零崎問識の人間問答   作:忘旗かんばせ

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零崎問識の人間関係 怪談百面相との関係 4

 

 ◆   ◆

 

『今夜、会えない?』

 

 そんなメッセージを恋する相手へと送ったのは、だからちょうど、薄野定議が零崎問識へ向けて車で突っ込んだ瞬間だった。

 

「やるねぇ、あいつ」

 

 鏡の前で自らの姿を確認しながら、解知は言った。洗面台の脇には、外されたアクセサリーが乱雑に並べられている。片手にはスマートフォン。その画面には、メッセージアプリと並行して、ドローンからの中継映像が流れている。

 

「零崎一賊特有の、殺意への超反応……万能と思いがちなそれも、所詮は直感であってセンサーじゃあない。隙(・)は(・)あ(・)る(・)。零崎一賊はヒトデナシの殺人鬼じゃああっても、ロボットじゃあないんだ。生きているならバイオリズムがあって、つまりはムラがある」

 

 ムラがあるなら——殺せもする。

 それが解知の取引相手——薄野定議の出した結論だった。

 

「車で轢くってのは、なかなかどうして妙案だよな。一見して単純だが——必殺の威力に必中の速度。派手すぎるって点を除きゃあ、暗殺としちゃ一級だ」

 

 時速二百キロ近くで突っ込んでくる鉄の塊をどうこうする術を持っているようなプレイヤーはそうそういない。それこそ暗殺としてこれに勝るのはライフルによる遠距離狙撃くらいのものだろうか。いや、かつて零崎一賊の伝説の一人、零崎軋識は、その釘バットによって迫り来るライフル弾を易々と打ち返し、距離一キロを超える超長距離狙撃からさえも平然と生き残って見せたという。ならばむしろ、それは悪手だろうか。

 

 いずれにせよ——今回は。

 今回の暗殺は、上手くいった。

 

「零崎問識は死に体。残るは怪談百面相」

 

 状況としては、王手飛車取りというところだが——しかし問題は。

 

「この王は、動ける王だってとこだよな」

 

 捕えるのはきっと、容易ではないだろう。

 

「——やっぱ、後詰は必要、か」

 

 呟きながら、解知は帽子を被る。鏡の中でにっこりと笑ってみれば、人好きのする笑顔。

 

「念の為、念の為ね——」

 

 一通り、表情を試しながら、腕に線を引いていく。

 

「この辺……いや、もちょっと上か?」

 

 線を引き終えて、解知はスマートフォンの映像を切って、通話アプリを呼び出した。

 

 そして——コール。

 

(和平を待ち望んでいるのは、俺たちだけじゃあない——)

 

 時宮、そしてもう一つ——この戦いには呪い名が絡んでいる。それに加えて、動かされた赤き征裁もまたメンツが潰れた形……。消化試合となった戦争にも、火種はまだ、燻ったままで。

 

 だからこそ、奇野解知にもまだ動きようがある。

 

 この戦争を、誰がどのようにして望んだのか……その発端の目星は、付いている。滅んだとされる零崎一賊。それがそのままであることは、つまり彼らにとって気に入らないのだ。

 

 登場人物一覧に、彼らを乗せること。

 

 それこそがこの戦争の狙い目なのだろう。……仔細はずれていても、概ねは間違ってはいまい。

 

 そう、だって——好きな人のことだから。

 

 それくらいは、わかる。

 

 だからつまり、戦争の首謀者にとって、奇(・)野(・)が(・)滅(・)ぶ(・)こ(・)と(・)は(・)き(・)っ(・)と(・)目(・)的(・)で(・)は(・)な(・)い(・)。

 

 だから——落とし所は、あるはずだ。

 

 コール、コール。

 電話は——繋がる。

 

「——ああ、もしもし、罪口さん?」

 

 目的の達成までは、あと少し。

 

 だから解知は——動き出す。

 

 毒のように、染み込むように。

 病のように、忍び寄るように。

 

 ◆   ◆

 

「——正義の味方の絶対条件を知っているか?」

 

 燃え盛る車を背後に、ガン、と踵を地面に叩きつけながら、薄野定議は言った。衝撃に呼応して、ウェスタンブーツのヒールががしゃりと展開し——その踵に沿うように、硬質な輝きを宿す刃が顕現する。仕込み靴。それが彼の武器だった。

