地底湖かぁ。
<周辺感知>の祈りに応じた神意が、行く手のビジョン──垂れ下がった鍾乳石と暗い水面──を見せると、灰色のクロークを着た女は小さく不満を募らせた。肢体は細く、胸に下げた水晶灯が照らす顔はミルクがかった褐色で、黒い眉を訝しげにひそめていた。
面白くなさそうな場所。
受けとった神託をそう評すと、手にした白表紙の本をぱん、と閉じた。彼女の顔先で空気がしゅるりと渦巻いて、信仰のほころびを咎めるように、頬をそっと撫でていった。
彼女は修道女の端くれで、祈祷書などを用いて神の力を借り、智見を得たり、あたかも奇跡のような現象を起こした。その一端である“道開き”を乞う信徒に対して、神は親身であり常に真実を提示したが、それはしばしば期待にそぐわない光景を見せる、ということでもあった。そして彼女は、それらを天命と素直に受け入れるほど達観してはいなかった。
“鉄獄”の地下二十二階。上の階層から続いていた切石積みの区画が唐突に終わり、まだ眉を寄せている彼女の前に、物憂げな洞穴の入口が姿を見せていた。
神に仕える者は、私心に左右されず正しく導きを解釈する。教えとして頭ではわかっていたが、実際にそのような心情でいるのは難しく、彼女はさっきまで探索していた、放棄された鍛冶場跡の歩きやすさを惜しんだ。
ようやく観念し、探索を続けるべく彼女は肩掛け鞄に手を入れたが、その動作に違和感を覚えた。動いているのは自分なのにどこか他人事のようで、薄絹を一枚隔てたところから見ているようにどこかぼんやりしていた。
小さく息を吐き、向き直って数歩進み出た。それから魔法の棒が何本も突き出たザックを下ろし、脚を投げだして洞穴の入り口脇に座りこんだ。
紗がかかったような感覚のずれは、力の行使によって精神が疲弊している兆候で、だから休憩をとることにしたのだ。
彼女は周囲を確認しながらクロークをしっかり尻の下に敷き、地面からの冷気を遮断した。休むのだから、体を冷やしては意味がない。そうやって腰を落ち着けると、ベルトに挟んだ布の切れ端を取り出して、革手袋をはめた両手の、露出している手のひらの部分を拭いた。
地下洞窟や要塞を探索する者はザックで厳密に管理する道具などとは別に、かさばる物品を縛りくくる細紐や、武具の応急処置用の革紐など、こまごました物品を持ち込んだ。端切れもそのひとつで、手ぬぐいにして汚れを拭きとったり、裂いて紐として使ったりした。
こういった小物、場合によってはがらくたと表現してもよい品々は、店での売買の際に言外に“おまけ”として気軽にやり取りされたりした。その価値はひょっとすると、真贋のつかぬ噂話より安かったかもしれない。現地調達もしょっちゅうだった。彼女が今回の探索に用意した端切れもとっくに使い捨てられて、今手にしているのは、さっき見つけて殴り倒したオークの服の、マシな部分をちぎったものだった。
彼女はやや神経質気味に、手汗を何度も拭った。
両手がさっぱりすると、彼女は脇に抱えたザックを開き、中身を確認しだした。
単純な作業は気分を落ち着かせもする。そんな考えもあって、休憩時のルーチンワークになりつつあった。消耗品の残りをたしかめ、どれがどの種類か区別がつくようにしておく。象形文字が書かれた巻紙や薬の小瓶たちは、必要であれば小分けにし、取り出しやすいポーチに移した。ザックに刺さった魔法の棒をチェックすると、金属製ものが一本爆ぜてダメになっていたので除けた。たぶん上の階で出くわした犬のうちの、火花を散らしてたやつの息でやられたのだろう。
この地下迷宮で生き延びるためには平常心と余裕が不可欠で、そのためには物事がしかるべき場所に収まっていなければならない。まだ経験が浅い中で彼女なりに見い出した、教訓のようなものだった。
持ち物の整理が一通り終わっても、彼女の思考にはまだ薄紗がまとわりついていて、休息を要求した。
他にやることはこれといって見当たらず、手持ち無沙汰になってなんとなく、腰に差していた錘付きの戦棍を取り出した。
彼女はこれを、町に住み着いた魔術師を討伐した際に拾い、以来愛用していた。柄には金や琥珀の象嵌が綺羅びやかに施され、鎖で繋がれた錘は素材の金属自体が毒を帯びていて、殴られたものに苦痛を与えた。彼女は戦いを終えるごとに武器を(やはり打ち倒した敵の服や外套などで)きちんと拭うタイプだったので、特に血糊や肉片が残っているわけではなかった。一応、元オークの服の比較的綺麗で柔らかいのを左手に用意していたが、これは汚れを取るというより磨くためで、もっと言うならば、つい先日手に入れたばかりの得物を、手の中で弄び眺めるのが目的だったのかもしれない。
