『青春は失恋によって完結するものであり、それを経験しなければ大人になって拗らせて大変なことになる』
そんな話を聞いた彼はふと思い立った。
そうだ、手紙を書こう。
自分と彼女の、この中途半端な関係を清算するために、ペンを持とう。

1 / 1

受験生は注意してください



夏目漱石の、あの有名な逸話って本当は嘘らしい

 

 ○

 

「I love you」を「月が綺麗ですね」に訳したのは夏目漱石だったけれども、どうしてそんなことをしてくれたのかと思う。

 はっきり言ってしまえば迷惑でしかない。

 昔の僕は、会話の隙間を埋めるために月が綺麗だなんてそういう感想を気軽に述べていたから、君がその意味を知っていたのならば、きっと勘違いされていたに違いなかった。

 

 まあ、実際のところ勘違いではないのだけれども、本意でないところでばれるのは避けたいと思うのは、きっと誰しもがそうだろう。

 どちらにしろ、僕が自分から告白することはなかったのだけれども。

 

 今回手紙を書こうと思ったのは、小学校5年生から中学校の卒業までの間、ずっと一緒にいた彼女の話である。といっても、残念ながらこの話にトキメキなんてものは無い。

 

 勝手に悩んで、一人で解決して、勝手に自己満足をして。告白まで行き着くことがなく終わった話だ。

 至って平坦な、情けない僕の話である。

 

 若い頃に失恋をしなければ、青春を拗らせて大人になった時に重症になるという話を聞いたことがある。

 初恋は終わらせなければいけないものであり、それは大人になる為の通過儀礼だとかなんとか。

 

 その話を聞いた時に、僕は嫌だなぁと思ったのだ。誰だって失恋なんてしたくないし、そうなるとわかってるのならば傷つきたくないなと思うに違いない。

 

 でも、果たしてそれで本当に良いのだろうか?

 

 試しに自分の身に当てはめてみると、そうでもしないければ、一生過去を振り返って生きることになるだろうということに気付いた。

 良くて停滞するばかりで、きっと前へ進むことはないだろう。

 

 なるほど、確かに僕はもう拗らせてるのかもしれない。そして、もしかしたら手遅れかもしれない。

 それでも、僕はペンを取ることにした。

 

 初恋にピリオドをつけようとする為に、これから僕の話を少し長くなるかも知れないけれど、ここに書こうと思うのだ。

 文字は君と違って雑で汚いものであるから、見にくいものになるかも知れない。

 あまり君に明かしたくなかった、自分の醜さも書くことになるだろう。

 

 もしかしたら、嫌われるかも知れない。でも、嫌われたら嫌われたで楽になるのかも知れない。

 後戻りができなくなることはきっと君にとっても、自分にとっても好都合だ。

 

 前振りが長くなったけれども、まずは何から書き始めようか。とりあえず、話の出発点から順番に語るとしよう。

 

 きっと、それがいい。

 

 ●

 

 

 半分寝て、半分起きてる状態。

 多分きっとずっと寝ていて浅い眠りだったからこそ、そのインターホンの音に気づいた。

 

 ゆっくりと身体を起こす。調子は朝方よりは良い、多少息が苦しいがそれでも動けないほどではない。

 付けっぱなしの照明に、動かしっぱなしの暖房。少し喉が渇いているのを感じる、これが終わったら水を飲もう。

 

 もう一度、インターホンが鳴る。

 多分、宅配物かなんかだろう。

 共働きの親に代わって判子を押して受け取るだけ、そんな単純なお手伝いを面倒だとは思わなかった。

 無意識のうちにベッドから蹴り落とされた掛け布団を踏みつけながら、玄関へと向かう。

 リビングに掛けられた時計に目をやると、午後の5時を指している。

 

 すこしの肌寒さを感じながら、暗い廊下を行く。

 ゆっくり歩く自分を急かすかのように、もう一度インターホンがなった。

 

「お待たせしました、っと」

 

 扉を開けた先で待っていた人物を見て、思わず言葉が詰まる。

 予想に反してそれは宅配便ではなかった。

 

 むっつりとした無愛想な表情で彼女はこちらを見下ろしている。背中には赤いランドセルを背負っていた。多分、学校帰りなのだろう。

 あんまり話したことはないけれど、小学校へ向かう班では同じだったから、一緒に歩く機会はいくらでもあった。

 名前は確か。

 

「3回、押したんだけど」

「……調子が悪くてね、寝てたんだよ宇多川さん」

「知ってるわ、あなたが最近学校を休んでだことなんて。だからこそ、今日私が届け物に来たんだから」

 

 それならば、もうちょっと僕のことを思い遣ってくれても良いんじゃないかと思ったけれど、こちらのそんな視線なんてしったこっちゃないと受け流しつつ、彼女はランドセルからクリアファイルを二つ取り出した。

 

「こっちは宿題のプリント、こっちは親に渡すよう。期限はどっちも中に書いてあるから分かると思う」

「ありがとう宇多川さん。ちょっと待ってて、ファイルを返すから」

 

