翡翠のグランクチュリエ --What a beautiful museum-- 作:三代目盲打ちテイク
列車が、駆動する。
耳障りな金属音を響かせて、無限なりし最果ての軌道上を車輪が回る。
前に進むために。
前へ向かうために。
窮極の門へと至る為に。
避けなければ死ぬ。轢かれ、砕かれ、痛みを伴うこともない一瞬のうちに、死ぬだろう。
あれはそういうものだ。
しかし、既に。この身は動かない。
伽藍と化した身は既に。
いいや。いいや、既に、伽藍すらもなくなった。
森鴎外の身は、既に、終わっている。
「ああ。女一人、容易いと思ったが……」
女。女性。柔らかなもの、愛しきもの、守るべき、もの。どこかで、なくしたものだ。私が、どこかで。あるいは、あの場所で。
僅かに力の入った右手が、拳を形作る。既に。もう既に、握るものを無くした手が。
左手の刃は既に中程から圧し折れている。白の剣も、黒の剣も、二本の機関腕も、既に、もはや私の手の中にはない。
一瞬のうちに、あの男の一撃は、邪を祓う力の篭った刃や人生を賭けた機関ですら容易く破壊して見せたのだ。
あがくな。無駄なことはするな、と。
そう告げるように。
既に運命は決定しているのだと。
そう告げるように。
ああ、そうなのだろう。
偉大なりし鉄道王。
一であり、全であるもの。
全であり、一であるもの。
最果てにありしものよ。
おまえは全てを知っているのだから。
もはやこうなることすらも知っていたのだから。
滑稽なり、滑稽なり。
けれど。
けれど――もしも時が止まっていれば。
そう思わずにはいられなかった。
それが、伽藍。
それが、異形。
いずれ、誰もが落ちるだろう。
偉大なる明治機関天皇に治められた我らが帝国は、既に。
既に――。
「ああ、だが……なかなかどうして……」
後悔はない。
後悔は、ない。
それを作り出す思考を、私は既に捨てている。
一年前、たった一人の我が子を仏国へ送り返したときに。
だから、あるのはただ。僅かばかりの親としての想いだけ。
「ベルタ、野枝……。すまない……」
たった一人の娘と、娘同然に見ていた我が同志の名を口にする。
それから、迫り来る荘厳なりし黒だけを見て。
これが、末路だと。
目に焼き付けろと、言わんばかりに。
ただ、黒を見た。
──……エリス。
ああ、時よ、止まれ、おまえは誰よりも美しい。
そして、私は砕かれた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――夢を見た。
彼の夢。
砕いた彼の、今わの際の夢。
最低の目覚め。
最悪の目覚め。
涙がまた人知れず流れ出す。
自分が何をしたのかを思い知らされる。
砕いて、良いように作り替えた。まるで、神様のように。
――いいえ。いいえ。
其れよりも酷い。
神ならざる身にて、そんなことを行った大罪人。
それが、黒岩涙香。
「あぁ、そっか」
異形の右手。
それこそが、証。
剥離の証。
罪人の印。
「ならば、諦めるかね?」
ふわりと、彼の手が涙をぬぐう。
――彼。
――大きな人、異国の人。
――異形を砕く人、あたしを導く人。
――リチャード・トレビシック。
彼は問う。
もう諦めるかね? と。
涙香は答える。
いいえ、と。
「諦めません……そうしないと、なにもわからないから……」
何一つ。
何も。
黒岩涙香はまだ、何一つわかっていない。
彼女が。
彼が。
何を目指していたのかを。
銀の鍵が何を指し示すのかを。
「そうとも。君は、そういう子だ。だから、今は眠りなさい」
寝台へと戻される。
抱き上げられたのは、少しだけ恥ずかしかったけれど、もう、今更だった。
泣いた姿を、目を腫らしたすがたを見せているから。
それに彼の声がいつもよりも優しく聞こえたから。
だから、素直に寝台へと戻されて、頭を撫でられる。
「お話をしよう。君の好きなお話を。むかしむかしと語ろう。私は何でも知っているよ」
彼はそう言って、話をする。
――あたしの知らない話。
――あたしの知っている話。
身近な話。遠い話。
色々なことを。
ほんとうに全てを知っているように。
「おやすみ、可愛いレディ。君が諦めない限り、私は、君の願いを叶えよう。会いに来てくれたまえ、私に」
――もう会っている。
そんな思考をして、ううん、と思った。
違う。
まだ、会っていない。
この果てで、会える。
誰に?
