私たちの暮らすこの世界を、社会を、大きく変えてしまった。
あの時代は、このアメリカ合衆国にとって何だったのか。
私たちが選んだ選択は、正しかったのだろうか、間違っていたのだろうか。
それとも、どうやっても避けようのない、必然的な運命だったのだろうか。
あの時代は、私たち人類にとっていったい何だったのだろうか─。
その答えを、我々は未だ見つけられないままでいる。
─空が、雲の上の世界が、本当に好きだった。
流氷のひしめくベーリング海、豪雪に埋もれる太平洋海岸山脈、そして進路正面に昇る朝日。キャビン窓越しから見る景色とはまた違う、コックピットという世界が好きだった。
学生の頃から毎日夢見ていた、そんなごく当たり前の光景と日常が、四半世紀も見ることが叶わなくなるなど、いったいどの乗務員が考えただろうか。
愛する空で、愛する家族を亡くすことなど、誰か思いついただろうか。
1982年4月10日 新東京国際空港─。
東京という名称は文字通り名ばかりに、千葉県北西部に位置する完成してまだ10年と経たない東京郊外の新空港は、長年の開港を待ちわびた国際旅客機たちで例日のようにごった返していた。ゲートから滑走路を結ぶ誘導路は離陸を待つ便の大行列を形成する。遅発はもはや慣れっこだった。
ワイシャツにネクタイをしっかりと締め、金の3本線が両腕に入ったジャケットを羽織る。フライトバクにライセンス・ケースと散々頭に叩き込んだ航路表、殴り書きされたログ・ブックを詰める。せかされるように部屋を出て、ホテルのエントランス前の待機場所から、社有バスに乗り、空港ターミナル内の運行事務所へ男は1人で向かった。
「ダン、おはよう。」
「ハリー、おはよう!ちょっと遅かったんじゃないか?」
「そんなことないさ、お前が張り切り過ぎてるだけだ。」
いたって普通の、パイロットの一日─。しかし今日はそれが少し変わっていた。兄は鼻高らかに待ち受ける弟を軽くどついた。空港には、一足先に弟の姿があった。
パイロットという職業柄、アメリカの企業であっても遅刻や体調不良は到底あってはならない。機長に副操縦士、そして航空機関士の3人が顔を合わせ、航路上の気象状況やフライトのプランなどを確認するブリーフィング。その1時間半前には、既にふたりの
「これは今日も定時出発は無理そうだなぁ。」
運航管理室はビルの5階に位置している。窓辺からは滑走路と駐機場の様子が良く見えた。駐機場では飛行機がすれすれのところまで近接してひしめき合い、その先の滑走路までを結ぶ誘導路には多くの大型機がエンジンを温め、今か今かと離陸の時を待ちわびていた。
「お互いの便に賭けてみるか?到着までに遅れを挽回できた方が勝ちだ。」
「乗った。俺は兄貴が30分遅れに20ドル。こっちは天下のNY線さ。」
名誉と歴史ある基幹路線に乗務する、一段と鼻を高くするのは弟のダニエル・S・ヤーネル。双子兄弟の競争に自信満々の弟に、兄のハリーは一瞬豆鉄砲でも食らったかのような表情を見せた。
「…やれやれ、俺もなめられたもんだな。俺はお前の便が到着10分遅れに10ドル。」
ハリーは呆れ笑いを浮かべる。双子兄弟そろって同じ航空会社に入社し操縦士となった2人。どちらもあちこちを飛び回るパイロットともなれば、同じ家族とはいえなかなか会う機会も、話す機会も取るのが難しい。
「しかし、まさか出発地も経由地も同じフライトに乗務なんて。」
「あぁ。もう一生こんなことは無いかもしれんってキャプテンが言ってたぞ。」
兄が乗務する予定の12便は成田発のヒューストン行き。アメリカ国内線との乗り継ぎや給油を勘案してアラスカ州のアンカレッジにも着陸する経由便だった。一方の弟が乗務する10便はニューヨークJFK空港行き。こちらも同じ空港に途中で降り立つ経由便だった。
「それじゃあ、そろそろ行こう。」
ブリーフィングの時間が刻一刻と近づく。たいてい中高年の先輩乗務員が付くことの多い国際便では、一番若い副操縦士が先にブリーフィングのデスクに到着するのが慣例だ。
「あぁ。アンカレッジについたら美味い蕎麦屋にでも食いに行くぞ。」