 そう言って中身だけを部屋に持ってこうとすると身を引くのと同時に、彼女はするりと玄関の中へと入り込んだ。

 

「後で学校で返してくれれば良い、どうせ今バラしても無くすのがオチなんだから」

「じゃあ、また今度の朝返すよ」

 

 その言葉に何の反応も示さず、まるで自分の家かのように彼女は靴を脱いでいる。

 

 何をしてるんだろう、この人は。呆気に取られてぼんやりと眺めてしまう。

 靴を脱ぐとは上がってこようとしてるという意味である。

 しかし、僕も彼女も知ってのとおり、ここは僕の家であり、宇多川さんの家では無いはずだ。

 そして、彼女を含めて女子を家にあげたこともない、そして今日ここで宇多川さんを家にあげる意味もない。

 

 なんとツッコめばいいのか、言葉を探してる間に彼女は廊下を歩き始めた。

 

「藤田くんの部屋はどこ? あっち?」

「いやいや、宇多川さんどこに向かおうとしてるの。僕は病人だよ、病人の家で何をする気?」

「あら、その割には元気そうだし、先生は喘息は他人には移る病気ではないと言っていたけど」

 

 まあ確かに元気ではあるし、病気が移らないのであれば、宇多川さんを部屋に入れても構わないだろう。

 しかし、訳も分からず自分の意図してない流れで部屋にあげるのは嫌だった。

 見られたく無いものがあるわけでも無いけれど、あんまり綺麗な部屋とは言えない。脳内で自分の部屋を思い浮かべながら、口を開く。

 

「移らない。確かにそうだけど、僕はこれから休まなきゃいけない。休んで身体を健康にしなきゃ学校にもいけない、そうだろう? 宇多川さんが部屋にいたら、落ち着けないし休めない。それは困るんだよ」

「あら、私のことが好きなの?」

 

 彼女は振り返り、真顔でそう言った。

 

「いやそれは無い、断じてない、ありえないね」

 

 にゅっと自分の額に突き出された手を交わす暇もなく、パチンという音と衝撃と痛みが走る。

 多分、強烈なデコピンだった。

 

 額を抑える自分を無視して彼女はトイレ、親の部屋、洗面所と片っ端から扉を開けつつ、ここでは無いと呟きながらリビングへと向かう。

 リビングに入って仕舞えば、彼女が半開きの扉に気づくのは必然だった。

 

 そのままつかつかと自分の部屋の前まで進んで、しかし、そこまで行ったのに宇多川さんが部屋に入ることはなかった。

 くるりとこちらを振り返って、僕に向かって彼女は問い掛ける。

 

「それじゃあ、部屋に入っても良くて?」

 

 思わず、ため息を吐く。

 どうしてそういったところは律儀なんだろう。

 行いと質問があまりにアンバランスすぎて、呆れはしたものの、何となく愉快な気分で質問を返した。

 

「あのさ、何でここまで入り込んでそれを聞くの? 家に入る前に聞くことじゃないの、それは」

「断られるのがわかってたから、部屋に入らせてくれって言っても、どうせ藤田くんは首を縦に振らなかったでしょ?」

 

 当たり前だ、そう言おうとして少し咳き込む。水を汲みにキッチンに行き、コップを持って再びリビングに戻ると、彼女は直立不動でそこに居た。

 一口喉に流し込んで、尋ねる。

 

「そもそもの話、何で宇多川さんは部屋に入ろうとしてるのさ」

「何故って、何となく?」

「なんとなくはないでしょ、そもそも縁もゆかりもないのだから」

「……縁もゆかりもないからよ」

 

 上手く聞き取れなくて首を傾げてると、彼女は再び口を開いた。

 

「納得の行く理由があれば、藤田くんは部屋に入れてくれるの?」

「そこまで入って許可を求める意味がわからないけど、どちらにしろ理由は教えてよ」

「理由を教えたら許してくれる?」

 

 それを聞いて納得できなかったら、僕は断るのだろうか。

 自分で言葉にしておいて、今更ながら考える。納得ができないから駄目と果たして本当に突っぱねられるのだろうか?

 

「理由を教えてくれたら、いいよ」

 

 多分、断れないのだろう。

 そんな気がした。

 

 ●

 

 手紙を書きながら、昔の事を思い出していた。

 自分の部屋。といっても、彼女が突撃してきたあの懐かしい部屋では無く、大学に入って一人暮らしをしているアパートである。

 

 今はもう大学2年生で、あの頃は小学5年生で、ちょうど10年が経っていた。

 長いようで短いような、不思議な感覚。

 あの出来事がなければ彼女と仲良くなることはなかっただろうし、何事もなく引っ越して縁が切れるはずだった。

 

 あのマンションには中学3年生まで暮らしていた。親の都合で引っ越して、高校からは他県で暮らしていた。だから、彼女と同じ学校生活を送っていたのは中学校の頃まで。

 

