「ふ、ふーん。や、やるじゃん」
「櫛田さん、あんなに速かったっけ…?もしかして、瞬足履いてる…?」
「え?あれってレギュレーション違反じゃないの!?CS機にマウス接続してFPSやってるのとおんなじだよ〜」
翌日の放課後。
クラスの輪には入ろうとしないまでも、櫛田は真面目に練習に取り組んでいた。
本人曰く『馬鹿にされたい訳じゃないから』との事らしいが俺にはそれだけじゃないように見える。
後悔も未練も置いて、彼女はただ前へ前へと歩を進める。
一心不乱ともいえるその勇ましい姿が彼女の心を映しているような気がした。
「彼女、変わったわね」
額の汗を拭った堀北が、頬にかかる髪を耳へ流しながら、探るような視線をこちらに向けてくる。
「変わったように見えるだけなんじゃないか。櫛田が腹の内で何を思っていたって他人には関与できない。それが表に出てるかどうかの些細な違いだ」
「そうね。彼女にとって私はその他人のうちの一人。けれど、貴方は違うんではなくて?」
「…どうだろうな。分からない」
表だとか裏だとか、そんなものはただの飾りだ。
誰にも見せないそんな姿を俺だけに見せていてくれていたから、俺は彼女を知り尽くしているだなんて哀れな勘違いをしてしまった。
そのどちらでもなくなった彼女が、今は分からない。
そして、きっと俺すらも、彼女が脱ぎ去ったベールの一部だ。
「嫉妬するわね。彼女に」
「明け透けついでに詳しく聞かせてくれるか。堀北が櫛田の何に嫉妬しているのか知りたい」
「……貴方じゃないけれど、分からないものね。こういう負の感情を掘り下げられたら腹が立つと思っていたのに、貴方が私に興味を持ってくれた気がして、怒りきれない自分がいる」
これが恋なのかしら?と、彼女は頬を赤らめもせず平然と言ってのけた。
もしも俺が女なら、出会って5秒で惚れて沼って、消費者金融に駆け込み、自己破産するまで貢いでしまうだろう。そのくらい今の彼女はクールで格好良い。
彼女はそんな俺の内心を露とも知らず、自分の感情を吟味するように考え込み、やがて口を開いた。
「きっと、何も必要ないとでも言いたげな涼しい顔をしている癖に、貴方の心を奪っているのが気に入らないんでしょうね」
「私がどれだけ捨て身でぶつかっても、貴方は振り向いてさえくれないのに」
肩にとんっと衝撃が走る。堀北がぴたりと身を寄せてきたことにワンテンポ遅れて気付いたのは、俺がまた櫛田が羽ばたく姿に見惚れていたからだろう。
「…一緒に練習するか?」
「断るわ。彼女が空けた心の隙間を埋め合わせするのは癪だもの」
「…だよな。ごめん。半ば分かってて聞いた」
「構わないわ。私は手の届かないところに綺麗なまま飾ってもらうよりも、傷付ける覚悟で触って欲しい。そう思っているから」
すぐ隣には上気した頬と熱を帯びた声。堀北の柔らかい体に嫌でも意識を持っていかれる。
自分でも分かるほどに呆けた顔で見つめ返すと、彼女は嬉しそうに笑った。
「少しは貴方の心が奪えたかしら?」
その大胆な挑発は流石に自分でも恥ずかしかったのか、堀北はすっと体を離した後、誤魔化すように走り出す。
去り際に言われた「なんとかしなさい」という台詞を紡ぐのに彼女は一体何人の自分を殺したんだろうか。
消費者金融に駆け込むまでもなかったな…。
俺はもう彼女に大きな借りを作ってしまったらしい。
◆
「ふ、ふーん。や、やるじゃん」
「あれが噂の鬼龍院先輩かぁ。……速すぎない?背中にチャックついてて中におっさん入ってんじゃないの?」
「うわ、それあれじゃん。彼女のアカウントで彼氏が無双してるやつじゃん。バレて炎上した後は『弟がやりました』って言い出すんだよ。私知ってる」
前園、篠原、佐藤の3人が外野で騒いでる光景に強い既視感を覚える。
…というか、篠原はいつの間にそんなユーモアを身につけたんだろうか?お前はもっと乏しい語彙力で感情を撒き散らす迷惑系インフルエンサーみたいな感じだっただろう?
