生物海洋学者にして、有人潜水艇操縦士と潜水士を兼ねる女性研究者──山崎實里。
まだ研究分野における女性地位が確立されぬ母国を齢18で離れ、独学の英語と豊富な知識だけを武器にアメリカ・シアトルへ渡る。海洋生命と海洋科学研究にさらにのめり込み、“パブリック・アイビー”の一つに数えられる州立大学を学科首席で卒業。それと同時にニューヨーク州に拠点を移し、ブルックリン大学校大学院に進学。以後海洋開発技術研究所に引き抜かれるまでの数年間を、生物海洋学博士として過ごす。その間はパートタイムでも食い扶持を繋ぎながら、狂気的なまでに研究活動に没頭し、数々の研究成果を挙げてきた。
「君の研究に対する執着は異常でしかない。」「その原動力は一体なんなんだ?」
周りの世界にあふれる色恋にも娯楽にも目もくれず、四六時中研究室にこもっている彼女を憂いた眼差しで見る周囲の者たち。彼らからはこんな質問を何度も投げかけられてきた。そのたびに彼女は若々しい微笑みを浮かべて、淡々とこう返すのであった。
研究者には
クリスマスも近づいた12月。そんなふたりの姿は、見事に氷結した広大なハドソン湾にあった。海氷の地球生物的な特性と海洋生態系との関わりを再調査するための簡単な実地調査だが、環境は晴天でも気温がマイナス20度程度まで落ちる過酷な環境だった。
「しかし、この景色は本当に見事ですね。先生。」
眉毛と長い睫毛を自らの吐息で凍てつかせながら、彼女は冷たく刺す風に狼狽えることもなく、ただただ久々に感じた“感嘆”に浸っていた。眼前に広がるのは真っ白な地面と霞すらない透き通った青空だけだ。
「ヤマサキ君はハドソン湾のフィールド・ワークは初めてかね。」
「あぁ…いえ、これで冬季の調査は3回目になります。でもこの壮大な景色は何回目にしても、自分がこの場所に在る実感がわきません。それほどに素晴らしく感じるんです。」
山崎は氷の平野に吹く風にその髪を揺らしながら、背後で別サンプルの採取を進める恩師に振り返った。瞳を輝かせたその若々しい姿は、差えぐるもののない太陽の日差しより眩しかった。
「…そうか、それはきっとヤマサキ君がまだこの場所を“知らない”からではないかな。」
「この場所を“知らない”、ですか…。面白いことを言いますね、ドクター。」
ふむ、と一呼吸を添えると、博士は上品に伸ばした顎髭をなぞるように手を当てて、また何か一つを教えたがっている仕草を見せる。察しの付いた山崎はすぐに尋ねた。
「ヤマサキ君、君にとって“知る”ということは何かね。」
「“知ること”……哲学には疎いのですが…古代ギリシアのソクラテスは“知ること”を、自らが無知であることを知ってから始まる、と提唱しました。人類は…いえ、多くの“思考能力”を有する生物は、自らを豊かにするために、大切なものを護り抜くため、そのための知識を欲した。そして試行錯誤の経験と時間とを引き換えに、知識とその先にある文明・技術を多く獲得してきました。」
「──つまるところ、“知る”ということは一種の“欲求”だと私は考えています。言い換えれば“知欲”。それが多方面に及んだからこそ、人類はあらゆる生物よりも抜きん出て、数千年という長い時を重ねながらもこれほどにまで高度な技術と文明を確立できた。」
山崎は調査の手をいったん休め、果てしなく続く青空と氷結の大地の水平線を見つめながら淡々と答えた。地方公務員の父と水産工場勤めの母を持つ、至って平凡な家庭に生まれ育った彼女。ここまで研究者として自身を確立できたのは、両親のためでも何かを護るためでも何でもない。ただただこの大地のように果てしない探求心が生み出した代物だった。触れてはいけないような、もしくは誰にも触れられていないような、そんな『世界の秘密』を見つけるような感覚が、彼女はとても好きだった、そしてそれこそが彼女を動かす原動力となっていた。
「“知とは欲求”か。君はやはり面白い研究者だな。」
