翡翠のグランクチュリエ --What a beautiful museum-- 作:三代目盲打ちテイク
暗闇の中、奇妙な感覚があたしの身体を満たしていく。
それは、夜眠りについた時のような、それに近い感覚で。でも眠りには程遠くて。
あたしは、何も見えない。何も感じない漆黒と曇白の中を揺蕩う。身体が動かない。呼吸すら。いいえ、呼吸していない。
生きるのに必要な事をあたしは、何もしてない。けれど、苦しくない。これがここでは普通なのだろう。きっとこれは夢。
そうでなければ死んでしまったのかもしれない。あの感覚。自分以外の全てが崩れていく感覚を覚えてる。
何が起きたのだろう。わからない。
――あたしの左目は知っている。けれど、けれど。あたしにはわからない。何一つ。
未だ、碩学ならぬ身では。神ではない身では。
――あるいは、■■であるあたしにはわからないのかもしれない。
何かが外れてしまった。それでも、それでも。諦めたくなかったから。だから、手を伸ばした。
その手は空を切った――
伸ばしたはずの手は何もつかめず。
ただ泡沫だけが闇に散る。
薔薇の匂いがする。
「っ……」
目を覚ます。
黒岩涙香は目を覚ます。
目を、覚ました。
そこは暗い場所。
あたしの部屋。
ここには誰もいない。
何かを砕いた、罪深い女一人。
つまり、あたし。
黒岩涙香。
黒い悪い子。
名前の通り、罪深いあたし。
彼を砕いた。
彼。
強い人。
四本腕の人。
侍。
森鴎外先生。
あたしが、あたしの願いが、彼を砕いた。
その事実を黒岩涙香は理解した。
左目が。
いえ、いいえ。
違う。そんなものがなくてもわかる。
きっと彼は生きている。
今は大学の自分の研究室にいる。
きっと、それがわかってしまう。
「あたし、が、願った、から」
そうあたしが願ったから。
彼を助けてと、願ったから。
彼の願いを踏みにじって。
「うぁ……」
涙があふれる。
ぽろぽろと。
苦しくて。
悲しくて。
嗚呼、あたしはなんて罪深いのだろうか、なんて。
暗い部屋でそう思う。
あたしは、ただ涙を流す。
「――――」
誰かがあたしに触れる。
いいえ、誰か、じゃなくて――。
「エド……」
青い仔。
本物の空のような貴方。
「慰めて、くれるの……?」
あたしの涙をなめとるように。
彼はあたしを慰めるように、そっとそばにいてくれる。
心配そうな青が私を見つめている。
「うん……だいじょうぶ。あたしは、大丈夫だよ。エド」
諦めない。
そう決めたから。
そう選んだから。
――あたしは、前に進む。
「その果てに、きっと貴方に逢えると思うから」
誰に?
彼に。
白と黒の世界のことをあたしはあまり覚えていない。
けれどわかることがある。
その果てにきっと彼に逢えるということ。
「さあ、頑張らないと」
努めて明るく。
泣いた後は、お化粧で隠して。
「うん、行こう」
あたしはいつも通りの日常を始める。
変わってしまった日常を。
離れてしまった日常を。
あたしは、始める。
自分の罪を隠して。
ごめんなさい。
野枝。
こめんなさい
鴎外先生。
それでもあたしは進むのだ。
伸ばす右手はない。
けれど。けれど。
進む足はまだあるのだから――
「っ――」
痛み。
足に。
そこにあったのは異形の脚。
罪のカタチ――
●
――音が響く
――音が響く
暗がりに音が響いている。
それは、何かの歯車を回す音。
それは、何かの螺子を回す音。
それは、何かを組み立てる音。
数多の音が暗がりに響いていた。
東洋において彼の大碩学と並び立つ者、西欧においてあるいはとある世界において《碩学王》と称される者とほとんど変わらぬ男が立てる機関の産声だった。
いや、いいや。
遥かに劣る男が暗がりにて歯車を回す、螺子を回す、そして、組み立てている音だ。
彼が生み出すからくりの声だ。
ここは工房だった。暗い工房。あるいは研究室か。
影の研究室、叡智の深淵と人は呼ぶ帝立碩学院の個人研究室。人はここをそう呼ぶ。
ここは工房だった。
暗い工房。この場を知る者は多いだろう。この国の碩学と概ねその数は同じだ。
だが、ここを訪ねる者はいない。
深淵の叡智を求め、自らの望みと夢を求めて訪ねる碩学の卵はいない。
論争を求めて、自らの理論を持ってくる若い碩学もいない。
協調し深淵へと至る老齢な碩学もここにはいない。
誰も、ここには誰もいない。
ただ一人、幸せを求めた女とテケリ・リとなく奇妙な粘性を従えた男以外には。
彼の組み立てるもの。
それを知ってはならない。
命が惜しければ。
それに手を出してはならない。
命が惜しければ。
ここにはまともな人間などひとりもありはしない。
ただ暗がりと、ただ歯車の骨と機関の肉体を組み立てるだけの碩学と彼が作り出した機関の人型があるだけだ。ただそれだけだ。
ただ左手に手袋をつけた女と、テケリ・リと鳴く奇怪な粘性を従えた万能なりしと謳われる男だけだ。
人型。
人の形をした機械。
概ね、それは欧州における碩学たちの組織であるところの結社に由来した機関人間の構造と同じではある。
だが、一から創造したという点においてのみ、そこには敢然たる違い存在している。
それは無から人を生み出したということに他ならない。
それは神の所業。
人が望み、
人の身において、この男は、絡繰王と呼ばれるこの男は、人を
それは純然たる
だが、だが、
自虐して、自嘲して。
