例えば人間みたいにさ 作:泡沫
目を覚ますと、見慣れない天井があった。
白い天井をしばらく眺める。寝起きの頭でここが何処なのか思い出すまで少し時間が必要だった。私の部屋ではない。カーテンの色も違えば、寝具から漂う微かな甘い香りにも覚えがない。それでも不思議と警戒心は湧かなかった。
「…………ああ」
そこで思い出す。
ここ、聖園先輩の部屋だ。
昨夜の記憶が、眠気の底から少しずつ浮かび上がってくる。姉さんと話した後の事だ。どうして泣いているのか自分でもよく分からないまま空を見上げていたら、聖園先輩に声を掛けられたのだ。
『ヤナミちゃん?』
最初はいつもの声だった。
けれど、私の顔を見た途端、聖園先輩の表情が変わった。
『え、ちょっと待って。どうしたの? 泣いてるじゃん』
『……そうですね』
『そうですね、じゃないよ。何かあったの?』
頬に触れられたのを覚えている。私よりも聖園先輩の方が困った顔をしていたので、なんだか申し訳なくなった。泣いている人間を慰めるのは大変だろうに。
けれど聖園先輩は何処かこなれていて、私の手を引いて自分の部屋へ連れていくと、温かい紅茶を淹れてくれた。それから隣に座って、何があったの、と静かに聞いてきた。
姉さんのことを話してしまっていいものか、少し迷った。私一人の話ならともかく、そこには姉さんの事情も含まれている。けれど何があったのかと心配そうに顔を覗き込み、普段の明るささえ引っ込めてこちらを気遣ってくれる聖園先輩を前にすると、適当な嘘で誤魔化すのも違うような気がした。
結局、私は手の中のカップへ視線を落としながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
姉さんと話したこと。姉さんが私のことで傷ついていないと知ったこと。それを喜ばしいと思った筈なのに、どうしてか少しだけ悲しかったこと。自分でもまだ上手く整理できていないから、話は何度も途切れたし、途中で何を言いたかったのか分からなくなる事もあった。
それでも聖園先輩は急かさなかった。いつものように冗談を挟む事も、分かったような顔で適当に頷く事もしない。ただ私が次の言葉を見つけるまで黙って待ち、時折、冷めかけた紅茶へ口をつけながら静かに耳を傾けてくれた。
その沈黙に、酷く安心したのを覚えている。
話さなければならないのではなく、話せるようになるまで待ってくれているのだと、私にもなんとなく分かったから。言葉に詰まって俯いても聖園先輩は続きを促さなかった。上手く説明できなくて同じ所を行ったり来たりしても困った顔一つせずに聞いてくれた。
やがて話すことがなくなった。というより、これ以上は自分でも分からなかった。
姉さんが私のことで傷つかないのは良いことだ。それなら私は安心して消える事が出来るし、姉さんを悲しまずに済む。ずっとそうなればいいと思っていた筈なのに、実際にそうだと分かった途端、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような気がした。
その穴に何という名前を付ければいいのか、私には分からなかったから。だから涙が止まらなかったのだろう。
聖園先輩は笑わなかった。ただ、『そっか』とだけ言って、私の頭を撫で続けた。
その手が思っていたよりもずっと優しくて、髪を梳くように何度も往復する内に、ようやく止まりかけていた涙がまた頬を伝った。
どうしてだろうか。悲しいことを言われた訳でもないのに。むしろ反対で、聖園先輩は最初からずっと優しくしてくれている。温かい紅茶を淹れて、隣に座って、私が話せるまで待って、最後まで否定せずに聞いてくれた。
なのに優しくされるほど涙が出た。
最近の私は、どうもおかしい。以前ならこんなことで泣くことはなかったし、そもそも私は未だに自分が何を悲しんでいるのかさえ満足に整理出来ていない。それなのに身体の方は私より先に何かを理解しているらしく、勝手に涙を作っては次から次へと零していく。