途中経由地での夜食の約束をお互いで取り付けて別れる。便名が1桁や2桁の航空便は決まってその会社の基幹路線を示す。その誇り高き航路を、しかも双子兄弟そろってまで乗務することに、ふたりは胸を躍らせていた。
ブリーフィングは予定通り淡々と終えた。気流がやや乱れやすいアメリカまでの太平洋上空は、今日は珍しく天候も良く、安定したフライトとなりそうだった。フライトバックを載せるキャリーケースを片手に引き、機長と2人で空港のターミナルビルへと出る。
「やれやれ、それにしてもすごい混雑だな。」
「この国は衰え知らずですね。皮肉にもドル安が進んだおかげで、我々の経由便ですら日々満席です。」
戦後日本が見せた”
「…最近はハワイが日本人まみれだそうじゃないか。このままじゃ日本領になるな。」
制帽のつばを少しばかり持ち上げて、機長は各搭乗口を横目に見つめた。アメリカ行きも欧州行きも、並ぶのはほぼ全て同じ顔。見るからにその”指標”は日本に分があるようだった。
「”もはや戦後ではない─”。とは、よく言い表したものですね…。」
異国の地で複雑な思いを抱く副操縦士ハリー。他愛もない雑談を交わしながら
≪カスケーディア航空10便、アンカレッジ経由ニューヨーク行き、まもなく搭乗を開始いたします──。≫
搭乗開始を報せる自動放送が混雑をみせるターミナルビルに響く。搭乗口付近で各々が渡航に胸を躍らせて待ちわびる中、人々は律儀に列をなし、搭乗口へと並び始めていた。
「…今日から10便は”ジャンボ”か…。需要と供給ってやつだな…。」
「─君の弟の担当は10便だったよな。向こうのキャプテンから聞いたぞ。」
弟ダニエルの乗務担当の10便は、所定なら一回り小さい旅客機による運航だった。あまりのペースで拡大する利用客に対応するために、会社は東京-NY線の機材大型化を決めていた。今日は
「はい。それに担当の航路区間も同じなんですよ。」
「それは驚いた。
それを聞いた機長は、両腕を振って走るような仕草をしては大きく笑った。当時の航空業界で、因縁めいた二人や親族の間で、運行時間や最大飛行高度・速度を競い合うことは特に規制もされておらず、会社の風土や文化によっては乗務員間ではよくあった。
やがて、横目に見る大きな窓の向こうに見慣れた
「ハリー君は外部点検を頼んだ。俺は機関士を宥めてくるよ。」
「ラジャー。俺が行くまでに、機嫌取り戻しておいてください。」
機長はそのまま
「………やはり、三発機は美しいな。」
自分がこれから操縦桿を握ることになる大型機を前に、彼はその機に見惚れていた。空の女王とも称される、弟の操縦する四発機とはまた違った美しさがそこにはあった。”女王”に比べればその存在は見劣りするが、それでもこの機体を操ることは彼にとっての誇りだった。
普段よりも少しばかり遅れて、ボーディング・ブリッジに繋がる階段を駆け上がり、キャビンへと滑り込む。機体前方─プレシャス・クラスの客室には、運航乗務員に客室乗務員、アンカレッジから交代で乗務する運航乗務員の合計16名が、もう既に最終ブリーフィングを今に待ち受けていた。
「─…お待たせしました。
息を切らしながら軽い挨拶を済ませると、すぐにブリーフィングが始まった。
「─機長はリチャード・R・ハルパーン。航空機関士はトーマス・J・キャラハン。…そして副操縦士は私ハリー・S・ヤーネルです。本日操縦を担当いたします。出発地東京の天候は快晴。風向風速とも大変穏やかで、離陸はスムーズに。8分程度でベルトサインは消せる予定です─…。」
”副”操縦士と言えば、よく機長の添え物だと人々は考える。しかし、副操縦士は副操縦士で独立した資格が与えられており、機長の補佐役を主体的に務めることで実務的な研究・教育を進めるのだ。だからブリーフィングも基本的には副操縦士がこなすものだった。
「少し遅かったな?今日は