…いや、答えは明白でシンプルだ。危機感に駆られたのだろう。
仲間だと思っていた前園に運動能力の差を見せつけられ、下にいると思っていた佐藤がギャグ1本でカーストを登っていく姿に魅せられ、自分も何かしなくてはと思い始めたのだ。
例えるなら、職場でそれなりの地位に就いて胡座をかいていたキャリアウーマンが、次々と入ってくる若い新人の新しい価値観に恐れ慄き、それでも必死に喰らいつこうとしてディズニーやサンリオに傾倒し始め、キャリアではなくキャラクターの力でポジションを死守しようとする、あの感じだ。……いや、一体どの感じだ、これは。
「麻耶ちゃん。変わったよね」
「……松下、わざとじゃないよな?」
「え、何の話?堀北さんとの会話を焼き直したみたいな切り口で話しかけて、綾小路君をパラレルワールドに誘ったことなら全然わざとじゃないよ?」
口元の笑みを隠すように手を添え、白々しい態度で俺の反応を窺ってくる。
額には汗一つ浮かんでおらず、本当に練習してるのか?と疑いの一つもかけたくなった。
だが、俺はそんな彼女の冗談に付き合うことも、その態度に言及することもせず、佐藤の変化についてのみ述べることにした。
「本人が聞けば天狗になる事が目に見えているから直接言うつもりはないが、俺は佐藤を評価してる。底抜けに明るくて、相手の能力や立場によって自分の態度を変えない。軽井沢だけじゃない。彼女の存在に助けられている人間はクラスの中に意外と多い」
「……なんとなく分かっちゃった。綾小路君は麻耶ちゃんが櫛田さんの代わりになるって思ってるんだ」
「…いや、私情抜きに答えればそれ以上の活躍を見込んでる。佐藤はそれくらいポテンシャルを秘めている」
「あはは……。多分、麻耶ちゃんがそれ聞くと一瞬で綾小路君好きになっちゃうだろうね」
「もし松下の言う通りになるなら、その時くらいは優しくしてやってもいいかもな」
「……沼小路に改名しなよ。そんなギャップ見せられたら麻耶ちゃんじゃなくても好きになっちゃうって」
松下は他人事のように呆れて笑って肩を竦めた後、再び三人へ目を向けた。
彼女に対しての俺の扱い方には思うところがあっても、彼女への評価そのものには納得しているような雰囲気だ。
そんな視線の先には篠原前園極悪コンビと一緒に一際楽しそうに笑う佐藤がいる。
やはりこれは櫛田を必要以上に下げて、佐藤を必要以上に持ち上げただけの暴論ではない。
櫛田には人を助ける才能があって、佐藤には人に助けてもらう才能がある。それだけの違いだ。
佐藤は自分の失敗を笑い話にし、誰かに助けられれば素直に喜ぶ。
その彼女の明るさは、出来ないことを恥じていた人間の肩から力を抜いていく。
そして、彼女は自分の弱点をプラスに変えるだけには留まらない。
周りのネガティブさえもポジティブへと変えてしまう天性のムードメーカー。
そんな一種のカリスマとも呼べる才能すら感じてしまっていた。
「綾小路君!綾小路君!これ見て!!」
「……………………なんだ?これは?#87CEEBか?」
「綾小路君。ボケが分かりにくいし、佐藤さんがカラーコードなんて知ってるわけないでしょ?」
「む、何だか馬鹿にされた気がするけどまあいいや。とりあえず、千秋ちゃんも見ててよ。まずはここの編集するをタップして〜、ペイントで水玉模様を選択して〜、こうやって適当に水色を消していくの」
練習してきたマジックでも披露するかのノリノリなテンションでスマホを操作する佐藤に釘付けになる俺と松下。
……いや、本当に釘付けになっているのは色気の『い』の字も感じない佐藤なんかではなく—
「じゃ〜ん。全裸にしか見えない鬼龍院先輩の出来上がり〜」
…………何が天性のムードメーカーだ。
