新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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そして伝説へ・・・

 

 

 

 カミュ達が城門へ辿り着く前に、彼等は多くの人間に囲まれる事となる。

 城門から飛び出して来た人間は多く、老若男女を問わず、職業なども問わない。ふと見れば、その中には兵士のような姿も見えた。

 皆が皆、その顔には笑みを浮かべており、それが表面上の物でない事は、その口から言葉にならない歓声を発している事からも解る。まるで、カミュ達を飲み込むように押し寄せて来る人々は、ある意味では魔物よりも恐ろしい勢いがあった。

 先程まで笑顔であったメルエの表情は固まり、傍にいるリーシャへ救いを求めるように手を伸ばす。それを見たリーシャは少女を抱き上げ、半狂乱になった民衆に備えた。

 

「勇者様!」

 

「勇者様!」

 

 近付いて来る人々は、口々にカミュを讃える言葉を口にしており、瞬く間に彼等四人の周りには人々の壁が出来上がる。その壁で美しいラダトーム城さえも見えなくなり、四人の足も必然的に止まった。

 カミュの手を握ろうとする者、堪えられない感情によって盛大に泣き出す者、その全てが、対応に困る程に暴走しており、メルエは恐怖し、サラは困惑する。カミュに至っては迷惑そうに眉を顰め、その姿を見たリーシャが困ったように笑い出した。

 リーシャから見れば、このラダトーム王都の民衆の感情は理解出来る物なのだ。今まで数年もの間、漆黒の闇に閉ざされた世界で生きて来たのが、国王が壮行会まで開いて送り出した『勇者』が旅立って二年も経過しない内に、このアレフガルドに太陽が戻った。それは、彼等にしてみれば、奇跡にも近い出来事であり、それを成した者達は救世主にも等しい。それを崇めずして何を崇めるというのだろう。

 精霊神ルビスの教えが正確に浸透しているアレフガルドだからこそ、勇者カミュという存在も、精霊神ルビスに等しい程の尊い存在と成り得るのだ。

 

「国王様がお待ちです!」

 

「勇者様、こちらへ!」

 

 湧き上がる民衆の声を遮るように、数人の兵士が声を上げる。その声に、歓声を上げたまま、民衆の波が縦に割れた。まるで、波打つ海原が裂けたかのように割れた群衆が城下町へ続く真っ直ぐな道を作り、先程隠れてしまった美しい城が目に飛び込んで来る。一つ息を吐き出したカミュは、後ろに続く三人の女性に目を向け、ゆっくりと人々の道を歩み始めた。

 

「……すごい」

 

 城下町と外界を隔てる筈の城門は既に開け放たれており、その門を潜った先に見える景色に、サラは思わず声を上げる。そこには、ラダトーム王都で暮らす全ての人間が集まったのではないかと思う程の人波で溢れ返っており、その全ての顔には、はち切れんばかりの笑顔に満ちていた。

 城門からカミュの身体が城下町へと入った瞬間に上がった歓声の大きさは、アレフガルドの大地さえも揺らす程で、驚いたメルエは、リーシャの肩口へ顔を沈めてしまう。そんな少女の姿を見た民衆は、笑い声と共に一際大きな歓声を上げた。

 

「道を開けよ!」

 

 大きな歓声を遮るように響いた兵士の声に、再び民衆の波が裂け、王城へと続く道が出来る。既に敷き詰められた石畳の脇に移動した民衆は、カミュ達が一歩歩く毎に変わらぬ歓声を上げ、口々に礼を述べた。

 この場にいる者達全ての想いが一致し、アレフガルドに戻った太陽の恵みに感謝し、美しい世界に感謝し、そしてそれを取り戻した勇者一行に感謝する。

 彼等にカミュ達を生贄として送り出したという想いは欠片もないのだろう。ただただ、自分達が恐怖し、隠れる事しか出来なかった相手に挑んだ者達の勇気を讃え、このアレフガルドの再生を成し遂げた者達を崇めていた。

 

「え?」

 

 そんな民衆の笑みを見て、ようやく困惑から立ち直ったサラは、笑顔を浮かべながら歩く先に、煌びやかな服と陽光に輝く楽器を持つ一団を見つける。王城と城下町を繋ぐ真っ直ぐな道の上に作られた広い壇上に並んだ一団は、それぞれに異なる楽器を持ち、ゆっくりと曲を奏で出す。

 いつの間にか歓声は鳴りを潜め、誰しもが息を飲むようにその始まりを待つ中、一つのホルンの音が大空に響き渡った。

 

「幾年ぶりであろう……」

 

「ロト様の曲を再び聞けるなんて」

 

 ホルンが独奏を始めた瞬間、民衆の多くが涙する。それぞれの胸に、それぞれの想いを抱え、この数年の苦しみを思い出し、この数年の哀しみを思い出し、そして再び訪れた喜びの時を想って、皆が同じ涙を流していた。

 口々に発する言葉は、再び聞く事の出来たこの曲が、このアレフガルド大陸にとって、そしてラダトーム国にとって、特別な物である事を示している。力強く、そして心の奥底に眠る勇気の炎を燃え上がらせるような曲は、初めて聴いたカミュ達でさえも魅了する程の何かを持っており、四人は足を止めて、その曲を奏でる楽団を見つめていた。

 

「『ロトのテーマ』と呼ばれる曲です。このアレフガルドを救った勇者ロト様を讃えた曲であり、広いアレフガルド大陸の中でも、あのアレフガルド交響楽団にしか演奏を許されてはいない曲なのです。国を挙げての祝いなどでは演奏されていたのですが、ここ数年は……」

 

 魅了されたように楽団を見つめるカミュ達に気付いた兵士の一人が、曲についての説明を口にする。だが、最後には感極まったのか口元を押さえ、嗚咽を漏らしながら言葉を詰まらせてしまった。

 このアレフガルド大陸で生きる者達にとって、勇者ロトという存在が如何に大きく強く、そして尊い者なのかを示す一幕であり、それが今、この時に演奏されたという事が、カミュ達の凱旋が特別な物である事を示していた。

 

「勇者様、こちらです!」

 

 嗚咽を続ける兵士の肩を叩き、他の兵士がカミュ達を先導するように手を翳す。その兵士の瞳からも止め処なく涙が流れていたが、その表情は見ている者さえも嬉しくなる程の喜びに満ちていた。

 楽団の演奏は続き、多くの楽器が重なり合って曲を奏でる。先程までの歓声は嗚咽に変わり、周囲から聞こえる咽び泣きと笑顔に見送られながら、カミュ達は王城への道を歩み始めた。

 不思議と不快ではない。むしろ、その泣き声が誇らしくさえ思える。演奏している楽団の顔さえも見えるほどに近付けば、楽団員の全てが涙を流し、それでいながら笑顔を浮かべて楽器を奏でていた。