「ドクターほどじゃないですよ。どれだけ知ろうとしても、あなたが何を考えているのかだけはこれっぽっちもわからなないままなんですから。」
山崎は恩師へ振り返ったまま、ポケットに突っ込んでいた両手で手のひらを拡げ、明後日の方向を向いていた。加齢でしわの乗った、仙人のような恩師の顔が微笑みに柔らいだのを見て、山崎はきれいに揃った歯を立ててニマリと笑った。
「この先、君がこの分野の“知”を極めていくうちに、“知りたくない事実”を知ったり、知ることを大きく後悔してしまう日が来るだろう。……だが君は、決してその足を止めてはならないぞ。」
“恩師”はそう告げると、元の厳しい表情で山崎の瞳を見つめてこう訴えかけた。“恩師”は1911年生まれ。科学技術が夢のように人々を豊かにし、それと同時に二度の戦争で科学技術が世界を混沌に陥れた、そんな激動の時代を生き抜いてきた。彼自身は決して学会において著名な研究家とはお世辞にも言えなかったが、アメリカという大国の研究者としてその激動を目撃してきた。
「1938年12月。人類は初めて核分裂をその目で目撃した。その時の研究者たちはそれはもう感動しただろう。私もそのうちの一人だったのだから。だが、その事の顛末は、唯一
帝国日本が連合国に無条件降伏・第二次世界大戦が終結に導かれた年、“恩師”は27歳だった。若かりし日の彼は、終わりに差し掛かる太平洋戦線での原子爆弾使用に全面支持の立場だった。自らも大戦終結の道筋として、大戦中は“新型生物兵器”の開発研究に躍起していた。
「──なぜならば、“知る”その先にある自分たちの破滅を、それぞれの目が映してしまうからだ。研究者として失格だが、現に私もそのうちの一人だった。」
戦争終結から2年後、彼は生物学者として
「ゆえに“知る”ということは、その事実を現実の自分のものとして引き受ける…『自分の問題』として認めることだ。そして時にそれは、自らの身を滅ぼすことにも繋がるのだ。」
しっかりと開いた眼で遠くを眺めるその瞳は、確かにその惨状たる記録を見つめてきた目だ。そしてその口から零れた彼女に対しての“教え”は、彼自身の広島の地における実体験そのものだった。終戦から2年も経たないうちに、半世紀は草木も生えぬと云われた広島市は奇跡の復興劇を遂げてゆく。彼が来日した時には、すでにあの
「……失礼。また昔の話を……。老いぼれの悪い癖だな。」
静かに目をつむり、一つ呼吸をおいて恩師は首を横に振った。厚手で白地の南極仕様のダウンジャケットのポケットに手を突っ込んで、彼はしばしの間に黙り込んだ。
「──私たちが立つ薄皮一枚の氷河の下には、摂氏マイナス1度の汽水に満ちている。その環境はほとんどの生物の生存を許さない。だからこそ我々はこの場所で、これだけ羊の如く厚着をしてもなおうっすらと“寒い”と感じる。」
彼はしっかりと直立していた足をしゃがめ、足元に広がる氷結した湾の表面をなぞる。
「それは足元直下に自身の『死』そのものがあることを“知っている”からなのだ。それこそが、人が人で在り続けることの理由付けとなる。」
湾水の氷結したその“氷の膜”の下には、無限大に広く美しい海が広がる。知識のない人間からしてみればそれはただの美しい海と、涼しげな海中世界としか感じないだろう。だがこの場所にいる二人ならとっくに知っている。この足元に亀裂でも入って落ちてしまえば、生命を維持できるのはわずか15分から30分。周囲には人の営みも一切ない。それを知っている人間からしてみれば今立つ場所は文字通りの“死の海”だ。……彼が言いたいのはつまりそういうことなのだろう。
「『知る』ことは不可逆だ。一度その現実を知ってしまえば、戻りたくても戻ることはできない。この場所で感じる“寒さ”は、どれだけ厚着をしても改善はできない。その意味では『知性』と『理解』は決してイコールで結ばれてなどいない。『知性』とは、物事の理解する能力ではなく、“知ることに耐えることができるか”ということだ。そして『知る』ということは、自らが耐えられるかどうかすらわからない冷酷な現実を、あるのまま自分事として受け入れることなのだよ。」