とうとう身体と心のどちらかが壊れてしまったのだろうか。
あの時の事を考えている内に、右腕に妙な重みがあることに気付き、視線を横へと向ける。
「…………」
桃色の髪が白いシーツの上へ散らばっていた。聖園先輩が私の右腕を抱え込んだまま眠っている。通りで腕の感覚がないと思ったら、なるほど。
いつからこうしていたのだろう。昨夜は二人でベッドへ腰掛けて話していた筈だ。途中から記憶が曖昧だから、そのまま眠ってしまったのかもしれない。
普段の聖園先輩とは随分違って見える。人前では綺麗に整えられている桃色の髪が頬へかかり、寝息に合わせて僅かに揺れている。こうして眠っていると、ティーパーティーの一員だとか、パテル分派の代表だとか、そういう肩書きが嘘のようだった。
ただの女の子に見える。いや、当たり前か。聖園先輩だって女の子なのだから。
私はしばらく、その寝顔を眺めていた。
昨夜の事を思い出すと、少しだけ恥ずかしくなる。聖園先輩が紅茶を淹れて、取り留めのない私の話を聞いて、泣き止むまで傍にいてくれたのが、どうにも。
しかし、それが何時からだったのだろう。気付けば話す側と聞く側が入れ替わり、今度は私が聖園先輩の零す言葉に耳を傾けていた。
『……ヤナミちゃんはさ、死ぬの、怖くないの?』
聖園先輩は私の頭を撫でながら、ぽつりと尋ねた。指先が髪を梳く感触に目を細めながら、私は少し考える素振りをした後、答えた。
『痛いのは嫌だと思います』
『そうじゃなくて』
『死ぬこと自体ですか?』
『そう』
改めて問われると、少し答えに困った。
怖いのだろうか。
死ぬ間際に何を思うのかなんて、死んだ事のない私には分からない。もしかすると、その時になれば見苦しく泣いて、もっと生きたいと縋るのかもしれない。それでも今の私にとって死とは殊更に恐れるほど特別なものではなかった。
人はいずれ死ぬ。
物心が付くよりずっと前から、世界にはそれが当然の決まり事として横たわっていたから。朝になれば陽が昇り、夜になれば沈む。生きているものはいつか動かなくなるものだし、幼い頃の私はそこへ疑問を差し挟むことすらなく、そういうものなのだと受け入れていた。
私の場合は、その順番が人より少し早く回ってくるだけ。振り切ることも出来なければ、追い払うことも出来ない。だからといってわざわざ立ち止まって怯える程のものでもない。
だから。
『あまり』
そう答えた。
すると聖園先輩は、少し妙な顔をした。
悲しそうにも見えたし、少し怒っているようにも見えた。けれど何となく、そのどちらとも違う気もした。眉を僅かに寄せて、何か言いたげに唇を開き、それでも結局は言葉にせず閉じてしまう。
どうしてそんな顔をするのか分からなくて、私は首を傾げた。私が死ぬことを怖がっていないのがそんなにおかしかったのだろうか。聖園先輩はしばらく何も言わなかった。ただ、私の髪を撫でていた手だけが、いつの間にか止まっていた。
その後だった。
聖園先輩が、セイアお姉ちゃんの名前を口にしたのは。
どういう流れでそうなったのかはよく覚えていない。私が死ぬ事について話していたからなのか、それとも聖園先輩の中では初めからそこへ繋がっていたのか。ただ、セイアお姉ちゃんの名前が出た途端、聖園先輩の様子が目に見えて変わったことだけは覚えている。
急に口数が少なくなった。
何かを言おうとして、やめる。息を吸って、唇を開いて、それでも声になる寸前で飲み込んでしまう。そんなことを何度も繰り返していた。
いつもの聖園先輩なら、もっとよく喋る人だった筈だ。私が上手く返事をできなくても気にせず話を続けるし、少しくらい重たい空気になった所で、冗談の一つでも挟んで場の空気を明るくしてしまう。
だから、その夜の聖園先輩は少し変だった。
言葉が見つからないのではない。言いたい事はきっともう決まっているのだろう。
けれどそれを口にしてしまえば何かが取り返しのつかない形になってしまうとでも思っているかの様に、聖園先輩は何度も言葉を喉の奥へ押し戻していた。