 

「まるで、カミュの声を聞いているようだな」

 

「ふふふ、そうですね。勇気が湧いて来ます」

 

 前から聞こえて来ていた曲が、背中から聞こえるようになり、徐々に遠ざかって行く中で溢したリーシャの言葉に、サラは笑みを浮かべながら同意する。

 この長い旅路で、何度も挫けそうになり、そして何度も折れそうになった。そのような時でも、胸の奥に燻っていた勇気の炎を燃え上がらせて来たのは、一人の青年の姿であり、声である。今も彼女達の前を歩く青年の背中が、何時でも彼女達を立ち上がらせ、鼓舞した。

 この曲も、そんな古の勇者の背中を見た誰かが作曲したのかもしれない。

 

「お入り下さい。謁見の間で国王様がお待ちです」

 

 辿り着いた城門もまた、城下町を守る為の門と同様に開け放たれており、門番の確認を受ける必要もなく、カミュ達は城内へと案内される。

 城下町程ではないが、城内もまた人々が溢れ、勇者の凱旋に歓声を上げていた。本来、神聖なる王城内で大声を上げるなど、不敬に値する程の愚行ではあるが、今、この時だけは例外なのだろう。誰もそれを咎める者はおらず、男性も女性も、老いも若きも、皆がカミュ達の帰りを祝っていた。

 謁見の間へと続く道以外は、人々によって遮られ、他の場所へは行く事も出来ない。行く必要も、行く気持ちもありはしないが、ここまでの扱いを受けた事は上の世界を通じても一度たりともなく、やはりサラやリーシャは困惑してしまった。

 

「よくぞ戻った!」

 

 謁見の間の前まで辿り着き、流石に閉じられていた重々しい扉を兵士が開けると、カミュ達が玉座の前まで進み出るよりも前に、ラルス国王が玉座から立ち上がり声を掛ける。それは、国王の行動としては異例であり、異様。だが、それだけ、このアレフガルドに起きた出来事が奇跡に近かったという事なのだろう。

 ゆっくりと進み出たカミュが玉座近くで膝を着き、それに倣うように一歩後方でリーシャ達も跪く。既にリーシャの腕から下ろされているメルエもまた、幼いながらも礼に適った作法で跪いた。

 

「よくぞ……よくぞ、大魔王ゾーマを討ち果たした! よくぞこのアレフガルドに光を取り戻してくれた。このアレフガルドで生きる、全ての生命体に代わり、深く礼を申す」

 

「こ、国王様」

 

 玉座から立ち上がったラルス国王は、一段上がっていた玉座からカミュ達の跪く場所まで降り、言葉を詰まらせながらも言葉を発し、最後には深く腰を折って頭を下げる。それは、国家を覆す程の異例であり、周囲を固めていた重臣達を大いに慌てさせた。

 このアレフガルドでは、上の世界とは異なり、王はラルス王唯一人なのである。唯一の王が旅の者に頭を下げるなどあってはならない事。しかも、上の世界から来た余所者となれば、尚更であった。

 だが、次に国王が発した言葉に、ざわめいていた謁見の間の声がぴたりと止まる。

 

「そなたこそ、このアレフガルドを救いし『勇者』である。その偉業、その勇気、その全てを讃え、そなたに『勇者ロト』の称号を贈ろう。これが、このアレフガルドを統べるラダトーム国王として出来得る最大の感謝である」

 

 逆に耳が痛くなる程の静寂が謁見の間を支配する。誰もが口を開いたまま声を発する事は出来ず、国王の発した宣言を飲み込む事が出来ずにいた。

 それ程に、このアレフガルド大陸に於いて『勇者ロト』という称号は重いのだ。遥か昔にアレフガルド大陸を救ったと伝えられる勇者の名であり、その全てを示す称号。それはアレフガルドにおいては伝説であり、神話に近い程に神聖な物。精霊神ルビスと対を成す程に特別なその称号が、上の世界から降りて来た旅人に与えられるという異例に、誰もが言葉を失ったのだ。

 国王さえもそれに続く言葉を発せず、カミュ達もまた、顔を上げる事は出来ない。そのような痛い程の静寂を破ったのは、やはり、このアレフガルドで生きる者達であった。

 

「おぉぉぉぉぉぉ!」

 

 謁見の間が先程以上の歓声に包まれる。誰もが何かに取り憑かれたように拳を突き上げ、腹の底から歓喜の雄叫びを上げていた。

 国王からの宣言を受けていたカミュ達も、まさかその言葉がここまでの賛同を呼ぶとは思っておらず、驚きで顔を上げてしまう。その目に映るのは、涙を流しながら喜びの叫び声を上げる多くの重臣達。そして、後方に控える兵士達もまた、手に持った武器を突き上げて歓喜していた。

 カミュ達四人は気付いていないが、それ程に、このアレフガルドの民達は、闇に苦しめられていたのだ。何年も何年も朝が訪れる事はなく、陽の光という恵みもない中で作物も育たない。飢えという絶望の足音を日々聞きながら苦しみ歩いて来た彼等にとって、数年ぶりに訪れた朝日がどれ程の希望を齎した事だろう。その輝きにどれだけ涙した事だろう。

 そんな光を取り戻した者を『勇者』と呼ぶ事に何の抵抗があるというのか。遥か昔に救われた者達にとって、その救い主が『勇者ロト』であれば、今、この太陽を取り戻してくれた者達が、自分達にとっての『勇者ロト』である。それが、このアレフガルドで生きる者達の総意であった。

 

「ありがとう……ありがとう。何度礼を述べても足りぬ。何度涙しても足りぬ。これ程の喜びを与えてくれた『勇者ロト』とその一行に心からの敬意を!」

 

 両手を突き上げた国王の叫びに呼応するように、王太子もまた歓喜の叫びを上げ、いつの間にか謁見の間に入って来た城勤めの者達が次々とテーブルなどを運び入れ始める。その者達の頬にも涙の痕が真新しく残り、その表情は喜びに満ちていた。

 誰かが始めた拍手は、波を打つよう広がり、笑い声と共に謁見の間を満たして行く。謁見の間全体を見渡したラルス国王の頬にも幾筋もの涙が伝い、喜びに満ち満ちた民衆の姿に笑みを浮かべていた。

 

「夜通しでの宴を催す! 今宵は、『勇者ロト』の勇気と偉業を讃え、この美しきアレフガルドを皆で祝おうぞ!」

 

 次々と謁見の間に運び込まれるテーブルなどの配置が進む中、ラルス国王は、高らかに宣言をする。その宣言が終わると同時に、外から戻ったアレフガルド交響楽団が『ロトのテーマ』とは別の曲を奏で出した。