コックピットに戻るや否や、先にシートに腰掛けた航空機関士はハリーを囃し立てた。操縦桿が配置された二つの操縦席、その直後にある中央部に配置された回転席が、ずらりと並ぶ計器やスイッチ類を眺める─。そんな席に座るのは航空機関士、機体の状態の確認を常に行う、旅客機の神経・頭脳の役割を果たす非常に重要なポジションだ。
「そうなんですよ。4発機に置いて行かれると、鈍足の3発機はなかなか追いつけない。」
「なら急がなくてはな。…フライト・コントロール…フライト&コネクト。」
「フライト&コネクト。チェック。」
分厚いチェックリストを膝に抱えながら、機関士は今日のフライトへの意気込みを見せた。別に期限は機長の言うほど悪くはなかったらしい。ハリーはチェック項目を復唱した。コックピットの雰囲気はいつにも増して良かった。天候にも味方され、いいフライトになりそうだった。
「
コクピットのドアをノックし、客室乗務員のチーフパーサーが顔を見せる。客室の最終清掃や保安検査も順調に終えて、搭乗時刻が刻々と近づいていた。
「ラジャー。こっちは準備万端だ。ボーディングとエスコートを頼みます。」
フライト・システムに飛行情報を入力する機長と、景気の最終点検に勤しむ航空機関士に代わって、副操縦士のハリーは笑顔で応える。コックピットとキャビンを繋ぐドアが静かに閉ざされ、やがて人々の喧騒がその背後からなだれ込んでくるのを感じた。
やがて窓の向こうから警報音と共にボーディング・ブリッジが機体から切り離される。機体の周辺に集まっていた地上支援の車が次々と離れて、次の仕事場へと移動していく。
「乗客266名、搭乗予約名簿通り全員揃いました。」
チーフ・パーサーが再びコックピットへ顔を出す。この機材の座席定員は256名。今日のフライトは上級席から普通席まで超満員だった。
「さすがは日本人。ばっちりオン・タイムで行けるぞ。」
機長と航空機関士がハリーの方を向いた。にやにやとした表情で口を緩ませ、2人そろって親指を立てた。登場時点で遅れることは国際線ではざらにある。これまでの経験に比較すれば、今回はあまりにも順調で少し身震いがする程度だった。
「”成田ランプ、こちらカスケーディア12便。北東方向への
機の前輪に繋がれた
「よし、エンジンに火を入れていくぞ。」
「ラジャー。2番エンジン、スタートスイッチ、”スタート”。」
「2番エンジン、スイッチ”スタート”。N2/N1正常値。オイル・プレッシャー正常値。」
「チェック。1番と3番も続ける。」
搭載されたCF6-50A ターボファンエンジンの3発が、まるで冬眠から覚めたヒマラヤグマの如く、深い唸りを上げ始める。計器盤にはめ込まれたエンジン回転数を示す針が徐々に上昇する。空調に風を送り込む環境与圧システムが補助動力装置からエンジンからの供給に切り替わり、一瞬だけ空調が途切れる。
≪成田ランプ管制よりカスケーディア12便へ、滑走路16番への移動許可。≫
「”滑走路へのタキシング許可を確認。カスケーディア12便。”…推力をお願いします。」
航空機関士が3本並ぶスロットル・レバーに手を添え、少しずつ均等に押し出す。パーキング・ブレーキを解除し、機体は徐々に滑走路へ向けて動き出した。ハリーは操縦桿脇の
滑走路まで続く誘導路には、大型機がみっちりと列を形成して、離陸のためにエンジンを温めている最中だった。新東京国際空港は様々な問題から、空港の規模を1/3に縮小して開港した。空港に向けた需要に対して供給が間に合わない状況が続いている。並ぶ大型旅客機は全てエンジンが3発か、4発のワイドボディー機。そのほぼ全てが”ジャンボ”のようだった。
「これは壮観だな…。アトランタでもこんなスタックは滅多にないぞ。」
「雷雨の時のデトロイトよりはマシな程度ですかね。」
2階建て大型機の4発機が図拉致と並ぶ、その姿はこの空港の風物詩であった。問題解決を先送りにし、邂逅を急ぐその姿勢と、それによって避けられない需要と供給のアンバランスがいかにも日本的だった。コックピットから見詰まるその行列こそがその象徴と言える景色だった。
≪成田タワーよりカスケーディア10便へ、滑走路16番からの離陸を許可する。風は方位310から9ノット。前方機の後方乱気流に注意せよ。≫