だが、本質はそんなに単純なものではない。自らが“死の海”に立っているのは、その“死の海”に落ちる危険性を孕んでいることを知ってもなお、その目前の“死”を知ってもなお、研究活動という目的の達成のために耐え続ける──その事実こそが彼の“認知論”にとって重要だった。
「では、先生にとっての『理解』とは?」
「…視覚的に“見る”のではなく、その現実を見つめ、受け入れ、認め、それでもなお“知るため”の足を止めないでいることだ。そしてそれは決して容易いものなどではない。」
我が事のように頷きながら恩師の言葉を聞き入っていた山崎が、ついに質問の口火を切る。そのまっすぐで一切の悪意のない山崎の瞳に、心を動かされたように恩師は続けた。
「先生は“知ること”がただただ残酷なことであると?」
「そうだ。だが我々研究者は、それでも知ることを醍醐味とし、そして美しい宝石としての憧れを抱く。それこそ我々が研究者たる所以だからだ。だからこそ、過去の私のように知った現実から想像力の目を背けてはならない。それは、研究者にとってはこれ以上にない敗北だからだ。」
「“知ること”で得る事実は過去の蓄積だ。故に重大で残酷なものでも変えることはできない。ただ、将来起こりえる“事実”を悟り、それを全力で回避することはできる。」
「──ヤマサキ、君はこの世界において特別だ。冷酷な事実に飲み込まれずに立ち向かい続け、君は命尽きるまで君らしく、強くまっすぐな研究者でありなさい…。」
こんなやり取りを交わしたこの日の実地調査が、“恩師”との最後の研究調査となった。膵癌に倒れそのまま息を引き取ったという報せを研究仲間から受け取ったのは、山崎が日本に帰国してからのことだった。かれはこれが自分の最後の調査になることを、そしてその若い同行者が最後の弟であることを既に悟っていたのだろう。彼は多くを山崎に残した。そしてそれは、今日までの生物海洋学者──山崎 實里を形作るに至った。
* * *
千葉・成田の新東京国際空港を離陸して、ジャンボ機は西方を目指した。
超満員となった機内のビジネスクラスには、目を瞑って沈黙を貫くおそらくは寝ている背広姿の男が1人、そして通路を挟んだ窓側2列にブラウンキャメルのスーツに身を包んだ女性と、ビジネス席に相応しいとは言えないフライトジャケットを肩に引っ掛けた女性が着席している。機内に轟くエンジン音とギャレーのカラトリーが小刻みに震える音をバック・ミュージックに、機窓の眼下には経済成長に燃えた帝都東京の姿が映った。機はおそらく羽田か川崎の上空あたりを飛んでいるのだろう。進行左手の景色には、きっともう引き払った横須賀の街を眼下に見下ろしているに違いない。数多の“忘れ物”をしてきた彼女──山崎 実里にとって、機内の左手の窓際の席を2人が用意してくれていたのは幸いだった。
「………飛行機は、苦手ですか?ミノリさん。」
「…ううん。」
もう二度と踏むことがないであろう大地を高高度から見下ろすのは複雑な心境だった。眉間にしわを寄せたその表情から、“レイ”と名乗る(背広姿の男曰く 山崎に付ける“お世話係り”ということらしい)彼女はそれを読み取ったのか、相席の山崎に語り掛けた。山崎は肉厚の厚い座席に全身を委ね、遠目に窓の外の景色を眺め抑揚のない返事一つを返した。いろいろな感情が全身を駆け巡る中で、短くともそれがやっとの思いで返せる返事だった。
「そう、ですか…。」
“レイ”は視線を前に戻して、固く寂しげのある声で静かに答えた。細身で小柄な女性からしてみれば、余分なまでに大きな座席に仕切られたようなその場に、気まずい雰囲気だけが漂った。
「…………まぁ、ホームシックってとこよ。忘れ物も思い残しもいっぱいあるし。」