 

「さあな。強いて言えば、意志の強さか」

 

 怪談百面相は答えた。微動だにせぬままの、迎撃の構えで。

 

「惜しいところまでは突いてるね。特に……強さってのは重要だ。それが意志のでなくともな……。しかし、絶対条件とは言えない」

「じゃあ、絶対条件ってのは?」

「勝つことさ」

 

 正義の味方は、常に勝者でなければならない——彼は言う。

 

「正義とは、常に勝利の下にのみ存在する。勝てば官軍、負ければ賊軍……歴史は勝者が作るという言葉もあるように、正(・)義(・)も(・)勝(・)者(・)が(・)作(・)る(・)ん(・)だ(・)」

 

 正義の味方は——負けてはならない。

 負けたやつに、正義は味方しないし。

 負けた奴が味方していたような正義は、その正しさを失う。

 

「……さもしい考えだな」

「だが、正しい」

 

 だから。

 だから俺は誰にも負けなかった。

 

「勝てば正義、負ければ悪党——あの哀川潤でさえも、最強ではあっても正義ではない。なぜなら彼女は最強であって、常勝ではないのだから」

 

 あるいはあの生涯不敗にしたところで——生涯不敗ではあったとしても、常勝無敵ではないのだから。

 正義とはまるで、程遠い。

 薄野定議はそう定義する。

 

「勝利だけが、人に正しさを与えるんだ」

 

 彼は言って、笑う。まるで凄惨に酔うように。

 

「だから——俺の正義のために、斃されろ、悪党」

 

 言って——彼は深く腰を落とす。そして次の瞬間——その姿が陽炎のように揺らめいた。

 

「——っ!?」

 

 幻覚? 催眠術? 超能力? 可能性が脳裏に過ぎる、が——

 

「シャァッ!」

 

 答えが出る間を待ってくれるはずもなく、叫びと共に、揺らめく陽炎の内側から、痛烈なる蹴(・)り(・)が伸びる。

 

 それは不可視、不可避、不可思議の一撃。予備動作は見えなかった。そ(・)の(・)足(・)が(・)ど(・)こ(・)か(・)ら(・)伸(・)び(・)た(・)の(・)か(・)、百面相にはまるで理解ができない。その姿が右へ左へ、霞のように揺れ動く中、あまりにも唐突に、その蹴りは百面相の胸元を切り裂いた。

 

「ち、浅いか」

 

 陽炎の向こうで定議は言う。右へ、左へ——絶え間なく揺れ動く影は像をずらし、その姿を正しく捉えさせない。

 

 ど、と冷や汗を掻く。避けられたのは、ただの運だ。ゆらめく影に怖(・)気(・)付(・)き(・)、無意識的に体を後ろに下げた……それが、功を奏したと言うだけ。切り裂かれたのが胸元だったから、死なずに済んだ。しかしこれが首なら? 頭なら?

 

 自分は間違いなく——死んでいた。

 

 それを強く、自覚する。

 

 怪談百面相——不死身の怪物。吸血鬼としての不死性は、けれどその概念を薄めたことによって目減りしている。並大抵のことでは死なない程度には頑丈でも——並大抵のことでなければ死ぬくらいには脆弱だ。

 

 たとえば心臓にナイフを突き立てられる程度ならなんとかなっても。胴体を真っ二つにされればそのまま死ぬだろう。その程度の再生力で、その程度の生命力。それが吸血鬼でなく怪談である彼の限界で、だからこそ、今胸元を掠めた刃に、そ(・)れ(・)だ(・)け(・)の(・)威(・)力(・)が(・)あ(・)る(・)と判断した百面相は、警戒心を最大まで高める。

 

 間近に迫る死。接近戦はまずい。思い、彼は一歩、後ろに身を引くが——

 

「逃げんじゃねぇよ、百面相!」

 

 声と共に——その陽炎が掻(・)き(・)消(・)え(・)て(・)、蹴りが——放たれ。

 

「——ぅおおおおおっ!」

 