 報告などする暇もない。カミュ達が発した言葉など一つもなく、跪いたと思えば、与えられた部屋へ先導され、宴の準備が整うまでに着替えるように指示を出された。

 湯浴みの準備も出来ており、順々に湯浴みを済ませ、纏っていた鎧を脱いだカミュやリーシャは、儀礼用の衣服に着替えさせられる。サラもまた水の羽衣を脱がされ、コルセットを嵌められた上に、煌びやかなドレスに着替えさせられていた。

 久方ぶりの太陽が沈んで行く度に、『再び闇に包まれるのではないか』という不安を持つ民衆達に配慮したのか、宴は太陽がまだ見えている内から始まった。

 

「勇者ロト様ご一行のお出ましにございます」

 

 カミュ達が再び謁見の間に辿り着くと、そこへ繋がる扉は開け放たれ、バルコニーから外を見れば、ラダトーム王都中の人間が、様々な物を持ち寄りながらも宴の準備を整えているのが見える。国王の言葉通り、国を上げての祝いの席なのだろう。

 カミュ達一行が謁見の間に再び姿を現すと、大きな歓声が上がり、それを制するように国王が玉座から立ち上がる。立ち上がった国王が重臣から杯を受け取り、侍女達がカミュ達にもそれぞれの杯を配り出した。カミュやリーシャにはアルコールの入った飲み物が渡され、メルエには果実を絞った飲み物が渡される。その際、サラへと渡されたアルコール入りの杯はリーシャによって没収され、代わりにメルエと同じ果実汁が手渡される事となった。

 

「今宵はこのアレフガルドで生きる者達全ての宴である! 食べたき者は食べ、飲みたき者は飲み、歌いたき者は歌い、踊りたき者は踊れ! 心ゆくまで、この幸せを祝おうぞ!」

 

 杯を手にしたラルス国王がそれを天高く掲げ、宴の始まりを宣言する。それは、長く疲弊したアレフガルドの再生の雄叫びであり、新たなアレフガルド誕生の産声でもあった。

 割れんばかりの拍手と、地響きがする程の歓声が、場内に留まらず、城の外の特設会場からも響いて来る。アレフガルド交響楽団が楽器を奏でると同時に、侍女達が次々と食事を運んで来た。沸き立つ会場は人で溢れ返り、杯の飲み物を口にする暇もなく、カミュの許へと人々が集まり始める。人々は口々にカミュの偉業を讃え、感謝の言葉を口にした。代わる代わるに登場する人間の対応に追われながらも、カミュは一つ一つ丁寧に答える。その姿を見ていたリーシャは柔らかな笑みを浮かべ、一筋の涙を溢した。

 

「…………むぅ…………」

 

 そんな中、やはり勇者一行といえども、勇者ロトとは扱いが異なり、リーシャやメルエの周りには人も疎らである。それを悔しいとも思わないし、羨む事もない。むしろ、それだけの評価を、今カミュが受けている事の喜びはあるものの、何処か不思議な光景に見えるという事だけであろう。

 そして、リーシャの足元にいる少女もまた、そのような事には全く関心を持たず、先程から侍女達がテーブルの上に置いて行く、湯気の立ち上る料理の方に目を奪われていた。続々とテーブルに置かれて行く物を見ようにも届かず、テーブルに手を掛けようとしても届かない。その苛立ちに唸り声を上げる事しか出来ていなかった。

 

「どれが食べたいんだ?」

 

 そんなメルエの姿に微笑みながら、リーシャは彼女の身体を抱き上げる。メルエは大食いな訳ではないが、食事をする事が嫌いではない。見た事もない料理に目を輝かせ、迷う姿は尚更に笑いを誘った。

 テーブルに付いていた侍女に皿へ取り分けて貰い、壮行会の時のように用意して貰った少し離れた場所にある椅子にメルエと共に腰を掛ける。嬉しそうに食事を始めるメルエの口元を拭ったりしている内に、数人の重臣がリーシャへと挨拶に回って来た。

 国王と謁見した際には、その身に重厚な鎧や盾を装備し、巨大な斧を持っていたリーシャの姿を多くの重臣達は見ているし、大魔王ゾーマの討伐が勇者だけの偉業ではない事を理解している。だが、やはりそれだけ、このアレフガルドで『勇者ロト』の称号の重みは強いのだろう。

 当たり障りのない会話を進め、再びメルエの口元を拭い、侍女に果実汁の追加を頼む姿が、とても勇者と肩を並べる戦士の物ではなかったというのも一因なのかもしれないが、時間を追う毎に、リーシャとメルエの周りには人が少なくなって行った。

 

「皆の者、ここで国王として発表がある!」

 

 宴も進み、いつの間にか陽が完全に落ちた頃になって、玉座から降りたラルス国王が片腕を上げる。テーブルの上の料理も少なくなり、人々も良い加減に酔っている中での国王の言葉。騒がしかった謁見の間の喧騒は瞬時に収まり、静かな静寂が続く言葉を待っていた。

 外の特設会場には、幾つもの篝火が焚かれ、赤々と燃える炎が昼のような明るさを齎している。外の喧騒が遠く聞こえる中、謁見の間の隅々を見渡したラルス王が静かに口を開いた。

 

「『勇者ロト』の偉業によって、再びこのアレフガルドに光は戻った。今日、この時より、古いアレフガルドは終わり、新たなアレフガルドが始まる。それは、世界だけではなく、人もまた同じであろう。この時を以って、ラダトーム国の王位を我が息子に譲る事とする。これよりは、ラルス二世としてこのアレフガルドを治めよ!」

 

「はっ!」

 

 静寂は一瞬でどよめきとなり、その後に歓声へと変わる。ラルス国王と、その息子との間では、カミュ達の凱旋を確認した時から話は着いていたのだろう。国王の言葉に即座に反応し、跪いた青年の頭に、ラルス国王の頭の上にあった王冠が移された。

 国王のみが許された王冠を頭に乗せ、その肩に真紅のマントを掛けられたラルス二世は、ゆっくりと立ち上がり、拍手と歓声が響く中で周囲を見渡す。そんな周りの喧騒にも興味を示さず、果実汁を飲むメルエを見たリーシャは、『この少女に出会ったのも、何処かの国の王冠を取り戻す為の旅路の途中であったな』と場違いな過去を思い出していた。

 

「父より譲位を受け、これよりラルス二世として国王となる。この数年、力及ばず、皆の者には苦労を掛けて来た。だが、再び皆の笑みを曇らす世界にせぬよう、力の限りこのアレフガルドに尽くそう。未だ若輩な王ではあるが、皆の力を貸して欲しい」

 

