私は罪を犯した。
恐らく誰も私を罰する者はいないだろう。そして私が罪を犯した事を知る者もまたいないだろう。声に出して罪の告白をしたとて、信じる者はいないだろう。
私の罪を知るのは私以外には誰もいない。私の罪の証は遠い記憶の中にしかないのだから。
私が彼と出会ったのは8歳の夏のことだった。我が家では毎年夏休みの時期になると、酪農を営む母方の祖父母の家に行くのが恒例だった。車でおよそ半日の距離にある田舎だ。何もないが祖父母の笑顔だけはある。そんな場所だった。
朝起きて朝食におにぎりを一つと、冷たい麦茶を飲んだらお昼まで酪農の手伝いをした。身体も小さく力もない為大した事は出来ないが、祖父母の「ありがとう」を聞きたくて毎朝早起きして励んでいた。大人になった今思えば本当に微力もいい所ではあったが、それでもあの頃は一生懸命だった。
昼になったら疲れた身体に流し込む様に食事を掻き込み、リュックを背負い外へと遊びに出る。酪農を行っているだけあり外は広大な草原が広がっていた。舗装されていない土が剥き出しの道を、少し小さく感じ始めた自転車に乗って駆け回るのだ。目に痛い程の陽射しを浴びながら15分も走れば防風林に行きつき、そこを抜ければ遊び場である川へと行くことが出来る。誰も来ることのない自分だけの秘密の遊び場だ。
その日もいつものように昼過ぎに川へ行くと、知らない子供が居た。地元の子供は少なく、祭りの日には集まって遊ぶので知らない顔はないはずだ。つまりは自分と同じで他所から来た子なのだろう。そうアタリを付けて近寄った。秘密の遊び場ではあるが、見つかったなら仕方がない。
「なあ、何見てんだ?」
川べりにしゃがみ込み、川底を覗き込んでいた少年に声をかけた。彼はうっそりとこちらに振り返り「ザリガニいないかなって」と答えた。よくよく見れば、足元に木の枝で作った粗末な釣りざおがあった。
「ここにはザリガニはいないよ。もっと向こうの田んぼの方に行けばいるらしいけどね」
「ふーん、そっか。残念」
「だけど魚ならいるぜ。そんな大きくはないけど、結構美味いんだ」
そう言って私は自転車に括り付けた釣り道具を取り出した。昨年のお年玉を使って新調した自慢の釣りざおだ。長さも強度も大したことのない所詮は安物ではあったが、当時の私にとってはこれ以上は無い自慢のお宝だったのだ。
「こいつを使えばすげー釣れるんだ。一昨日なんて連続で3匹も釣れたんだぜ」
そう鼻高々に口にしながら私は少年と釣りをした。エサはルアーまでは買えていなかったので、その辺の石をどけて集めた虫を使った。そうして三時を過ぎる頃にはどうにか2匹の川魚を釣り上げて、焚き火を作って焼いて食べた。味付けは塩を表面にまぶしただけでしかないが、あれより美味しい魚はないのではと思える程だった。
二人が魚を食べ終える頃には日が傾き始めていた。食べ終えた残骸は土に埋め、川の水で火の始末をして道具を仕舞い、彼に「じゃあまたな」と軽く声をかけて私は祖父母の家に帰った。
家路をたどる道中で彼の名前を聞いていないことに思い至るも、家に着く頃にはすっかり忘れてしまっていた。そうしてそのまま夜になり、夕飯、宿題、入浴とルーティーンをこなして床に就いた。
翌日、いつものように川へ行くと、そこには彼がいた。私はそれがなんだか嬉しかった。秘密を共有する仲間が出来たと思ったのだ。その川の事は地元の大人であれば皆知っているものではあったが、幼い子供からすれば自分だけが、自分達だけが知っている重大な秘密だったのだ。
昨日と違い彼は靴を脱ぎ、川の浅い所をばしゃばしゃと歩いていた。そんな彼に私は川べりのぎりぎりまで自転車で近寄り声をかけた。
「よっ、今日も釣りするか?」
