私が見たちょっぴり切ない夢のお話です

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紫煙

寂れたラーメン屋の裏手にある喫煙所。

油の染みたコンクリート床、煤けた灰皿、捨てられたタバコの吸い殻。湿っぽく薄暗いその場所に一人の少女が立っていた。

 

柔らかな髪は肩にかかり、清楚なワンピースがどこか場違いな印象を与える。

だが、彼女の手にはボロボロのセブンスターの箱。拾ったであろうその箱から一本を取り出し、不器用に口にくわえるがライターはない。

 

その時、背後から静かな声がした。

 

「あんまりうるさいことは言わないけどさ、吸わないほうがいいんじゃない?」

 

振り返るとそこには一人の男が立っていた。

無精髭を生やした中年の男。

髪は少しぼさぼさで、身なりもどこかだらしないが、顔立ちは整い、何よりその眼差しにはどこか優しさがあった。

 

少女は無言のまま男を見つめる。

男は軽く肩をすくめると、ポケットから古びたジッポライターを取り出し、火をつけて差し出した。

 

「吸いたいなら吸えばいいよ」

 

少女は一瞬躊躇したが、火を借りてタバコを吸った。

途端に喉に刺さるような苦味と咳が襲う。

だが、男は笑わず、静かにその様子を見ていた。

 

「……なんで火をつけたの?」

「お前が吸うって決めたんだろ?だったら止めるより、一回味わわせた方がいいと思ってさ。」

 

蓮華はその言葉に何かを感じながらも答えず、ただ目の前の男をじっと見つめた。

 

「俺は虎さんだ。まぁ、気軽に呼んでくれ。」

 

「……蓮華。」

 

その日から、奇妙な縁が生まれた。

 

「それにしても、こんな綺麗な嬢ちゃんがこんなとこでタバコ吸ってるなんて、随分と物好きだな。」

 

蓮華は苦笑した。

 

「……物好き、か。まぁ、そうかもね。」

 

蓮華がラーメン屋で働き始めたのは数日後のことだった。

喫煙所で顔を合わせるようになった二人の距離は少しずつ縮まっていった。

 

「蓮華、お前、暇そうだな。」

「……暇なんかじゃない。」

「じゃあ、暇つぶしに皿でも洗えよ。」

 

そうして蓮華は半ば強引にラーメン屋での仕事を始めることになった。

最初は不器用だったが、蓮華は皿洗いや注文取りを黙々とこなした。虎さんも厨房に入っては、客のいない時に軽く教えてくれることもあった。

 

「虎さんって、なんでラーメン屋をやっているの?」

「さぁな。何か理由がなきゃいけないのか?」

「……私の家から逃げてるのと同じ?」

「お前も何かから逃げてんのか?」

 

蓮華は黙り込んだ。虎さんはそれ以上何も聞かず、タバコに火をつけた。

 

そんな日々が続く中、ある日突然、一人の男がラーメン屋を訪れた。

スーツを着た壮年の男性。彼の背筋の伸びた姿勢と鋭い目つきは、一目でただ者ではないことを示していた。

 

「あなたが虎さんか。」

 

男はそう言うと、虎さんに名刺を差し出した。それには「片桐重蔵」と書かれていた。彼は蓮華の父親だった。

 

「娘がここにいると聞いた。彼女を返してほしい。」

 

虎さんはジッポライターを弄びながら、ゆっくりと返事をした。

 

「お前さんの娘、蓮華が俺のところに来たのは、自分の意志だぜ。」

 

「その意志が間違っていると言っているんだ。彼女は私の娘だ。」

 

虎さんは鋭い目つきで片桐を睨んだ。

 

「間違いかどうかは、本人が決めることだろう?それに、お前さん、娘に嫌われてるって自覚してんのか?」

 

片桐は思わず息を呑んだ。だがすぐに表情を引き締め、虎さんに詰め寄った。

 

「……私は蓮華のためにやってきたんだ。いい学校、いい生活、いい未来を用意してやった。何が不満だというんだ?」

 

虎さんは深くタバコを吸い込み、ゆっくりと煙を吐いた。

 

「お前さん、娘のことを本当に知ってんのか?何が好きで、何が嫌いで、何に悩んでるのかってことをさ。」

 

片桐は何も言わず虎さんを見つめる

 

「金と権力だけで娘を縛ろうとするのは、親のエゴだぜ。あんたが娘を取り戻したいなら、まず自分が変わらなきゃな。」

 

片桐は目を伏せ、黙り込んだ。その後、静かに店を出て行った。

 

その数日後、蓮華はラーメン屋を去った。机の上には短い手紙が残されていた。

 

「今まで本当にありがとう。虎さんと過ごした時間は、私にとってかけがえのないものでした。でも、私はやっぱり自分の人生を歩むべきだと思います。だから、行きます。元気でいてください。」