 片手を挙げ、謁見の間の喧騒を制したラルス二世は、新たな国王としての宣誓を行う。不遜ではなく、むしろ慎ましくはあれども、そこに込められた王族としての威厳は隠さない。そんな国民の心を掴む見事な宣誓であった。

 一つ叩かれた拍手が即座に伝染し、喝采となり謁見の間を包み込む。急な譲位、しかもラルス元国王は健在であり、未だ老人とは言えぬ程の若さを持っている中での譲位であった。本来であれば、国内に大きな動揺が走る程の出来事ではあるのだが、重なる祝事に民衆は酔い、この異例の即位もまた好意的に受け止められたのだ。

 だが、国民にとっての驚きは、これで終わりではなかった。

 

「このアレフガルド大陸、そしてラダトーム王国の末永い平和を確かな物にする為、私と共に歩んでくれる后を希望したい」

 

 先程までの割れんばかりの拍手は一瞬で収まり、驚愕と困惑による静寂が謁見の間を支配する。誰しもが動けず、先代国王であるラルスでさえも口を開けぬ中、ラルス二世となった青年が、謁見の間に集まる民衆を掻き分け、一人の女性に向かって歩み始める。

 謁見の間に集まる多くの女性が困惑する中、真っ直ぐにその相手を見つめたラルス二世は、その女性の前に立ち、ゆっくりと跪いた。

 本来、例え女性への求婚であっても、一国の王が跪く事などない。それが王太子の地位であればそれも美談として語られるが、国王となれば話は別。そこに考えが及ばぬ程の愚王なのか、それとも国王であっても礼を尽くさねばならぬ相手なのか、皆が息を飲んで見たその女性もまた、驚きと困惑で言葉を失っている。先程まで、民衆に混じって拍手を送っていたその女性は、宴が始まった時と同じ、謁見の間の中央で固まっていた。

 

「賢者サラ殿、初めてお会いしたその時より、貴女をお慕いしておりました。貴女方が取り戻してくださったこのアレフガルドの光を護り、そして貴女が夢見た未来を実現する為に、この国の王妃として私と共に歩んではくださいませんか?」

 

 『あざとい』

 その様子を皆と同じように驚愕と困惑で見ていたリーシャは、咄嗟にそう感じてしまう。それは、勇者一行の中で唯一宮廷で生きて来た経験を持つ彼女だからこその感想なのだろう。

 このような多くの人間が見守る中で、この大陸全てを統べる国王自らの求婚を断る事など出来はしない。どれだけの功績を残そうとも、この国の頂点にいるのは王であり、言葉こそ願いではあるが、それは勅命にも等しい効力を持つ物だからだ。

 今でこそ、民衆は慶事に酔い、新王の誕生に沸いているが、冷静になれば、若年の王へ不安を持つ者も出て来るだろう。だが、その横に寄り添う者が、賢者サラであれば話が変わって来る。勇者ロトの称号を賜った青年と共に長い旅路を駆け、ルビスを封じ込めたバラモスを討ち果たし、大魔王ゾーマをも討ち果たした一員が王妃となるのだ。

 身に宿した魔法という神秘は、この世界の誰よりも多く、多くの災いから国民を救う術を持っている。それは、新たな旅立ちとなったラダトーム国にとっても、ラダトーム王家にとっても、喉から手が出る程の人材であろう。

 

「わ、私ですか!?」

 

「はい。あの夜、サラ殿とお話した未来が忘れられません。人も、魔物も、動物達も、この世界で生きる全ての者達が等しくルビス様の子であり、皆が幸せに生き、天寿を全うする世界。そのような世界を共に護って行きたい。私はそう願っています」

 

 少し離れた場所で進むそのやり取りを見ながら、リーシャはいつしかカミュが口にした言葉を不意に思い出す。あれは、確か、サラが最初の壁にぶつかった、ダーマ神殿へ向かう途中の事だった。

 カンダタとの再戦を経て、信じていた教えが揺らぎ、自分自身を迷い始めた彼女は、棲み処を荒らされて怒り狂ったキラーエイプという魔物にカミュが付けた傷を癒してしまう。魔物憎しで突き進んでいた彼女は、『魔物=悪』という構図こそがルビス教の教えと信じ込んでおり、その魔物を癒した自分は、精霊ルビスを裏切ってしまったと塞ぎ込んだ。

 魔物もまた、世界で生きる種族の一つであり、その命の重さも同じ。全てを救う事など出来はせず、人を救うのならば魔物が邪魔になり、魔物を救うならば人が邪魔になる。そんな相反する現実に迷い、悩む彼女に向けて語ったカミュの言葉。

 『それこそ、アンタが魔王を倒した後に『王族』にでもなり、魔物と人の住み分けでもすれば、話は別だろうがな』

 このような時に、このような場所で、あの言葉が現実になろうとは。リーシャは、感慨深い想いを持たずにはいられなかった。

 

「わ、私のような者にこのような大きな大陸を統べる国の王妃が務まるとは思えません」

 

 暫し、呆然としていたサラの口から出た言葉に、周囲の人間が騒然とする。一国の王が懇願に近い言葉を発して、后へと願ったにも拘らず、断りに近い言葉を口にしたのだ。

 如何に大魔王ゾーマを討ち果たし、アレフガルドに光を取り戻した一員とはいえ、国民感情としては許せない行為に等しい。だが、一度目を瞑ったサラが、再び瞼を上げ、口を開いた時に、再び謁見の間が静寂に支配された。

 

「ですが……、それでも、国王様がお望みであれば、私に出来得る限りの力を尽くし、国王様をお支えする努力を続けます。この力、この命、全てをこのアレフガルドの為に」

 

「おお……」

 

 差し出されたラルス二世の手を取り、自身の胸へと導いたサラは、決意に満ちた瞳を向ける。そして、堰を切ったように場が沸き立った。

 おそらく、ここまでの慶事の中で最も国民が湧いた瞬間かもしれない。サラの手を取り、国王となったラルス二世が玉座へと彼女を導いて行く。憧れと羨望の視線が雨のように降り注ぐ中、顔を真っ赤に染めたサラが赤絨毯の上を歩く姿に、リーシャは一つ溜息を吐き出した。

 サラの中でどのような決着がついたのかは解らない。打算や計算が皆無という訳ではないだろう。だが、あの愚直で真面目な元僧侶は、メルエと同様に周囲からの好意を知らずに育った。異性からの好意など受けた事はないだろうし、自身が誰かに好意を持った事もないだろう。

 七年近くも共に旅をした唯一の男性であるカミュに対しても、信頼という絆は持っていても、そこに恋愛感情という物は皆無であった。それは、同じ女性であるリーシャだからこそ解る事なのかもしれない。

 

「これで、サラとはお別れだな」

 

「…………むぅ…………」

 