≪了解。滑走路16番から離陸する。カスケーディア10便。≫
機はやっとの思いで次の離陸の順番へと回った。聞きなれた声の無線と共に、前方に控えていた同社便のジャンボジェットが、高鳴る4発エンジンを吹かし、長い滑走路を滑り出してゆく。
≪─カスケーディア12便、離陸機に続いて滑走路手前で離陸待機せよ。≫
「”滑走路手前で待機、了解。”…ダンのヤツ、陽気に翼を振ってやがりますよ。」
操縦桿に両手を重ねおきながら、空へと先に飛び立つ巨体を見送る。翼を小さく左右に振り、地上へお別れの挨拶。弟の離陸操縦のお決まりだった。兄はどことなく不満そうで、そして嬉しそうにその姿に指をさした。
「弟っていうのは、たいてい兄貴の真似事をして、いつしか超えようとするもんだ。」
「チェックリスト・コンプリート。君も随分なめられたもんだな、ハリー?」
離陸前のチェックリストをこなしながら、機長と航空機関士がその煽られた張本人の兄─副操縦士を囃し立てる。彼のふたつ年下の弟は、人生で先陣を切る兄の背を追いかけ、同じ会社に入り、同じパイロットとして操縦席についた。弟にとって兄は人生の手本であり、兄にとって弟は家族で一番の誇りであった。
≪カスケーディア12便、滑走路16番からの離陸を許可。風は方位325から6ノット。≫
「”了解。こちらカスケーディア12便、滑走路16番からの離陸許可を確認した。”」
「─…ランウェイ・クリア。キャプテン、スラストをお願いします。」
「ラジャー、勢いよく頼むよ。」
機長がエンジンレバーに手を置き、その後ろから航空機関士が手を優しく添える。ゆっくりと前方へと押し出す。DC-10型機自慢の三発エンジンが本来の勢いを取り戻したかのように、コックピット後方のドアの向こうから高く唸り上げる。前方から後方へと流れる景色が徐々に加速していく。
「………V1*1……ローテーション!」
機長が離陸速度を読み上げ、それに従って操縦桿を優しくゆっくり引き上げる。ゴロゴロと音を立てた小刻みな揺れが一瞬のうちに無くなり、とたんに眼前には関東平野と外房沿岸地域の春の青空が広がる。高鳴るエンジンの音と風切り音だけが機内を包み込んでいた。
「ギア格納、フラップス5度でお願いします。」
「ギア格納、フラップス5度。」
車輪の格納される音。ドアの向こうからは拍手の音が流れ込む。『これくらいで大げさな…』と言わんばかりに、ハリーと機長は顔を合わせた。張り詰めた緊張感が少しばかり和らいだ。機は弟の担当する10便より5分遅れて、経由地アンカレッジまでの所要時間6時間のフライトが始まった。まさか歴史的事象を見届ける、その中の一人になるとは知らず、操縦桿を握り続けた。空の機嫌は良く、アンカレッジに降り立つ瞬間まで、快晴は続いた。
機は房総半島北部から太平洋へ抜け、日本列島からアラスカまでを結ぶ諸島となぞるように飛ぶ。日付変更線を超え、経由地のアンカレッジ国際空港までの約半分の飛行行程をすぎる。その場所にあるベーリング海と北太平洋の狭間にある列島群─アリューシャン列島上空で迎える夕陽は格別だ。
「見ろよこのセダン。最高だろう?」
「えぇ、素晴らしいです。でも最近は日本車も捨てがたい。」
自動操縦装置コマンドを入れてしまえば、操縦士たちの仕事は大きく減る。予め持ち込んでおいた雑誌を広げ、コーヒーをすすりながら3人で談笑に興じる。束の間の休息時間だ。
≪─アンカレッジ、こちらカスケーディア10便、AMCKAを11:30+UTCに通過。高度35000、燃料は─…≫
こもった声でヘッドセットに届く航空無線。そこからは弟の声で位置通報のやり取りが行われる。洋上飛行では、決められた飛行経路の特定地点を通過するたびに位置通報と呼ばれるものを行う。全く同じ航路を同じ周波数で、同じ航空会社の先行機がいれば、この仕事も大変に楽だ。
「おっと、そろそろウェイポイント(位置通報地点)だな。」
