ、被害の出た場所を一つずつ指で示した。その指が大きすぎて、地図の上で細かい場所を示すのに苦労していた。ガランはそれを黙って眺め、スプレッドは地図を覗き込み、ゴウセルは要点を自らの中で整理するように目を細め、マキシリアは腕を組んで壁際に立ったままだった。

 細かい話が続いた。

 その間に、アンが口を開いた。

 

「ねえ、ガラン。」

「なんじゃ。」

「お腹すいた。」

 

 バルドが、地図から顔を上げた。ヒエンが、少し困った顔をした。

 

「……そういえば。」

 

 ヒエンが言った。

 

「何も用意していなかったな。」

「儂が行く。」

 

 ガランが言った。立ち上がりかけた。

 

「あぁいや、いい、いい。」

 

 アンが手を振った。

 

「あたしが行ってくる。市場、この先の通りでしょ。さっき見たから、わかる。」

「一人で行くか。」

「人がいっぱいいる昼間の市場でしょ。大丈夫だって。」

 

 ガランは、アンを見た。

 

「すぐ戻るから。」

 

 アンは言った。

 

「パンと、なんか温かいものと、あとガランの好きそうなやつ。」

「儂の好きそうなもの、というのが何なのか、儂にはわからんのじゃが。」

「あたしにはわかる。」

 

 ガランは、少しの間黙った。それから、小さく頷いた。

 

「気をつけろ。」

「わかってる。」

 

 アンは立ち上がり、扉へと向かった。その背中は小さく、軽やかだった。

 

 

 

 

────

 

 

 

 

 市場は、活気という言葉には程遠かった。

 人はいた。しかし、ヨナの市場とは違った。声がなかった。値段を交渉する声も、売り込みの掛け声も、子供が駆け回る笑い声も、何もなかった。皆が黙って品を手に取り、黙って銅貨を置き、黙って去っていく。市場のはずなのに、どこかが根本的に欠けていた。

 余裕だ、とアンは思った。みんな、余裕がない。

 しかしアンは、それを眺めながら——別のことを考えていた。

 正確には、考えようとして、壁に当たっていた。

 

 自分はいつから、ガランたちと旅をしているのか。それはわかる。どこで出会ったかも、しっかり覚えている。しかし——それより前のことが、出てこない。

 

 どこで生まれたか。

 誰に育てられたか。

 どんな場所で、どんな風に生きてきたか。

 全部、ない。

 

 霧の中を手探りするように記憶を探っても、何も掴めなかった。掴めないどころか、霧そのものの感触すらなかった。まるで最初から、ガランに出会う瞬間から自分の時間が始まったかのような、そういう空白だった。

 

 しかしそれを「怖い」とは思わなかった。

 不思議と、怖くはなかった。ただ——こういう感覚を、うまく名前で呼べなかった。あるべきものがないということを知っているのに、そのあるべきものの形がわからないという、奇妙な感覚。穴が開いているとわかっているのに、その穴の形が見えないから、何で埋めればいいかもわからない。そういう感覚だった。

 そのことに、この市場で、初めて名前をつけられそうな気がした。

 倉庫の中で横たわっていた、三十二人の顔を思い出したからだった。

 あの人たちも——今の自分と、似ているのかもしれない。

 そう思った瞬間、胸の奥が、静かに痛んだ。

 あの人たちは、記憶を抜かれた。外から来たものに奪われた。しかし自分の場合は——何かに奪われたのか、それとも最初からなかったのか、それすらわからなかった。どちらが怖いのかも、わからなかった。奪われたなら、取り戻せる可能性がある。しかし最初からないなら——取り戻すべきものが、どこにも存在しない。

 

 あの人たちの顔が、空だった。

 自分は、空ではない。

 ガランのことを覚えている。スプレッドのことを、ゴウセルのことを、マキシリアのことを。ヨナで食べた豆料理の味を。ガランが照れた時の、あの不器用な横顔を。そういうものが、確かにある。それは誰にも奪われていない。

 それがある限り、自分はあの人たちとは違う。

 そう思うことにした。そう思わなければ、市場の中を歩き続けることができなかったわけではなかった。ただ——そう思うことが、今の自分には必要だった。あの三十二人の顔を見てから、ずっとそう思い続けることが、必要だった。

 パンを一つ買った。焼きたてではなかったが、固くはなかった。次に温かいものを探して、煮込みを売っている露店を見つけた。椀を受け取り、それから——ガランの好きそうなもの、を探して、アンは市場の中をゆっくりと歩いた。