彼は私の声に緩慢な動作で振り向き頷いた。そうしてその日も彼と釣りをしたが、時間いっぱいまで粘るも一匹釣り上げるだけで終わってしまった。まあこんな日もあろうと彼にその一匹をあげて、いつもより燃える空を背に帰った。帰路の途上でまたしても彼の名前を聞きそびれてしまったことに気付いたが、やはり風呂に入る頃には忘れてしまっていた。今考えると不思議なもので、子供というのは楽しめてさえいれば、互いに名前を知らなくとも長い時間を自然と共有出来てしまうのだ。
それからというもの、私達は毎日のように川で落ち合い日が傾くまで遊んだ。釣りをする日もあれば、林の探索や虫取りをする日もあった。だが、それだけ遊んでいながらも私は彼に名前を尋ねることはしなかった。少しばかりの意地もあったように思う。彼が寡黙で口数が少ない少年だったのも一因ではあったろうが、それ以上に楽しかったのだ。こちらにいる間に一度だけある祭りの夜は地元の子供達と遊ぶが、それ以外の日の午後はいつも何をするにも一人だったのだから。例え彼が喋らずとも、誰かと一緒に遊ぶことの楽しさを思い出してしまえば関係のない事だった。
あの日は一等陽射しの強い真夏日だった。
いつものように彼と川で落ち合い、あまりの暑さに二人ともに川に身を浸して涼んでいた。下流に近い故に水温自体はそこまで冷たくはなかったが、流れる水はじんわりと身体の熱を奪っていくのだ。その心地良さに身を任せ、どこかぼんやりとした頭で取り留めのない会話を繋いでいく。この時私は、たまにはこうして何もしないのも悪くないなと感じていた。
「そういえばさぁ、明後日祭りじゃん、お前行くの?」
「んー…どうしようかな…」
「行こうぜ、いつも祭りのとき集まるメンバーいるから会わせてやるよ」
「そうだね…じゃあ行こうかな」
「よっしゃ!そうと決まれば話のネタ仕入れないとな。流石に今日は暑すぎて動きたくねぇから、明日だな。にしてもどうすっかなぁ、向こうの森でも行ってみるか?」
「うん、いいんじゃないかな」
こうして私達は翌日に森へ探索しに行くことを決め、暑さが和らぐ夕暮れまでだらだらと過ごし別れた。
川向うの森にはそれまで行ったことが無かった。それは単純に危険だと言われていたからでもあるし、何よりもわざわざ行く程のメリットを感じていなかったからだ。川や防風林だけでも十分に楽しめていたのだ。だがこの時の私は、言いつけを破る背徳感と友との冒険に酔いしれ、それ程物事を深く考えていなかった。何故大人達が危険だと言ったのか、その理由にまで考えが至っていなかった。
翌日、その日の空はどこか重たかった。頭上の空は晴れていたものの、風の来る向こう側の空には濃い鼠色がかかっていた。この時の私は愚かにも「雰囲気が出てきた」などと気楽に見ていたのだ。
当初の予定通りにいつもの川で彼と合流し、私の自転車に二人乗りして森へと向かった。
森の中は木々に光が遮られて薄暗く、どことなく空気も湿り気を持っているように感じられた。初めの10分程度は辛うじて道らしきものを辿っていたが、次第にそれも細くなり、遂には下草で覆われて見えなくなってしまった。
この時点で引き返せばよかったのだ。
見えなくなった道の代わりに私は赤いスプレー塗料をリュックから取り出した。
「こっからはコイツを木に塗りながら進もう。こんなこともあろうかと、じいちゃんの道具倉庫から持ってきたんだ」
「うん、わかった」
そうして木に目印を施しながら進むこと1時間。慣れない悪路に手間取っていた為、経過した時間に比べて距離自体はそこまで進んではいなかったと思う。だが、確実に進んでいる筈なのに変わっているようで変わらない景色に、私達の感覚は段々と狂い始めていた。