視線を戻した“レイ”の表情をちらりを見て、そのどこか寂しい雰囲気を漂わせる横顔に耐え切れず、思わず山崎は重い口を開いた。たった数日で母国を捨てろというのだから、アメリカでの生活も長かったとはいえ、彼女自身も何も感じていないわけではなかった。
「いきなり住み慣れた土地を手放す結果となったことは、申し訳ないと思っています。」
「いいのよ。私が選んだ選択だし。今の世界に時間がないことは理解しているから。」
君のような天賦の才能と技術を兼ね備えた人間を遊ばせる時間など、今のこの世界にはもうない──。通路を挟んで向かい側に、目を閉じて座っている背広姿の男の言葉が脳裏に蘇る。
「我々へのご理解とご協力、改めて感謝いたします。」
“レイ”はアメリカ人らしからず、座席越しに頭を下げてお辞儀を見せた。山崎のその発言自体は間違いのない事実だ。海洋生物学者として「深海棲艦」についての興味関心は尽きないし、日本国内で独自研究を進めるよりも、研究リソースも環境も整ったアメリカの方が研究も圧倒的に進めやすい。それでいて世界のためになるかもしれない。
「…もう、いいってば……。」
だからといって、山崎自身には公開がないわけではなかった。家族も親族も、久しぶりに思いを寄せた人も、日常生活の全てを投げうってまでこの国を離れた。それも二度と戻れないという最高にして最悪の条件を付けられて。窓の外を眺める彼女の瞳は、今にも零れ落ちてしまいそうな潤いに満ちていた。彼女は相当な覚悟と、途方もない代償を払いその計画に参加したのだった。
深海棲艦の出現で太平洋全域の上空が飛行禁止となった今、ヨーロッパへと渡航するのは容易い技ではない。欧州便の経由地だったアラスカ州アンカレッジが閉鎖された以上、中東諸国経由のいわゆる“南回り欧州線”が、東アジア諸国と欧州諸国をつなぐ唯一の
≪ご案内いたします。ベルトサイン・禁煙サインが消灯いたしました。これより──。≫
大陸に入るまでは深海棲艦からの攻撃の可能性からつきっぱなしだったベルトサインも、大陸上空へと場所を移すとすぐにサインは消灯した。待ちわびたようにアテンダントがギャレーへと飛び込み、間もなく始まる機内サービスの準備に入る。ゆったりとした時の中で徐々に美食の香りが鼻に香る。過剰とも思えるほど丁寧な対応のアテンダントがナプキンが配られる。体裁よく配膳の準備が整う頃には、白銀の皿に乗せられた機内食のサービスが始まった。
「……。」
能面のように冷たく固められたような、それでいて陰鬱に沈み込ませたような山崎の横顔。目の前に引き出されたテーブルに、小洒落たコース料理の前菜とメインコースを並べられた人間が浮かべるような表情ではなかった。
「…体調が優れないのですか?ドクター・ヤマサキ。」
そして、それを彼女に付かせた世話係りが見逃すわけがなかった。“レイ”は爽やかで、そしてどこか昔懐かしさを感じさせるような落ち着いたトーンで優しく尋ねる。
「……いいえ。…なんていうかさ──」
「──ねえ、ちょっとあなた。グリーンランドにアイルランドでも空襲被害だって。ほら。」
なかなかフォークとナイフを持てない心境を少しばかり彼女に吐露しようとしたとき、ふとひとつ前方の2列に腰掛ける夫婦の声が耳に入った。座席の隙間からフランス語の活字が読み取れる。眩く香ばしい機内食に目もくれず、座席に備付けの新聞を読んでいるようだった。
「もうこの世界には『安全』なんて呼べる場所なんてないのかもなあ。」
夫と思しき男性はどこか一抹の不安に揺れるような声調で語る。「ここまで来たのに変なこと言わないで」と釘を刺されるように告げられた男性は続ける。
「でも、あの陸に隔てられた島国で難民になるよりも、人も土地も資源にも恵まれた大陸で難民になる方がよっぽどいいさ。」
「四方の海の全てが絶たれたら何もできなくなる。となれば