 

 ガランの好きそうなもの。

 

 それを考えると、自然と口元が緩んだ。記憶がなくても、これはわかった。一緒にいれば、わかることがある。言葉がなくても、時間がなくても——一緒にいれば、わかる。それは、記憶よりも確かな何かかもしれなかった。記憶は奪われるかもしれない。しかし、一緒に過ごした時間の中で積み重なった感覚は——もっと深いところに、根を張っているような気がした。

 人波は、それほど多くはなかった。しかし市場の通路は狭く、自然と人が近くなった。

 アンは、石畳の上を歩いた。椀を両手で持ち、パンを脇に挟み、視線を露店から露店へと移しながら。

 その時だった。

 

「……ん?」

 

 人の流れが、一瞬だけ、止まった気がした。

 気がした——だけかもしれなかった。市場の人波が、たまたま途切れただけかもしれなかった。しかし、アンは何かを感じた。感じた、という言葉も正確ではなかった。気づいた、でも違った。ただ——目が、引き寄せられた。

 

 人波の中に、一人の人物がいた。

 

 少年、と思った。最初に見た時、そう思った。しかし次の瞬間には、それが確かかどうかわからなくなった。背丈はアンよりもかなり高かった。十九かそこらの、まだ線の細さが残る体躯だった。しかしその立ち方が——人波の中にいながら、人波に属していなかった。流れに乗っているようで、流れとは全く別のものとして、そこにあった。

 顔が——顔が、見えなかった。

 フードを深く被っていたわけではなかった。帽子もなかった。それなのに、その顔の造作が、うまく頭に入ってこなかった。目はあった。鼻も口もあった。しかし、見た次の瞬間には、どんな顔だったか思い出せなかった。記憶に刻もうとするそばから、砂が指の間から零れ落ちるように、消えていった。

 その人物は、アンの方を見ていなかった。

 前を向いたまま、人波の中を歩いていた。ただ歩いていた。それだけだった。しかし——その歩き方が、奇妙だった。急いでもいない。かといってゆっくりでもない。目的地があるのかないのかも、わからなかった。ただ、確実に、アンの方へと向かっていた。

 すれ違った。

 右肩が、かすかに触れた。触れた、と思った。それだけだった。

 

 アンは、一歩進んだ。

 

 二歩目を踏み出した時——気づいた。

 

 椀を持つ手が、震えていた。なぜ震えているのか、わからなかった。寒くはなかった。怖くもなかった——はずだった。しかしその震えは止まらなかった。

 

 三歩目を踏み出した時——腹に、熱さを感じた。

 

 熱さ、だと思った。最初は。

 しかし次の瞬間、アンは理解した。

 熱いのではなかった。

 熱いのではなく——深く、確かに、何かが刺さっていた。

 椀が、石畳の上に落ちた。煮込みが、石畳に広がった。湯気が、細く立ち上った。パンが、音を立てずに転がった。

 アンは、自分の腹に目を落とした。

 服が、濡れていた。

 赤かった。

 

「あ……」

 

 鮮やかな、透き通るような赤だった。純潔な血は、地に落ちてもなお、わずかに輝いた。その輝きが、石畳の上に、静かに広がっていった。

 アンは、振り返った。

 少年は、もういなかった。人波の中に、最初からいなかったかのように、消えていた。

 市場の人々は、誰も気づいていなかった。皆が黙って歩いていた。誰もアンを見ていなかった。誰も、石畳に広がる血を見ていなかった。

 足に、力が入らなかった。

 膝が、折れた。

 石畳の冷たさが、膝から伝わってきた。手をついた。手のひらに、石の凹凸が刺さった。それでも、痛みという感覚が、どこか遠かった。腹の熱さだけが、確かだった。

 ガラン、とアンは思った。

 声にはならなかった。唇が動いたかもしれなかった。動かなかったかもしれなかった。

 石畳が、近づいてきた。アンの体が、傾いた。倒れる、とわかった。止められなかった。手が滑った。

 石畳に頬がつく寸前、アンの目に映ったのは——自分の血が、石畳の上で静かに光っている光景だった。

 純潔な光が、薄れていった。

 市場の雑踏が、遠くなっていった。

 

 そして——アンは、もう一つのことを思った。

 倒れながら、最後の意識の端で、思った。

 記憶がない自分でも、これだけはわかる。

 ガランが、みんなが、来る。

 必ず、来る。

 その確信だけが——薄れていく意識の中で、最後まで、温かかった。

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