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富士山、と言ったはいいものの、正確にはそこが目的地というわけではない。
いや座標的には——X軸Y軸で表す平面座標的には、それは間違いではないのだけれど——Z軸。
つまり、
殺し名七名・序列七位、石凪調査室の本拠地は——地下にある。
富士山地下一二〇〇メートル——正確には、火道などを避けるために微妙なずれはあるのだけれど、そこにこそ、石凪調査室の本拠地——『死神界』はある。
零崎問識にとって、それは決して良い記憶ではないけれど。
しかし記憶には確かに、その地下都市が刻まれている。
雄大な富士の山のその下に広がる、陰惨なる死の世界の光景が。
「——
言いながら、問識はポケットから携帯電話を取り出した。白と黒のツートーン。二つ折りの、クラシカルなタイプのそれ。ただしクラシカルなのは外見だけの話で、その中身は最新鋭の——あるいは最新鋭の
もちろん市販されているものなんかではないそれは、これまた彼の兄が手ずから用意してくれたもので——そしてその携帯電話を使って電話を掛ける先というのも、また。
「あ、も死も死? 軋識さん?」
件の『兄』へのことだった。
「ああ、うん。いや、別に大死た用事ってわけじゃあないんだけれどね、元気に死ているかな、と。ああ、うん。僕の方は大丈夫だよ。風邪もひいてない死、ご飯もちゃんと食べているよ。……野菜も食べてる。子供じゃないんだからさ……それで、ちょっと聞きたいんだけれど」
兄からの心配の声を聞き流しつつも、彼は話を続け——
「最近、軋識さんの周りで、何か変わったことってない?」
と聞いた。
「……ふぅん、ない、か。そうか。なら、これはやっぱり僕だけのことなのかな……え? なんの話だ、って? いやいや、なんでもないよ、こっちの話。ああ、ごめん。そろそろ
『ちょっと待て、お前なんか変なことに巻き込まれ——』なんて声が漏れ聞こえる電話をぷちりと切り、問識は携帯をしまい直した。ついでにマナーモードに変えておくのも忘れない。
なにせ、そろそろ電車が来る。
電車というか——
『——まもなく、新幹線、かなえ四十四号、東京行きが、十六両で、到着します』
新幹線が。
JR博多駅十二番ホーム。それが、零崎問識の現在地だった。
「ここまで来る間には、特に
なんて呟くのは、殆ど反語のようなものだ。それこそ、あり得ないだろうけれど、とその後に言葉を付け足すような。
先の襲撃を振り返れば、おかしい点はいくつもあった。
襲撃犯のチグハグさはもちろんのこと、まずもって、彼が『石凪砥石』として名指しで襲われた、という時点でもうおかしい。
たとえば、零崎問識としての彼が襲われるのは、逆にわからないでもない。元々
だからこそ、彼が『石凪砥石』として襲われたことには、違和感しかない。
なにせ、石凪砥石には、襲われる理由というものが存在しない。
襲う価値があるほど名高いプレイヤーというわけでもないし、襲わなくてはならないほど危険なプレイヤーというわけでもない。お尋ね者となるような罪を犯した覚えも——それこそ零崎に
強いて言うなら大厄島から何も言わずに去ったことは、明確に契約の不履行だったと言えるけれど——あの後の大厄島の責任者たちが、わざわざ石凪に文句を言ったとも考え難い。実際、それにしては時期が遅すぎる。
そう、遅すぎる、のだ。
石凪砥石の名前を捨てたのは、もう何年も前のこと。彼が成人するより前の話で、だからその名前が出てくるのは、あまりにも今更すぎる。
なんらかの因果がその名前に絡みついていたというのなら、それはもっと早くに襲いかかってきていて然るべきなのだ。
なのに、なぜ今なのだろう?