この頃になってくると、ある程度の資産と知識と多少の危機管理意識を変え備えた日本人の国外脱出が市民の間ではひそかに行われるようになってきていた。ソヴィエト海軍のカムチャツカ半島の海軍基地が次々と大規模空襲の被害に遭い、紋別市や網走市でも原因不明の山林火災が続発していた。「これまでの兵器も効力はないらしい」「上陸してからその上陸地点に大規模空襲を仕掛けるしかない」──そんな『出所不明で抵抗不能のの国外組織』による『自国への攻撃』という最悪のシナリオが、徐々に平和国家日本に迫りつつある。そんな危機感が平和ボケに埋もれた日本人の間にも共有され始めていた。
「………よかったのかな。これで。…世の中がこんな時に。」
ナプキンから取り出したナイフとフォークを持った、山崎の手はその会話を聞くなり空間に縛られたように止まった。静かに揺れる機体の揺れに、カラトリーとグラスが震える音だけが聞こえた。日中のフライトでありながら夜間飛行のような雰囲気が漂った。
「……これが良かった。というより、これしか残された術は無いんです。ヤマサキさん。」
「でもこれじゃあさ…瀕死の未来を知っていて、自己利益と保身を優先した母国を投げだした売国研究家みたいじゃない。しかも成功の保証なんてどこにもないのに。なにやってんだ私は……。」
悔しそうに唇をかみしめながら、山崎は静かに首を横に振る。“レイ”から見たその横顔には、二度と戻らないであろう祖国を離れる決断をした彼女の、まだ心の奥底に眠る思い悩みを現しているように見えた。
「…いいえ、ヤマサキさんはまったくその逆ですよ。」
「──私たちも仕事柄、内部情報調査には慣れていまして。……残念ですが、元の環境に留まっていたとっしたのなら、あなたにも私にも、日本にもアメリカにも…もしかしたらこの世界には一切の未来はない。気の毒ですが、現時点での情報収集の結果ではそう断言せざるを得ません。」
一呼吸おいて、“レイ”は語りだした。足元に大切そうに仕舞っていた黒いショルダーバックを膝に置き、ダイヤルロック式の書類ケースを胸元に置く。口を動かしながらも解錠した書類ケースの中から、重厚にホチキス止めされたほぼ黒塗りの重要書類が姿を現した。
「今回の事変のほぼすべては我がアメリカ合衆国で引き起こされました。世界で初めて深海棲艦の上陸侵攻を許したのは恥ずべきことですし、数多の犠牲が出たのは百も承知。ですが、彼ら“海上敵性勢力”の情報を多く入手できたのも事実です。アメリカ合衆国は彼らを前に不幸にも多くの“世界初”を経験しました。が、これは我々の大きなアドバンテージともなるのです。」
National Maritime Emergency Response Review──“国家海洋緊急対応再検討報告”と記された連邦議会軍事委員会内で扱われたであろうその資料を、山崎は受け取るや否や釘付けになるようにページをめくり、過半数が黒塗りされたその内容に見入っていた。
「………これは。」
その内容は愛国に衝動的に熱狂しているわけでもなく、至って冷徹に作成されていたようだった。『圧倒的な勢力を前に通常戦力では勝てない』『海そのものが敵となった』『アメリカ海軍創設以降、真珠湾攻撃をも凌ぐ過去最大の屈辱』──…黒塗りにされてない本文や見出し部分には、アメリカ各軍の悔しさと反省の一色がにじみ出ている。それはいわば“敗戦分析”だった。
「今の状況を少しでも解決に近づけるために、我々はどうしてもヤマサキさんの力添えが必要なのです。あなたがもし、今の世界のために自分の持つ能力を最大限生かしたいというのなら、それが実現できるのはアメリカただ一国だと考えています。」
資料を次々にめくってゆく。指先にまで湿気がこもるような感覚がする。おかげで乾燥した飛行機内でもページを進めるのには苦慮しなかった。手汗が山崎の手に滲み出していた。本来見てはならないような資料を、おそらくは300名は載っているであろうこのジャンボ機の中で、私と彼女(おそらくは背広の男も)しか知らない。恐ろしくも好奇心が勝る、、バツの悪いような感覚がした。