この武器は東方の国で造られた優れた細工品で、灰色エルフの言葉で『忌まわしき女』という名が付けられていた。これは元々の持ち主である女将軍の呼び名に由来し、その女傑は交渉ごととあれば美貌を笠に他国を手玉にとり、戦場にあっては鬼神のごとく、凄まじい速さで愛器を揮って敵を打ちのめした。
これらはすべて、彼女がこの武器の謂れや性質をたずねたテルモラの図書館の司書の談である。彼は持ち込まれた戦棍を手に取り、二、三度持ち方を変えて観察すると、無言で書庫へと消えた。しばらくの後に1冊の古めかしい叙事詩を手に戻ってくると、そのなかの一節を共通語へと丁寧に訳しながら彼女に読み聞かせたのだった。
『忌まわしき女』という言葉に込められた灰色エルフの怨嗟がどれほどなのか、彼女にはピンと来なかった。たしかに、見るものが見ればこの戦棍は数えきれぬほどの同胞を葬った凶器であり、憎むべき仇敵の象徴なのだろう。けれども、名のある武器というのは伝説に謳われる剣にしろ、畏れ嫌われる鉄槌にしろ、だいたいそういうものではないだろうか。両者に違いがあるとすれば、自分がどの位置に立つかだけなのだ。
結局、最後にものを言ったのは実利的な面だった。
戦棍に組み込まれた技工や力はたしかで、彼女のような若輩の細腕を主人としても速く、力強く、悪い呪いが掛けられているわけでもない。自分の得物に選ぶ理由には、それで十分だった。
灰色エルフも彼らが“東夷”と呼ぶ勢力も、彼女の身の上になんの関係もなかった。
ただ、全体に施された花鳥の文様は、遠い故郷の文化に近しいものがあり、彼女はある種の安心のようなものを感じていた。
布切れを持った手で得物の柄をごく軽く擦りながら、彼女は肩越しに洞穴の中を覗き見た。
天然ものの穴らしく壁はいびつで、白茶けた色。彼女のような標準的な身丈なら、両手を広げても通れるぐらいの大きさ。崩れないように木で支えが組まれていたが、腐りきって役に立ちそうにない。
もちろん、この先の様子もわかっていた。道は階段ではなく、坑道というほどでもない、ゆるい下り坂。進んでいって半階ぐらい下がったら、水面が現れる。まわりには鍾乳石の天幕、段々になった池の棚。ランプの明かりを受けて、深い淵が青く浮かぶ──
幻視した湖の光景を思い返し、彼女はまた怪訝な表情をした。
濡れるのが嫌、などと今さら言うわけではなかった。そんなことでは探索稼業はなりたたない。けれども、水辺にはたいした品が落ちていないし、生き物は物持ちが悪く変なのばかりだし、遮蔽物がなくて飛び道具の的になりやすい。
とはいえ、この広大な地下城塞の基準からすれば、こういった湖も安全な部類だった。それに地勢からすれば、下層への階段があるならこの先だ。だから進むべきなのだろう。彼女はそう思いながら、暗くなっていく洞窟の奥を眺めた。
──その先はどうなっているんだろう?
彼女の頭の中に、疑問が湧いた。
祈りに応えた神が映し出す光景は──もっと言えば、別の祈りによってもたらされる扉や仕掛けへの直感や、他の魔法や物品を使って拾いあげる周囲の生物の表面的な思考も、わずか十数フィート程度の手を伸ばせば届くような範囲、ほんのすこし先の未来を伝えるにすぎない。現に、自分はこの階に下りるまで湖の存在を知らず、湖の先に何があるかまだ知らない。そのさらに先を知るには、示された道を行き、その端っこでまた祈りを捧げて、またすこし先の未来を見る。今までも、そういうやり方でここまで来た。だが、そんなことを、百階以上も続くといわれるこの鉄の牢獄でずっと繰り返していくのだろうか。
以前、大きな竜が寝入っているのを見かけて、びくびくしながら側をそっと通り抜けてたことがある。やがてそんな竜や、それ以上に恐ろしい想像もつかないような存在がうようよいるところに行き着くかもしれない。そんな場所でも、自分は今みたいにすこし歩くごとに祈り、予見を得ながら進んでいくのだろうか。そうだとして、天はちゃんと道を示してくれるのだろうか。
神の助けも、東夷の女傑の戦棍も、ザックに詰まった他愛ない品々も、延々と続いていくこの探索行でどれほどの意味を持つのだろう。それらに頼っている自分自身はひどく矮小で、この途方もない地下世界にあっては、地面を手さぐって這い回る小動物や虫とたいして変わらないのではないか。
何度となく反復してきた探索の手順が、急に無謀以外のなにものでもなかったように思えて、心の奥底が冷たくなった。すべては気の持ちようで、自分がどう判断するかなのだ。そう思おうとしたが、一度落ち込んでしまった気分をどうにも切り替えることができず、彼女は不安になってうつむき、手に持った綺羅びやかな工芸品を見つめていた。
彼女が心身の万全を期すには、もうしばらくかかりそうだった。