ムードブレイカーの間違いじゃないか。折角、人知れぬところで褒めてやってたというのに。
しかも、このコラ画像は肖像権とかそういう段階の話じゃない。たとえ、無敗の敏腕弁護士を雇ったって有り金全部巻き上げられるレベルの誹謗中傷だ。ライン超えにも程がある。
「松下、佐藤を拘束」
「了解。ついでに口と目も塞いどくね」
俺の意図を的確に汲んだ松下は佐藤の頭を両手で抱え込んでがっちりとホールドする。
佐藤が必死に抵抗して身を捩るたびにこちらに向けられたお尻が揺れ、俺の右手にも力が漲っていく。
「痛いのはやだ〜〜!!!…あ、でも……、柔らかくて……、ちょっと汗臭い……?」
「綾小路君。手加減はなしでお願い」
「仰せのままに」
俺は松下に隠れるように、一応周囲の目の死角に入り、思いっきり腕を唸らせる。
スターターピストルの引き金を引いたかのような乾いた音がグラウンドに響いたと同時に、佐藤の顔が痛みで歪み、松下が笑う。
俺は手に残った実感に、もしかしたら高円寺との腕相撲の時よりも力が入っていたかもしれないと少し反省した。
佐藤のお尻、2つに割れていないだろうか。それだけが心配だ。
◆
佐藤がクラスの中心になる日は、まだ遠い。
そう結論づけるに足る一幕を経て、俺はベンチで独りぼんやりと休息を取っていた櫛田の隣に腰を下ろす。
俺の存在に遅れて気付きびくりと肩を揺らした彼女がこちらを振り向く前に声をかけた。先手必勝である。
「櫛田。これを見てくれ」
櫛田がベンチに置いた手に当てるように、俺は自分のスマホを差し出す。そのスマホには出場表をあらかじめ表示させている。
彼女は俺のスマホを手に取らず、ちらりと視線だけで中身を確認して言う。
「外でこんなの見せないでよ」
「二人きりになれるタイミングは外くらいしかないだろう」
「…二人きりになる必要なんてないでしょ」
「そうだな。悪い。誤魔化した」
実際、出場表はクラスメイト全員が知っている訳じゃないから、教室で話す訳にはいかない。
だけど、そんな諸事情は俺の感情を前にすれば取るに足らない些事だ。
「こんなのはほとんど口実みたいなものだ。俺は櫛田と二人で話がしたい」
俺はスマホを回収してポケットにしまい、代わりに彼女の隣に手を置いた。
手を伸ばせば、手を重ねることが出来る距離。
だけど、伸ばさなければ冷たい座面に触れるだけだ。
「…話って何?」
「推薦競技の二人三脚。俺と走って欲しい」
櫛田はこちらを向かず、グラウンドを見つめたまま口を開いた。
「……なんで?……私、もうやめたって言ったよね」
「ああ。分かってる。だけど、俺と関わり合うことまでやめたいわけじゃないんだろ?全部終わりにするつもりなら、やり直そうなんて言わない」
少なくとも好きって気持ちは、セーブアンドロードで都合の悪いデータを消してやり直せるような感情じゃないと俺は考える。
たとえ人生が5回あったとしても、5回とも同じ人を好きになる。
一時的とは言えそんな織姫みたいな重い愛情を櫛田から向けられてたと思っている。
「正直に言えば、やり直すなんて無理だと思ってる。中途半端だったとはいえ、お互いにリセットできないところまで来てる」
彼女の指先が、ベンチの縁をきゅっと掴む。
俺はそんな彼女の手を包み込むように自分の手を重ねた。
「だけど、それでも櫛田がやり直したいって言うなら—」
「今度は俺から好きになるよ」
俺の手の中で彼女の手から力が抜けていくのが分かる。
逃げる素振りもなく、それでいて受け入れるような真似もしない。
ただ、そこに熱があるだけ。
彼女は唇を真一文字に引き結んだまま、何も答えず左手でスマホを取り出す。
画面へ滑らせた指が止まるのとほとんど同時に、俺のポケットが短く震えた。