やがて、何かを決心した様に俯いた。
桃色の髪がさらりと頬へ落ちて、伏せられた横顔が隠れてしまう。その隙間から覗いた唇が僅かに震えているのを、私はぼんやりと眺めていた。
『……私の所為なの』
長い沈黙の末に零れたのは、それだった。
何が、とは聞かなかった。セイアお姉ちゃんに何があったのか。聖園先輩が何をしたのか。どうしてそんな顔で、そんなことを言い出したのか。
詳しいことは何一つ話してくれなかったけれど、ずっと胸の奥に沈めて、誰にも見つからないように蓋をしていたものが、ほんの少しだけ隙間から零れてしまったような。酷く見覚えのある歪な影を見てしまったから。
私は人の気持ちが分からない。
誰かが悲しいと言っていても、その悲しみを自分のものとして感じることが出来ない。苦しいと言われても、胸のどこが、どんな風に、どれほど苦しいのか、私には察する事が出来ない。
泣いている人を見れば悲しいのだろうとは思う。震えている人を見れば、怖いのだろうとも理解出来る。けれど、それは目の前に置かれたものへ名前を付けているだけで、その人の胸の内側まで正確に推し量る事は難しい。
だから聖園先輩が何をしたのかも、何を悔やんでいるのかも私には分からない。
それでも顔を見れば、聖園先輩がどうしようもなく苦しんでいることくらいは分かった。
俯いたまま上がらない顔。膝の上で強く握られた手。いつもなら放っておいても次から次へと出てくる言葉が、今夜は一つ零すたびに長い沈黙へ沈んでいく。
まるで自分から地獄へ続く道をゆっくり歩いているようだった。
引き返せるのかは分からない。そもそも引き返したいのかも分からない。ただ一人で歩くには、あまりにも苦しそうに見えた。
だから。
『聖園先輩が良ければ、一緒に落ちることくらいは出来ますよ』
深い意味なんてなかった。聖園先輩があまりにも苦しそうだったから、そう言っただけだ。
私はどうせ死ぬ。
それが明日なのか、何年か先なのかは知らない。それでもきっと、他の人よりずっと早い。皆が当たり前のように迎える未来を、私は途中までしか歩けないのだろう。
だったらその短い人生の最後くらい、誰かの役に立てたらいいなと。聖園先輩が一人で地獄へ落ちることを怖がっているのなら、私も一緒に落ちればいいと思った。
ただそれだけの話だったのに、その言葉を聞いた瞬間の聖園先輩の顔だけは、今でも妙に鮮明に覚えている。
冗談なのか、それとも聞き間違いなのかを確かめるように、じっと私の顔を見つめていた。やがて私が何も言い足さないと分かると、その唇が正しく歪んだ。
笑おうとしたのかもしれない。けれど上手くいかなかったのか、代わりに何かを堪えるように唇を噛んで、聖園先輩は俯いた。桃色の髪が落ちて表情を隠す寸前、こちらを見つめていた瞳がひどく揺れているのが見えた。
あの時の私には、その理由が分からなかった。触れてはいけないほど張り詰めていた何かが、私のたった一言で、音もなく壊れてしまったような気がした。
「…………」
そこまで思い出した所で、私はもう一度、すぐ隣で眠っている聖園先輩へと視線を戻した。
どうして、あんな顔をしたのだろう。
私にとって、あの言葉はそれほど重たいものではなかった。同じ場所へ行くのなら一緒に行こう。一人で行くのが苦しいのなら、隣を歩こう。ただ、それだけのつもりだったのに。
考えていると、腕の中で聖園先輩が小さく身じろぎした。私の腕を抱いていた力が僅かに強まり、頬が肩口へ擦り寄せられる。
「んぅ……ヤナミちゃん……」
寝言だった。
「はい」
反射的に返事をした。当たり前だが、それ以上の言葉は返ってこない。
規則正しい寝息だけが聞こえてくる。私は少し考えてから、自由になっている方の手を伸ばし頬にかかっていた桃色の髪へと触れた。
柔らかい。指を滑らせると、細い髪がさらさらと指の隙間を抜けていった。そのまま手のひらを頭へ乗せて、ゆっくりと撫でてみる。
