横嶌義壱は丸椅子に腰掛けたまま静かに息を整える。
赤銅色の髪は汗で頬に張り付き、身体を覆う霊圧は隊長格どころか下位の席官程にも満たない。
優雅でしなやかな印象を抱かせる長身の身体は滲み出る疲労のせいか萎れた紅葉葵のように弱々しい。
義壱は懐から一つのケースを取り出す。
手のひらに収まる程の細長いケースを開くと玉虫色の丸薬が三つ収まっていた。
ビー玉ほどの丸薬、その一つ摘まみ上げ、水で飲み下すと義壱は深く息を吐いた。
水が和紙に滲むように、淡い光が義壱の皮膚の上を膜のように覆っていく。
空の容器にみるみる間に水が満ちるように、義壱の霊圧が徐々に膨れ上がっていく。
程なくその霊圧はほぼ平常時の域まで達する。
市場には決して出回らない薬。
といっても違法薬物だからという理由ではない。
安全性には問題ない。
寧ろ市井に出回っている物や四番隊で支給されている物よりも遥かに保障されている。
それもそうだろう。護廷隊士で治験されているのだから。
四番隊士に支給される兵糧丸、怪我人の治療に用いられる回復薬の類は試験薬の側面がある。
虚と戦い傷を負い、霊圧を消耗させ、時には見知らぬ病に見舞われることもある護廷隊士程治験に適した存在はいない。
それらのデータを基により効果的で安全性の高い薬が真央施薬院で開発され、貴族に回されている。
義壱が今しがた口にした丸薬はその一つである。
急激に失った霊圧を身体に負担を掛けない範囲で急速に回復させ、同時に怪我を癒す。
重度のものでなければ病すら治してしまうものだ。
何事もなければ半年と経たぬうちに患者である貴族に処方されるはずのものであった。
市井には恐らく出回ることはなかっただろう。貴族程の財力が無ければ購入できるような価格ではないからだ。
義壱が飲んだ丸薬一つで流魂街の住人の平均年収は軽く吹き飛ぶ。
真央施薬院を占拠した理由の一つがこれである。
丸椅子に腰かけていた義壱は五体の隅々まで霊圧が行き渡るのを確認すると、丸椅子から立ち上がりゆっくりと身体を解していく。
肩と背中に鈍痛が走る。
骨に走っていた罅がまだ完全に治っていないのだろう。
そのことに不満も屈辱も無い。
寧ろ、上出来過ぎて不安になるほだ。
更木剣八の野晒を受け止めた代償としては想像する限り最も最低限に抑えられた。
もし万全の状態の剣八の野晒を受けていたら今、ここに義壱は立っていなかった。
生きるか死ぬかではない肉体が残っていたのかどうかという話だ。
例え涅マユリの作った胸当てがあったとしても、胴が真っ二つになることは避けられなかったのではないか。曲がりなりにも野晒の一撃を受けた義壱の率直な感想である。
「隊長、お身体の方は」
「大丈夫と言いたいけれど、少し無理をしたかもしれないね」
磯螺居平の労わるような視線に義壱は苦笑で返す。
「若い子達の前であまり情けない姿を見せたくはないのだけどね」
「情けないなんて誰も思いません!」
「そうですよ」
磯螺の後ろからぼさぼさ頭の刈谷草玖が姿を現した。
この空間に義壱の他には刈谷、磯螺の二人しかいない。気を張る必要が無いことは理解していても、染み付いた上に立つ者としての虚勢は中々抜けないものだと自分自身に呆れ返る。
「寧ろ隊長3人を倒したんですよ?横嶌隊長はやっぱり凄いっすよ。情けないどころか隊士達の士気は上がる一方なんすから」
「世辞はいいよ」
「お世辞ではありません。二人がかりで敗走した砕蜂と朽木白哉の姿に誰もが溜飲を下げています」
「勿論、俺達も」と付け加える刈谷の表情には侮蔑と愉悦がありありと浮かんでいた。
普段は柔和な表情の磯螺もその笑みは嘲笑に歪んでいる。
彼らの言葉に社交辞令の響きが無いことを確認し、義壱はようやく安心したように息を吐いた。
「ならひと安心だ。彼らにはこれからもうひと頑張りしてもらわないといけないからね」
心からの本音だった。
朽木白哉
砕蜂
そして更木剣八
隊長三名を相手にした疲労は霊圧が回復してもなお義壱の身体に濡れた綿のように重く絡みついている。
純粋な戦闘力という点において護廷十三隊の隊長の中でも間違いなく上澄みの三名を相手にすることに覚悟はしていた。
同じ隊長として肩を並べることでよりその強さを目の当たりにする機会に恵まれた。
自分の中の予測を上方修正した上で更にその上を想像し、想定し、覚悟を固めていたはずだった。
しかし、いざ相対すると彼らとの戦いは義壱の覚悟を上回る緊張感と疲労感をもたらした。
時間をかけて根回しをして、万全を期して臨んでいたのにも関わらずだ。
まともに戦っていたらとても勝てなかったな。
義壱は治りきっていない傷を自らの回道で癒しながら安堵と共に率直な感想を胸の内で呟く。
「さて、そろそろ仕上げといきますか」
「はい」
「そっすね」
義壱の言葉に磯螺と刈谷が頷いた。
* * *
七番隊と彼らの救護に四番隊から派遣された咲良葵の小隊が虚の群れに壊滅させられたとの報は、連日の激務に晒されていた虎徹勇音を打ちのめした。
幸いだったのは生存者がいたこと。
七番隊は半数が生き延びた。
救援要請があった時点では生存していた七番隊士は12名。
野営を設営し夜通しで治療にあたった結果、意識不明の隊士も重傷者もいずれも持ち直した。
そして、虚の襲撃に遭遇した。
不幸中の幸いであったのは治療が完了するまで虚の襲撃が無かったことだ。
