◆ ◆
電話がかかってきた時、ワンコールで出られたためしがない。彼にとって、電話は一度切れてから、二回目にかかってきて初めて手に取るものである。
今回も、だからつまりそうだった。苛立ちをアピールするように十数回。コール音が鳴り響いた後に一度切れて、二度目。かかってきた電話の七コール目で、彼はやっと電話を手に取った。
「——あ〜〜……もしもし?」
暗闇の中、自分が今どこにいて、どうやって電話を取ったのかもわからずそれに出る。酷く酒焼けした声が出て、自分自身で驚いた。
昨日は酒を……飲んだんだっけ? それすらも、酷く曖昧だ。脳髄が蕩けて揮発してしまったんじゃないか、なんて、そんな錯覚をすら覚えるほどに。
どうも、自分の頭は酷い役立たずになっているらしい。どこかに残っている、冷静な自分の一欠片がそんな客観視をもたらして、けれどそれすら次第に消え失せていく。
『——×××××××××××××××××?』
受話器の向こうから聞こえてきた最初の一言は、まったく聞き取ることができなかった。耳の中で酷く反響して、キンキンと、虫の鳴き声のようにしか聞こえなかった。
「なんだって? ああ、聞こえないんだよ……もう一回、言ってくれ……」
掠れた声で言えば——
『四四二三』
その声が。
酷く澄んで、聞こえる。
『番号は、四四二三だ。
話はそれからだ——
そんな風に言われて——一瞬の思考停止ののち。
暗闇の中、彼は飛び起きる。勢いのままベッドを降りようとして、落下。膝と顔を、床に強かに打ち付ける。痛みは感じなかったが、どうも、感覚がおかしい。そうか、ベッドではなく、ソファで寝ていたのだ。立ち上がるために肘掛けに手をついて、彼はようやくそれに気が付いた。
立ち上がって、すぐさま、部屋の電気もつけないまま、廊下に飛び出る。開けっぱなしのトイレから、つけっぱなしの灯りが漏れ出て、廊下をか細く照らしていた。その終端。玄関のドアのすぐ手前に——一つの、黒々としたアタッシェケースがある。
手足がもつれて転びながら、すがりつくようにアタッシェケースに飛びついた。その開け口には、ダイヤル式のロックがかけられている。
「よ、四四二三……四四二三……四四二三!」
伝えられた数字を、譫言のように呟きながら、彼は震える指で必死にダイヤルを回す。ああ、指が言うことを聞かない。うまくダイヤルを回せない。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。思いながら、それでも必死にダイヤルを回して——
がちゃり。
音を立てて——ロックが開いた。
「はぁああああ〜〜〜〜————!」
情けない感嘆の声が、涎と共に口から漏れ落ちる。
アタッシェケースの中にあったのは——五本の注射器だった。
震える手で、彼はそのうちの一本を掴み取り、針のカバーを乱雑に外して、そのまま腕の静脈に針を突き立てる。慎重にプランジャを押し下ろし——内部の薬液を、血中に取り入れていく。
どくり、どくり、どくり——心臓の鼓動が、腕から入り込んだ薬液を全身へ——脳へと送り出し——
「ぁぁぁぁぁあああああああああああ————!」
電撃のような快楽と共に——思考が、クリアになっていく。
「はっ、はっ、はっ、はっ、は——!」
荒い息を繰り返す。そう、酸素が足りていなかった。呼吸が弱くなっていたのだ。そんなことに、今更気が付いた。
「はー、はー、はー——!」
少しずつ呼吸のペースを落として——ゆっくりと。
彼は立ち上がる。
「あぁ……」
首を回す。思考は澄み渡り、体はソワソワと動き出したくなるような焦燥に駆られる。彼はこの感覚が嫌いではなかった。