 先程まで果実汁を飲んでいたメルエも、場の雰囲気を察し、いつの間にか一連のやり取りを見つめていた。それに気付いたリーシャはそんな彼女の頭に手を乗せ、悲しい事実を口にする。姉のように慕い、一番心を許し、最も我儘をぶつけて来た相手との別れは、容易に受け入れる事の出来ない物であり、不満そうに頬を膨らませ、少女は唸り声を上げた。

 寂しい笑みを浮かべたリーシャは再びサラへと視線を戻す。一段上にある玉座へと辿り着いたラルス二世は、先程まで父親が座っていた国王の座る玉座へとゆっくりと腰掛け、少し前まで自分が座っていた場所に座るようにサラを促していた。

 顔を真っ赤に赤らめながらも、真っ直ぐに視線を向け、サラが座った瞬間、再びアレフガルド交響楽団が一斉に楽器を奏で出す。物語のフィナーレに相応しいその曲に合わせ、謁見の間に居た者達が一人、また一人と踊り始めた。

 新たな王の誕生と、王妃の誕生を祝う歓喜が周囲を満たし、それは外にある特設会場にも届いて行く。王と王妃の誕生は外にいる国民にも伝わり、先程以上の歓声が城内へと届く中、宴は加速して行った。

 

「ん? どうした、メルエ?」

 

「…………カミュ………いない…………」

 

 大きな喜びと若干の寂しさを宿した瞳でサラを見つめていたリーシャは、先程まで不満そうにサラを見つめていた筈のメルエが、きょろきょろと周囲を見渡している事に気付き、声を掛ける。そんなリーシャの問いかけに、少女は不安そうに眉を下げ、最大の保護者の不在を告げた。

 その言葉を聞いて初めて、リーシャも主役である筈のカミュがこの会場の何処にもいない事に気付く。宴が始まった時は、確かに謁見の間の中央に居た筈の彼の姿は何処にもなく、考えれば、ラルス元国王が譲位を宣言した辺りから、その姿を見失っていた事を理解した。

 不安そうに見上げるメルエの頭にもう一度手を乗せたリーシャは椅子から立ち上がり、メルエを椅子から降ろして、その小さな手を握る。

 

「カミュの所へ行こうか」

 

「…………ん…………」

 

 沸き立つ会場の主役は既に入れ替わっており、大魔王を打倒した一行の行動に意識を向ける者はいない。人も疎らになった謁見の間の壁沿いを歩き、扉の前まで来たリーシャは、ゆっくりと振り向いた。

 多くの者達から喝采を浴びて照れくさそうに微笑むサラの姿は、アリアハンという小さな島国を出た頃の少女と変わらない。あれから七年、様々な苦難と葛藤を越え、怒り、笑い、泣き、苦しみ、迷い、彼女はあの場所へ座ったのだ。

 

「……サラ、後は頼むぞ」

 

 その呟きを最後に、人類最高位の戦士と、人類史上最上の魔法使いの姿は、ラダトーム王都の謁見の間から消えて行った。

 

 

 

 

 

 ラダトーム王城の奥にある客室の廊下をゆっくりと二人は歩く。最早、遠くに聞こえる交響楽団の奏でる曲が、夢と現実を隔てる境目のように感じた。

 誰も居ない廊下に響く二つの足音は、客室の最奥にある他よりも大きな部屋の前で止まる。扉には木目細かな彫刻が彫られており、ドアノブの金属は輝かんばかりに磨かれていた。

 未だに眉を下げたままリーシャを見上げるメルエの手をしっかりと握り、彼女はそのドアを力強くノックした。

 

「……開いている」

 

 リーシャでさえも、中から返事が返って来るとは思っていなかった。まだ、この場所に彼が居るという事は確信していても、中へ入る許可までも得る事が出来るとは考えていなかったのだ。

 中から聞こえた声にメルエの顔は輝き、早く開けてくれと言わんばかりにリーシャの裾を引っ張る。女性らしくドレスで着飾っていた筈のリーシャは、既に旅をしていた頃の服装に着替えており、傍らには荷物らしき物も持っていた。メルエもまた衣服は着替え終えており、その背には大事な杖が括られている。リーシャの背にもまた、あの斧が括られていた。

 

「やはり、旅立つのか?」

 

「ああ、大魔王が倒れた今、俺は邪魔になるだけだ」

 

 扉を開けるとすぐにメルエが中へと飛び込んで行き、中にいた青年の腰へとしがみ付く。そんな少女の行動に笑みを浮かべたリーシャであったが、予想通りの光景に溜息を吐き出した。

 リーシャの方へ顔を動かした勇者ロトの称号を持つ青年は、既に旅支度の大半を終えている。鎧などは一切身に着けず、軽装に近い衣服ではあるが、今の彼の力があれば、その程度の装備でも大陸を渡り歩く事は可能であろう。そんな青年の口から出た言葉もまた、自分の予想通りの物であった事にリーシャは軽く眉を顰めた。

 大魔王ゾーマが倒れた今、この世界を脅かす力を有する者はいない。この目の前で自分の腰にしがみ付く少女へ笑みを向ける青年以外は。

 世界を脅かした大魔王ゾーマさえも打倒する力を持つ人間。勇者ロトとして讃えられている内は良いが、その力を恐れる者も必ず出て来るだろう。国が安定すれば安定する程に、その力への恐怖は増して行く筈だ。それは、あの聖なる祠で出会った肉体無き魂が物語っていた。

 

「……サラが王妃になったぞ」

 

「そうか」

 

 リーシャのその言葉は、唯一の希望。サラが王妃である内は、決してカミュを害そうなどとはしないだろう。彼女であれば、カミュが歩んで来た道を知っているし、何よりもカミュという青年の恐ろしさを誰よりも知っているからだ。

 だが、そんな最後の頼みの綱は、素っ気無い返答によって斬って捨てられる。何やら不穏な空気が広がっている事に気付いたメルエは、不思議そうにカミュとリーシャを見上げ、眉を下げた。

 

「あの時、アレフガルドの空が開けた時、何処からか何かが閉じた音が聞こえた。あれは、上の世界との繋がりが絶たれたという事なのだろう? お前は何処へ行こうというんだ?」

 

「さあな」

 

 勇者の洞窟を出て、闇に染まったアレフガルドに再び光が戻った瞬間、ここに居る誰もがその音を聞いていた。それでも、あの感動的な光景と、美しい世界の在り方を見て、その音に気付かない振りをして来たのだ。

 それでも、あの時に確かに聞こえた何かが閉じられたような音。それは、大魔王ゾーマが残した爪痕によって生じた世界と世界の不安定な繋がりが途絶えた事を示している事は、心の何処かで理解していた。

 勇者の洞窟の最下層とゾーマ城の最下層が繋がっていた事がその証明となるのかもしれない。

 