ただ一つの結論へと至るのだ。己が、及ばぬものであるという事実に。己がどうしようもなく、ヒトであるという
ゆえに男は実験を続けるのだ。帝国全土に張り巡らせた機関情報網と明治天皇の威光を利用した数式実験を続ける。
碩学王が都市を一つで実験をしたというのなら、自分は国一つを使って実験するまで。
男の暗い意志が駆動する。
届かぬというのならば、届くようにすればよいという男の暗い意志が。変容の果てに至らんとする意志が。
「――主」
――人型の一つ、絡繰の一つ、女のように造られた人型が声を上げる。
女。人型、からくり。
からくり。それは人間の手によって作られた人工的な命と自我を与えられたもの。
自我もある、人間らしい性も、全てがこれらからくりには存在している。
だが、目の前のからくりにはそんなものすら感じられない。
陶器の皮膚が、歯車の内臓が、木製の骨格が確かに人を模しているはずであるのに。からくりであると認識し、自らが生けるからくりという人であるはずなのに。
この女にはただ一つの人間の性が感じられなかった。それはおおむね、語り部と呼ばれる存在と同一であるように思えた。
そんな女は、己の機能をただ使う。己に与えられた機能を一つ、一つ、確かめるように。その結果が主の待ち望んでいたものだと確信するかのようにただ一つの言葉を引き出す。
「主、変容の二を確認。第二歯車が噛みあい回転を開始いたしました」
「ついに、回った。次なる歯車、我が心が駆動する。嗚呼、ついに、ついに。この時を待ちわびたぞ」
その声に、男はその手を止めた。
女の声に、男は、その手を、止めた。
組み立てるだけの男は手を止めたのだ。
だが、歯車は回り続ける。回す者がいなくとも、歯車は回転を止めない。
それは永久に回り続けるだろう。
ただ回り、ただ組み立てる。なにかを。
何を?
――全てを。
「ついにか! ついに、ああ、待ち望んだぞ、この時を。今度こそだ。今度こそ、あの先へと、辿り着くぞ。
黄金螺旋階段のその果て、我が求めし窮極の門の果てへと。
この時を! 此度こそ、今度こそ、今宵こそ! 私は貴様を超えるぞ
時に連なる者よ見ているがいい! 我が愛、我が心の形を!!! 必ずやお前の涙をもらい受け、薔薇の香りに沈めようぞ!!」
男の声が響く。狂気に染まった、声が響く。
それがどこかに届くことはない。ただ、暗がりの漆黒の中で吸い込まれて消えていく。
消えて、ただ願うのだ。いつか。そう、いつか、その深淵に手が届くことを願って。
男は、ただ、深淵にて歯車を回すのだ。
女のからくりはただそれを見る。水晶玉の瞳で、ただそれを見る。
思う事もなく、何も感じることもなく。
だが、確かに己の回路が熱を持っていることを女は感じていた。それは男とはまた別のもので。
男は熱狂する。
「おお、喝采せよ! 喝采せよ!
今宵、この時より、再び、我が機関実験は次なる段階へと進むのだ!
今こそ、お前の望みを叶えよう機械仕掛けの天皇、我らが象徴よ。
男はただ天を仰ぎ見る。神の如き所業を片手間で行いながら、ただ、ただ、男は、歓喜へとむせぶ。
碩学王を超越するその時を、ただ夢見て――。
●
「あああ。ああああ!」
暗がりの部屋で声が、音が響いている。
何かを掻き毟る音。床を、壁を、あるいは自らを掻き毟る音が響く。
その男は狂気に堕ちた男だった。
発狂している男であった。
着物を身にまとった優美な男はしかして、狂気の中にあった。
もはやかつての容貌はない。
美しい容貌は発狂の果てに狂人のそれに成り果てた。
今ではもう、誰も彼のことを想う者などいやしない。
かつての歴史ならばもしくは。
ありえざる歴史ならばあるいは。
そう彼が語るのは猫の言葉。
真理を知る、心理の百万猫。
吾輩は猫であると、語る。
狂気なりし人の言葉だ。
いいや、真実だ。
ここには正気など何一つない。
ただ一人の男が狂気の中で喘いでいる。
遥か遠く、世界の先端を行く重機関都市倫敦より狂気を持ち帰った男が一人、ここで狂気にあえいでいる。
「はは、あはひゃははははははははは!」
神は来た。神はいた。神はそこにいる。
「目の前に、目の前に、ああ、窓に窓に!」
そこにいる。どこにでも。彼らはどこにでもいる。
暗がりに、人の夢にさえも。
嗚呼、人間とはまさに塵だ。宇宙の端で羽虫のようにとぶだけの存在にすぎないのだ。
「ああ、あああ、ああああああ」
それこそ、世界の真実あると、男は狂ったように嗤いながら言う。
男、夏目漱石と呼ばれた男は遥か過去、あるいは未来を語る。
いや。いいや、それは現在の出来事。
英国を覆った漆黒を以て、持ち帰った欠片をのぞき込み男は知っている。
何を?
すべてを
「次は、
ただ、ただ、狂気の声が、響く。
「テケリ・リ。テケリ・リと鳴かせて喜ぶか変態め。それでも求めるのか。
滑稽だ、滑稽だ、滑稽だ。
お前は、ここで、死ぬ。誰も、彼も、彼には敵わない。
彼こそが、全て。全てなのだから、あははははっははははっははははははっは。ははははははははははははははははははは」
まるで、壊れたラジオのように、声が響く。
「
諦めろ、
しかし、誰もそれに耳を傾けないだろう。傾ける人すらここにはいないのだ。
ここにはただ、夏目漱石たる猫の狂気があるだけなのだから。
お久しぶりの更新でございます。
るいちゃんは相変わらずの御様子ですが、これからどんどん敵がハッスルしてきます。
頑張れるいちゃん。
諦めない限り、なんとかなるさ!