弱っている時に頭を撫でられると少しだけ安心する。昨夜、聖園先輩が私にしてくれたことだった。髪を乱さないよう、なるべく優しく。
何度か繰り返している内に、それまで僅かに寄っていた聖園先輩の眉間からふっと力が抜けた。腕を抱く力も少しだけ緩み、寝息が先ほどより少し深くなる。
どうやら正解だったらしい。こういう事を一つずつ覚えていけばいいのだろうか。
誰かが悲しんでいる時には慰め、泣いている人には無理に理由を聞かず傍にいる。困っている人がいたら助け、苦しんでいる人がいたらその苦しみを少しでも軽くしてあげる。
そうやって一つずつ積み重ねていけば、いつか考えなくても誰かに優しくできるようになるのかもしれない。
そういう事を、当たり前のようにできるようになれば。
いつか雨上がりの空に浮かぶ虹を見上げて、隣にいる誰かへ、綺麗だねと言えるような人間になれるのだろうか。
「……」
まだ、よく分からない。
人の気持ちも、優しさの正しい形も、こうして誰かの頭を撫でることにどれほどの意味があるのかも。
それでも手は、眠っている聖園先輩の髪をもう一度だけ撫でた。指の間をさらさらと桃色の髪が抜けていく。
「……難しいな」
小さく呟く。
当然、答えは返ってこなかった。聖園先輩は変わらず眠ったままで、聞こえているのは静かな寝息だけだ。けれどその寝顔は先ほどよりも少しだけ穏やかになったように見えた。
それが本当に私のおかげなのかは分からない。
分からないけれど。少なくとも、間違いではなかったのだろう。
それなら今の所は、これを正解ということにしておこう。
やがて、伏せられていた桃色の睫毛が僅かに震えた。
「……ん゛ー」
小さな声を漏らして、聖園先輩がゆっくりと目を開く。まだ眠気を残したままの黄色い瞳がぼんやりと宙を彷徨い、やがてすぐ傍にいる私を捉えた。
何度か瞬きをする。
「…………ヤナミちゃん?」
「おはようございます、聖園先輩」
「…………」
聖園先輩はしばらく私の顔を見つめていた。
それから視線を下げる。自分の胸元にしっかり抱え込まれている私の腕を見る。
もう一度、私の顔を見る。
再び、腕を見る。
「あっ」
どうやら、ようやく状況を理解したらしい。
次の瞬間、それまで大切な抱き枕のように抱え込まれていた私の腕が、ものすごい勢いで解放された。
「ご、ごめん! 私、もしかしてずっと抱いてた!?」
「はい」
「うわぁ……ごめん! 痛くなかった?」
少し考えてから、正直に答える。
「少し痺れています」
「ほんとにごめんっ!」
聖園先輩は飛び起きると、今しがた解放したばかりの私の腕を今度は両手で掴み、慌てた様子で揉み始めた。肩から肘へ、肘から手首へ。一生懸命なのは分かるけれど、痺れた腕を揉まれると少しくすぐったい。
「聖園先輩」
「な、なに? やっぱり痛い!?」
「いえ。そこまでしなくても大丈夫です」
「でも痺れてるんでしょ!?」
「そのうち治ると思います」
「それでも!」
そう言って、また揉み始める。そこまでしなくてもいいと思うけど、本人がやりたいのなら止める理由も特にないので好きにさせておくことにした。
しばらくされるがままになっていると、じんじんしていた指先に少しずつ感覚が戻ってきた。
「……昨日」
腕の痺れがすっかり引いた頃、聖園先輩がぽつりと呟いた。
「ありがとね」
「何がですか?」
「色々だよ。ほんと、色々」
「私は何もしていませんよ」
事実として、本当に何もしていない。昨夜はむしろ、私の方がずっと慰めてもらっていた気がする。泣いている所を見つけてもらって、部屋まで連れてきてもらって、話を聞いてもらった。紅茶まで淹れてもらったし、頭も撫でてもらった。貰ってばかりだ。
私がお礼を言われるような事は、何一つ思い当たらない。
「私の方がお礼を言うべきでしょう。ありがとうございました」
「……そういうところなんだけどなぁ」
「え?」
「なんでもなーい」
聖園先輩はそう言って笑った。
いつもの笑顔だった。