「……同盟国…戦略持続性評価…。」
資料は一部と二部に分かれていた。2枚の白紙を挟んで出てきた次のページには、Allied Strategic Sustainability Review──“同盟国戦略持続性評価報告”と大きく記された表題のページが挟まれていた。その下に小さく記された文字は『
その重たいA4サイズの書類の束には、手で受け止める物理的な重さよりもはるかに重く感じるような現実的でいて生々しい内容の数々が盛り込まれていた。資料は今後より世界に拡大しうる『対深海戦争』に対し、“どの同盟諸国が最後まで戦い抜けるか”に焦点を当てた内容だった。そしてその比較は単なる軍事力比較ではなく、産業能力と持続性・女性の労働動員・学術保護・自給自足率、さらには全国民の価値観や傾向・宗教感までもがその比較分析の参考として盛り込まれていた。
JAPAN──Allied Strategic Sustainability Reviewと書かれた小見出しから始まる、日本の『同盟国戦略持続性評価報告』は、各世界地域ごとの総合評価を終えた次のページに載せられていた。手は静かに震えを増し、心臓は何かおぞましいものから逃げ出さんとばかりに高鳴ってゆく。真綿で首を絞められるような思いでサラサラとページをめくった。
Industrial Continuity(産業継続性)が最初の項目として記される。1980年代序盤における日本の技術力を“世界最高峰”と評価しながらも、生活基盤・指揮基盤が沿岸部などに集中していることから、深海勢力による海上封鎖や攻撃を直接的に受ける危険性が極めて高い。なおかつ各分野における自足率の著しい低下を根拠に、原材料などの輸入航路が海上封鎖などで完全に遮断された場合、国家の生産能力は6か月で半分以下・1年後にはほぼ潰滅する……と明確に断言されていた。Political Resilience(政治的継続性)においては、『戦後民主主義体制下において、国家機関の非常時権限行使の国民の抵抗感が根強い』『大規模人的損耗を伴う長期戦争に対し、
そしてその資料の一番最後のページ。一面が黒塗りにされていたなかで、唯一黒塗りで隠されなかった“特記事項欄”。そこにはこう記されていた。
そこに記されていた内容は、端的に表すのならば“大陸から独立した島国がその手足を切り取られ自滅する”、“深海勢力に抵抗しうるだけの脳がない”と、、まさにそういった内容のものだった。
「情け容赦ない……。よくもまあ、こんなひどい言葉を書けたものね。」
自分の胸を切り刻まれるような気分でそれを読んでいた山崎。その辛辣な英文列に目線で読み進めながら、彼女は憤りを露わに言葉を零す。何に怒りの感情が沸いているのかは分からなかった。彼女はエンジン音にかき消されそうなほどか細い声で、静かに言葉を吐き捨てた。
「政治とはそういう世界なんですよ。………でも、少なくともあなたにとってその資料は母国の実態と現実を如実に表しているはずです。」
ここまで判読できる範囲内で読んだ内容が、どこまでが現実でどこからが推測なのか。それを山崎は理解していたつもりだった。というよりもそう解釈せざるを得なかった。自分の身体の奥底にカーテン越しの窓の景色のように見え隠れしているような『現実』は、彼女自身がこの30年近くの人生で幾度も経験したはずなのに、それでも彼女はまだそれを受け入れられないままでいたのかもしれない。
「気の毒ですが…まだこうして“移動の足”が残された段階で、少なくともあなたを日本国外に連れ出せたこと、内心ホッとしています。」
一見すればまっすぐ真面目な淑女の口から出てきたその言葉の列に、山崎は耳を疑った。『故郷を捨てた人間になんてことを言うんだ──』。喪失と自分に対する失望の陰に、そんな憤りの芽が芽生えたような気がして、その感情を誤魔化すように山崎はまだ続く書類のページをめくった。
