その目を見たのは人の群れの中だった。
真っ青で透き通るような青空に、ギラギラと明滅する陽光が肌を突き刺す。
ビルの建ち並ぶ、スクランブル交差点のさ中。人間の声が騒音のように鳴り響く雑踏の中心。
けたたましい音と安くて甘い香水の匂い。時折酷く臭う人間の臭いに包まれた世界の交差点にそれはいた。
酷く臭うこの街で、それは見ずとも明らかに異臭を放っていた。
それなのに僕は、その存在にはすれ違う赤の他人が声を上げるまで気づけなかった。
「え、こんな街中でコスプレか。」
夏の陽気に耐えきれず目深に帽子を被り、色彩豊かな電光掲示板に目を取られていた僕はその声の方へ顔を向けた。
日傘によって真夏の街に影を落としていた人影は、小さな身体を薄く色付いた赤色の装飾で染めあげていた。
まるで子供のように小さな足が彼女の長いスカートの裾から覗き、目を奪う。
細い腰に巻かれたリボンも歩くたびにふわりふわりと魅せ方を変える。
ほっそりとしたその手は小さく、しかし美しいほどに見事な造形美を保っており、その指先は弄ぶように鋭く磨かれていた。
小柄な身体に相応の控えめな胸の上には鈍く赤く輝く宝石に彩られている。触れれば容易くへし折れてしまいそうなその首筋から銀糸がはらりとひらめいた。凛とした中に一握の笑みの混じる表情と小さく尖った耳が顔を見せていた。
伏せられていた目がふと上げられた。
赤い目だ。
その瞳に込められた嗜虐的な本性を僕は垣間みた。
瞬間、冷や汗に塗れた。
みるみる冷や汗が脂汗に変わり夏のうだるような暑さがまるで感じられなくなる。
意識しなくても体が震えているのが分かる。
顔まで真っ青だとは言うまでもない。
震える足に、意思を叩き込んで明瞭な恐怖から一歩に後ろに下がった。
動いてはいけなかった。
あっ、と声をあげた口を咄嗟に塞ぎ、駆け出す。
目測でも20mほどの距離があるはずの交差点の中心から、怜悧な美貌を備えた赤い目は僕の目を見つめていた。瑞々しい小さな唇の口角を上げてまるで月を描くようにゆがめた。体は反射的に駆け出した。僕は横断歩道を折り返し、一目散にそれから離れて逃げだした。
人並みを掻き分けて、すぐ近くの駅に逃げ込んだところで体の震えは止まらなかった。
空恐ろしい感覚が体を支配している。
震える手が逃げることすら拒むように切符を取り落とす。
2度ほど取り落として、電車に乗り込めた。
僕は電車の中でも震えが止まらなかった。
窓の外から、あいつがまだこちらを見みつめているように思えたから。
怯えるように電車の隅で震えていた僕は止まった電車からふらふらと駆け出した。
逃げ場を求め、誰もいないアパートに転がり込んだ。
脅威から頭を抑えられている恐怖に、僕は冷や汗をかきながら手近な荷物をかき集め始めた。
日もとっぷり暮れはじめた頃、ようやくこちらに来て買い集めた本やら、お気に入りの色の服をリュックサックにつめ終えた。時を同じくして頭は少しづつ冷静さを取り戻していた。
しかし、胸に響き、脈打つ心にしばし戸惑う。
嘆息し一人耳を澄ますとトクトクと音を立てる心臓と締め付けられるような感情が僕を惑わせるばかりであった。
心は微かに残った夕日の光がすっと消えて部屋が暗闇に包まれることすら気づかなかった。
戸惑い没入した心が浮上すると、不思議な思いも落ち着いて身体の欲求が顔を出して訴えてくる。
ぐぅとみっともない音を立てた腹に聞いた人もいないというのに顔を赤くした僕はぐちゃぐちゃに乱れた髪を手で梳き、着の身着のまま外に出た。
僕は靴を引っかけ、電灯の明かりが照らす夜の中に踏み出した。
近くのコンビニまではほんの数分だ。そこまで行けば食事にありつける。
カラリとした暑さの昼間とはまた違う湿った夏の生臭い暑さにほんの少しの苛立ちを混ぜながらも歩き出す。
暗い夜にも眩しい程に光る灯りの元まであと数歩。
突然身体に吸い付くような暑さが、ガラリとその色を変えた。