膝に置いていた雑誌の上にフライトプランの冊子を重ね、航路を指でなぞって自機の位置を再確認する。日没後の暗闇の世界では、星空とフライトプラン、そしてこの位置通報が旅客機の唯一の『眼』となる。
「キャプテン、位置通報は私が担当します。」
ハリーは積極的にヘッドセットのスイッチをセットした。兄弟揃ってパイロットになるというのはそこまで稀ではないケースではあるが、同じ航路の便を飛ばすということは滅多に聞くことはない。パイロットとしての責任を持ちつつ、兄である彼は積極的にマイクスイッチを入れたがるものだった。
「アンカレッジラジオ、こちらカスケーディア12便。周波数89。現在位置を通報する。」
10秒ほど待っても応答はない。再度応答を求めても、アンカレッジから返答が返ってはこなかった。太平洋航路は日本・韓国・中国方面からの往来が激しい区間であるゆえに、聴き落としや混線も日常茶飯事だ。機長は冷静にアドバイスを出した。
「キャプテン、返答がありません…。」
「周波数を切り替えてみたらどうだ。」
「えぇ。やってみます。……アンカレッジラジオ、こちらカスケーディア12便。」
神妙な面持ちで彼は調整ツマミを回し、周波数を何度か切り替えてアンカレッジのラジオ管制を呼ぶ。またしても応答はなかった。眼前に広がる世界は星空のみが道標となる暗闇だ。もう一つの手綱である航空無線を失うことは、この闇夜では底知れぬ孤独感を操縦士らに与える。
「こちらカスケーディア12便。周辺の航空機で聞こえたら返事してくれ。」
副操縦士に代わって航空機関士がマイクスイッチを押し、呼びかけた。緊張で徐々に声が震え始める。しばらくの静寂が続くが、周波数を何度も変えて呼びかけても、最後まで応答はないままだった。ふと、眼前から小さな明かりが近づいてきているのが目に入る。
「対向機か…。ハリー、着陸灯を頼む。」
航空無線がまともに使えない状況下での旅客のすれ違いは、空中衝突の危険性をはらむ。ハリーは着陸灯のスイッチを入れ、対向機に自機の位置を知らせようとした。夜間飛行ではこういった状況下ではよくあるシチュエーションだった。
「…おい。よく見てみろ!」
コックピットの窓先に見える光点は、突然と明るくなり煌々と光を放ちながら、やがて視界の下方へと落ちてゆく。それが爆発だと知りもせず、ただただ目前の景色を呆然と眺めていた。
「…隕石か?」
航空機関士が思わず口をこぼす。それは、同じパイロットとしての希望的観測であり、そして現実を徐々に受け入れつつ祈らざるを得ない願いだったのかもしれない。ハリーは操縦席でベルトを外して立ち上がり、神妙な面持ちで思わず口を閉じることさえ忘れながら眼下を見下ろした。
「キャプテン………これは…。」
「どうしたんだ、ハリー。何が見える?」
眼下の世界は、日没後の深夜帯であるにもかかわらず、まるで暁の夕景のような赤々しい世界に包まれていた。赤々とした世界がそこにはあった。海が燃え盛っている。現在高度は40000フィートちょうど。海抜から12000メートル以上も離れているにも関わらず、真っ赤な世界が眼下で徐々に広がり始めているのが分かった。客室乗務員からのインターホン呼び出し音が鳴る。
≪シェードを上げたお客様から、地上の光景についてのお問合せが相次いでいて…。お客様にご説明するための、何か有力な情報は届いていますか?≫
「えぇ…。はい。現在管制とも連絡がつかず、現在状況を確認中です…。」
キャビン左手の窓からは、深紅の炎に包まれるアリューシャンの各諸島の輪郭がはっきりと浮かび上がっているのが見えた。この距離からでは確かには見えないが、あちこちで爆発が起きているのも見えた。客室窓のサンシェードを乗客らが次々と上げ、外の状況を目に次々と不安の声を客室乗務員に訴えているようだった。照明の落とされた機内には、薄気味の悪い赤い光が差し込んだ。
「うわっ!なんだ!」
激しく燃え昇るそのあまりに大規模な炎の集合体は、特異的な上昇気流を引き起こし、まるで太陽の表面のような火炎の竜巻を生み出す。その気流の乱れは火山噴火の如く、高度40000フィートにも及ぶ。機体は揺さぶられ、翼が大きくしなる。