 といっても、彼女の通話アプリでのやり取りは続いていた。それも高校を卒業するまでである。

 つまり彼女がいた生活は5年、ある程度やり取りをしたのは3年、連絡が途絶えてからもうすぐ2年ということになる。

 

 彼女は元気だろうか、きっと元気に違いない。

 病気がちの自分と対照的に彼女はいつも元気であり、そうでない姿が自分には想像できなかった。

 

 一通り書き終えて、最後に自分の名前を書き、うんと伸びをする。背中からいい音がした。

 

 ずいぶん長い間、手紙を書いた。

 書き損じてゴミ箱行きになった便箋も何枚もあったし、それなりの量になってしまった。

 机の上に置いた電子時計は、とっくに日を跨いでしまったことを教えてくれた。

 

 便箋を読み返すことなく、茶色の封筒に仕舞い込む。

 本当なら読み返して、もうちょっとブラッシュアップするべきなんだろう。

 でももう一度読み返すと、きっと後悔しそうな気がしていた。そうしてる間に、きっと送るのも諦めてしまうよう気がした。

 

 こんな手紙に価値はないと判断してしまう、そんな気がする。

 

 そうなればこの手紙のいく先はポストではなくゴミ箱である。

 

 封筒を見やる。

 表面に書かれた住所は自分の昔いたマンションの部屋番号違い。結局確認は取れてはいないけど、彼女はきっとまだ、そこに住んでいるだろう。

 

 もしかしたら、大学に入ると同時に引っ越して、この手紙も届かないかもしれない。

 

 でも、それはそれでよかった。

 大事なのは彼女に手紙が読まれることではなく、自分の中で区切りを付けることだから。

 

 届かないでほしいとも思っている、それはきっと未返信という結果に含まれるだろうから。

 読んで返信をしないという結果が、届かなかったという結果に含まれるのなら、少しだけ心が楽になるような気がした。

 

 そんな結末を願って、この様な迂遠な方法を取っている。

 

 スマホをいじって適当な曲を流す。

 天井を眺めながら耳を傾けていると、途中で思わず顔を顰めてしまう。よくよく考えればこれは失恋ソングじゃないか。

 

 変えようと思って、けれどもそんな気力もなくて途中で手を投げ出した。

 まあ仕方ない、めんどくさいし。冬の曲と言ったら大体失恋ソングになるから、次選んだ曲が失恋ソングじゃないとは限らない。

 

 曲に意識を移そうとして、結局また手紙へと意識が戻ったのは、多分必然的だった。

 

 手紙、どうして自分は手紙という方法を選んだのだろう。

 

 きっと彼女から返事が来るのが怖くて、失望されるのが怖くて、手紙という方法を取ったのだ。

 そう考えると、自分はやっぱり卑怯者なんだろうと思う。

 

 手紙ではなく、今風に通話アプリでやり取りすればいいし、なんなら電話をかければいいのに、その方法を選ぼうとしなかったのだから。

 その両方とも彼女からすぐに返事が来るものだったから。

 

 でも、言い訳をするとその両方の方法では、僕の気持ちをうまく言葉にできる自信がなかった。

 手紙なら自分の言葉をいくらでも考えて投げつけることができる。そして、投げっぱなしジャーマンになれる様にこういう方法を選んだ。

 

 エアコンと加湿器の電源を切って、照明を落とし布団に入る。すぐ寝れるかと思ったが、やり切ったという興奮からかすぐには寝付けなかった。

 

 静かな暗闇でぼんやりしているうちに、足元にあるカーテンの隙間からぼんやりとした光が漏れているのが見えた。

 そういえばと思い、布団から起き上がって窓の外を覗き込むと、夜空に満月が浮かんでいる。

 

 あの頃を思い出す。

 あの日、あの部屋の出来事を。

 望遠鏡で見上げたあの三日月の事を。

 今は手元にない、実家に置きっぱなしのあの望遠鏡は、まだ使えるだろうか。

 

 今も昔も、場所は違えど同じように月を見上げているのが、なんとなく不思議な気持ちだった。

 あの時は二人だったが、今となっては一人で見上げている。

 

 夜空を見上げているうちに、ふと思い出した。

 

 そういえば、あの日、彼女に貸した宇宙図鑑をまだ返してもらってない。

 まあ、今となっては返してもらわなくてもいいのだけれども、彼女はそれをまだ大事に持っているだろうか。

 

 もう大分昔のことだから、もしかして私物と間違って捨ててしまったのではないだろうか。

 そうであってもおかしくはないし、自分にはそれを責める権利はないような気がした。

 

 ふと思う、自分はそれを返してもらおうとしなかったのだろうか。図鑑を返してもらってないことには気づいていたはずなのに。

 

 答えを考えるのをやめ、再び布団に潜る。今度こそ、すぐに寝れる気がした。

 睡魔が近くまで迫っているのを感じる。

 それと一緒に、懐かしい夢を見れる予感もしていた。

 

 ●

 

「結構、恵まれた生活をしてるのね」

 

 座布団に座り、ちゃぶ台の上に広げられたお菓子を一人でしばらく摘んでいたかと思えば、宇多川さんはそんな事を言い始めた。

 

 自分が恵まれてるなんて、そんな事を考えたことは一度もなかったが、彼女からはそう見えたのだろう。

 果たして、本当に僕は他の同級生と比べて恵まれた生活をしているのだろうか?