電灯の仄かに灯っていた光がブツッと音を立てて沈黙する。
光が死に絶え夜の闇に歓喜が渦巻く。
電灯の明かりに彩られた世界は一転。
星明かりと巨大な月が踏みしめるアスファルトと僕を照らし出す。
元の表情を取り戻した夜はまるでさらに強く深まったかのようだ。
ゾクゾクと背中をせり上がる感覚に思わず身体を抱きしめる。
「いい夜ね。」
見上げると彼女は1人。まるで月をその背に従えていた。
自らを余すところなく世界に振りまいて、時の止まった僕の目の前に漂っていた。
昼間は目にも入らなかった背にまるで悪魔のような鉤爪を持つ翼。
羽ばたくことすらないがその役目を如実に果たしていた。
彼女は空を飛んでいた。
現実味のない風景に見惚れるようにして僕は震えも忘れて声を発していた。
「死んでもいいや。」
「うそつき。」
あぁ、これはもう見抜かれている。
「愛しているよ?」
「私もよ?」
彼女は笑う。
昼間にその瞳の中に見えた嗜虐的な本性を余すところなくさらけ出し、さっと右手をこちらに向ける。
その右手に星々が従順に走り出す。
赤い光弾となり駆け出したそれが足の止まった僕に襲いかかる。
足は止まってる。
逃げる事は間に合わない。
右手をぎゅっと握りしめる。
光弾が派手な色をまき散らしながら破裂する。
彼女はにっこりと微笑む。
こちらはむっつりとほおを膨らます。
「やっぱりバレてた」
青年が居た位置には、少女だけ。
赤に白と黄色がよく映える一見幼い横顔と双眸には強い不満とふて腐れた子供のような感情が浮かんでいた。
豪華にフリルとリボンをあしらったデザインの頭覆うような帽子とふわふわと揺れる楽しげな金髪。
煌めく目の色は彼女のそれと同様で彼女との関係をありありと感じさせる。
ぶかぶかになった男物の靴を放り出し、素足のまま、トンと地面を蹴る。
体が浮き上がり、彼女に並ぶ。
月明かりに照らされた背中にはきらきらと輝く宝石が、まるで樹枝に実るかのように並んでいる。
目の前で彼女がにっこりと笑ったのでばつの悪そうに顔を背けた。
「ほら、帰るわよ。フラン。」
「お姉様も来ていたのね」
「貴方を迎えにね。」
「でも、遊び足りないの。」
「ごっこ遊びは、もうそろそろ卒業よ?」
「大人ってつまんない。」
「子供は可愛らしいわ。」
ふて腐れた顔がさらに膨らむ。不満を隠そうともしない妹の姿に彼女は苦笑した。
苦笑と共にふわりと近寄り、可愛い妹の手を取る。
「ほら、行くわよ。」
笑みと共に触れた腕の、肘から下が無くなった。
はじき飛ばされた腕は無数の蝙蝠となって羽ばたく。
「呆れた、そんなに帰りたくないの?」
「だって、まだ読んでない本があるわ。行ってない場所だって、見た事のないものだって。」
吐き捨てるように言うや否や彼女は背を向け、七色のきらめきだけを残し、飛び去る。
逃げ出した私の背を眺めて、どこで教育を間違えたやらとつぶやいた彼女は虚空をつかんだ。
赤い月が光を強め、月光を彼女は握りしめた。
力の形に言葉をのせて確固たる形を作り出す。
「『スピアザグングニル』」
一筋の赤い稲妻が槍となって私を襲う。
夜の帳を切り裂くように一直線に私に向かう。
でも、あいつがそうして私を止めようとする事ぐらい、私だって分かるんだから。
私は一言だけつぶやく。
「『そして誰もいなくなるか?』」
輝く青白い光弾が住宅街の空に散らばり、私の姿は掻き消える。
赤い槍は消えた私を見失い、そのうち諦めたように霧散した。
呆れるように、楽しむように、嘆息した音だけが聞こえた。
また街に、誰とも知らない少女だけが降り立った。
「あぁ、そういえば靴は捨てちゃった。」
素足のままに、その体をすらりとのびた女性に変える。
耳は丸く、羽根もない。牙もなければ、鋭く尖る爪もない。
「おなかもすいたし、まずはご飯にしましょう。」
吸血鬼の人間ごっこはまだ続く。