「ベルトサインを点けよう。…何が起こっているんだ。」
航空管制官とも連絡が付かない中で、この空域を早急に脱出すべく、エンジン出力を上げ、対気速度をギリギリまで上昇させる。長波無線が繋がるアンカレッジ周辺空域に到達するまでは、最速でも1時間弱はまだかかる。アンカレッジまで無線交信無しでどう最短時間で進んでいくか、考えていたさなかの出来事だった。
客室ではやや激しめの乱気流に、寝息を立てていた乗客のほぼ全員が動揺に叩き起こされていた。窓際座席の乗客は下ろしていた窓のシェードを次々に引き上げ、外の様子を見つめている。眼下に広がるのはやはり広範囲の炎の海。窓からは薄紅色の光が下方から差し込み、夜間で照明が消されていた機内天井に、窓の輪郭をはっきりと投影していた。
突如として機体後方から破裂音が響き渡り、今度は背中をつけた座席から跳ね飛ばされるような衝撃を受ける。乗客らが反射的に目を閉じ、再び開ける頃には酸素マスクが垂れ下がっていた。緊急降下と酸素マスク着用を報せる自動アナウンスに交じり、赤ん坊が絶叫する声と激しく揺さぶられる機体が軋む鋭い金属音だけが響く。大人たちは恐怖に塗り固められた表情で酸素マスクにしがみ付くのに必死で、動揺したり叫ぶ暇はもはやなかった。
”バコン”とも”ベコン”とも聞き取れるような、金属板が歪んだり凹んだりするような音が、コックピットのドアの向こうからふと響いた。操縦桿前方にはめ込まれた飛行姿勢表示器がひっくり返り、ふわっと全身が空気に包まれて持ち上げられるような感覚と、背中を後ろから突き押されるような衝撃を感じた。すぐに機体の異変に気付いた。
「あぁ、クソ!一体何がどうなってんだ!」
自動操縦によって操られていた操縦桿が突如前方へと勝手に押し倒され、機首は赤い海に向かって急降下を始める。≪Auto Pilot!!≫≪Bank Angle!!≫─…自動操縦の解除と異常降下を報せる警報音がけたたましくコックピットの中を駆け巡る。
「落ち着け、落ち着け!
「─…訓練通りいくぞ。酸素マスク装着!トーマス、機体システムの状況は?」
コクピット・リソース・マネジメント─。認知スキルと対人スキルによって、安全のために利用可能なすべてのリソースを有効活用する…これまで起こってきた数々の航空事故による血塗られた歴史を礎とする、特にトラブル発生時にこそ意識すべき考え方が脳裏に焼き出される。
「作動油圧2系統オールロスト、第2エンジンから出火中!」
「ラジャー!第2エンジン消火シーケンスに入ります!」
副操縦士のハリーはすぐに第2エンジンのスロットルレバーを引き、燃料供給スイッチをカットする。素早くコックピット上部の操作盤に手を伸ばし、赤く燈るエンジン消火スイッチに手をかけた。訓練で何度も実行した、マニュアル通りのアクションだ。
「エンジンが油圧ラインを吹っ飛ばしたか……。こりゃあ良い筋トレになる。」
ガタガタと音を鳴らして震える操縦桿にがっつき、赤子をなだめるように必死に抑える機長。現在の速度は510ノットの高速度。油圧系統の一部喪失は、人間でいえば両足と両腕を動かす神経と筋肉のほとんどを削ぎ落されたようなものだ。その状況下の操縦は至難の業と言うほかない。
「キャプテン、急いで緊急着陸態勢に移るべきではないでしょうか…!」
「リチャード…私も同意見だな。この状態での巡行継続は自殺行為だ。」
アメリカ軍上がりの鍛え上げられた両腕で操縦桿を押さえつけても、彼の手は操縦桿に任されるまま震え続けていた。その状況を見かねた2人が、マニュアル通りすぐに緊急着陸を進言する。
「2人とも…眼下をよく見なさい。」
しかし、機長の覚悟は違った。一呼吸おいて自らを落ち着かせ、冷静に2人に状況判断を仰いだ。
「現在航空無線は使用不可。眼下の海は大規模火災…洋上に浮かぶアリューシャン列島も相当の被害が出ているはずだ。まだ地上で起きているのか、そしてこのトラブルが地上の出来事に関係しているのかは分からないが…この状況下であの地上に降りるのは危険すぎる。」