彼が今取り込んだのは——メタフェノイド系トリフェチルクリスタルの亜種に当たる興奮剤——いわゆる覚醒剤の
「いつぶりだ? 正気に戻ったのは……」
彼は言って、うねる髪をかきあげる。少し匂う。まともにシャワーを浴びたのは、もうずいぶん前のことになる。
確か二週間前に、最後の薬がなくなったはず。その後アタッシェケースが届いたけれど、その時にはもう頭がダメになっていて、簡単なダイヤルロックすらも開けられないくらいになっていた。
「とりあえず、電話だ」
放り捨てたスマートフォンを、部屋に取りに戻る。電気をつければ、机の上に夥しい量の酒瓶が転がっていた。もうそんなもので酔える体質ではなくなっているのに、愚かな限り……正気の間は、そう思えるのだが。
ソファの足元に落ちていた電話を手に取る。驚くべきことに、通話はまだ継続中だった。我慢強いやつだ。思いながら、彼はそれを耳に当てる。
「もしもし?」
『正気に戻ったか』
「おかげさまでね」
くつくつと笑う。薬で手に入れたような正気を、本当に『正気』と呼んでいいのかはわからなかったけれど。
「んで、電話の理由は? 追加の薬を売ってくれるって話なら大歓迎だぜ——解知」
解知、と。
彼は電話の向こうの声をそう呼んだ。
奇野解知とは、もう長い付き合いだった。『キマる』薬を色々と試しているうちに、あれよあれよと深みにハマり、気が付けば奇野師団謹製の薬でなければ効かないほどに薬剤耐性が付いてしまった。以来、解知と彼は深い関係にあり続けている。——売り手と買い手として。
『くく、喜べよ。大当たりだぜ』
その言葉に、彼は思わず笑みを浮かべる。やった。次の薬が手に入る。五本ぽっちじゃ、三日と持たない。薬が欲しい。もっと薬が。薬が薬が薬が薬が薬が薬が薬が——
「一本五十万までは出す。売ってくれ」
『五十万?』
「おい、嘘だろ? 安いなんて言ってくれるなよ」
薬効は破格の劇物とは言え、それでも一本五十万は凄まじい高値のはず。それで売らないなんて、まともな神経をしていればありえない。自分より優先するべき太客なんていないはずだ。そうだろう? そうであってくれ——彼は祈るが、しかし。
『残念ながら、今回は金じゃ売れないぜ』
返ってきたのは、意外な言葉だった。
「……つまり?」
『仕事をして欲しい』
思わず、口の端が吊り上がるのを感じる。実のところ、それは彼に取って、金を出せと言われるよりも遥かに望ましいことだった。金を得るためには、仕事が必要だが、わりのいい仕事というものはなかなか転がってはいないものだ。
「へぇ、仕事か。仕事ね。だが、そうだな。安い仕事じゃあ、受けれないぜ。最低でも、百は積んでくれなきゃ——」
『五百本』
交渉を始めようとした彼の耳に——耳を疑うような一言が放たれる。
『仕事の報酬として、同じ薬を五百本、手配しよう』
そんな風に言われて——手が震える。それは断じて、禁断症状によってではなく。
「良いのかよ、そんなに大盤振る舞いして——」
問い掛ければ、けれど返るのはくぐもった笑い声。
『良いぜ。それどころか、そうだな。それに加えて、十本。おまけの薬を手配しよう。これはこれまでのより遥かに『ぶっ飛ぶ』やつだ』
「へぇ、試供品ってか」
あるいは、それでさらに自分を中毒にさせよう、という魂胆か。そんなわけがない。今の薬は十分効いていて、これなしでは正気を保てない程度には中毒だ。すでに、自分は彼に取って『型に嵌めた後』の良客のはず。ならば、そこまでのサービスをする理由は——
「よほどきつい仕事をやらせようって?」
『そんなところさ』
悪びれもせず頷かれ、思わず彼は笑ってしまう。今更自分が立ったままだったことに気がついて、ソファにどかりと座り込んだ。
