一般性癖。
……一般性癖だよな?
僕の光側の性癖です。光の性癖です。
え? その「性癖」は誤用だって? うるせえ知ったことか言葉は日々移ろい往くんだよ黙ってろ!!
さて、そろそろ本格的に寒くなって参りましたが、皆さん如何お過ごしでしょうか。
吉良吉影の謂うところの「手」について。即ち性癖ですが、私の場合それは「眼」になります。
眼、良いですよね。丸いし、模様が綺麗で。皆さんはどんな眼が好きですか? 私は王道を征く日本人の黒い眼が好きです。
「眼」本体も好きですが、当然ながら「目つき」や「眼差し」、「目元」も好きです。凡そ眼に関わる表情・感情表現は大体好きです。因みに私のドストライクは「黒髪ストレートロング糸目」なので悪しからず。
日本人は多くの西洋文明圏と違い「目」によって感情表現や自他識別を行う傾向があります。文字通り「目」はヒトそのものを表すのですね。
私が「眼」を好きなのはこういった背景もあったりなかったり。
「眼」が感情表現や人格表現の主体であるならば、「眼」そのものに働きかけることには大きな意味が発生します。そうは思いませんか?
綺麗な眼、黒くてまあるい眼。こっそり取ってしまったら、どうなるんでしょうね?
人間の身体というモノは、ガワだけ見れば殆ど左右対称に作られています。とても綺麗です、美しいです。
さて、私が好きな作品に「ミロのヴィーナス」があります。或いは「日光東照宮」でも良いでしょう。
ミロのヴィーナスは手が無い。それは手が行う人格的表現について無限大の可能性を秘めている──という解釈を目にしたことがあります。正しく、正しく。同意見です。
日光東照宮の逆柱は「未完成の美」の最も分かり易い例と言えるでしょう。「すべて、何も皆、事のととのほりたるは悪しきことなり。し残したるを、さてうち置きたるは、おもしろく、生き延ぶるわざなり。」という事です。兼好法師は分かってらっしゃる。
愛しい愛しいあのコの「眼」…………ちょっとだけ、取りたいですよね。一個取りたい。
くるりと一個、いっこだけ。スプーンか何かで丁寧に繰り抜いて、それだけです。たったそれだけ。
中々趣深いものでして、眼を繰り抜くというたった一つの行動だけで、恐らく彼女は沢山の表情を見せてくれるでしょう。
先ずは「疑問」です。手に持ったスプーンを見て、一体私が何をしたいのか「訝しげに見て」いるはずです。
次は「困惑」でしょうか。スプーンが近づいてくる。すぐ「眼」の前まで。
そこからは、まあ「恐怖」でしょうか。そうであって欲しいものです。「眼」が表す感情表現はこれから半分出来なくなるのですから、その前に沢山の貌を私に見せて欲しいものです。
悲鳴と共に涙を流すでしょう。血涙かもしれませんね。何れにせよ声を出さない奴はNGだ。声だって立派な感情表現の技法のひとつなのですから。嗚呼、血涙と悲鳴の二重奏!
恐ろしい所業ですね。でも美しい。そうでしょう?
全てが終わった後、彼女はどの様な「眼」で、私を見るのでしょう。化物を見るような眼でしょうか。それとも私を見ず、只々絶望と恐怖と悲しみを混ぜて虚空を見つめるのでしょうか。涙を流して。
何れにせよ、もう片眼でしか見れないんですけどね。
ご覧下さい。左右非対称という「美」と、片方の空洞に内包された無限大の「可能性」と、スプーンに掬われた美しい、ガラス玉の様な「眼」を!!
「美しい」と、思いませんか?
でも、「眼」単体では、あの可愛らしい感情表現を魅せることは出来ないんですよね。どう足掻いても。
……私は何がしたかったんでしょう?
手に持った「眼」を見れば、一体私は何がしたかったのか。そこにあるのは只の球体です。確かに見た目はびいどろの様で綺麗です。でもそれはもう、何かを「見る」事は無いのです。
何故でしょうか。その眼は持ち主から離れた瞬間、私の大好きな「眼」ではなくなっていたのです。単なる不気味な「球体」に成り下がっていたのです。
こんなに不思議な事が、あるのでしょうか。
気味の悪くなった私は、その不気味な球体を視界から除こうとするでしょう。
そうして私は、その飴玉を口に放り込むのです。
まあ四捨五入すれば一般性癖だろうさ。