 ベッドの上で、上体だけを起こしながら小考する。

 

「それは、自分の部屋があるから?」

「それは私にもある、そのブラウン管のテレビとかゲーム機とか」

「あぁ、なるほど」

 

 確かに自分の部屋にゲーム機はともかく、テレビがある家はあんまりないに違いない。

 

「と言っても、そのテレビはモニターにしか使ってないんだけどね。番組は見れないんだ」

「そうなの、まあどうでも良いけれど」

「もしかしてゲームでもしたかった?」

「やらないわ、名前も知らない興味のないゲームなんて、そんなのつまらないもの」

 

 そう言ってまたお菓子を食べ始める。

 先ほど漫画でも読むかと勧めた時も、同じような話の流れで結局乗ってくることはなかった。

 ただ一人、彼女はお菓子をつまみ、自分はそれをぼんやり眺めるばかりである。

 

 彼女は何をしに来て、自分は何をしているだろう。いやまあ、さっき理由は聞いたのだけれども。

 

 思わずため息を漏らしそうになり、慌ててそれを押し殺す。

 代わりにベッドに身体を投げ出して天井を見上げる。聞こえるのはエアコンの音と、時計の音と、微かな衣擦れの音ばかり。

 

「多分、明日には学校に行けると思うんだ。今は大分調子いいから」

 

 返事がないから独り言のようになったけれども、宇多川さんはこちらを見ているような気がした。

 

 体調を崩したのは急に冷え込んできたからで、それに釣られて喘息の発作が起きたから。

 一度持ち直して仕舞えば、また体調を崩すことはないと思う。

 まあ病気に免じて、体育の授業は休ませてもらうかもしれないけど、いつも通りの生活が目の前に迫っていた。

 

「それじゃ、もう学校休まない?」

「いやまあ、喘息はちょっと予想できないから休まないかなんて約束は到底できないんだけど」

 

 そういうもんだから、仕方がない。

 1日2日で治るものなら良かったのだけれども、病気というより体質のようなものだと理解していた。季節の変わり目には体調を崩す、ほぼ100%の確率で。

 これはきっと、この先も変わらないだろうから。

 

「出来るだけ元気でいるようには努力をするよ」

「やって当然のことを言われても、困るんだけど」

 

 当然か、確かに当たり前のことしか言ってない。思わず笑いが漏れ、それと一緒に咳が出た。

 

「……もう6時だから、そろそろ私も帰るわ」

 

 その言葉を聞いて身体を起こすと、彼女はすでに帰り支度を整えて、ランドセルも背負っていた。

 

 呆れる早さ。結局この部屋でお菓子を食べるだけ食べて、それだけで帰ろうとしてる彼女は一体なんなのだろう。

 

 なんとなくムカついた。それは彼女にだろうか、それともお菓子しか彼女を引き留める術を持たなかった自分の情けなさにだろうか。

 その答えは出せなかったけれども、少なくとも、なんとなくこのままではダメなのはわかった。

 

 と言っても上手い考えがある訳でもなく、部屋をぐるりと見渡して何かあっただろうかと思案する。

 

 ゲームでも、漫画でもダメ。僕が彼女に話せることは何かあるだろうか。

 ふと、目に止まったのは最近はあまり使っていない望遠鏡だった。

 外の天気は確認してないけれど、少なくとも今日は雨の音は聞いていない。

 

 彼女の隣を通り抜けて、望遠鏡を引っ掴みベランダへと向かう。

 自分の部屋の、閉じっぱなしだったカーテンを開けると冬の澄んだ夜空に三日月が浮かんでいる。それに寄り添うように金星が並んでいるのが、望遠鏡を覗かずにも見えていた。

 

 そういえば今日は月と金星が接近する日だったか。

 そんなことを考えながら窓を開くと、身を切るような風が吹き込んでくる。

 

 一つ、大きなくしゃみをする。上着も羽織らずに窓を開けたのは失敗だったかもしれない。けれども、それを今更取りに戻るのは少し癪だった。

 

 置きっぱなしだったサンダルを突っかけて、ベランダに出る。

 望遠鏡の三脚を開き、セッティングに入る。後ろから宇多川さんの視線を感じていたけれど、振り返ることはしなかった。

 

 悴む手でピントを合わせる、向ける先は三日月。12月に入り一気に冷え込んだ空気は思うように身体を動かすのを阻んではいたけれど、不思議と心地よさも感じている。

 

「ほら宇多川さん、三日月が綺麗に見えるよ」

「見せてほしいなんて頼んではいないんだけど」

 