 百面相はそれを、ギリギリで避ける。身を引いた百面相の首を刈り取るような、斜(・)め(・)後(・)ろ(・)か(・)ら(・)迫(・)る(・)踵(・)の(・)刃(・)。相対する敵から放たれるはずもない、あ(・)り(・)得(・)な(・)い(・)角(・)度(・)か(・)ら(・)の(・)蹴(・)り(・)を、けれど避けることができたのは、百面相が殆ど身を投げ出すようにして頭を深く下げたからであり——それは。

 

 二発目の蹴りへの回避を捨てたということで。

 

「殺(と)った」

 

 彼は——そのまま。一(・)度(・)目(・)の(・)蹴(・)り(・)を(・)放(・)っ(・)た(・)姿(・)勢(・)の(・)ま(・)ま(・)足(・)を(・)振(・)り(・)回(・)し(・)、同(・)じ(・)軌(・)道(・)で(・)も(・)う(・)一(・)度(・)一(・)回(・)転(・)。下げた頭をカチ割るように、蹴りを放って——

 

「迷え——」

 

 背後から。

 響いた声に——感(・)覚(・)が(・)眩(・)む(・)。

 

 感覚が——平(・)衡(・)感(・)覚(・)が(・)。

 

 自分は今、どこにいる? 天はどちらで、地はどちらだ?

 そんな風に——迷(・)い(・)。

 

 その隙を、百面相が突く。

 ど、と、体当たり。ただでさえ姿(・)勢(・)を(・)低(・)く(・)し(・)て(・)い(・)た(・)定議にとって、それは致命的な衝撃であり。バランスを大きく崩す。もんどり打って倒れ、のしかかってきた百面相が、そのまま関節技に移行しようとするのを、けれど成立前に転がって抜け出す。

 跳ねるように立ち上がって、バックステップ。彼は再び距離を作った。

 

「……なんだ、一対一じゃなかったのか」

 

 再び陽炎のように身を揺らめかせながら、定議は振り向かぬままに背後に向けて語りかける。

 

 そこでは——八九寺真宵が、その指をまっすぐに伸ばしていた。

 定議へ向けて、銃口を突きつけるように。

 

「——迷い牛」

 

 本来、それは人を迷わせる怪異。行き遭った人間に帰り道を見失わせ——道に迷わせる。それだけの力しか持たない脆弱な怪異。

 しかしそれは——本来は、の話であって。

 

「私は——蝸(・)牛(・)の(・)迷(・)子(・)で(・)す(・)か(・)ら(・)」

 

 彼女は。

 八九寺真宵は——蝸牛だ。

 少なくとも、怪(・)談(・)百(・)面(・)相(・)に(・)と(・)っ(・)て(・)彼(・)女(・)は(・)牛(・)で(・)は(・)な(・)く(・)蝸(・)牛(・)の(・)怪(・)異(・)で(・)あ(・)っ(・)て(・)、だからこそ、怪談百面相に取り込まれた彼女は——怪異から怪談へと変じた彼女は、新たな側面を得た。

 

 新たな側面を。

 新たな解釈を。

 新たな能力を——得た。

 

「あなたの中の蝸牛を、迷わせました」

 

 全ての人間は、その体の内側に蝸牛を持つ。

 正確には蝸牛(かたつむり)をではなく——蝸牛(かぎゅう)を。

 

 内耳の奥。三半規管と接続する——まるで蝸牛のような、渦巻き状の器官を。

 それに干渉された彼は、ほんの一瞬、その平衡感覚を失ったのだ。

 

「なるほどね、そりゃ致命的だ」

 

 彼は言う。

 言うが——しかし。

 

「だが、それを教えちまったのは失敗だったな」

 

 平衡感覚など、所(・)詮(・)平(・)衡(・)感(・)覚(・)に(・)過(・)ぎ(・)な(・)い(・)。

 失われるとわかっているのなら——初めからそれに頼らなければいいだけだ。

 揺れ動く中、彼は言って、再び、その姿をかき消す。

 が。

 

「それはもう——見えてんだよ!」

 

 真(・)下(・)に(・)近(・)い(・)低(・)み(・)か(・)ら(・)放(・)た(・)れ(・)た(・)そ(・)の(・)蹴(・)り(・)を(・)、百面相は紙一重にて回避。そして同時——地面を這うようにして身を低く下げたまま、二(・)発(・)目(・)の(・)蹴(・)り(・)を(・)放(・)つ(・)が(・)た(・)め(・)に(・)回転する途中の定議へ向けて、一歩、前進。それによって——