「ターゲットは?」
『——零崎一賊』
その言葉に、彼は「ひゅう」と口笛を吹いた。
零崎一賊——零崎一賊か。想像以上のビッグネームだ。殺し名序列第三位にして、けれど殺し名呪い名十三名を合わせた暴力の世界のどの勢力よりも遥かに忌み嫌われ、絶対に敵に回してはならないとされる禁忌の一賊。理由なく人を殺す『殺人鬼』の一賊にして、一度身内が害されたとなれば、その原因を——その原因に連なる全てを
そして——仲間同士を血が繋がってもいないのに『家族』だのと呼び合い、仲良しごっこに勤しむ悪党ども。
「くく、零崎一賊ね」
彼は思わず、笑いを漏らす。零崎一賊、ああ、零崎一賊。真っ当な神経をしていたら、そんな相手にはまず挑みはしないのだろう。
だが——
彼に取っては真っ当な神経など、とっくの昔に壊れた回路だ。
「いいぜ、受けてやるよ」
平然と。
彼は言った。
「前々から——ぶっ殺してやりたかったんだよ。連中みたいな悪党を」
そう、なんて言ったって——己は、正義の味方なのだから。
殺人鬼だなんて悪党は、正義のために、殺さなければ。
「場所を教えろ、解知。俺が正気であるうちにな」
彼は言って、羽織っていたボロのシャツを脱ぎ捨てる。
その内側、裸の上半身の左胸には、『正義』の二文字が消えぬ焼印として刻まれていた。
「零崎一賊、なにするものぞ。悪党どもは皆殺しだ。この俺——
かくして——殺し名・序列第四位、正義のために殺す『始末番』——『薄野武隊』より、薬物中毒の正義の味方——薄野定議が参戦する。
殺人鬼、怪談、正義の味方。
そして裏に隠れる病毒遣い。
死するは二人。
叶う望みは、ただ一つ。
◆ ◆
問識が集団を鎮圧するのには、ものの五分も掛からなかった。薬で身体能力のリミッターを外した一般人。そんなものに遅れをとるほど、問識は耄碌してはいない。鎮圧に五分もかけてしまったのは、だから彼らを万が一にも殺さないためでしかなくて、それさえなければ、きっとかかった時間は十分の一以下だっただろう。
「こいつらは全員、ただの被害者というほかないね。薬で操られているだけの素人だ。黒幕の情報は持ってないだろう」
「黒幕——奇野師団、ってやつか」
「そう。呪い名序列第三位。『感染血統』奇野師団。タチの悪い病毒遣いどもさ」
全く、なにが悲しくて僕達に喧嘩なんて売ってきたんだか——と呟いてふと、本当に、それが大いなる疑問であることに問識は気付いた。
戦端が開かれた時には、馬鹿なことをしてくれた、と思ったものだけれど、しかし実際のところ、本当に相手が馬鹿だから挑んできたなんてことはあり得ないだろう。
ただでさえ、奇野は呪い名——非戦闘集団だ。争いを嫌うのが彼らで、戦いを厭うのが彼ら。徹底してリスクを避け、リターンのみを掠め取るのがやり方のはずで——今回の戦争は、それから大きく外れている。
いくら零崎一賊が、旧時代の末期、橙色の暴力に襲われ、壊滅同然の状態になっていたからと言って——それを排除して、奇野になんの得がある?
そうだ、前提からして、それはおかしい。勝ち目がある、ように見えたのだとしても——勝つ意味がないのなら、戦うだけ無駄だ。
誰かに雇われた? 否、否、否——奇野はそれなりに金満集団だ。もちろん匂宮の如くにとはいかないけれど、しかしそれでも、『毒と病のプロフェッショナル』として、それなりに多く、金蔓は抱えている。そんな彼らが、わざわざ零崎一賊と——なんらかの集団と『敵対する』というリスクを抱えてまで金目当てに動くわけがない。
ならば——なんだ。
顎に手を当てて、問識は考え込む。
あるいは——いるのか。
裏に、糸を引く誰かが。
零崎一賊と奇野師団の敵対という図画を描いた誰かが?