きっと、本当のあなたに。
そんなことを考えながら、意識は、闇に沈んだ――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――音が響く
――音が響く
暗がりに音が響いている。
それは、何かの歯車を回す音。
それは、何かの螺子を回す音。
それは、何かを組み立てる音。
数多の音が暗がりに響いていた。
東洋において、彼の大碩学、《碩学王》と称される者とほとんど変わらぬ男が立てる機関の産声だった。
されど遥かに劣る男が暗がりにて歯車を回す、螺子を回す、そして、組み立てる。
ここは工房だった。暗い工房。あるいは研究室か。影の研究室。
叡智の深淵と人は呼ぶ帝立碩学院の個人研究室。人はここをそう呼ぶ。
ここは工房だった。暗い工房。この場を知る者は多いだろう。この国の碩学と概ねその数は同じだ。だが、ここを訪ねる者はいない。
深淵の叡智を求め、自らの望みと夢を求めて訪ねる碩学の卵はいない。論争を求めて、自らの理論を持ってくる若い碩学もいない。協調し深淵へと至る老齢な碩学もここにはいない。
一人、幸せを求めた女以外には。
もう一人は来ない。もうここに来ることはない。
四本腕の碩学は、死んだ。
ここにいるのは、一人、幸せを求めた女。
ここにいるのは、一人、あらゆる全てを求めた、不定形なるたなびくマフラーをつけた男だけだ。
彼は組み立てを続ける。
彼の組み立てるもの。
それを知ってはならない。
命が惜しければ。
それに手を出してはならない。
命が惜しければ。
ここにはまともな人間などひとりもありはしない。
ただ暗がりと、ただ歯車の骨と機関の肉体を組み立てるだけの碩学と彼が作り出した機関の人型があるだけだ。ただそれだけだ。
人型。人の形をした機械。概ね、それは欧州における碩学たちの組織であるところの結社に由来した機関人間の構造と同じではある。
だが、一から創造したという点においてのみ、そこには敢然たる違い存在している。それは無から人を生み出したということに他ならない。
それは神の所業。人が望み、
人の身において、この男は、絡繰王と呼ばれるこの男は、人を
それは純然たる
ただ一つの結論へと至るのだ。己が、及ばぬものであるという事実に。己がどうしようもなく、ヒトであるという
ゆえに男は実験を続けるのだ。帝国全土に張り巡らせた機関情報網と明治機関天皇の威光を利用した数式実験を続ける。
碩学王が都市を一つで実験をしたというのなら、自分は国一つを使って実験するまで。
男の暗い意志が駆動する。届かぬというのならば、届くようにすればよいという男の暗い意志が。変容の果てに至らんとする意志が。
「――主」
――人型の一つ、絡繰の一つ、女のように造られた人型が声を上げる。
女。人型、からくり。
からくり。それは人間の手によって作られた人工的な命と自我を与えられたもの。
自我もある、人間らしい性も、全てがこれらからくりには存在している。だが、目の前のからくりにはそんなものすら感じられない。
陶器の皮膚が、歯車の内臓が、木製の骨格が確かに人を模しているはずであるのに。からくりであると認識し、自らが生けるからくりという人であるはずなのに。
この女にはただ一つの人間の性が感じられなかった。それはおおむね、語り部と呼ばれる存在と同一であるように思えた。
そんな女は、己の機能をただ使う。己に与えられた機能を一つ、一つ、確かめるように。その結果が主の待ち望んでいたものだと確信するかのようにただ一つの言葉を引き出す。
「主、変容の二を確認。第二歯車が回転を開始いたしました」
「回ったか、進んだか。ああ、ついに、ついに。この時を待ちわびたぞ」
その声に、男はその手を止めた。