「─…マニュアルだけが全てだと思うんじゃないぞ。時には自分の脳の判断に従うのも肝要だ。」
相次ぐ緊急事態に対応すべく必死になっていた2人は、先ほどまで観た不可解な地上の様子をすっかり忘れていた。本来であれば夜間飛行でうす暗いはずのコックピットには、先ほどまでよりもより明るい紅い光が真下から強く差し込んでいることに気付いた。
「おい、ボケっとするなよハリー。スコークコード7700。緊急事態だ。地上との交信を試み続けてくれ。トーマスは引き続き機体のチェックだ。少しでも変化があったらすぐ報告してくれ。」
「─…機は予定通りアンカレッジに向かう。ハリー…落ち着いたらアナウンスを頼む。」
彼が言うように、機は未曽有の状況下を飛行していた。航空無線もままならず、燃え尽きた星の如く堕ちていく光点の数々、地上に拡がる燃え広がる深紅の世界、未だに音を立てて揺れる機内─。
≪コックピットへお客様へお知らせします。現在、機体に
静かにヘッドセットのスイッチを切った。眼前にしている全ての情報と、自分たちが取り戻しつつある平然さの解離に、クルーは落ち着きながらも、どこか混乱していた。こんな光景と偶然にしてはおかしいトラブルは今まで一度も経験したことがない。脳のどこかでこんな言葉が過ぎる。”自分たちは既に死んでしまったのではないか─”と。
人間の環境に対する適応能力とは恐ろしいものだ。あれほど暴れていた操縦桿は機長の手の許に今は平静を取り戻し、激しく揺れていた機体も今は軽微な乱気流を通過する程度にまで落ち着いた。
「……どうだ。航空無線、やっぱり繋がらないか。」
片手で髪を掻くまでに余裕ができた機長が、ありとあらゆる航空無線のツマミやスイッチをいじくりまわすハリーに半ばあきらめの表情を浮かべながら尋ねた。
「まだ全然ダメですね…。一応トライし続けて─…。」
「ハリー、リチャード!静かに…!」
操縦系統のトラブル終息に向けた応急措置がひと段落し、再び航空無線復旧にとりかかろうとしていた2人を、航空機関士は呼び止めた。耳から半分程度逸らしたヘッドセットの向こうから、もう3人が忘れかけていた”人の声”が、雑音に交じってほんのわずかに届いていた。時間を重ねるにつれて、その声は徐々に明瞭になっていく。
≪─…全航空機、全航空機へ。現在飛行中の北太平洋空域はすべて閉鎖された。≫
アンカレッジから760マイル─アラスカ湾近海上空へと達したとき、ついにアンカレッジの航空管制が復活した。コックピットの3人は思わず顔を合わせた。それは確かに航空管制官からの肉声放送だった。瞳に失っていた光を取り戻したかのように、男たちの表情は明るくなる。しかし、ヘッドセットの向こうの彼が伝える内容は、決して良い報せではなかった。管制官は太平洋空域の閉鎖と、それに伴う全航空機のアンカレッジ以西にある各空港への強制着陸を繰り返し促していた。
「メイデイ、メイデイ、メイデイ。こちらカスケーディア12便。操縦系統の一部と第2エンジンに異常発生。緊急事態を宣言。最優先での緊急着陸と緊急車両の手配を要請したい。」
≪12便へ、こちらアンカレッジ。緊急事態宣言の旨、了解した。可能であれば方位0-3-0に、速度は320ノットへ減速し、高度は270を維持せよ。最短経路で空港へ誘導する。≫
≪─現在、貴機のほかにも数機の緊急機がいる。着陸には時間がかかるかもしれないが…。≫
激しく飛び交う航空無線の中に割り込むように、状況の確認のための無線を入れる。管制官の声の背後では、罵声に近い他の管制官たちのやり取り。地上も大混乱のようだった。”ほかにも緊急事態を宣言した機が何機もいる─”無線の先の彼が発したその言葉に、再びコックピットクルーたちは顔を合わせた。自分たちが経験している事態がただ事ではないことを改めて自分事としてはっきりと認識した瞬間だった。
「了解。そしてアリューシャン上空で爆発と海上火災を見た。現在把握している状況は?」
≪12便、アラスカ沖の件については現在確認中。航空無線が何者かによって