 

「——ぉおおっ!」

 

 放たれた蹴りは、けれどその踵ではなくふくらはぎがこそ百面相の脇腹にミートし、故(・)に(・)そ(・)の(・)威(・)力(・)を(・)大(・)き(・)く(・)減(・)ら(・)し(・)た(・)。遠心力を用いた回(・)し(・)蹴(・)り(・)。それがこそ不可視の蹴撃の正体であった以上、内側に入れば慣性モーメントは低くなり、十分に受け止められる威力になってしまう。

 

「——っ、らぁっ!」

 

 そのまま、脇腹と腕で足を抱えた百面相は、それを軸に定議の体を投(・)げ(・)飛(・)ば(・)す(・)。怪異特有の尋常ならざる怪力に、ただの人間が耐えられるはずもなく、定議は空中へ投げ出され——けれど着地するまでに猫のように姿勢を整え直す。

 

 そして、再び。

 右へ、左へ——体を揺らめかせ——

 

 けれど。

 その不可思議の真実を、百面相はすでに見切っている。

 

「——カポエイリスタ」

 

 それがお前の正体だ——と。

 百面相はそう突きつけた。

 視界に捉えられぬ、陽炎のように揺らめく影。

 その源は、歩(・)法(・)だった。

 リズムと共に、テンポをとって、右へ、左へ、流れるように動き続ける。その独特の歩法にこそ、百面相は惑わされていたのだ。

 

「ジンガ、っつーんだっけか。カポエイラ……ブラジルの国技だっていう、格(・)闘(・)技(・)に(・)し(・)て(・)舞(・)踊(・)術(・)の基本姿勢」

 

 カポエイラ。アフリカを祖とし、ブラジルにて実った、世界中に類を見ない、最も特異な格闘術。

 殆ど全ての格闘技が持つ、静止した状態における構えを持(・)た(・)な(・)い(・)カポエイラは、代わりにその揺らめくような歩法——ジンガをこそ『構え』とする。

 カポエイラは、止まらない格闘技。絶えず動き続け、敵の視界に止まらず、また動きの起(・)こ(・)り(・)を見せないことがこそカポエイラの真髄——!

 

「詳しいな、百面相」

「詳しかねーよ、妹からの又聞きだ」

 

 だが知識の源がどうあれ——知ってさえいるのならば、対処は可能。

 

「あんたのその見(・)え(・)な(・)い(・)蹴(・)り(・)は『ハボ・ジ・アハイア』——鱏の尾を意味するカポエイリスタの必殺技だ」

 

 絶えず体を揺らめかせ続けるジンガの動きから、全(・)く(・)予(・)備(・)動(・)作(・)な(・)し(・)に(・)放(・)た(・)れ(・)る(・)後(・)ろ(・)回(・)し(・)蹴(・)り(・)。それこそが、遍くカポエイリスタの必殺技——『ハボ・ジ・アハイア』。

 

 深く身を沈め、地面に手をつけ、その反動で足を長く伸ばし、円軌道を描いて放たれるその蹴りは、この世の全ての格闘技の中で最も早く、最も長く、最も強い蹴りであるとされる。ジンガの動きから違和感なく繋がり、殆ど消えるような速度で身を沈めることで、相手の視界から外れて放たれる最速の起こり。後ろ向き、腰を突き出すようにして放たれるが故の、その踵が敵の斜め後ろから襲うほどの長大なリーチ。全身を余すことなく使い、遠心力までをも乗せて放たれる、人体が作り上げることのできる中で理論上最強の威力。全てを兼ね備えた必中、必殺、必滅の蹴りがこそ、カポエイリスタの基本にして最終奥義。

 

 しかしそれは最強ではあっても——無敵の技ではない。

 

「『ハボ・ジ・アハイア』の最も恐ろしい点はその奇(・)襲(・)性(・)だ。ジンガからのシームレスな移行、姿勢を低くすることによる視界からの消失、長すぎるリーチによる想定外の直撃——それらが合わさっての必中必殺。逆に言えば——わかっていたなら、その強みは半減する」

 

 何より——

 

「カポエイラの最大の弱点は——そのリーチが長すぎることだ!」

 