 振り返ってみると、言葉とは裏腹に彼女はランドセルを背負ってはいなかった。

 少なくとも、彼女の興味を引くことには成功したらしい。

 部屋に上がる自分と入れ替わりに、宇多川さんはサンダルを突っかけて外に出た。

 自分は靴を取りに行くわけでも、上着を撮りに行くわけでもなく、ただそのまま窓枠に腰掛ける。

 部屋の暖かい空気が流れてくのも無視して、望遠鏡を覗き込む彼女の横顔を後ろから眺めていた。

 

「……あんまり月のことをまじまじと見たことはなかったけれど、三日月って本当に欠けてる訳じゃないのね」

 

 当たり前のことを言うのが可笑しくて、でも、他人にとっては月も星もそういうもんなのかもしれないと思った。

 

 勝手な想像を押し付けられて、何となく落胆した雰囲気なのも面白かった。でも月が怒るわけでもあるまいし、そういう解釈してもいいんだろう。

 むしろ、そういう解釈ができるのがちょっと羨ましいかも知れない。

 

「地球からの光の反射があるんだ。いつもは暗くて見えない欠けた場所も、望遠鏡なら見ることができる」

「無粋な道具ね、まるで夢を剥がすためだけにあるみたい」

「そうかな、僕はそうは思わないけど」

 

 彼女は望遠鏡から目を離して、こちらを振り返った。

 

「これがあれば、きっと、月にも手が届くんじゃないかと思えるでしょう?」

 

 その言葉に首を縦に振る。

 月に触れるとまでは思わないけれど、昔よりは身近なもののように感じてるのは確かで、望遠鏡がなければそう思うことはなかったに違いない。

 

「それがダメなの、詳しく知らなければ自分のイメージだけで留めておけるでしょ? お月様は綺麗で、月にはかぐや姫が居て。でもそういう夢を子供が抱えてられるのは、子供たちが知らないのは現実を知らないからじゃない」

 

 そうでしょう?と彼女は言うけれど、その言葉に頷くことはなかった。

 

 知らないことが幸せであるというのは現実逃避な気がして、それを認めたくはない気持ちがあった。

 そんなことはないと言いたかった。

 

 でも、それを逃げだと否定するのは余りにも彼女の気持ちが純粋なような気がして。

 何より、それは否定するのは会話ではないような気がしたから。だから、なんとなく思った言葉を、深く考えることなく口にした。

 

「宇多川さんは望遠鏡を現実を突きつける道具だというけれど、僕からしてみれば経験を共有する為の道具だと思うんだ」

「経験を共有する為の道具?」

「そう、目が良かろうと悪かろうと、覗き込めば同じ月を見ることができる。宇多川さんと僕は今日ここで、同じ月を見上げたという経験を共有したんだ」

「それならでこぼこの月ではなく、もっと綺麗な物だったらよかったのに」

 

 その言葉に思わず苦笑する。

 もっと綺麗な物! 果たして昨日の三日月を超えるものが、今日の夜空にあるだろうか。ちょっと考えても、もしくは長い時間考えようとも、自分には到底思いつきそうになかった。

 

「でこぼこと言ってもさ、地球を守るためにできた名誉の勲章のようなものだから。今より近い場所にあった月が、地球を庇って隕石を受けてくれたからクレーターが沢山できたんだよ」

「その話は聞いたことがあるわ、藤田くんから」

「え?」

 

 自分から宇多川さんにこんな話をしたことがあっただろうか。いやないはずだ、きっと彼女の思い違いに違いない。

 

「それで、あれでしょう。隕石から地球を守った月は、しかし地球から見返りを受けられず、それ故に地球を嫌って毎年少しずつ離れているのです……だったかしら」

「確かに、そんなことを話していた気がする」

 

 半分親からの受け売りの童話みたいなものだった、それも現実に即した童話である。地球が月に守られているのも、月が少しずつ地球から離れているのも本当のことだった。

 

 確か低学年だった頃によく好んでこの話をしていた気がする、宇多川さんにもこの話を聞かれていたのだろうか? もしくは通学路で一緒だから彼女にもこの話をしていたのだろうか。

 

 そうかもしれない、でも宇多川さんはその話の続きを知っているのだろうか。

 多分、知らないような気がした。

 

「でも、その話はオチがちょっと足りない。毎年少しずつ離れて、それで終わりじゃないんだ。宇多川さんは遠のいていく月は、最終的にどうなると思う?」

「それは、月はどこか宇宙の彼方なり、太陽なりに飛んでいってしまうんじゃないの?」

 

 その言葉にかぶりを振った。

 

「違うんだよ。月は最後の一歩で踏みとどまるんだ、いつか地球が気づいてくれるんじゃないか、自分がどれだけ尽くしてたかって、地球がいつか振り向いてくれると期待して、そしてそのまま、一生地球の周りを回り続けるんだ」

 

 まあ実際には月がその最終的な位置に行くまでに太陽の寿命がきて、地球も月もなくなるのだけれども。

 