問識は考えて——
パ————と。
警笛と共に、真っ白い車体の新幹線が、その長く伸びた鼻面を先頭にして、ホームへと滑り込んでくる。
風圧。問識の白い髪が、ばさばさとはためく。
穏やかな減速の末に、列車は停止。音楽が鳴り響くと同時にドアが開き、乗客が降りる。すぐさま乗り込みたいところだが、車内整理がまだだった。それが終わった後、やっと乗車が許される。
「ま、今は考えても
車内整理の終了を告げるアナウンスを聞いて、問識は新幹線に乗り込んでいく。通常の電車にはない、薬っぽい匂いが鼻についた。
プシュ、と排気音を鳴らして開く自動ドアをくぐって、車両内の通路を歩く。始発なので(初電という意味ではない)、空いていた。この車両に限って言えば、ほとんど貸切状態だ。もっとも指定席であるから、関係のない話なのだが。
席は八号車の10E。二人掛け席の、窓際側。
新幹線特有の硬い座席。腰掛ければ、瞬間、ゴウン、と強烈な慣性が働きながら、新幹線が動き出した。窓の外の景色が、俄かにブレる。
隣の席が埋まっていないことを確認した上で直前に買ったから、ある程度ゆったりとくつろげる。少なくとも次の駅以降までは、確実に隣の席は埋まらない。
と、そんな風に思って、彼はゆったりと足を組んだのだけれど——
「すいません」
そんな声が、座席の背越しに、前方からかかる。
男の声だ。なんの変哲もない、若年のそれ。
「あの、座席倒してもよろしいですか」
ああ——と、組みかけた足を戻して、問識は頷く。
「構いませんよ」
今時、律儀なものだな、なんて思いながら、問識は許可を出した。お弁当を食べている真っ最中というわけでもない。座席を倒されて困ることは一つもなかった。
だから、問識がそれに気が付けたのは、座席が倒されるその寸前、彼の脳裏にふと記憶が過ったからだった。
そう言えば、自分が座席を買った時——その前の席は、埋まっていなかったはずではないかと。
「——っ!」
壊れるのではないかと心配になる程勢いをつけて、限界まで一気に座席が倒された瞬間、問識は脳裏に生じた直感にしたがって、咄嗟に首を背けた。
差し込まれたのは——ナイフ。座席を倒した勢いのまま、前方に座っていた男が背後を振り向き、問識の顔面目掛けてナイフを突き出したのだった。
零崎一賊特有の殺意感知——人を殺す殺人鬼であるからこそ、己を殺そうとする殺気にもまた敏感であるという相互性。その特性に救われて、突き出されたナイフを避けられたまでは良かったものの、そこから先が問題だった。
新幹線の座席という、ほとんど身動きの取れない狭い空間で、これ以上の戦闘を行うのは得策ではない。そう考えて、廊下へと転がり出ようとするけれど——一歩遅く。
前方の座席が——ぐるりと
そう、通常、進行方向に対して前向きに、一列に並んでいる新幹線の座席であるけれど——新幹線の進行方向に応じて、その前後が入れ替えられるように、座席が百八十度回転する機構が仕込まれているのだ。
踏み出しかけた足を、咄嗟に引き戻す。前の座席がぐるりと回転し、ボックス状に。座席の前後が入れ替わったことで、相手は問識から見て斜め前——廊下側に陣取る形になった。
面倒だな、と思う。
厄介なのは、場所と距離だ。
新幹線の座席——ボックス型になったことで少しは開けたとは言え、立つ場所にも苦労する極小のリング。前後は座席によって塞がれており——その上問識がいるのは窓際。つまり、横にも逃げ場がない。
唯一の出口である通路側をまんまと塞がれてしまったのは最悪だった。こうなってくると、最初に窓際の席を取ったのが大きなミスであったことを痛感する。戦いは始まる前から終わっている、なんて今更孫子を尊ぶつもりもないが、しかし同じことを己の兄からも言われているのだから、その言葉を尊ばぬわけにもいかない。
これは知られたら軋識さんにどやされるな——なんて内心苦い想いを抱えつつ、しかしそれさえ現実逃避であることを自覚する。
状況は悪い。あるいは環境が、と言い換えてもいいが、いずれにせよ。
この場所、この至近距離で果たして、どこまで戦えるものか——
思いながら左の拳を握る問識に、男はナイフを構えたまま威圧的に言葉をかけた。
「石凪砥石だな」
問いかけというより、やはり断定するような口調で男は言う。年齢は問識よりやや上だろうか。奇しくも同じくスーツ姿。至って普通のサラリーマンと言った風貌だが、迸る殺気がそうではないことを示している。