だとしたら。
あるいは素直に戦争を続け、奇野師団を殲滅し切ることは。
本当に零崎一賊にとってプラスたり得るのか——
「——大丈夫か?」
と。
考え込み始めた問識に、怪談百面相は心配そうに声をかける。
「……ああ、いや、なんでもないさ」
首を振る。そう、それは今、考えるべきことではない。少なくとも今のタスクは、怪談百面相を無事に『この世界』から逃すことだ。別の世界に
「とりあえず、移動死ようか。同じ場所にいつまでも止まっていても、いいことはない死ね」
被害者たちを放置して、問識たち三人は裏路地を経由し、大通りに出る。夜ゆえにだろう。人通りは少なく、車通りは多い。ガードレールなしの歩道を歩くのは、少し不安になるくらいに。
「ところで美味しきさん」
話しかけてきたのは八九寺真宵だった。
問識は振り返りながら言う。
「も死もそれが僕のことを呼んでいるのなら、僕の名前は零崎問識だと訂正させてもらおうか」
「失礼、噛みました」
「そうかい。ま、あまり聞く名前でもないだろう死ね」
「……どうしましょう阿良々木さん! この人天然です!」
「ああ、僕も驚いているぜ。まさかお前の持ち芸をスルーできる人間がいるなんてな」
これが殺人鬼ってやつか。恐ろしいです……。二人の怪異はヒソヒソと語り合う。
「なんなんだか知らないけれど、一度名前を呼んだつもりなら要件を教えて欲死いところだね」
大通りを歩きながら、問識は言う。なんとなく、会話の出しにされている感覚が気に食わなかった。
「ああ、すいません。その、問識さんには、なぜ私が見えているのかな、と思いまして」
「……ふむ?」
それはつまり、どう言う意味なのだろう? もしかして、八九寺真宵は幽霊だから、霊感がないと見えないはずだ、とか、そんな話か? もしそうなら、あるいはそれは問識が元死神であるからかもしれないが——
「いえ、そうではなく——本来、迷い牛は『家に帰れない』人がこそ行き逢う怪異なんですよ」
家に帰れない——帰りたくない。
そんな心の隙間にこそ、迷い牛は取り憑いて——人を迷わす。
望み通り、家に帰れぬ様に。
返さぬ様に、迷わせる。
「ふむ、それがどうして、僕に見えたらおかしいんだい?」
「その、聞いているお話だと、ずいぶんご家族と仲が良さそうだったので——それなのに、どうしてかな、と」
それを聞いて——ああ、と問識は納得する。
それは——そうだろう。それこそ、自分が元死神だからこそ、だ。
「零崎一賊のみんなは家族だけれど、同じ家に住んでいるってわけじゃない。家族として繋がっていても、魂の帰る場所は同じでも——その先は、『家』じゃないんだ」
問識は言う。
「僕たちの『家族』という概念は、血のつながったそれじゃない。実を言うと、僕は過去、零崎ではない、血のつながった家族がいて——それを捨てているんだ」
思い出すのは、だからあの富士山の地下。ガス灯が照らす石畳。回る歯車とレンガのビル。——死神界。今は滅びた、『石凪調査室』の本拠地。
かつて零崎問識ではなく、『石凪砥石』であった彼の——今は亡き故郷。
そこに、問識の魂は帰らない。
きっと、だからだろう。問識に真宵が——迷い牛が見えているのは。
「そちらの家には、帰りたくないんですか?」
「僕はもう、零崎の人間だからね」
石凪としての己は捨てて。
石凪としての家族は捨てた。
あるいはもう一つのルーツ——死吹としての、家族も。
それを言えば——けれど真宵は首を傾げる。
「……家族が二つあっちゃ、いけないんでしょうか?」
その問いに。
思わず問識は——足を止めた。
「家族が——二つ?」
そんな発想は、問識にはなかった。
けれど、それは。
それは矛盾ではないだろうか?