派遣された四番隊士は15名。
報告にあった重傷者(意識不明を含む)5名に対して3交代で治療にあたるように考慮された人員であった。
この人員配置が功を奏した。生き延びた重傷者は戦線復帰が可能なレベルに持ち直し、これが虚との戦闘に参加できたことが明暗を分けた。
結局七番隊の生存者は6名。
その内2名は四番隊舎に運ばれてから数日の内に死亡した。
辛うじて死を免れた4名の生存者についても、いずれも重傷を負っており、四肢のいずれかを失った者もいる。
無傷だった者は誰一人としていない。
五席をはじめとする3名の席官は虚との戦闘でいずれも命を落としている。
そして四番隊は咲良葵だけが唯一生存した。
最後まで生存者の探索と負傷者の治療に当たっていたために四番隊士達は撤退することが出来なかったからだ。
いの十八番地区に生存者はいなかった。
全くの無駄死にであったが彼らを哂う者はいない。
いの十八番地区から最後に帰還した咲良葵もまた満身創痍であった。
幸い命に別状はなく、治療を終え現在は鎮痛剤を処方され四番隊の一室で眠りに就いている。
勇音の采配は責められることは無いであろう。
七番隊からは称賛すらされるかもしれない。
ただ死を待つだけだった壊滅状態の七番隊は虚に瞬く間に蹂躙されそのまま瀞霊廷への侵入を許していたかもしれなかったのが、隊士達を戦える状態まで治療した結果虚を退けることが出来、更には全滅を免れなかったはずの隊士達の中から生存者も出た。
四番隊の自己犠牲を厭わない活躍もまた高く評価されるであろう。
横嶌義壱の謀反が起きている現状において間違いなく四番隊の汚名を雪ぐことに一役買うかもしれない。
しかし、素直にそれを喜べる勇音ではない。
「救えなかった命を嘆くよりも救えた命を喜ぶべき」という教えがある。
それは回道を習う者が皆最初に教わる言葉であり、勇音もまた四番隊に入隊する新入隊員達に必ず言って含めている言葉でもあるが、理屈ではわかっていても納得は出来ない。
勇音を憂鬱な気持ちにしているのはそれだけではない。
帰還した葵は傷だらけであった。
打撲や擦過傷など数えきれぬほどであったが、一番深い傷は右肩から左脇に走る切傷であった。
虚の爪や牙によるものではない。
刀傷。
斬魄刀の一太刀によるものであった。
生存した七番隊からの証言によれば、治療を行う葵の背後から突然一人の隊士が刀を抜き一太刀浴びせたのだという。
斬ったのは七番隊の隊士。
葵が治療を終えたばかりの隊士であった。
そして、葵を斬った直後にその隊士は身体を虚によく似た姿へと変えた。
ここ最近、尸魂界はおろか瀞霊廷内において深刻な被害をもたらしている「異形化」である。
異形化した七番隊士は数名の隊士を負傷させた後に襲撃してきた虚共々討滅されている。
異形化した者は理性を失う。
異形と化した「虚擬き」は元となる死神の霊圧に比例した強さを持っているが、その理性は下級の虚と同程度と見なされている。
異形化の厄介な点はその強さよりも、本来ならば理性や知能を持っている中級大虚レベルの強さだとしても知能が低く、仮に生け捕りにしても情報収集が難しい点にある。
『中身を覗いてみたが、あれはただの獣だヨ。宿主となった死神の知能はおろか記憶すら生存本能に塗り潰されてともじゃないが有益な情報など何一つ持ってはいなかったネ』
捕獲した虚擬きを調べた涅マユリの言葉である。
勇音は生存した隊士達にこのことを伏せるように伝えた。七番隊士の凶行である。生存した七番隊士達は素直に頷いた。自分達の部隊にとって不名誉であると思ったのだろう。
良く言えば男らしさを旨とする七番隊は、悪く言えば見栄っ張りの傾向が強い。
今は亡き七番隊長狛村左陣や隊長代理を務める射場鉄左衛門であれば、その男らしさは実直さと結び付き自部隊の名誉を傷つけることになろうとも全てを詳らかにすべきだと言っただろう。
しかし、下々の隊士達が彼らと同様の高潔さを備えているわけではない。
寧ろ、高潔な上官を尊敬すればこそ、彼らの名誉が傷つくことを嫌うのは無理からぬことである。
勇音はそんな七番隊士達の性根を理解していた。
尊敬する上官の名誉を傷付けないという気持ちが勇音にはよくわかる。
我ながら狡いことをしているという自覚はあっま。自己嫌悪すら覚える。
しかし、勇音は今この時点では伏せるべき事実だと判断した。
異形化の症状によって前後不覚に陥った隊士による凶行と言ってしまえばそこまでであるが、異形化する前に凶行に及ぶケースは初めてのことであった。
今までは異形化の完了をもって対処に当たっていたが、姿形が未だに死神の状態でその凶刃を振るうことも起こりうるとなれば話はより深刻化する。
任務を共にする仲間がいつ狂うのか油断が出来ないということだ。肩を並べて虚に斬り付けていたはずの刃が数瞬先には自分に向けられる可能性があるということは、隊士間の不信感を招きかねない。
「卯ノ花隊長⋯私はどうすればいいんでしょうか⋯」
一人、主を失った薄暗い隊首室の椅子に腰掛けると、勇音は小さく零す。
窓から差し込む夕日で隊首室が赤く染まる。
視線を窓の外へと移すと、窓枠に囲まれた景色は陽が落ちようとしていた。
暗闇の中に真一文字に走る赤い地平線が、血が噴き出る寸前の切り傷のように勇音の瞳には映った。