“
世界の敵は深海棲艦だが、山崎の敵は深海棲艦ではなく、自らが置かれた環境だった。そしてそれは、山崎自身も薄々と気が付いていたはずだった。そして無情にもその事実を山崎に知らせるものが、彼女の手に握られている紙面にあった。
「せ…“戦略級研究資産”……?」
その紙面に題された英字は、モノも富も自由も豊富なアメリカ合衆国という一大国家から見た研究者──“山崎實里”を如実に示しているものだった。リストには顔を合わせたこともある著名な生物学者から、名前すら聞かない研究者の名前までさまざまだったが、最終的に横線を引かれることもなくリストに残っていたのは、言わずもがな山崎の名前だった。
「日本には“猫に小判”ということわざがあるそうですね。意味としては英語圏の“豚の前の真珠(Cast pearls before swine)”に同じ。与えられたモノの価値の分からぬ者に、貴重な何かを与えても一切無駄であるという意味です。」
同じページの特記事項欄には簡潔でいて的確な調査チームのアドバイスが付されていた。『山崎實里博士は日本国において、研究能力を最大限活用される可能性が著しく低い“戦略級研究資産”であると評価される』。生まれ育ったはずの母国は、山崎という女性研究者を活かせず、同時に山崎はこの未曽有の危機から国を救い出す“ラストピース”にはならない。そんな戦力外通告に近しいその文面に、山崎は文字通り全身を打ちひしがれるような、悲しさにも怒りにも似つかわない感情が交錯した。
「──あなたも私も嫌いな『
その一言に、場の空気は再びジャンボジェットの4発のエンジン音にだけ支配される。“レイ”は最後に冷酷な現実を、打ちひしがれたままの山崎に追い打ちをかけるように告げる。眉間にしわを寄せ、涙袋にあふれんばかりの雫を蓄える。書類を持つ山崎の手が激しく揺れる。
「……本当は気付いていたのではないですか?でも、あえて気付かないフリをしていた。……いいえ、出来ることなら、まだ気付いていない自分ままでいたかった。」
山崎自身が立ち上げた海洋研究室が、予算投入の不足で潰れたこと。新たな挑戦への提言を拒む“停滞”を“保守”と履き違えた日本学会。若年層・女性への軽視と年功序列……自らの経験全てが、その惨憺たる現実を容赦なく突き付ける。
「
“レイ”を手先としたアメリカ合衆国という国は、そんな山崎實里という深くに埋もれたレアアースを取り出した。そしてそれを取り扱うだけの技術と資産を兼ね備えた唯一の国家といえた。そしてその自負は彼女らにもあった。『山崎實里博士は日本国において、研究能力を最大限活用される可能性が著しく低い“戦略級研究資産”であると評価される──』。資料文末に添えられたその文字の意味するところはまさしくその事だった。
「
「──環境を変える。そのための勇気と決断が、自分や愛する人々のためになることだってある。そう思いませんか?」
ひとつ前の大柄で肉厚のいい座席と座席の向こう側、食事を召しながら緊張した面持ちで自国を憂慮していた夫婦が見える。先ほどまでは見えていなかったが、妻と思しき婦人の腕の中には、まだ離乳すらできていないであろう赤子が、耳栓の中の世界ですやすやと深い眠りについている。その景色を目にし、胸が締め付けられるような思いだった。命こそある彼らもまた、深海棲艦によって母国を離れざるを得ない『犠牲者』の姿そのものだった。
「…ヤマサキさん。その事実に耐えるため貴女は自分自身に蓋をしていながらも、今日このように我々と行動を共にしていただいている。我々には分からぬ地獄の苦しみでしょう。ヤマサキさんの苦渋の決断に、改めて心からの感謝と敬意を示します。」
見た目から推測できるその若さに合わぬ、巧みな話術の“レイ”は、最後にひとこと締めくくった。彼女の左手は、現実に直面した衝撃と悔しさ、そしてその事実に目を背けてきた事実への恥を露わにスカートを握りしめる、山崎の片手を包んでいた。