それは……。
それは裏切りでは——ないのだろうか。
思う問識に、真宵は畳み掛ける様にいう。
「昔、私の家族は二つに割れてしまいました」
お父さんと、お母さん。二人は、きっと二度と結ばれることができないほど決定的に決裂して——真宵の家は、二つに割れた。
引き取られた父の家と、そして引き裂かれた母の家。
けれど。
真宵にとって。
二つの家は、どちらも大切な家族のそれで——だから。
その日、彼女はお母さんに、会いに行ったのだ。
「……僕は」
その話を聞いて。
問識は少しだけ——何かが揺らいだ。
それまで分かった様な気になっていた何かが——わからなくなった。
足を止めたまま。
問識は動けなくなって——
だから、それが致命的な隙だった。
「——は?」
だからその光景を、怪談百面相はとてもじゃ無いが信じられなかった。そんなことが起こるなんて、
それは当事者たる零崎問識にだって全く同じことで、我が身にそんなことが、
だからその中で唯一、
八九寺真宵が——八九寺真宵だけが、いつだってそれを本気で恐れていた。だって、そうだ。八九寺真宵にとって、それはどこかの誰かに降りかかるものではなく、我が身にこそ降りかかったものなのだから。だから、彼女はいつでも警戒していた。道を歩くときには——交通事故に、警戒していた。
「——問識さん!」
絶叫のような悲鳴と共に、手を伸ばす。けれど、できたのはそこまでだった。
もしも——もしも八九寺真宵が幽霊でなかったのなら。
迷い牛でなかったのなら。
あるいはその手も届いたのかもしれない。
けれど、八九寺真宵は幽霊で。
迷い牛で。
その肉体は、死したそのとき——小学五年生の体から、一つも成長してはいなかった。
だから、その子供特有の短い腕は、どれだけ伸ばしても零崎問識には届かなくて——
彼の体を。
激突。物体が破壊される、凄まじい破砕音。
見れば。
突っ込んできた車は付近のビルの壁に激突し、そのバンパーもろともコンクリートの壁面を破砕し。
その傍には——撥ね飛ばされた血まみれの零崎問識が、アスファルトにぐったりと転がっていた。
「な——」
駆け寄ることすらもできず、立ち竦む。だって、そう。人が——たった今、共に連れ立って歩き、会話をしていた仲間が——轢かれたのだ。その衝撃は、思考を真っ白に染めるには十分すぎるものだった。
「っ、問識さん!」
一拍遅れて、名を呼びながら駆け寄ったのは、だから怪談百面相ではなく、またも八九寺真宵だった。
彼女はぴくりとも動かない問識に駆け寄って——その傷の惨憺に表情を歪める。へし曲がった腕に、骨が飛び出た膝。内臓に損傷があるのだろう。口から大量の出血があって、そのほかにも、大小無数の傷が全身に刻まれている。
「と、問識さ——」
呼びかける声が、震える。フラッシュバック。己の死——かつて、生き別れた母親に会いに行ったあの日。己を轢き殺した車のライトを、思い出す。膝が震えて、涙がこぼれて——
「——地上げ屋が建物に車で突っ込む時は、バックで突っ込むもんだってのは聞いた話だったけどよ」
どご、と。
歪んだドアを無理やり開けて——車の運転席から、一人の男が降りてくる。
「その理由がわかったぜ」
真正面から突っ込むと、首がいてぇのなんの——
首を回しながら、男は笑う。
背の高い男だった。
ケミカルウォッシュのジーンズに、踵の高いのウェスタンブーツ。裸の上半身に、直接羽織られるレザージャケット。開いた胸元、右胸に大きく刻まれる、『正義』の二文字。
肩口まで伸ばされたうねりのある髪に、日本人にしては堀の深い、野生味あふれる顔立ち。顎にはまばらな無精髭。食いしばった歯が、ギシリと揺れて。
「よう、よう、一つ聞きてぇんだけどよ、そこのお坊ちゃん」