取り出したスマホには、すぐ隣にいる彼女の名前が表示されていた。
『いいよ』
何度開いても返事のなかったやり取り。
俺の言葉ばかりが並んでいた画面に、彼女の言葉が一つ加わっている。
ぶっきらぼうで温度も色もないたった3文字に心が救われた気になるなんて馬鹿げていた。
「櫛田から返事が来た」
「うん。私が送ったからね」
「ああ。けれど、もう来ないと思ってた。ブロックされてるか見極める方法でググって、結局確実なものはなくて不貞寝するくらいには諦めてたんだ」
「…そういう人間っぽいの似合わないね。でも、らしくない真似させるくらいには困らせられてたなら御の字かなぁ。…ただ、何を返していいのか分からなかっただけなんだけどね」
櫛田は遠慮がちに俺の手から抜け出した後、立ち上がり、前屈みに振り返って柔らかい笑顔を向けてくる。
「そんなに練習したいんだ?私と」
飾らない彼女の笑顔を久しぶりに直視して、こちらまで頬と気が緩む。
「練習だけじゃなく本番もしたいよ」
「…なんか、文法変じゃない?他意を感じるんだけど」
「そうだな。そっちの話でも同じことだよ」
俺は立ち上がって、そのまま彼女の隣に立って腰を抱き寄せる。
二人三脚の体を成しているつもりだが、本来は肩を持つものらしい。この時は知らなかった。
「櫛田、まずは紐なしでやろうか」
「…ゴム無しみたいに言わないでくれる?って、ツッコむのもやなんだけど、これ」
「いや、深読みしすぎた。そんな他意は本当になかった」
「………もし、そうだとしても、女の子の勘違いは笑って誤魔化してよ。なんでこういう時はポンコツなの」
「多分、開発者のメンテナンスが足りてないんだと思う。最近、心の調子が悪いんだ」
なにそれって言いながらクスクスと笑う櫛田が距離を測りかねているようにゆっくりと腰に手を回してくる。
これが今の彼女と今の俺の距離。
今度は間違えない。一歩ずつ、石橋を渡るように慎重に進んでいく。
◆
学生の本分は勉学に励むこと。
教師連中が口を酸っぱくしていう聞き慣れてしまった言葉だが、近年ではそれも古い価値観だと思えてしまう。
若さという消費期限のある特権を使ってまで投資する価値が本当にそこにあるのか、見極める必要がある。
無論、これは最低限の教養すら持たない人間にとっては無縁の話である。
「…なんで、私達は勉強させられてる訳?」
「それを説明しないと分からないくらい馬鹿だからだ。口ではなく手と頭を動かせ」
森、井の頭、佐倉の運動音痴三人衆に塾講師に東大へ行けと言われそうな軽井沢を加え、机に向かわせる。
彼女達は実に両極端で、佐倉と井の頭はやる気はあるけど出来ないタイプで、森と軽井沢はやる気がないから出来ないタイプだ。
「そんなこと言われたって放課後に勉強に集中なんか出来ないって。これじゃあ幻の7限目だよ」
「進学校じゃ珍しくないカリキュラムだな。今日から10限目まであると思ってくれ」
「……ぇ、あと、3時間もやるの?」
俺が当然とばかりに頷くと彼女達はまるで余命宣告でも受けたかのような絶望を顔に浮かべる。
どんだけ勉強が嫌いなんだ、この二人。俺は学びのない人生ほど面白くないものはないと思うんだけどな。
まあ、それでも長丁場になる事は避けられない。
彼女達の集中力を途切れさせない為にも飴と鞭は必要だろう。
「軽井沢。やらないなら今夜は飯抜きだ」
「………分かったよ。やればいいんでしょ、やれば」
「え?恵ちゃん、なんか知らないうちに飼われてない?」
「不可抗力だから!寧々ちゃんも一回、味わってみれば分かるから!『食ってみな。飛ぶぞ』って感じだから!」
寧々ちゃんも一緒にいいよね?と聞いてきた軽井沢に俺は頷き返すと、森も好奇心が後押ししたのか釣られてペンを持ち出した。