問識は肩をすくめた。
「誰何するには少死遅いね。間違っていたらどうするつもりだったんだい」
「——死んでもらうぞ」
軽口はまるで無視され、男はナイフを持ったまま飛びかかってくる。鎌——ではない。まあ、振り回せるようなスペースもない狭い車内でデスサイズを扱うなど、自殺行為もいいところだから、不自然ではないけれど——しかし死神は、デスサイズ以外の獲物を扱わないものだ。逆説的に、襲ってきた男はやはり——死神ではない、ということになる。
(全く、何がどうなっているのやら)
しかし——目の前の男がまさに今口にしたように、狙われているのは石凪砥石なのである。果たしてどのような事情で己の
思いながら——迫りくるナイフを捌く。
「ぬるいね」
たとえば彼の下の兄が扱うナイフ——かの異形の一振り、『
いや、人類というステージではおそらく世界最高峰のナイフ使いであろう、彼の下の兄と比べてしまえば、大抵のナイフ使いは赤子同然になってしまうものだけれど、ともかくとして。
零崎問識にとってしてみれば——この程度は脅威のうちにも入らない。
右の裏拳で刃の側面を叩き、ナイフの軌道を逸らす。いなされたと気付いた瞬間、男はナイフによる攻撃を諦め、代わりに伸ばした腕を曲げ、突進する勢いを殺さぬまま肘鉄を狙った。
が、その程度は見え透いている。問識は座席から腰を浮かせ、その突進を迎え撃つように懐に潜り込む。刃すらも無粋となる超至近距離。突っ込む勢いは、双方もはや殺せず。狙いを外された男に対し、問識は
だからこそ——放たれた左の拳は、過たず男の右脇腹を穿った。
「ご————」
苦悶の吐息が漏れ落ちる。
強烈極まるレバーブロー。至近距離戦闘を見越し、
内臓を抉り抜かれる痛みと苦痛により、ほんの一瞬、男の動きが止まる。
その隙を見逃す問識ではなく——ごきり、と。
男の首をへし折り、決着を付けた。
「まったく——嫌になる」
眉を顰めて、問識はスーツの皺を伸ばし、男の死体を乗せたまま座席を回転させた。
男の姿勢を整えて、寝ているように見せかける小細工も忘れずに、だ。
席に座り、やっと落ち着けるか——というところで、新幹線が減速する。体に感性力が働くのを感じながら、問識は今度こそ足を組んだ。
『小倉、小倉です。ホームと列車の間に隙間がありますので、お降りのお客様は——』
アナウンスを聞きながら、砥石は思う。殺したのは失敗だった。咄嗟に、殺せるチャンスが来てしまったものだから、
「僕もまだまだだな」
精進が足らない。修行不足を痛感する。それも、どちらかと言えばフィジカル面より、メンタル面の、だ。もう若くもないつもりなのだけれど、しかし血の気はなかなか少なくなってはくれない。
そんなことを考えているうちに、再び、発車のアナウンス。
ぐ、と体に慣性力がかかるのを感じながら、問識はそれとなく周囲を探る。
近場に殺気の気配はない。まずそもそも乗客が少なく、問識の近くに座った人間はいなかった。死体も、バレてはいないようだ。いきなりケチがついたはものの、ここからしばらくは、安心して旅を楽しめそうである——なんて。
「失礼」
そう思った隙を付くように、小さな言葉と共に、隣に人がやってくる。
「……席を間違ってはいないかい?」
小倉を発車してなおも、車両は未だがらがらだ。一列完全に空いている席の方が圧倒的多数である。
だからこそ、わざわざ埋まっている席の隣を——しかも通路側を取るような客なんて、いるはずもない。
いたとすれば余程の変わり者か、あるいは、何か明確な目的があるか。
「間違ってはいませんよ」
ほら、なんて確かにその席番号が刻まれたチケットを見せながら、
彼女。
そう、女だ。
年頃は若い。問識よりは上に見えるが、三十を超えてはいないだろう。
服装は、白い、夜会にでも出向くような優美なドレスに、同じく白のハイヒール。
裸眼。ヘーゼルの虹彩。後頭部を刈り上げた、耳の上までの短い金髪。その下には、巨大な三日月型のイヤリングが揺れる。
外国人……だろうか? 目鼻立ちは確かに、どこか異国情緒を感じさせる。その割には完璧な日本語だったが、あるいはハーフやクォーターかもしれない。
どちらにせよ——
「失礼でせうが——石凪砥石様でございませうね」
その女が、ただの変わり者ではないのは確かなようだった。
「……本当に、