あの場所で起こった状況を呑み込めていないのは、向こうも同じだった。航空無線は故障や不具合に見舞われていたのではなく、何かが要因で妨害を受けていたのだった。
「皆さま、当便はあと30分程で途中経由地のアンカレッジ空港へ着陸いたします─。」
ハリーは機内アナウンスを入れる。機内までもが混乱状態に陥らないように、子をなだめるように、普段通りの平静なアナウンスに努めた。この空の下で起こっている出来事が何か分からない以上、こうするしかなかった。
「─着陸の際、万一に備えて衝撃防止姿勢をとっていただく場合がありますので、客室乗務員の指示には適宜従うようにしてください。繰り返しますが、当機は現在操縦に問題はなく…─」
今の自分たちにできる最大限の放送はこの程度。満員の客室で不安に震える乗客全員の命を、無事に目的地の大地に踏み降ろすことだった。同じ頃、着陸前の確認のためにコックピットへ呼び出された客室乗務員に、航空機関士は緊張をほどくような笑顔で告げた。
「ドーンっと行くからな。」
それは客室の保安要員である彼女たちを落ち着かせると同時に、自分たちを鼓舞するような、そんな意味までもが込められているようだった。やがて遠くに、煌々と光の集うアンカレッジの町並みが拡がる。あれほど真っ赤だった眼下の世界は、まるで先ほどまでの記憶を忘れたかのように暗闇の海原へと戻っていた。
飛行機の各操縦部位を司る油圧1系統を頼りに、予備電源からの電力も頼りに
「50フィート、30…20…10……!」
航空機関士が着陸時高度を刻々と読み上げる。最後の油圧1系統を頼りに鈍く動くDC-10は、”姿勢を低く!頭を下げて─!”。客室乗務員の大きな呼びかけとは対照的に、ギアからスモークを上げながら静かに地面に降り立った。
「スポイラ―全展開、
「マニュアルブレーキ!めい一杯かけるぞ。」
ガタガタと大きな音を立て、シートベルトに縛られた全身が名一杯座席前方へ放り出されるような力を押さえつける。横目に次々通り過ぎる到着機と救急車両。同じ状況に陥った機はやはりこの12便だけにとどまらなかったようだ。
「ブレーキ・ギア温度正常値範囲内。その他各部異常なし。ナイスランディング。リチャード。」
「オーケー…!皆よくやった。ハリーは
背後のドアの向こう─客室から届く盛大な拍手が、無事に自分たちが生きるべき世界へ帰還したことを実感する。着陸時のチェックをすべて終え、3人とも思わず座席にもたれかかった。
「ラジャー。”アンカレッジタワー、こちらカスケーディア12便、現在滑走路7R。…―”」
カスケーディア10便は、予定よりも30分遅れてアンカレッジに降り立った。太平洋上を飛行していた旅客機・軍用機・プライベートジェットまでもが次々に降り立ち、空港は飽和状態に陥っていた。搭乗ゲートはすぐに満杯になり、
油圧の1/3を失えば地上走行時のステアリングもままならない。機は空港が出した牽引車両にけん引され、予定通りの到着ゲートへ進んだ。到着後の以上報告を終え、最後に3人で旅客機の外部の様子を見てみようという話になった。
「……なんだこれは。」
3人は愕然とする。機体の前方から中央部にかけては傷一つなく無事だった。問題なのは異常火災を起こした、尾翼に串刺しの第2エンジン─尾翼から突き出したエンジンの排気ノズルは黒く焼け焦げ、エンジンを吊り下げるために尾翼に伸びる
「キャプテンの”読み”通りでしたね……。」
「いいや、エンジン
その特徴的な尾翼をよく見てみれば、黒く煤に汚れてひしゃげているのはエンジン本体より後方の排気ダクトの部分のみ。エンジンが爆発の大元の要因ではないことは、その長年の経験を積んできた彼から見るには明らかだった。
「なんだ。まるで気味が悪いな…あれじゃまるで、”何者かに狙われた”みたいな─…。」
異常時の対応マニュアルを片手に、一足遅れて2人のもとに駆け寄る、航空機関士は呟いた。その目に入る景観に生じる違和感が少しずつ肥大化してゆく。そう、その光景からは、まるで何者かによる悪意によってもたらされた、と感じざるを得ない人為的な”何か”を感じたのだった。