…ここまで絶大な期待を寄せられると献立に困るな。脳の報酬系を刺激するような依存性の高い物質を健康を損なわない程度に混入させた方がいいかもしれない。
ちなみに既に佐倉にはテストでいい成績を残せたら1つ何でも言うことを聞くという飴を与え、逆に成績が振るわなかったら何でも言うことを聞いてもらうという約束を結んである。
彼女の場合、その罰すらも飴になってしまいそうだが、今は懸命に取り組んでいる。
井の頭に関しては何もしていないが意欲だけはあるので、今はテコ入れしなくていいだろう。
そんな4人に俺はああでもないこうでもないと指導している途中、見知った顔が廊下を通り過ぎて行くのが見えた。
見たところ一人。接触するなら好機かもしれない。
「少しお花を摘みに行ってくる。軽井沢、サボるなよ」
「何で私だけ!?」
俺は軽井沢の不満を無視して、廊下に出ると、彼女が階段を登って行く後ろ姿が見えた。
俺は特段歩を急がせることもなく彼女の後を追い、屋上に着いたところで声をかける。
「鬼龍院先輩。今、お時間よろしいですか?」
彼女は長い髪を靡かせて振り向く。悠然とした立ち姿は可愛いというより格好良いという評価が適当だろう。
「珍しいこともあるものだね。私に話しかけてくる人間がいるとは。…だが、断る」
「理由を聞いても?」
「なんて事はないよ。昨日のセルフプレジャーが尾を引いていて、今は他人との会話に使うエネルギーが底をついている。それだけさ」
「…………」
「もしかして、横文字は苦手かな?では言い改めようか、昨日はオナ—」
「結構です。意味が分からず立ち尽くしてた訳じゃありません。女性から出る言葉として正しく認識できなかっただけですから」
「ドラマや映画で出てくるヒロインは酷く清純に描かれる。悲しい性だね。現実はそんな綺麗なものではないというのに」
フェンスに寄りかかり、彼女はつまらないというように息を吐く。
下品な言葉がただ下品な言葉として聞こえないのは彼女の品性や知性の為せる技だろうか。
「それでも、先輩は綺麗だと思いますよ」
「そうやって、どうでもいい相手には素直になれるところは好感を持てるね。私と同じだ」
なるほど。さっきの身も蓋もない話は余計な虫を寄せ付けない為の断り文句だった訳だ。
やはり彼女は一癖も二癖もある。
「時に少年。学校生活は順調かな?」
「ええ、自由を謳歌させてもらっています」
「『させてもらっている』か。自由を楽しみながら、それが誰かに許されているものだとは理解している。随分と大人びた答えだね。うん、悪くない。だが—」
この時間が有限であることも、俺の行動がひよりの寛容さや一之瀬の器の大きさに甘えたものである事も十分自覚している。
しかし、彼女から見た俺はそういう風には映らなかったらしい。
「君は自分は自由恋愛を嗜んでいるつもりかもしれないが、私にはとてもそうは見えない」
「君の恋愛はとても実験的だよ」
彼女のその評は俺の芯を突いているようにも、上辺をなぞってるだけにも聞こえた。
それは彼女が少ない情報だけで俺の本質へと近付いた証明に他ならない。
「恋をする事で自分に何が起きるのか。誰かに好かれれば何を感じ、触れ合えば何が変わるのか。君はそういうことを、確かめたがっているように見えてね。端的に言えば恋愛感情と知的好奇心が混在しているように感じたよ」
「それは両立しうるものだと俺は考えますけどね。鬼龍院先輩の言う実験的な恋愛と自由な恋愛、その違いを詳しくお聞きしても?」
「そうだな。結論から言えば恋愛に何を求めているかの違いさ」
彼女の見透かすような目が俺を射抜く。