「言いたくはないが……お前は、『勇者ロト』だぞ」

 

「そうみたいだな」

 

 本当に口に出したくはなかったのだろう。苦しそうに歪むリーシャの表情に、カミュは苦笑を浮かべて頷きを返した。

 勇者ロトという称号は、このアレフガルドでは重い。だが、目の前の青年にとって、その称号に何の拘束力もない事は、それを苦しそうに口にする女性にも十分に解っている。それでも、彼女は言わねばならなかった。

 この場で自分が嫌われようとも、周囲の人間達と同じだと思われようとも、彼女はそれを口にするしかない。何かを感じたメルエが、その手を暖かく握った事を契機に、リーシャは重い口を開いた。

 

「ゾーマの最後の言葉を聞いただろう? 闇はいつか再び生まれて来る。お前は『勇者ロト』として、その血を後世に残していかなければならない。オルテガ様の息子として、多くの苦しみを味わったのにも拘わらず、お前はその称号を護り続けなければならないんだ。勝手に何処かへ行く事も許されないんだぞ」

 

 悔しさに顔を歪ませ、それを語ったリーシャの瞳に涙が輝く。自由を誰よりも望み、それを勝ち取る為に歩み、そして成し遂げた若者に待っていたのは、以前よりも強い拘束の未来であった。

 それが何よりも悲しい。だが、この先の未来で、再び世界が闇に閉ざされるような事があれば、『勇者ロト』という名は、強い力となるだろう。故にこそ、彼はその名と共に己の遺伝子を残し、後世に伝えて行く義務があるのだ。

 本人が望む望まないではなく、それは人の意思であり、世界の意思となる。彼に残る自由など、始めからなかったに等しかった。

 だが、悔しそうに俯くリーシャの前にいる青年から返って来た言葉は、予想の遥か斜め上の物となる。

 

「ならば、アンタが俺の子を産んでくれるのか?」

 

「は?」

 

 何を言われたのか、理解出来ない。今し方に聞いた一言一句を正確に思い出し、反芻するように頭の中で唱えた。それでも理解が追いつかず、その回数は数回に及び、徐々に理解して来ると共に、彼女の顔は真っ赤に染まって行く。

 口を開くが言葉は出て来ず、真っ赤に染まった頬は熱い程に熱を持つ。そんなリーシャの顔が面白かったのか、足元でメルエの笑い声が聞こえた時、ようやく彼女は理性を取り戻し、目の前の青年の顔を見た。

 そして、そこで初めて、この一連のやり取りが『からかい』である事に気付く。顔を真っ赤に染めたまま俯いた彼女の肩は小刻みに震え、怒りに堪えているように見えた。しかし、続く罵倒の言葉を予想していた者は、虚を突かれる事となるのだ。

 

「幾らでも産んでやる! 二人でも三人でも、私がお前の子を産んでやる! その代わり、お前が行く所には何処へでも私を連れて行け! 私を置いて何処かへ行けると思うな!」

 

 今度は、カミュが言葉を失う番となる。顔を真っ赤にして、それでも彼の目を真っ直ぐに見つめたリーシャが言い放った言葉は、七年という長い旅路を共にしたカミュであっても、容易に理解出来る物ではなかった。

 それが、『売り言葉に買い言葉』のような軽い宣言でない事ぐらいは、カミュにも理解出来る。彼女の瞳も、言い切った後の表情も、彼女が真剣に考え、その上で尚、カミュという一人の青年と共に生きる事を誓ったのだ。

 そこまで理解が及んだ時、カミュは一つ息を吐き出す。もう一度息を吸い込んだ彼の表情は真剣でありながらも優しい笑みを浮かべていた。

 

「よろしく頼む」

 

 頭を真っ直ぐ下げたカミュを見て、リーシャが固まった。

 カミュにとっては『からかい』の一部であるかもしれないという恐れもある中で、彼女は自分の気持ちを吐露している。だが、実際にその言葉を真っ直ぐに受け止められ、そしてそれを了承されてしまうと、一気に沸き上がってくる羞恥心で全身が更に燃え上がるように熱くなって行った。

 足元では、常に『好き』と『嫌い』という二つの感情を口にして来た少女が、にこやかな笑みを浮かべている。不穏な空気が一掃され、何処か暖かく、優しく、それでいて楽しげな空気に彼女の心は晴れ渡っていたのだ。

 

「…………メルエも…………」

 

 故にこそ、彼女も高らかに宣言するのだ。

 『絶対に自分も付いて行くのだ』と。

 言葉の少ない彼女を理解出来る人間は数少ない。この発言でさえも、『自分もカミュの子を産む』と言っているという解釈をする人間もいるであろう。だが、この場にいるのは、彼女を大事に思い、彼女を理解する二人である。顔を赤く染めたまま、リーシャは足元から笑顔で見上げるメルエを見て、小さく溜息を吐き出した。

 

「メルエ……ここは少し遠慮をするところだぞ?」

 

「…………むぅ……メルエも………いく…………」

 

 七年の旅の中で初めて訪れた甘い時間も、少女の一言によって即座に霧散した事に少し残念そうなリーシャは、苦笑を浮かべながらメルエに言葉を漏らすが、笑顔から一変、膨れ顔になった少女は、頑固に自分の主張を宣言する。それにはもう、カミュもリーシャも笑うしかなかった。

 リーシャが駄目ならと、カミュの足元に移動し、『自分も行く』という主張を繰り返す少女の姿は必死であり、冗談でも置いて行こうなどと考えてもいなかった彼等にしてみれば、可愛らしい物である。

 

「メルエはアンタの娘ではなかったのか?」

 

「妹だ!」

 

 故にこそ、このような言葉の応酬の中でも、彼等の顔には笑顔が浮かんでいた。

 常日頃から、リーシャがメルエを娘のように愛している事を知っているカミュだからこその問いであり、それでもメルエの年頃の娘がいる年齢ではないと主張する反論であった。

 二人の笑みを見ても、不安な少女は頬を膨らませ、縋るようにリーシャの腰元へしがみ付く。『絶対に離れない』という意思表示のように顔を埋めたメルエに苦笑を浮かべたリーシャは、その小さな身体を抱き上げ、額を付けた。

 

「そうだな、メルエは私達の妹だからな。だが、私達と一緒に行けば、おそらく二度とサラには会えないぞ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 おそらく、カミュは二度とラダトーム王都へ戻るつもりはないだろう。もしかすると、このアレフガルド大陸からも離れるかもしれない。そうなれば、必然的にラダトーム国の王妃となったサラとは二度と会う事がなくなる。

 サラを誰よりも慕うメルエだからこそ、それはとても哀しい事であり、寂しい事であろう。姉であり、師であり、好敵手であるサラが居たからこそ、メルエのような少女がこの長く苦しい旅を最後まで歩む事が出来たのだ。