客室乗務員から提供された食事を前に、二人はしばらく手を結んで沈黙を続けた。瞑想の代わり…というわけではないだろうが、少し乱れた心情をすこしクールダウンさせ、脳内に飛び込んできた絶望的な情報の数々を整理するには十分な時間はあった。
「…少し話が過ぎましたね。気分は乗らないでしょうが、食べましょう。」
通路を挟んで隣に着席する背広の男が目を覚ますのを横目に察した“レイ”は、ほんの僅かにほほ笑んで山崎のテーブルに置かれた料理に目を配った。そこに先ほどまでの冷たさは感じなかった。相反して目の前に置かれたままの食事は、配膳時の熱気を既に失っていた。
「この世界のためにも、まずは貴女の身体の健康が第一です。」
「……そうね。その通りだわ。食べましょう。」
山崎は“レイ”の言葉に深く頷く。自分に言い聞かせるようにそう告げるも、あんな重たい話をして食欲が湧くわけがなかった。食べるというよりは腹に詰めているという感覚だが、それでも食事を一つ口に入れると食事が進む。
「生きているんだね。私たちって…。」
「…そうですね。」
上品に崩した前菜のヴォル・オ・ヴァンを口元に運ぼうとする“レイ”の手が、山崎のその一言で止まる。
「死んでいたら、こんなにも思い悩むことなんてなかったのに──。山崎さんは、そう思ったことはありますか?」
“レイ”からの突拍子もない質問に不意を突かれた山崎は、ついに「はい」とも「いいえ」とも発することはできなかった。山崎は食事に向けていた顔を静かに上げた。
「私はあるんですよ。故郷を離れざるを得なかった時も、両親と姉妹を失ったときも、ひょっとしたら、いま貴女とこうやって共にしているこの瞬間にも。」
これまでの出会いから短い時間の中で、若さに対して精神的に成熟している、完璧な人間とまで思えた“レイ”が、初めて弱音を口に出した瞬間のように見えた。山崎は知らずともその言葉からある程度は察しが付く彼女の人生の背景に、眉を落としたまま憐れむような顔で“レイ”の静かで落ち着いたまの横顔を見つめた。
「でも、やっぱりお腹は空くんですよねぇ。」
”レイ”は山崎の方を向き、首をかしげて面白おかしそうに微笑んだ。そして彼女は続ける。
「どんなに“世界の終焉”を知ってしまっても、どんなに恐ろしくても、寂しくても、帰りたくても、やっぱりお腹は空いちゃうんです。」
初めて会った今日という日から、毅然としていて淡々と話す“レイ”の姿。同じ年ごろのアメリカ人女性ならきっと今頃は世の青春を謳歌しているはずなのに、ほんのわずかでも彼女から人間味を感じられなかった山崎。そんな彼女が一瞬だけ見せた弱みと笑顔。彼女もまた生ける人間だった。
「だからきっと、生きているってこういうことなんだと思うんです。」
そういうと“レイ”は止めていたナイフとフォークを再び動かし、前菜を口にする。「おいしいですよ」と言わんばかりに明るさを戻したその表情に、機窓から差し込む太陽の光に照らされた。
「案外似た者同士だったのね。私も、そしてあなたも。」
隣に座っているお堅い人間も結局のところ人間だった──。そう知ってやっと少しだけ安堵した山崎が、慣れない手つきで冷めた前菜を口にするところでつぶやいた。
「案外、ではないですよ。」
“レイ”はまたしても人間的な微笑みを浮かべながら断言した。機影には高度1万を超えるほどに成長した積乱雲がそびえ、機内に差し込む太陽の明かりを時折遮る。天井のベルトサインが点灯し、短い時間だけ乱気流の中を通過する旨のアナウンスが流される。
「同じ…。同じなんです。私と貴女は。」
完全に雲によって日差しが遮られ、“レイ”の浮かべる微笑みにも影が差す。機体は揺れで小刻みに軋み、カラトリーがカタカタと音を立てる。その情景は、あたかもこれから先に世界が経験する推移と変貌の旅を如実に物語っているかのようだった。