俺はその視線をただただ受け止めた。跳ね返す自信があったからだ。続きの言葉を聞くまでは。
「恋人か、学びか」
彼女はしたり顔で指を2本立てて順番に折っていき、最後には愉快そうに笑った。
「動機は彼女が欲しいなんて普遍的な願いだったんだろうと推察するよ。けれど、いつの間にか君が欲しいものは非凡な後者へと切り替わっていったんじゃないかい?」
「どうしてそう思うんですか?」
「如指諸掌さ。欲しいものってのは手に入れた後、欲しいものではなくなってしまうからさ」
胸の内で日ごとに重みを増していく櫛田への想いを、たった一言の定義に押し込められた気がした。
けれど、理屈で簡単に消化できる想いなら俺はこんなにも頭を悩ませてなどいないのだ。
だから、その段階はとっくの昔に通り過ぎている。
「では、先輩はその先はご存知ですか?」
「……先だと?」
意気揚々としていた彼女の眉根に皺が寄る。
俺を見透かしていたはずの眼差しに、初めて迷いが生まれていた。
「はい。欲しいものは手に入れた後、大切なものへと変わるんです」
先輩の視線が、折り畳んだ自分の指へ落ちる。
それから彼女はゆっくりと掌を開き、堪えきれなくなったように肩を揺らした。
「ふっ。綺麗に一本取られてしまったな。恋愛経験の差が勝敗を分けた」
「先輩と争うつもりはありませんよ。今日はもとより勧誘に来たんです。仲間にならないかという」
「ほう。詳しく聞いてもいいかな?」
「近いうち、俺は生徒会に対抗する組織を立ち上げます。先輩にも、そこに名を連ねてほしく—」
「いいとも。私も加わろう」
返答は、俺の説明よりも短かった。
用意していた言葉の続きを、ひとまず飲み込む。
彼女はそんな俺を見て、面白そうに片眉を上げた。
「もしかして君が欲しかったのは仲間ではなく、私を口説き落とす過程だったかな?」
「そういう訳じゃありません。いかんせん、もう少し説得に時間がかかるものだと思っていたので戸惑っただけです」
「君は私を何だと思っているんだい。誘われたから、応じた。それだけの話だろう」
「ですが、詳しい活動内容も組織の意義も、先輩に対してのメリットもお伝えしていませんよ」
俺がそう返すと、彼女は呆れたように笑った。
「私が目先のメリットとデメリット、リスクとリターンの計算で物事を測るような、つまらない女に見えるかい?」
フェンスから背を離し、彼女は俺の前へ一歩踏み出す。
その笑みには、勧誘に応じた人間というより、自分で新しい遊びを見つけた人間の満足があった。
「君に興味が湧いた。理由なんて、私の知的好奇心の肥やしになる。それだけで十分だろう?」
どうやら、彼女を動かすための条件は、俺が提示するまでもなく揃っていたらしい。
「……先輩を退屈させないよう、努めますよ」
「ああ。期待している。もっとも、その点については、あまり心配していないんだがね」
「随分と信用していただけるんですね」
「君を信用しているのではないよ。私自身の目を信じて疑っていないだけさ。それに、君には実績もある」
思いがけず差し込まれた言葉に、俺は僅かに目を細める。
鬼龍院先輩はその反応を確かめるように、口元へ笑みを残し、俺の隣に並んだ。
「君は知ってるかい?とある一年のクラスの1学期中間テストで、大量に退学者が出たことを」
「…知らないと言える道理は一つもありませんね」
俺の返事を聞いた彼女は、満足そうに頷く。
ニヤリといやらしく頰を吊り上げた彼女が、俺の耳に口を寄せて堂々と言う。
「私もその出資者の一人だよ」
感想、ここ好き。ありがとう。
Dクラス中心の話も一段落ついたので、次回から話が加速します。
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