探索を始めて2時間半を過ぎた頃だった。森の木々の匂いに混じって何かが腐った臭いに私は気が付いた。とはいえ森の中なのだから、動物の死骸があっても不思議ではないと思いその時は気にしなかった。だがその臭いは次第に無視できない程にまで強くなっていく。
「なあ、やっぱ臭くね?」
「うん、そうだね…」
彼もその臭いに僅かに眉をひそめていた。そしてそれは、一度立ち止まり周囲を見渡していたタイミングだった。近くの茂みから低い唸り声が聞こえてきたのだ。私達はびくりと肩を震わせ、唸り声のした茂みを注視する。30秒かはたまた1分かは分からないが、短い睨み合いの後に茂みを掻き分けて出てきたのは野犬だった。歯を剥き出しにして瞳孔の小さくなったその様は理性とは程遠く、大人であろうとも本能的に恐怖するだろう。
じりじりと歩み寄る野犬は彼に狙いを定めたようだった。私は咄嗟に彼を突き飛ばし、野犬へと手に持っていたスプレーを吹きかけた。上手い具合に塗料が目に入ったのだろう。野犬は情けない声をあげて逃げて行った。後ろで彼が泥に落ちたのだろう音を聞きながら、野犬が逃げるのを見送りそっと息をこぼす。安心して後ろを振り向くと彼の姿を見つけられなかった。だがそれも一瞬の事。すぐに見つけることが出来た。
居た。胸から下を泥に埋め、必死に泥から逃れようともがく彼がいた。
私は何が起きているのか理解できずに立ち尽くしてしまった。普段の彼からは想像出来ない程に激しくもがく姿を真っ白な頭で呆然と見ていた。やがて肩が、首が、そして顔すらも泥に沈み、片手だけが空に伸びていた。それを見て私は猛烈な恐怖に支配されて逃げ出した。道中に付けた真っ赤な塗料を頼りに我武者羅に逃げた。
普段の私ならどうにか彼を引き上げようと奮闘したことだろう。だがこの時は正常な状態ではなかったのだ。
何度も転びながら走って走って森を抜け、自転車に飛び乗って駆けだした。身体の悲鳴を認識することも出来ずにひたすらにペダルを漕いだ。
気が付いたら私はこちらで使っている客間にいた。がたがたと震えながら膝を抱き、眠る事も出来ずに震えていた。夕食も食べない私を両親も祖父母も心配したが、私は何も語らなかった。その日を境に私は祖父母の手伝いもすることなく引きこもった。もちろん祭りに行くこともなかった。
翌年からは母の実家への帰省について行くのをやめた。いや、行けなかった。今年こそは行こうと思う度に沈み行く彼を思い出して体が言うことを聞かなくなってしまうのだ。学校にいる時も何度かトイレで吐いた事がある。何せ私が彼を殺したのだ。助けられたはずなのに逃げたのだ。まともでなどいられなかった。
あの時の事を誰にも打ち明けることも出来ずに私は大学にまで進んだ。脳裏にちらつく幻影を意識的に封じ込め、周囲も自分すらも騙して生活するようになった。
二十歳になった日に私はあの日の事を調べることにした。全てただの妄想で何も無かったと信じたかったのだ。精神安定剤を飲み、吐きそうになるのを必死に堪えながら図書館で当時の新聞を探した。新聞も該当記事も簡単に見つけることができた。記事は小さく簡潔に詳細が書かれていた。子供が一人行方不明、捜索隊が結成されるも発見には至らず解散。更にネットで調べれば、今も尚行方不明のまま死亡認定がなされたという。
やはり私は罪人だったのだ。
私の罪を知る者はいないだろう。そして私が罪を犯した事を知る者もまたいないだろう。声に出して罪の告白をしたとて、信じる者はいないだろう。
私の罪を知るのは私以外には誰もいない。私の後ろで何も映すことの無い瞳で私を見つめる彼以外には。
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