 

虎さんはその手紙を静かに読み終え、そっとタバコに火をつけた。

 

「ったく……余計なことばっかしやがって。」

 

そうつぶやくと、虎さんは手紙を胸ポケットにしまい、ラーメン屋の仕事に戻った。

 

それから十年が過ぎた。虎さんはおじさんと呼ばれる年齢となり、今では地元で愛されるラーメン屋の店主として穏やかな日々を過ごしていた。

店内には古びたメニュー表と、使い込まれた調理器具が並び、カウンターには常連客たちの笑い声が響いている。しかし、虎さんはふとした時に喫煙所での静かな時間を思い出すことがあった。

 

ある日の夕方、暖簾を揺らす冷たい風が店内に入り込んだ。閉店準備をしていた虎さんは、ふと視線を店の外へ向けた。そして、一瞬息を呑んだ。

 

店の前には、一人の女性が立っていた。

 

肩まで伸びた艶やかな髪、洗練されたスーツ、そしてセブンスターのタバコをくわえた姿。その立ち姿は、かつての蓮華そのものだった。だが、彼女の表情には、あの頃にはなかった大人の落ち着きと、どこか懐かしさが漂っていた。

 

蓮華はゆっくりと店内に入ってきた。そして、虎さんの前に立つと微笑みながら静かに言った。

 

「久しぶり。虎さん。」

 

その声に、虎さんは一瞬だけ動きを止めた。だが、すぐに表情を取り繕い、手元の玉ねぎを刻み続けた。

 

「知らねぇな。俺はタバコなんて吸わないし。」

 

それだけ言うと、虎さんは顔をそらし、淡々と仕込みに戻った。だが、背を向けたままの虎さんの肩が、微かに震えていることに蓮華は気づいた。

 

「覚えてないの?未成年にタバコを吸わせた悪いおじさん」

 

虎さんは返事をしない。ただひたすら包丁を動かし続ける。蓮華は少し寂しそうな笑みを浮かべたが、それ以上問い詰めることはしなかった。

 

「ねぇ、虎さん。私、あの時も言えなかったけど、本当に感謝してるの。虎さんがいなかったら、今の私はなかったと思う。」

 

蓮華の声が震えていた。虎さんは手を止めると、深く息を吐き、静かに振り返った。

 

「……元気だったか?」

 

その一言に、蓮華の目から涙がこぼれた。

 

「ええ、元気だったわ。虎さんのおかげで、ちゃんと自分の人生を歩めた。」

 

虎さんはふっと笑い、蓮華に椅子を勧めた。

 

「座れよ。冷えちまうだろ。」

 

蓮華は椅子に腰を下ろし、店内を見渡した。変わらない店内、けれどどこか温かい雰囲気。彼女は深く息を吸い込み、ゆっくりと話し始めた。

 

「虎さん、私ずっと後悔してたの。あの時、ちゃんとお礼を言えなかったことを。でも、あの家に戻って父と向き合う勇気をくれたのは虎さんだった。」

 

虎さんは黙って彼女の話を聞いていた。

 

「父も変わったわ。あの後、虎さんに言われたことが効いたんだと思う。ちゃんと話し合える親子になれたの。それも、虎さんのおかげよ。」

 

虎さんは静かにうなずいた。そして、古びたタバコの箱をポケットから取り出し、カウンターに置いた。

 

「俺もあの頃、お前と話して、救われたんだよ。お前がいたから、このラーメン屋も続けられた。」

 

蓮華の目が見開かれる。

 

「実はいつ泣いて戻ってくるか賭けてたんだぜ」

 

蓮華は静かに微笑み、立ち上がって虎さんの前に立った。そして、昔のようにタバコをくわえながら言った。

 

「ねぇ、虎さん。火、貸してくれる?」

 

虎さんは驚いたように蓮華を見つめたが、すぐにジッポライターを取り出して火をつけた。

 

「おいおい、まだ吸ってるのか?」

 

「貴方と私を繋いだものだからね」

 

二人はそのまま黙ってタバコを吸った。煙がゆらゆらと天井に昇り、かつての喫煙所と同じ空気が流れた。

 

「虎さん、これからもこの店、続けるんでしょ?」

 

「ああ、そうだな。誰が来ても困らないようにな。」

 

蓮華は安心したようにうなずき、微笑んだ。そして、二人の間に再び静かな時間が流れた。

 

外はもう夜になり、街灯の明かりがぼんやりと二人を照らしていた。その光の中で、二人は何度も消えかけた火をつけ直しながら、昔話を語り合った。

 

蓮華の笑顔に、虎さんの涙の跡が玉ねぎのせいではないことを証明していた。

 


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