女の声に、男は、その手を、止めた。
組み立てるだけの男は手を止めたのだ。だが、歯車は回り続ける。回す者がいなくとも、歯車は回転を止めない。
ただ回り、ただ組み立てる。なにかを。全てを。
大日本機関帝国。
明治機関天皇の治世を支える大動脈機関の中で二つの歯車が駆動を開始した。
もうすぐだ。
「ああ、待ち望んだぞ、この時を。今度こそだ。今度こそ、窮極の門の先へと辿り着くぞ。
黄金螺旋階段のその果て、我が求めし窮極の門の果てへと。
この時を! 此度こそ、今度こそ、今宵こそ! 私は貴様を超えるぞ
男の声が響く。狂気に染まった、声が響く。それがどこかに届くことはない。ただ、暗がりの漆黒の中で吸い込まれて消えていく。
消えて、ただ願うのだ。いつか。そう、いつか、その深淵に手が届くことを願って。
男は、ただ、深淵にて歯車を回すのだ。
女のからくりはただそれを見る。水晶玉の瞳で、ただそれを見る。
思う事もなく、何も感じることもなく。
だが、確かに己の回路が熱を持っていることを女は感じていた。それは男とはまた別のもので。
男は熱狂する。
「おお、喝采せよ! 喝采せよ!
今宵、この時より、再び、我が機関実験は次なる段階に進むのだ!
今こそ、お前の望みを叶えよう機械仕掛けの天皇、我らが象徴よ。
男はただ天を仰ぎ見る。神の如き所業を片手間で行いながら、ただ、ただ、男は、歓喜へとむせぶ。
碩学王を超越するその時を、ただ夢見て。
必ずやそれらを打倒するのだと誓っている。
「……かならずやてにいれよう、全てを。この世に不要なものなどありはしない。まずは、知らなければ」
マフラーを棚引かせた男が、暗がりから呟いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「あああ。ああああ!」
暗がりの部屋で声が、音が響いている。何かを掻き毟る音。床を、壁を、あるいは自らを掻き毟る音が響く。
ここには正気など何一つない。ただ一人の男が狂気の中で喘いでいる。
遥か遠く、世界の先端を行く重機関都市倫敦より狂気を持ち帰った男が一人、ここで狂気にあえいでいる。
二つ目の狂気は去った。
だが、男の狂気はなくならない。
あと四つ、いいや、五つ。
「はは、あはひゃははははははははは!」
神が来た。神がいた。神はすぐそこにいる。
「目の前に、目の前に、ああ、窓に窓に!」
そこにいる。どこにでも。彼らはどこにでもいる。
暗がりに、人の夢にさえも。ああ、人間とはまさに塵だ。宇宙の端で羽虫のようにとぶだけの存在にすぎないのだ。
伽藍の少女は死んだ。
四本腕の侍は死んだ。
あと何人死ぬのかな。
狂気の果てで男が笑う。
世界の真実を見通す黄金瞳がその両眼が全てを捉えて離さない。
愚かなる傲岸不遜な東洋の大碩学。
その果てを幻視して――。
「ああ、あああ、ああああああ」
それこそ、世界の真実あると、男は狂ったように嗤いながら言う。遥か過去、あるいは未来。あるいは現在。英国を覆った漆黒を男は知っている。
それ以上の全てを、男は知っている。
「次は、
ただ、ただ、狂気の声が、響く。
「自律機関辞典。求めるものは変わらぬか、世界そのものが不要であるというのに!
ははははははは。滑稽だ、滑稽だ、滑稽だ。
お前は、ここで、死ぬ。誰も、彼も、彼には敵わない。彼こそが、全て。全てなのだから。全てならざる知恵辞典に何が出来るものか!
あははははっははははっははははははっは。ははははははははははははははははははは」
まるで、壊れたラジオのように、声が響く。
しかし、誰もそれに耳を傾けないだろう。傾ける人すらここにはいないのだ。
ここにはただ、男と、狂気があるだけなのだから。