 最早、自分の半身となったと言っても過言ではない相手であるからこそ、その別れは身を切るように痛く哀しい。自然と涙が溢れて来るその瞳をリーシャが拭ってやる。それでも、この決断は彼女にさせなければならない。

 サラであれば、メルエの正体を周囲に話す事はないだろうが、竜の因子を受け継いだ彼女は、おそらくサラが死に、サラの子が死ぬ頃になっても生きているだろう。それは、このラダトームにとって、決して良い結果を生まない筈である。それをカミュもリーシャも理解しており、それでもメルエに問いかけていた。

 そして、この少女は、賢者でさえも習得出来ない数多くの呪文を使いこなす聡明な魔法使いである。リーシャの問いかけの中に含まれた何かに気付かない訳はないのだ。

 

「…………ん………メルエも……いく…………」

 

「わかった。カミュ、そこの鎧や盾は良いのか?」

 

「この鎧と盾は元々このアレフガルドの物だ。あの剣であれば別だが、それも今はゾーマと共にあの城の奥深くだ」

 

 メルエの言葉に笑顔で頷いたリーシャは、ベッドの横に綺麗に掛けられた『光の鎧』と『勇者の盾』に視線を送る。鎧は湯浴みの後に脱いでおり、盾もまた同じようにカミュの部屋に置かれていた。

 共に、このアレフガルド大陸に伝わる古の勇者が装備していた物であり、精霊神ルビスや創造神に連なる神代の装備品。この世界に存在しない金属で鍛えられたそれらには、特殊な効果も備えられており、本来であれば手放すべき物ではないのかもしれない。

 だが、それでも彼は置いて行くと言う。元々、自分たちの物ではないと。それにリーシャは苦笑する。欲が無いというよりは、興味がないのだろうと推測出来るその言葉は、最後に漏らした続きに現れていた。

 『光の鎧』や『勇者の盾』と同様、彼が最後に手にしていた『王者の剣』もまた、古の勇者が装備していた武器だと伝えられているが、今生では、マイラの村に辿り着いたジパング出身の鍛冶屋が全霊を込めて打った傑作である。それは、彼等が歩んで来た道の全てを込めたに等しい物であった。もし、あの剣が今もこの場にあったのならば、それだけは手放さなかったかもしれない。それだけ、彼にとっても特別な剣であったのだろう。

 

「すぐに出るのか?」

 

「ああ」

 

 既に旅支度を整えていた為、直ぐにでも出発は出来る。既に陽は落ち、暗闇が支配する夜になってはいるが、アレフガルドに朝が戻ったのも最近の話であり、彼等にとっては夜の行軍など日常茶飯事であるのだ。

 最早振り向く事なく部屋を出て行くカミュに続き、リーシャも荷物を持って部屋を出て行く。最後に残ったメルエだけは、部屋に備えられた小さなテーブルの前に残り、自分のポシェットから何かを取り出した。

 取り出した物を、まるで願いを込めるように、暫く瞳を閉じたまま両手で包み込む。ゆっくりとした時間が過ぎ、その手の中にある物が淡い輝きを放ち始めた頃、メルエは瞼を開いた。

 

「メルエ、置いて行くぞ!」

 

「…………だめ…………」

 

 テーブルの上にそれを置いたメルエが花咲くような笑みを浮かべた時、開け放たれていた扉の向こうから、その笑みを消してしまう声が掛かる。慌てたように、ポシェットから取り出した物をもう一つ置いたメルエは、そのまま部屋の外へと飛び出して行った。

 そして、主の消えた部屋の扉がゆっくりと閉じて行く。扉が閉じた音が廊下に響き渡り、再び静寂が戻った客間へ繋がる廊下に、遠くから楽団の奏でる曲が届いていた。

 

 

 

 

 

 

「王太子様……失礼しました、国王様、王妃様、お伝えしたき事が……」

 

 未だに宴が続いていた謁見の間に、一人の兵士が飛び込んで来たのは、サラが王妃の玉座に座ってからかなりの時間が経過した頃であった。

 呼称を誤った兵士が頭を下げ、ラルス二世とサラの前に跪いて息を整えた後に発した言葉は、謁見の間にいる全ての人間の音を奪う程の物となる。

 

「勇者ロト様、戦士リーシャ殿、魔法使いメルエ殿、お三方の姿がありませぬ。部屋には、着替えた衣服のみが残り……」

 

 アレフガルド交響楽団でさえも演奏を中止してしまう程の報告に、周囲の人間がざわめき始める。そして、その報告を聞き終えぬ内に、サラは玉座から立ち上がり、慣れぬドレスの裾を持ち上げて、客室のある方へ駆け出して行った。

 鬼気迫る表情を浮かべたサラの行動に、呆気に取られていた兵士達が、我に返ってすぐに後を追って駆け出す。国王となったばかりのラルス二世も、現状を把握し、慌ててその後を追った。

 騒然となった謁見の間の宴は中断され、皆が皆、不安そうに国王と王妃の背中が消えて行った方へ視線を送っている。如何に大魔王が討ち果たされ、アレフガルドに光が戻ったとはいえ、民衆の心の安寧は定着していないのだ。

 再び、この夜が明けず、闇に閉ざされたままとなってしまっていたらという不安。そして、アレフガルドの救世主であり、ロトの称号を授かった勇者がラダトームを去り、アレフガルドを去ってしまっていたらという不安が、更にその危機感を煽っていた。

 

「リーシャさん!」

 

 初めに、自分達に与えられていた女性部屋に突入したサラは、自分が慕う姉のような女性戦士の名を叫ぶ。しかし、その場所に残されていたのは、自分の衣服のみ。リーシャが纏っていた鎧も武器も、メルエの身に付けていた衣服も杖も消え去っていた。

 暫し呆然とその光景を眺めていたサラの頭に、アリアハン大陸にあるレーベの村での記憶が甦る。あの時感じた恐怖は、今も尚、彼女の胸に残っていた。『置いて行かれた』という諦めと恐怖。それは、この苦しく長い旅路の序盤で常に彼女が戦っていた物であったのだ。

 顔色を失ったサラは、周囲の兵士の声や、夫となるラルス二世の声にも反応を示さず、まるで幽鬼のように廊下へ出て、そのままゆっくりとカミュに与えられていた客室の前に移動する。

 そして、震える手で握ったノブが抵抗無く回った事に身を震わせ、そのままドアノブから手を離してしまった。ゆっくりと開いて行く扉の先にある部屋の景色。それが徐々にサラの瞳の中へ入って行く。そして、彼女は息を飲んだ。

 

「鎧と盾が残っているという事は、ロト様はこの城の何処かにいるという事ですか?」

 