目尻を柔らかく下げて、少しだけ悪戯っぽく口元を綻ばせる。私が普段からよく知っている、明るくて人懐っこい聖園先輩の笑い方。
少なくとも昨夜のような危うさはもう見当たらなかったのに、一度、あの顔を見てしまったからだろうか。笑っているのに、少しだけ苦しそうに見えた。
以前の私なら、きっと気付かなかったと思う。いつものように笑っているのだから、この人は今、楽しいのだろうと。
けれど今は、その笑顔の奥に昨夜の聖園先輩が透けて見える。俯いた横顔や震えていた唇。私の所為だと零した声も。
笑顔になったからといって、それらが消えてなくなる訳ではない。
「聖園先輩」
「ん?」
「昨日のお話ですが」
その一言で、聖園先輩の表情が僅かに固まった。それはほんの一瞬の出来事だったが、今まで浮かべていた笑顔が不自然に止まり、黄色い瞳が僅かに揺れた。
「……うん」
何を言われるのか身構えているように見えた。だから私はなるべく安心してもらえるように言った。
「誰にも言いません」
「…………」
「百合園先輩のことも、他のお話も。聖園先輩が私に話してくださったことは、誰にも言いません」
昨夜の聖園先輩は、言葉を一つ口にするだけでも随分と苦しそうだった。だからその言葉が他の誰かへ渡らないと分かれば、少しくらいは安心できると思った。
昨日、聖園先輩が私にしてくれたことを思い出す。
泣いている人がいたら慰める。苦しんでいる人がいたら、その苦しみを少しでも軽くしてあげる。不安そうな人がいたら、安心できるようにしてあげる。
きっと、そうするのが正しい。少なくとも今の私は、それが人間として正しい行動なのだと思っている。
だから聖園先輩も、少しは安心してくれると思ったのに。
「…………そっか」
けれど、予想していた反応とは違った。
聖園先輩は笑わなかった。安心したように息を吐くことも、いつもの調子で「ありがと」と返すこともしなかった。
ただ、困ったように眉を下げて私を見ていた。
その黄色い瞳が、今にも泣き出しそうに揺れている。どうしてだろう。私はまた、何かを間違えたのだろうか。
安心してほしかっただけなのに。昨夜、聖園先輩が私にしてくれたことを、そのまま返そうとしただけなのに。
人間らしく振る舞うというのは、やはり私には不可能なのだろうか。
「……ねぇ、ヤナミちゃん。昨日言ってたこと、覚えてる?」
「覚えていますよ」
何のことかはすぐに分かった。
けれど聖園先輩は、それきり黙り込んでしまった。俯いた拍子に桃色の髪がさらりと頬へ落ち、その表情を半分ほど隠してしまう。
しばらくして、躊躇うような声が聞こえた。
「まだ、一緒に来てくれる?」
変な質問だと思った。昨夜から今朝までの間に、何か変わったのだろうか。
私が知らない内に地獄が遠くなった訳でも、聖園先輩が行かなくてよくなった訳でもないらしい。それなら、私の答えだって変わる理由はない。
「構いませんよ」
「…………」
「同じところへ行くなら、一人より二人の方がいいでしょう」
どうせ私は長く生きられない。
いつまで生きられるのかは分からないけれど、皆と同じだけの時間を与えられていない事だけは知っている。なら、残っている時間を何に使うかくらいは自分で決めてもいい筈だ。
どうせ死ぬのなら、誰かの役に立って死にたい。それが今の私にできる、人間らしい生き方のような気がする。
「……そっか」
聖園先輩が小さく呟いた。
俯いたままだったから、その顔はよく見えなかった。
ただ、シーツの上に置かれていた手が、行き先を探すようにゆっくりと動いた。
私の手の甲へ指先が触れるも、けれどすぐに離れた。
もう一度、今度は少しだけ近くへ。
触れては躊躇い、離れて。それでも諦めきれないように戻ってくる。そうして最後に、聖園先輩の指は私の小指へそっと絡んだ。
手を繋ぐには、随分と頼りない繋がり方だった。それなのに聖園先輩は、その一本だけを確かめるように握った。
「じゃあ……約束だね」
「はい」
私は頷いた。