 カポエイラは足技の格闘技。円軌道を描く踵回し蹴りが奥義であることからも見て取れるように、その大部分が蹴り技によって構成される。ゆえにこそ、その最適のリーチは足の距離——格闘技としては、ロングレンジだ。

 

「だったら——組み技(クロスレンジ)ならこっちの土俵だ——!」

 

 飛び込み、百面相は再び取っ組み合いを仕掛けようとして——

 

「お前はアホか」

 

 受け止められる。

 

 組み合いに来た百面相に対し、定議は真正面から四つに組んだ。

 

「なっ!」

 

 驚き——しかし有利は変わらぬはずとそのまま組み合い、怪力によって押し合いに持ち込む百面相に対し——定議はあえて身を引く。

 

「!」

 

 僅かにバランスを崩す百面相。そこを——飛び上がるような勢いで、足元へ向けての蟹挟みを行う。

 

 たまらず転倒する百面相。定議はその体の上を転がるようにして立ち上がり、遅れて起きあがろうとした百面相の胸を踏みつける。

 

「チゾウラ・ジ・コスタ——いわゆる、カポエイラのド(・)ロ(・)ッ(・)プ(・)ホ(・)ー(・)ル(・)ド(・)だ(・)」

 

 バキバキと——肋骨が割れる音が響くほどに深く踏み躙りながら、定議は語る。

 

「カポエイラは蹴りの格闘技。そりゃ間違っちゃいねーけどよ……組み技に持ち込まれた程度で何もできなくなるような格闘技が何百年も受け継がれるわけがねぇ」

 

 そ(・)う(・)い(・)う(・)こ(・)と(・)を考えてカポエイラに挑んだ馬鹿は五万といたし、そ(・)う(・)い(・)う(・)こ(・)と(・)を考えた馬鹿を、カポエイラは五万と返り討ちにしてきた——

 彼は言う。

 

「カポエイラは『勝ち続けた』格闘技だ。十六世紀のブラジル……ルール無用の無法地帯で育まれたその格闘技は、あらゆる状況に対応するために進化を続け、今日まで勝ち残ってきた。つまり——それは正義だ」

 

 正義の味方には、相応しい戦い方だろう? なんて、皮肉もいいところで。

 

「これから俺はお前の体をな(・)る(・)べ(・)く(・)小(・)さ(・)め(・)に(・)刻(・)も(・)う(・)と思っている。死んでなきゃ、それで十分らしいからな……。だが、俺は正直、そういう拷問は好きじゃなくてね。悪党は殺すのが専門で、痛めつけるのは趣味じゃない。だからまあ、一応、それをする前に選択肢をくれてやる」

 

 言いながら、さらに深く足を沈み込ませ、百面相の内臓を破壊する。不死身の怪異だと言うのだ。このくらいならば死なないだろう。そんな考えのもと、口から血反吐が溢れ返るのを眺めながら、彼は囁くように勧告する。

 

「おとなしく、俺に捕まれ、百面相。そうすれば、これ以上痛め付けはしない」

 

 その言葉に、百面相は——

 

 べ、と。

 その血反吐を、定議の頬へ向けて吐き捨てた。

 

「……それが答えか」

 

 頬に付いた赤を指で拭って、定議は残念そうに言う。

 

「ふん、そういう態度なら、こちらも相応の対応をしよう。お前は生け取りという指示だったが……は、不死身なんだろ? ならまずは——下半身にさよならを言ってみるところからスタートだ」

 

 彼は言って、高く。高く高く、両足が上下に一直線になるほど高く、左足を振り上げる。断頭台の刃のように、掲げられた踵の刃。煌めくそれを——平衡感覚の喪失も気にせず、最高速度で振り下ろして——

 

 ガチン! と。

 

 その刃が——牙によって受(・)け(・)止(・)め(・)ら(・)れ(・)る(・)。

 

「あ?」

 

 踵から伸びる刃を、噛(・)み(・)つ(・)き(・)によって受け止められた彼は、首を傾げる。

 

 怪談百面相。寝転んだ彼のその腹部からは——犬(・)の(・)鼻(・)面(・)が(・)飛(・)び(・)出(・)し(・)て(・)い(・)た(・)。

 

 ギリギリと。

 音を立てながら、闇色の犬は自らの牙によって振るわれた刃を挟(・)み(・)込(・)み(・)、その動きを止めていた。

 