 その話を満足したのか、しないのか。

 返事をしないまま、宇多川さんはベランダから室内へと戻っていった。

 多分きっと、もう帰るのだろう。

 

 ふと思いついて本棚から一冊の図鑑を取り出した。それは直前に月の話をしたからこその発想だった。

 取り出したのは望遠鏡と一緒に買ってもらった宇宙図鑑。それを彼女に差し出した。

 

「これ、貸すからさ。読んでみてよ」

「……興味ないんだけど」

「読んでくれたら僕が嬉しい。宇多川さんと僕はきっとそんなに趣味が合わないだろうからさ、経験を共有するものが殆どないんだ」

 

 それに何より、返す時が来たのなら、また会話する機会があるだろうから。

 宇多川さんが素直に図鑑を受け取ったから、それを言葉にすることはなかったけれど。

 そんなやましい気持ちが少しだけあった。

 

「それじゃまた明日、藤田くん」

「また明日、宇多川さん」

 

 そして、部屋の扉が閉まる。

 

 本当なら玄関まで送るべきなのだろうけれども、夜風に吹かれたせいで結構な寒気が身体を襲っていた。

 エアコンの設定温度を上げ、ベッドに潜り込む。

 

「明日、会えるといいな」

 

 遠くで玄関の閉まる音を聞きながらそんなことを口にしたのは、多分、明日も身体の調子を崩すことを予感していたからだろう。

 

 ●

 

 彼女のことを好きになっていると気づいたのは、果たしていつのことだっただろう。

 

 あの冬の、僕の部屋での出来事があった時だろうか。

 それとも、友達に宇多川さんに告白したいと相談されて、モヤモヤとした気持ちを抱えた時だったか。

 

 もしくは、友達が振られてなんとなく安心してることに気付いてちっぽけな独占欲を抱えてることに我ながら失望した時だっただろうか。

 

 でもやっぱり、そうなんじゃないかと思うのは、高校に入る直前で引っ越すことになると両親に告げられた時だっただろう。

 

 それまでは、なんとなく、同じ高校に進むだろうと思っていた。

 

 僕も彼女も同程度の学力であったし、校風に惹かれただの、制服が可愛いからだの、そういうどこか特別な意思を持って、あの学校に行きたいという目標もなかったから。

 だから目指すは自分の学力に近く、それでいて1番通学しやすい場所。

 

 あの日以来、よく自分の部屋に寄るようになった宇多川さんは、その流れで受験勉強を一緒にやっていた。

 それとなく聞いた志望校も、僕と同じ理由で選んだのか同じ高校であったのを、言葉にはしなかったけれども内心では嬉しく思っていた。

 

 まあ、彼女がどう思っていたのかは知らないけれど。

 少なくとも、引越しをするということを告げた時には、宇多川さんはどこ吹く風と言わんばかりに「そう」と呟いたのみでら問題集に取り掛かっていたから、やっぱり、こちらが引っ越そうがなんとも思ってなかったに違いない。

 

 予想外の肩透かしを喰らって、そのまま無言で問題集に取り掛かったのをよく覚えている。

 

 ああ、やっぱり、彼女にとって自分はその程度の扱いなんだと。別にここに居るのは自分じゃなくても良かったんだと、そう思うと筆はあまり動かなかった。

 

 僕は彼女の事が好きだけど、彼女から僕への気持ちがイコールではないらしい。そこに至って、自分が自惚れていたとようやく気付いたのだ。

 

 それでも最低限、最低限のことは進めようとした。

 

 その日の帰り際に、自分から切り出してようやく連絡先を交換した。それまでは、そもそも使う必要がなかったから。

 何かあれば直接言えばいい、だって同じマンションなのだから。

 宇多川さんの家に向かったことはなかったけれど、彼女は頻繁に訪れていたし、機会ならいくらでもあった。

 

 我ながら、ナイスファインプレー。

 そうでもしなかったから、他県に引っ越して高校に入った後、彼女と何度か遊ぶ機会は訪れなかっただろう。

 

 関東内の引越しであったのも幸いした。

 会おうと思えば会える距離だった。夏休みや冬休みに遊ぼうと誘えば、宇多川さんが断ることはなかった。

 まあ、誘いをかけるのは毎回こちら側で彼女からアプローチを掛けられることはなかったのだけれども。

 

 だから、やっぱり、そういうことなのだろう。

 

 誘いが断られないことに安堵して、遊んでもなんも進展しなかったことに落胆して、彼女がなんら変わりがないように見えることに安心して、そういった繰り返しを休みの度に行って、無為に日を過ごしてるうちに気づけば高校3年生になっていた。

 

 そうなるともう大学受験である。

 

 自分はと言えば、一人暮らしをしてでも、彼女と一緒の大学に行こうと決心をした。

 そうすれば学校生活を一緒に行えるだろうし、そうしてるうちにちゃんと告白する機会もあるだろうという不純な動機である。

 