「存じておりませうよ、砥石様」
存じてねぇじゃねぇか。
口汚い言葉が喉元まで競り上がった。
「わたくし、
傭兵、か。
予測していた展開とはいえ、厄介なことだ。
表情には出さないが、舌打ちをしてやりたい気分だった。
一人目を撃退したかと思えば、即座に二人目だ。休む暇もない。
悪いことは続く——なんて思った問識だったけれど、しかしある意味では、情報源が向こうから来てくれたとも言えるわけで、悪いことばかりではない。無論、情報源として扱えるのは、生かしたまま無力化できれば、の話であるけれど。
隣同士という至近距離。殺さずして、どうやってこの女を無力化するべきか。
と、思考を巡らせ始めた問識に。
「おっと、勘違いしないでくださいませ。わたくし、石凪砥石様の敵ではございません」
なんて、冷や水がかけられる。
「……それは、零崎問識の敵ではある、みたいな話かい?」
「ほほ、面白い冗句でございませう。そのような言葉遊びをするつもりなど毛頭なく。あなたがどなた様であろうとも、
味方——と。
仙瓩おとふは、そんな風に言って見せた。
「味方?」
「ええ、私は砥石様と戦うためにではなく、むしろその逆。砥石様を守るためにこそ、ここにやってきたのでございませう」
よりにもよって、守るため、と来たか。
守る? 零崎である——殺人鬼である問識を?
それこそ、面白い冗句というものだ。無論、笑いが漏れることなどあるまいが。
問識はほんのわずか、おとふから意識を逸らして、周囲を確認する。
万が一——目の前の女の宣う言葉が、僅かにでも真実であるのならば、つまり問識には守られる理由が——狙われる相手がいるという意味になる。すでに一人、その実例と出会っている以上、警戒を怠ることはできない。
「真実でございませうよ、砥石様。わたくしは、並み居る敵どもをばったばったと薙ぎ倒し、砥石様の御身をお守りし、『わあ、おとふちゃんったらすごーい!』と言っていただくためにこの新幹線に乗ったんでせう」
「………………」
いや、言わないが。
仮に全てが真実だとして、この女に身を守られたのだとしても、問識は決して、口が裂けようが体が裂けようが心が裂けようがそんなことは言わないが、ともかくとして。
「つまりきみは、
あるいは『おとふちゃんすごーい!』と言ってもらうために?
どこぞの兄が聞いたのならば、『傑作だ』と吐き捨てそうな話だが。
「いえいえ、褒め言葉は重要でございませうが、まさかそれだけのためにタダ働きというのは流石にできません。わたくしとて、霞を食べて生きているわけではないのでせうからね。でせうから、ここに来たのはむしろ、
売り込みが上手くいったから?
それは、つまり——
「お察しの通り、わたくしは
「馬鹿馬鹿しいね」
問識は肩を竦めた。今度こそ、信じる気が完全に失せた瞬間だった。
「いったい誰が、そんな指令を出すっていうんだい? あいにくとだけれど、僕の『家族』に、そんなことをする奴は一人もいないよ」
まず軋識という線は絶対にあり得ない。あの人が、家族のことで一賊外の傭兵を頼るなんてことは天地がひっくり返ったってあり得ない。それだけ彼は『零崎』を重く捉えている。重く捉えすぎているくらいに重く捉えている。
そして、下の兄や姉に至っては論外だ。
彼らにそんな金はない。あってもこんなことには使わない。
つまり真横に座る彼女が言う、誰かに雇われて問識を守りに来た、という言は完全な嘘ということになる。なにせ、それをするような人間がいないのだから。
なんて——問識の考えは。
「おやおや、寂しいことを言われませうね」
その直後にこそ、完膚なきまでに打ち砕かれることになる。
「あなたの
父、と。
彼女はそのワードを、問識に伝え。
問識は。
その言葉を聞いて——完全に、フリーズした。
その空白に差し込むように。おとふは言葉を続ける。
「あなたの御父上様——石凪
石凪墓石。
それは石凪調査室の
石凪の最高権力者たる、死神を殺す死神。
もっとも死神らしい死神と呼ばれながらも、しかし死吹の女と番った究極の異端者。
零崎問識ならぬ——石凪砥石の実父。
そして己が子たる砥石を半端の死神もどきと蔑み、ついには闇口へと
零崎問識の知る石凪墓石とは、そんな男であった。
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