「ちっ」

 

 怪談百面相……その正体は吸血鬼だと聞く。ならばこれは、その変身能力だとでもいうのだろうか。舌を打って、定議は素早く足を引くけれど——

 

「……あ?」

 

 ずろり、と。その足には——泥のようにとろけた犬の生首が、齧り付くように纏わり付いたままだった。

 

「なんだぁ、こりゃ」

 

 足を振って振り払おうとするが、それよりも早く、その首は足にまとわりついたまま、じわりと足に染み込むように消えた。

 

 気味が悪い——が、逆に言えばそれだけだった。足が痛むこともなければ、感覚がおかしいということもない。ならば——ダメージはないのと同じこと。割り切って、定議は改めて足を掲げる。今度こそ、立ち上がった怪談百面相に致命的な一撃を喰らわせるために。

 

 勢いよく、今度はどんな防御もその上から断ち切るつもりで、足を振り下ろして——

 

「……は?」

 

 ごぼり、と。

 口から血を吐きながら、彼は目を見開いた。

 

 見れば——その腹部に、へ(・)し(・)折(・)れ(・)た(・)刃(・)が(・)突(・)き(・)刺(・)さ(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)。

 

 それはつい先ほどまで、振り下ろした足の踵に付いていたはずの刃で——その足は。

 

 な(・)ぜ(・)か(・)怪(・)談(・)百(・)面(・)相(・)で(・)は(・)な(・)く(・)、硬(・)い(・)地(・)面(・)を(・)こ(・)そ(・)叩(・)い(・)て(・)い(・)た(・)。

 

 地面に叩きつけられた刃が、へし折れて、跳ね返って、刺さった? そんな偶然、あり得ない。あり得ないが——それ以外にあり得ない。

 

 一体、どういうことだ。いやそもそも、なぜ百面相に向けて放ったはずの蹴りが外れた? 死に体の、動けもしない相手に——

 

「刃向い犬」

 

 困惑する定議に。

 傷をある程度回復させた百面相が——その名を告げた。

 

「僕が『蒐集』した怪談の一つだ。刃向い犬……その名の通り、これは振り下ろされる刃にこそ楯突く——楯憑く怪異でね」

 

 刃向い犬、刃噛み犬、手噛み犬、向こう犬、真向かい犬、真っ赤犬——地域によって様々な呼び名はあるが、概ねして、その怪異の本質は『応報』にこそある。

 

 いわゆる犬神憑きの伝説から派生した怪異であり、典型的な犬神の作り方——頭だけを出して犬を土に埋め、その前に食べ物を見せ置き、餓死寸前に首を伸ばした瞬間その首を切り落とす——によって犬神を作る時、失(・)敗(・)す(・)る(・)と(・)出(・)来(・)上(・)が(・)る(・)の(・)が(・)刃(・)向(・)い(・)犬(・)で(・)あ(・)る(・)とされる。

 

 地域によって細部は異なるが、十分に懐いていない犬を材料として儀式を行った場合、または十分に飢えていない状態で首を切り落とした場合、その犬は犬神にはならず、刃向い犬となって自らの首を断った刃に取り憑いてしまう。

 

 刃向い犬は自らを殺した刃を強く憎んでおり、刃向い犬の憑いた刃は呪われ、そ(・)れ(・)を(・)振(・)る(・)う(・)も(・)の(・)自(・)身(・)に(・)向(・)か(・)う(・)よ(・)う(・)に(・)な(・)る(・)のだという。

 

「ふざけんな、そんなオカルトが——」

「あるわけない、なんては言わないよな」

 

 薄野定議は歯噛みする。そうだ、自分は、そんなオカルトをこそ捕獲しにやってきたのだから。

 

 ごぼり、と血を吐き出しながら、定議は舌を打つ。どうやら、当たりどころが悪かったらしい。出血が激しく、意識が眩み出した。

 

「だが、なぜだ——そんなふざけた力があるってんなら、なぜそれを初めから使わなかった?」

 

 疑問に対し、百面相は笑って答える。手向けのつもりにしては上等だった。

 

「刃向い犬は、そんなに強力な怪異じゃあない。それこそ、所詮は呪いの失(・)敗(・)作(・)なんだ。都合良く使える便利な能力じゃあないんだよ。あくまで怪異。あくまで怪談。だから——タイミングが重要なんだ」