 不純ではあるけど純粋な願いなのだから許してほしい。

 

 まあ、女子大だったら土台無理なはなしになってしまうのだけれど。そうでない事を祈りながら彼女にそれとなく本命で狙う大学を聞いてみると、まあ自分の学力でも狙えないこともない国立大学だった。

 

 話を合わせるように奇遇だね、自分もその大学を目指してるんだよと言ってみると、やっぱり興味がないように「そう」といい、その言葉にちょっぴり傷付いて、言わなければ良かったかなと後悔して。

 

 でも、それを言うことで彼女がその志望校から逸れない可能性があるのならば、言わない選択肢は無いのだ。

 

 もし、彼女が自分のことを好ましく思っているのなら、自分が受けることが理由になるのかもしれないのだから。

 

 まあ、上がったところで自分が滑ったらどうしようもないのだけれども。

 余裕で受かるとは思ってなかった。ちゃんと勉強した上で少しの運がいるかなぐらいにはおもっていた。

 

 失敗しない為に高校に入ってからも、入念に勉強はしてきたつもりだった。まあ国立が本命だとは思ってなかったからちょっと慌てはしたが、やると決めたらやるだけだ。

 

 そうして勉強をしているうちに時間が経ち、春を終えて、夏を超えて、秋を吹っ飛ばして冬が来て。

 滑り止めの私立にはあっさりと受かり、最後に本命の国立大学の合否だけが残っていた。

 

 あの日。

 WEBで合格発表があって、アクセス集中で繋がらなかった時に、余裕ぶって結果は変わらないのだからと通話アプリを眺めていた。

 

 僕は、そして彼女はちゃんと受かっているのだろうか。

 国立を受けた友人は多くはなかったけれども、ちょくちょくと友人の合否が流れる横で、宇多川さんから『受かったよ』と送られてきたのを自分が見逃すことはなかった。

 

 その日、初めて彼女が能動的にメッセージを送ったような気がする。

 

 いつもは僕がメッセージを送り、彼女がそれにコメントをつけて、最後に自分が会話を締めて、それの繰り返しだったから。

 

 だから、宇多川さんからのメッセージに返信しなかったのは、その日が初めてということになる。

 

 そして、それ以来、彼女とのメッセージは途絶えている。

 

 ●

 

 駅を出て、帰路を行く。

 12月になって日の入りはますます早くなって、吐く息は白く光り、それをかき消そうと凍える風が吹いていた。

 

 手紙をポストに投函してからおおよそ2週間ぐらいが経った。

 彼女からの返事はまだ来てなかった、通話アプリからの彼女の通知が来ることもない。

 

 もしかしたら、もうとっくに引っ越してるのかも知れない。そうであるのなら返送されるはずではあるのだけれども。

 

 もしかしたらとっくに届いていて、それでいて黙殺されているのかも知れない。

 そうだとしたら、もうここから先、話が進む事はないだろう。

 

 でも、それでも別に良い。

 自分の気持ちは手紙を書き終えた時点で完結していた。勝手に自己満足して、昇華しきっていた。

 

 すっかり肩の荷を下ろし、こうやって坂道を歩く足も大分軽く感じる。

 もっと早く行動すればよかったのに。

 大学落ちた後に、気楽に自分だけ落ちたことを伝えられたら楽だったのに。

 

 そうできなかったのは、他の誰が悪いでもなく、ただ自分が悪いと分かっていた。

 

 なんで素直に、あの日にすぐに言えなかったのだろう。

 あの日に言えなかったからこそ、日に日に重りを背負うことになって、どんどん自分の首を絞めていくことになったのに、どうして言えなかったのだろう。

 

 多分、あのときぷつりと一本の線が切れてしまったんだと思う。

 自分の事をどう思ってるのかわからない彼女に、それを伝えたらどうなるのかわからなくて、それを知る事を恐れてしまったのだ。

 

 宇多川さんであれば、自分以外にも相手はいくらでもいるだろうし、もしかしたら高校の時にも僕が知らないだけで彼氏が出来ていてもおかしくないような気がした。

 

 そういう会話はなかったから確認する事はなかったけれども、実際のところどうなんだろう。

 

 わからない、僕はあまりに彼女のことを知らなさすぎた。今も昔も、彼女について知ってる事は大差ない。

 

 彼女にとって、自分はなんだったのだろうか。

 そして、それを確認する時は来るのだろうか。

 

 手紙を出してから、ずっとそんなことばかりを考えている。

 そうして駅から10分ぐらい歩いていると、一人暮らしをしているアパートが見えてきた。

 いつものようにポストを確認し、何も届いてないことを確認して、少しだけ落ち込みつつ階段を登る。

 

 階段を登り切ると、見晴らしのいい廊下に人影が一つ見えていた。

 心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、冷静に1番奥から数えて二番目のドアの近くということは202号室。

 

 確かに自分が住んでる部屋である。そのドアのすぐ横で、誰かが顔を伏せてしゃがみ込んでる。

 