男はフラフラと落ち着きのない動きで、立ち尽くす怪談百面相へと近づいていく。
「怪談百面相ってのは、お前かい?」
問われて——百面相は目つきを鋭くする。
「お前、何者だ」
「おいおい、なんだよ。そんなに怒るなって」
「ふざけるな、お前、人を轢いておいて——」
「なんだ、目の前で人が死ぬのは初めてか? お坊ちゃん。
言って、男はへらりと笑う。
「何より——俺がたった今
「何を——」
「『殺人鬼』だ」
どうしようもない、悪党さ——と、男は笑みを崩さぬままに両手を広げた。
「自己紹介をしておこうか。俺の名は——薄野定議。
正義のために殺す——『始末番』。『薄野武隊』が一員——薄野定議。
彼は自ら、そう名乗った。
「勘違いしないでくれよ、お坊ちゃん。俺は人殺しの悪党を始末しただけだ。俺の殺しは正義の殺し。救いようのない悪党を、この世から始末しただけにすぎない」
たった今、己が成したのは、
「薄野……奇野、じゃ、ないのか?」
「くっくっく、なんだよ。薄野が奇野と組んでちゃおかしいかい?」
本来、呪い名としての『奇野』と殺し名としての『薄野』は、対極に——否、
お互いにとって、お互いは不倶戴天の敵であり、まさかその二つが手を取り合うなんてことは、万に一つもないはずなのだけれど——しかしそんな事情を、『暴力の世界』の住人でない怪談百面相は知らない。
純粋に、敵だと聞かされていた奇野ではない姓が出てきたことから、疑問に思っただけのことだ。
「ま、そんなことはどうでもいい。それよりも——怪談百面相」
彼は言って、手を差し伸べる。
「俺について来てくれないか?」
なんて言って、穏やかに。
「クライアントから口を酸っぱくして言われていてね。お前のことは、生け取りでなくちゃならんのだとよ。万が一にも殺すわけにゃあいかんからな。大人しく捕まってくれりゃ、それが一番ありがたいし、お前も無駄に痛め付けられずに済む。俺は疲れず、クライアントも大満足。三方よしってやつさ。どうだ?」
なんて問われて——百面相は、その瞳を凍て付かせた。
「……よくわかったよ」
「おお、わかってくれたか——」
「お前がどうしようもないゲス野郎だってことがな」
何が正義の味方だ——ふざけやがって。
怪談百面相。かつて阿良々木暦の名で呼ばれた彼は、手刀を構える。
人間のように。
怪物のように。
鬼のように。
怪談のように。
「……あー、なるほどね」
ガシガシと後頭部を掻きながら、定議は深々とため息をついた。
「結局——お前も悪党だ、ってわけだ」
所詮は怪物、人の敵か。
彼は呟いて、懐から注射器を取り出した。
「仕方ねぇ。生け取りは苦手なんだが……ま、不死身だって話だし、多少加減をミスっても、死にゃあせんだろう」
言いながら、彼はその注射器の針を、自らの首筋に突き刺した。
そして内部の薬剤を、注入する。
ふー、と。
熱い息を吐き。
充血した目で——敵を見つめる。
「『
「言ってろ」
味方を欠き、されど単身、百面相は戦いに挑む。
『
それはともすれば人の世を守る正義の味方と、人の世を脅かす怪異との対決なのかもしれず——いずれにせよ。
戦いは始まる。
それを望んだのが、誰であるにせよ。
同人誌版『零崎問識の人間問答』、BOOTHにて通販開始しました。
173mm×103mm・二段組、208ページ
書き下ろしおまけ付き
表紙・挿絵担当:沃懸濾過
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また同人誌版『零崎人識の人間関係 匂宮出夢との追憶』の再販もありますので、そちらもチェックしていただければ。
https://konnyansha.booth.pm/items/6505524