 

 刃向い犬は、犬神が成就し損ねたもの。

 呪詛のなり損ないは、だから単なる恨み辛みでしかなく。

 それが正しく働くのは、その憎悪を思い出したその時だけで。

 

「つまり刃向い犬は——自分を殺す刃にしか、憑かないんだ」

 

 だからこそ、怪談百面相はそれを出し惜しんだ。

 出し惜しんで——ここぞという時の切り札とした。

 

 結果として。

 切り時は正しく——出来損ないの呪いは正しく成就した。

 

「ま、他の刃に『憑いていっちまう』ってところで、使い切りなのも理由の一つだけどな。残念ながら、これでまたほんの少し、世界を渡りにくくなっちまった」

 

 傷の大部分が癒えて、百面相は立ち上がる。そして——薄野定議の、腹部の傷を指差した。

 

「その傷は殆ど致命傷だ」

「そうだな」

「あんたは……一応は、僕に慈悲をかけようとしていた。あれを慈悲と呼ぶかは議論の余地があるとは思うが……だから、僕も一度だけ、それに報いる。今なら——その傷を治してやる」

 

 百面相の言葉に、定議は鼻から息を漏らす。

 

「……条件は?」

「二度と、人を殺さないこと」

「人でなしの悪党でも?」

「人でなしも、人のうちだ」

「そうかい」

 

 なら——

 

「その約束は出来ないね」

 

 言って。

 男はポケットから取り出した機械式の注射器を、自らの胸に突き立てる。トリガーを引けば、パシュ、と音が立って、空気圧により薬剤が即座に注入された。

 

「なっ……!」

「知ってるかよ? テレビの中じゃ——正義の味方にゃつきものらしいぜ——変身ってやつが」

 

 呟いて——その肌の下で、肉が蠢く。

 傷が塞がりながら——傷が意味を失いながら。

 

 注入された溶液。それは単なる薬剤ではない。数十種の劇薬に、数百種の細菌、数千種のウィルス。混合し、有機的に繋がるそれらは一つの生態系であり、注入されたそれは元(・)々(・)定(・)期(・)的(・)に(・)注(・)入(・)さ(・)れ(・)て(・)い(・)た(・)薬(・)剤(・)に(・)よ(・)っ(・)て(・)整(・)え(・)ら(・)れ(・)て(・)い(・)た(・)薄(・)野(・)定(・)議(・)の(・)肉(・)体(・)を(・)瞬(・)く(・)間(・)に(・)侵(・)略(・)し(・)た(・)。

 

 劇薬は身体機能を向上させるとともに免疫の抵抗を下げ。

 細菌は体内で繁殖し、新たな器官を作り上げ。

 ウィルスは細胞と融合し、そのDNAを変質させ。

 

 ぐにぐにと。

 ぐるぐると。

 ぐちゃぐちゃと。

 

 血が沸き立ち、肉が蠢き、骨が軋んで——薄野定議の肉体が、変形(トランス)する。

 

「くくく……『ぶっ飛ぶ』とは聞いちゃいたが、期待以上だ」

 

 これが奇野解知の最終兵器か。彼は呟く。

 筋肉は人間のそれを超えて膨張し。

 外皮は人間のそれを外れて硬質化し。

 骨格は人間のそれを逸脱して巨大化し。

 

 ついにその額が——割れて。

 一本の角が、血に濡れて赤く——生え聳える。

 

 右足の踵には、骨と融合した刃が大きく、斧の如き三日月を描いて赤熱し。

 

 その姿はまるで——鬼。

 

 おおよそ尋常の生物にはあり得ない、硬質の外骨格。捲れ上がった肌が血に濡れて真紅を描き、その隙間を静脈の青が縫う。——それはさながら青き炎の如く。

 

 変身を、変態を、変質を、変形を、完了させた彼は、迫り出した歯を甲冑の如くにがちりと閉じて、その隙間から昂る吐息を漏らす。

 

「さあ——第二ラウンドと行こうぜ、百面相」

 

 大斧と化した右足を、見せつけるように掲げながら、彼は言う。

 

 これより始まるのは、ゆえにもはや人の戦いに在らず。

 

 ただ二匹の怪物の、悍ましき喰らい合いだった。

 





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