 それが誰かなんて、予想をする必要もなかった。そんなところで待ってるのはもう1人しかいない。

 

 廊下を歩きながら昔のことを思い出す。

 そう言えば、あのマンションで過ごしてた時、彼女がそんな風に待っていたこともあった。

 

 途中でこちらの足音に気付いたのか、彼女は立ち上がり、こっちに向き直った。

 小学校の頃とは違い、身長はとっくに逆転している。つまりは彼女からこちらを見上げる形。

 

 それでも彼女の方から圧力を感じたのは、きっと心に秘めた激情が漏れていて、それにあっさりと僕が屈していたからだろう。

 

「……お久しぶりです、宇多川さん」

「簡潔明瞭に話します。まず第一に連絡を遣しなさい、人としての問題です。切られた側からしたら何が何だかわからないのだから、どうしようもないのだから本当ふざけてますよ。手紙を送ったのは最低限と言ったところです。

 そして第二に手紙ではなく直接話しなさい、あなたの持ってるスマホは飾りですか? 直接会えないなら、通話もできるでしょう。なぜそれをしないんですか。もしかして、投げっぱなしで完結して、そして逃げようとしてるんじゃないですか?」

 

 出会うなり挨拶もせずに一気に捲し立てられて、そして一瞬の静寂が訪れる。

 僕は素直に頭を下げることにした、それ以外に方法はない。きっちり90度、深々と頭を下げる。

 

「本当にすいませんでした」

「それはつまり逃げようとしたってこと?」

「いえ、そんな事はないんです。一回自分なりに紙に落とさなきゃ上手く言語化出来る気がしなくて」

「そう、なら今なら言語化出来るって事よね」

 

 頭を下げ続ける自分の目の前に、見覚えのある封筒が差し出される。空いてるようには見えなかった。でも、こんなノリの付け方をしていただろうか。

 封筒の蓋は備え付けの両面テープではなかったか?

 

「手紙は読んでないわ。それを私は受け取らないし、認めない」

 

 封筒を受け取って顔を上げると、彼女は背中に背負ったリュックサックを漁っていた。

 

「私がね、今日ここに来たのは藤田くんに借りた図鑑を返そうと思ったからよ」

 

 懐かしい表紙!

 冷静に考えると自分が持っていた期間より彼女が持っていた期間のほうが長いのだから、もはや彼女の私物のような気がしたけれども、それを口にするのも野暮な気がした。

 そして、彼女の言葉を信じるのならば、あの時のお願いは10年越しに叶ったのだ。

 

 受け取った図鑑をパラパラとめくる。

 本の様子を見る限り、放置していたわけではなくそれなりに読み込んだのを感じて、それが嬉しかった。

 

「そして、ちゃんと私に言葉で説明してもらうためでもある」

 

 それを聞いて、図鑑から彼女へと向き直る。その時、今日初めて彼女と目を合わせた気がした。

 その瞳が潤んで見えたのは、僕の気のせいだっただろうか。すぐに視線を逸らされて、それを確認する事はできなかった。

 

「ずっと寒いところで待たされてお腹も減ったし、藤田くんの奢りでご飯でも食べに行きましょう、そこで何かを食べながら積もり積もった話をしてもらいましょう」

 

 まさか、断らないよねと視線をよこされて首をコクコクと縦に振る。そんなのを、断る権利、こちらにあるはずもない。

 

「そりゃもう、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()断るはずもないですよ」

「……覚えてたのね。もう10年前だから、とっくに忘れてるもんだと思ってた」

 

 10年前の彼女の切り札がそれだった。

 部屋に入るための理由に、宇多川さんは自分の誕生日だからと言った。

 なんて横暴とも思ったし、それならば部屋に通すのも仕方ないと納得したのも、また事実なのだ。

 

  『私の誕生日だから』、と。その意見を恥じらいもなく堂々と言ってしまえるのを見て。

 その時、初めて僕は彼女に惹かれたのだ。

 

 ●

 

 2人並んで街路灯を追って、ファミレスに向かって夜道を行く。

 会話の種を探そうとして、ふと見上げた空に三日月と金星が並んでいるのが見えた。あの日と同じペアが、昔と同じように今日もこちらのことをみおろしている。

 ああ、いいものを見つけたと、昔のように、僕はなんともなしに口を開いた。

 

「ほら、宇多川さん、今日も月が綺麗だよ」

 

 彼女は少々の沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。

 

「そう言えばさ、夏目漱石の月が綺麗ですねと訳した話って実はガセらしいって、藤田くんは知ってた?」

 

 知らなかった、知ってるはずもない。

 それならば、そんなことを手紙に書くはずがなかった。つまり、夏目漱石に感じていた怒りはただの八つ当たりだという事で。でも今はそんな事どうでも良く、先に彼女に確認しなきゃいけないことがある。

 

「……やっぱり、手紙もう読んでるよね?」

「読んでないってさっきも言ったよね」

 

 隣を見やると、彼女が悪戯っぽく笑っていた。

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。