小指に伝わる聖園先輩の力は、その言葉だけでは説明できないほど切実なものに感じられた。
私には、その重さがよく分からなかった。
聖園先輩が何を思ってこの指を握っているのかも、どうしてそれほど大切そうに「約束」と呼んだのかも。
分からないまま頷いてしまったことが、少しだけ申し訳なかった。
だからせめて、絡められた小指だけは離さなかった。
◼︎◻︎◻︎◻︎◻︎
それから、数日が経った。
最近のティーパーティーでは、エデン条約という言葉を耳にする機会が随分と増えた。
ゲヘナ学園との和平条約。簡単に説明してもらったことはあるけれど、私にはいまいちよく分からなかった。
今まで仲が悪かったのなら、これからは仲良くしましょうと約束する。私の理解ではその程度なのだが、どうやら実際にはそんなに簡単な話ではないらしい。
会議や行き交う書類も増え、廊下を歩く生徒たちの会話にも、以前なら聞かなかった言葉が混じるようになった。
何より、姉さんが以前にも増して忙しくなった。
もともと頻繁に顔を合わせる姉妹ではなかったけれど、最近では同じ校舎にいる筈なのに姿を見ることさえ珍しい。たまに遠くから見かけても、姉さんの周りにはいつも誰かがいて、分厚い書類を抱えながら難しい顔をしていた。
聖園先輩から頼み事をされるようになったのは、ちょうどその頃からだった。
最初は、本当に些細なものだった。
書類を一つ届ける。指定された生徒が今どこに居るのか確認する。決められた時間に、ある廊下を誰が通るのか見ておくなど。
どれも難しいことではない。少し歩いて、見て、出来事をそのまま聖園先輩へと伝える。それだけだ。
特に理由は聞いてない。聖園先輩が必要だと言うのなら、きっと必要なのだろう。
それに頼み事をされるのは別に嫌ではなかった。それは最近覚えたばかりの、私が人間らしくなるために必要なことの一つだったから。
けれど頼まれる回数が増えていくにつれて、聖園先輩が少しだけ苦しそうな顔をするのだ。
笑って頼む時もあった。いつもの調子で「お願い」と手を合わせることもあった。それでも最後には、決まって黄色い瞳が僅かに伏せられた。
私が「分かりました」と答えると、安心するのではなく、むしろ何かを後悔しているような顔をする。
どうしてなのかは、分からないけれど。
「……ねえ、ヤナミちゃん」
そして、ある日の放課後。人気のない廊下で聖園先輩が私を呼び止めると、一通の封筒を差し出してきた。
飾り気のない、ごく普通の封筒だった。
「これ、お願いしてもいい?」
「分かりました。どこへ持っていけばいいですか?」
聖園先輩が行き先を告げる。
聞き覚えのない場所だった。少なくとも、普通の生徒が放課後に用事を済ませに行くような場所ではない。
「分かりました」
それでも、特に断る理由はなかった。
差し出された封筒へ手を伸ばす。紙の端を指で摘まんで、そのまま受け取ろうとしたが、どうしてか聖園先輩の手が離れなかった。
結果として、一枚の封筒を二人で摘まんだまま、しばらく見つめ合うことになった。
「聖園先輩?」
呼びかけると、聖園先輩の指先が僅かに震えた。
「……ヤナミちゃん。中身、気にならないの?」
封筒へ視線を落とす。言われてみれば、私は中に何が入っているのかは知らない。届け先も馴染みのない場所だったし、わざわざ私に頼む理由も聞いていない。
けれど、それが何か問題なのだろうか。
少し考えてから、聖園先輩を見る。
「聖園先輩は、聞いてほしいんですか?」
「…………」
聖園先輩の黄色い瞳が僅かに見開かれた。
答えはすぐには返ってこなかった。
封筒の端を掴んでいた指先に、ほんの少しだけ力が籠もる。まるで渡してしまうことを最後の最後で躊躇っているようだった。
やがて、その力がゆっくりと抜けた。
一枚の封筒が、完全に私の手へ渡る。
「……ううん。聞かないで」
聖園先輩は、困ったように笑った。
「分かりました」
頼まれたことは封筒を届けることであって、中身を知ることではない。聖園先輩が知らないでほしいと言うのなら、知らないままでいた方がいいのだろう。