「……いえ、もうこの城の何処にもいないという事です」

 

 明かりが消され、闇に包まれた部屋の中で、窓から差し込む月明かりに、『光の鎧』と『勇者の盾』に描かれたラーミアを模した象徴画が輝きを放っている。その姿を見たラルス二世がサラへと問いかけるが、震える手を胸に抱いたサラは、身体と共に震える声で返答を返した。

 鎧と盾以外に、何も残されておらず、カミュが宴で着用していた礼装は綺麗に畳まれ、ベッドの上に置かれている。それ以外は何もない。窓から差し込む月明かりが、主の居ない部屋を冷え冷えと見せていた。

 

「……これは」

 

 そんな中、サラはベッドの脇に置かれた小さなテーブルの上に、月明かりに輝く何かを見つける。誘われるように進み出た彼女は、それを見て、文字通り言葉を失った。

 不安に駆られながらもサラの後方へ移動したラルス二世は、後ろから覗き込み、月明かりに輝くそれを見て首を傾げる。それは、七年にも及ぶ長い月日を共に旅した人間にしか理解出来ない物であり、共に旅した者であれば、その希少性もその価値も、そしてそれに込められた願いも想いも理解出来る物であった。

 淡い青色に輝く石の欠片。今や勇者ロトとなった青年に訪れた死の危機の身代わりとなって砕け散った『命の石』の欠片である。ここまでの旅路で、その欠片を拾い集めていたメルエが、己が大事に想う者達へと手渡して来た想いの結晶でもあった。

 テーブルの上に残され、月明かりに輝くそれは、サラが見て来た欠片の中でも一際大きな物。両手を合わせて包み込まなければならない程の大きさがあり、その輝きも美しく強い。震える手でそれを拾い上げたサラは、ゆっくりと胸の前で両手をあわせて包み込み、大粒の涙を溢し始めた。

 

『託された』

 

 サラの胸にはその言葉しか思い浮かばない。このアレフガルド大陸のみならず、この世界で生きる全ての生命の未来を、彼等三人から自分は託されたのだと。

 メルエがその欠片を手渡す最大の理由は、『自分が護る事の出来ない、自分の大切な者達を護って貰う為』という物。彼女の中に自覚があるか解らないが、それでも彼女の中で二度と会えない者達へという何処か確信めいた物があるのかもしれない。

 それが意味する事は、サラの今生では、あの三人に会う事はないという物。『人』と『魔物』だけではなく、あらゆる種族の住み分け、そしてどんな種族であっても天寿を全う出来る世界の樹立という夢の実現を、救世主である勇者ロトとその仲間達に、今ここで彼女は託されたのだ。

 

「まだ、それ程遠くまでは行かれていないでしょう。人を出して探させましょう」

 

「……いえ。カミュ様とメルエがいる以上、もう、私でもあの三人を探し出す事は出来ません。おそらくは、もう二度とこのラダトームへ戻る事はないでしょう」

 

 後方に控えていた兵士の一人が、勇者ロト捜索隊の出立を願い出るが、それはゆっくりと首を振るサラに制される。その瞳から溢れる涙は止まらず、月明かりに輝きながら床へと落ちてはいるが、その表情は晴れやかな笑み。そしてその瞳に宿る光は、決意という強さを持っていた。

 勇者ロトの失踪。それはラダトーム王家最大の失点でありながらも、唯一残った勇者一行の一人である賢者は、王妃としての顔となり、にこやかに微笑んでいる。それが、ラルス二世と後方に控える兵士の心の余裕となった。

 

「ふふふ。メルエもようやく、金の髪飾りを着ける気持ちになったのですね」

 

 伝う涙を拭う事なく、サラはテーブルの上に残ったもう一つの物を手に取る。それは、銀色に輝く髪飾りであり、ガルナの塔にあった古の賢者の部屋に残されていた物であった。

 それは、メルエの祖母の物であったのか、それともメルエの母の物であったのかは解らない。それでも、彼女のルーツに纏わる物である事は確かであり、賢者を目指す物にとっては憧れの物でもあろう。

 それがこの場に残されているという事は、今のメルエの髪には、金色に輝く髪飾りが着けられている筈だ。それは、彼女の義母となり、彼女を虐待し、最後は奴隷として売り払ったアンジェという女性の形見。決して許す事の出来ないその義母が最後に彼女に託した髪飾りを、あの少女は身に着けているのだろう。

 自身の半身とも言えるサラへ、己の大事な物である『銀の髪飾り』を託し、義母の願いである『幸せになる』為に、彼女は歩き始めたのだ。その少女の花咲く笑みを思い出し、サラは口元を押さえた。

 

「泣いてばかりはいられませんね。国王様の妻として、そしてこのラダトームの王妃として、私も頑張って行かなければ」

 

「共に最後まで歩もう、サラよ」

 

 振り返ったサラの笑みは、この場に居た全ての人間の心に暖かな炎を点す。涙を流しながらも月夜に輝く笑みの美しさは、皆を魅了し、心酔させた。

 妻となる美しき女性の肩を抱いたラルス二世は、そんな彼女を『賢者』とも『サラ殿』とも呼ばず、愛すべき伴侶として呼び掛ける。その言葉に静かに頷いた彼女は、兵士達と共に、客間を後にした。

 再び動き出した扉が、七年にも及ぶ彼等の旅路の終わりを告げるように、音を立てて閉じられる。闇と静寂が戻った部屋には、窓から差し込む月明かりに輝く鎧と盾が静かに佇んでいた。

 

 

 

 

 

 

 斯くして、ロトの称号を授かったカミュは、アレフガルドの勇者となる。

 だが、ラダトーム帰還後の勇者カミュとその仲間達の姿を見た者は誰も居ない。

 彼が去った後の部屋に残されていた『光の鎧』は彼を讃えて『ロトの鎧』となり、『勇者の盾』は『ロトの盾』となる。大魔王ゾーマと共に地中深くに落ちて行った『王者の剣』は、『ロトの剣』として語り継がれ、鎧と共に残されていたルビスの愛の証である『聖なる護り』は、精霊神ルビスに愛されたロトを示す物として『ロトの印』とされ、後世へと語り継がれる事となった。

 ラダトーム国王であるラルス二世の妻となった賢者に託された淡い青色に輝く石の欠片は、ラダトーム王家に想いと共に受け継がれる。それを託した少女の想い、それを受け取った王妃の想い、そしてそれに続く数多くの者達の想いは重なり、その欠片の持つ輝きは増して行った。『大事な者へ』、『愛する者へ』という想いは、いずれ、愛の証となったその欠片を持つ者へと届くようになったと云う。

 

 

 そして、伝説が始まった

 

 

 

 




この長い物語を、最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。

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