封筒を折らないよう気をつけながら、鞄の中へしまう。
ただ、それだけのことだったのに。顔を上げると、聖園先輩はまた、あの顔をしていた。
笑っているのに、苦しそうな顔。最近、何かを頼まれるたびに見るようになった表情だった。
「じゃあ、行ってきますね」
これ以上ここに居ても仕方がない。私は鞄を持ち直して、扉へ向かった。
「ヤナミちゃん」
背中に声がかかる。
振り返ると、聖園先輩は何かを言おうとしていた。
唇が開く。けれど肝心な所で言葉は出てこない。黄色い瞳が私を見つめたまま、僅かに揺れているだけだった。
何か言いたい事でもあるのだろうか。そう思って待っていたけれど、聖園先輩は結局、何も口にはしなかった。
「……気をつけてね」
出てきたのは、それだけだった。
「はい」
頷いて、今度こそ通り過ぎる。
顔が見えなくなる寸前まで、聖園先輩はこちらを見ていた。
廊下を歩きながら少し考える。
最近の聖園先輩は、よくあの顔をする。私に何かを頼む時や、エデン条約の話を耳にした時。あるいは姉さんの名前が出た時。
笑っているのに、少しだけ苦しそうな顔。
私は聖園先輩がどれほど苦しんでいるのかを推し量る事は出来ない。胸のどこが痛むのか。何を恐れているのか。何を悔やんで、何から逃げられずにいるのか。
私には、そのどれも分からない。けれど苦しんでいるということだけは分かる。
何かを隠し、誰かを欺き、私へ頼み事をする度に。聖園先輩は自分で自分を傷つけている様だった。
それならきっと、聖園先輩には向いていないのだ。
人を騙すことも、何かを隠すことも。
もし、その先に誰かを裏切るようなことが待っているのなら、それもきっと。
その度に自分まで傷ついてしまう人が続けるには、あまりにも不向きなことだと思う。
ならば代わりに、もっと向いている人がやればいい。
誰かを傷つけても、その痛みを同じようには感じられないような人間が。
罪悪感というものが、いまいちよく分からない人。
例えば、どうせ長くは生きられない私の様な。
「…………」
そこで足が止まった。
静かな廊下に、人一人分の靴音だけが途切れる。
私は聖園先輩が何をしているのか、これから何をしようとしているのか知らない。何も知らないのに結論を出すのは、きっと順番が違うのだろうという事は理解している。
「……」
再び歩き出した。鞄が歩調に合わせて小さく揺れる。廊下の窓から見えるトリニティは、いつもと変わらず穏やかだった。
放課後の校庭を歩く生徒がいる。
遠くから笑い声が聞こえる。その向こうでは、エデン条約の締結へ向けた準備が、私の見える所で少しずつ進んでいる。
聖園先輩が苦しんでいるのなら、その苦しみを少しだけでも減らしてあげたい。昨日私が泣いていた時に、聖園先輩が傍にいてくれたように。
どうせ死ぬのなら、誰かの役に立って死にたい。
それはそうなんだけど、けれど今は、それだけではなくて。
苦しんでいる人が居たら、助けてあげる。一人で地獄へ行こうとしている人が居たら、隣を歩いてあげる。
もしその人が背負っているものが重過ぎるのなら、少しくらい代わりに持ってあげる。
そういう事が自然にできる人を、人間と呼ぶのだろう。
だったら、これはきっと。
私がなりたかったものへ近付く為の、とても人間らしいことなのではないだろうか、なんて。
先生の性別および年齢について
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男(20台)
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男(30台)
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女(20台)
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女(30台)