SHE'S ALWAYS A WOMAN   作:雪原 美波

4 / 9


 どうか ここで祈っていてください。
 私には、誰にどう祈ればよいのか もう分かりません。
    ─空母艦娘 USS United States, CVA-58の手記





4th Floor "Sunday Bloody Sunday"

機体の軽微な不具合や乗客トラブルなどで緊急着陸といったケースはあまり珍しいものではない。3人とも空の上でのトラブルは経験ももちろん持ち合わせている。しかし、今回のような完全に”航空()()”といえるような事象で緊急着陸をしたケースは初めてだった。

 

無事に今地面を踏む締めていることに対しての安堵感、あれほどまでに危機的状況を自ら乗り越えたという高揚感、そして今まで見て経験した出来事に対しての不安と気味悪さ…。12便のコックピット・クルーの3人の背中が、経由便も減少に転じ、規模を縮小したターミナルには収まりきるはずもない人混みを掻き分け進んでいく。

「”準備が整い次第、連絡寄こすから安全監査室に来い”だとさ…。」

あの数時間の格闘を思わせる、どっと背負った疲れを背負いながらも、航空機関士は呆れた表情でそう言い捨てた。会社はこの事象をひとまず”航空事故”と認定して処理を進めるようだった。ゲートに到着後にやっと連絡できたカンパニーラジオは、受信するなりそう一言告げた。

「いつになるかすら分からないんだろう。こりゃ今日一杯ここで幽閉だ。」

そんな彼に機長も同情する。全ての乗客を安全に目的地に送り届ける─会社や国籍を問わず、全パイロットが胸に刻んでいる、この仕事に対しての決意と覚悟。あれだけの緊急事態を凌いだ機長と航空機関士の2人は、さきほどまでの焼却炉のような雰囲気のコックピットでの様子からは打って変わり、不安と歓喜──複雑な感情を奥に秘めながらもすっかり平静を取り戻していた。

「しっかし、ハリーの落ち着いた対応力には驚かされた。あそこまで冷静に対応できる新人パイロットは早々いないし、機長としていままで出会ったこともない。」

「驚かせられたのはキャプテンの操縦ですよ。岩同然の操縦桿をあそこまで自在に操るなんて。」

無事に帰還できたこと、すなわち無事に乗客全員に目的地の地面を踏ませられたことを静かに喜び心躍らせつつ、機長と副操縦士の2人は空港の人混みを掻き分けながら進む。2人の会話は賛美の応酬合戦が始まっていたところだった。

「2人とも”帰還祝い”とでも行くか?酒はまだ嗜めんけどな。」

そんな2人の間を割って入るように、航空機関士は久々に見せた笑顔で言った。”帰還祝い”─パイロットが緊急事態から無事に生還した際に行われる、小さな食事会に彼は誘う。

「…あっ、すいません。行きたい気持ちは山々なんですが、弟と会う約束をしていたもんで…。」

景気よく相槌を打ちその意見に賛同する機長とは対照的に、ハリーは申し訳なさげな表情を浮かべながらきっぱりと断った。今回の事故対応に馬車馬のように追われてすっかり忘れていた、出発前、新東京空港で交わした弟ダニエルとの約束を、ハリーはすっかり思い出したからだった。

「あぁ、そうだったったな。弟くんの10便ももう着いているんじゃないかな。」

「申し訳ないです。ヒューストンに無事着いたら、予定合わせて吞み合いましょう。」

ビールグラスをグイっと持ち上げる仕草をして、ハリーはコックピットの戦友2人と別れる。まさか、”万が一”なんてことはないだろう、と自分に言い聞かせても、この混乱では弟が操縦していた10便が無事に空港へと降り立っているのかどうかすら分からない。

≪現在()()()()()()()()全機に関しては、飛行の無事を確認しています─。≫

到着後にカンパニーラジオでやり取りした時、スピーカー越しにラジオ担当者はこう答えていた。何が起こったかは分からないが、ひとまず同社の他運航機は無事であることは確認していた。でも、弟が本当に無事であるかどうか…それだけが気がかりだった。まずは彼の顔を見て安心したい─…そんな思いが、彼の心を静かに駆り立てた。

 

空港ターミナル内の旅客案内アナウンスは、10年近くぶりの大盛況となった人々の喧騒にまるで張り合うかのように、出発便の現在の運航状況を伝え続けた。

≪現在、政府からの要請により、全ての出発便の運航を見合わせています─。≫

ふと視界に飛び込んでくる出発便案内板。そこににずらりと並ぶ"Canceled"の文字、全便欠航を繰り返し伝える放送、搭乗口付近に置かれたブラウン管テレビに群がる人々─。もう深夜時間帯であるのにもかかわらず、ターミナルビルは出迎えの客たちと報道関係者、警察に州兵までもが入り乱れて混沌の様子を呈している。空港は()()()()と化していた。

「パイロットの方ですか?上空でなにが起こっていたか、ご説明いただけますか?」

報道関係者の群れはパイロットや客室乗務員といった、旅客とは相反して目立つ存在の獲物を次々捕らえる。記者の数人もハリー達に向かって訊ねた。メディアが空港に多数押し掛けるときは、空の上で何か不幸なことでも起こったか、大きな航空事故や出来事があったときのみ。初めて目にするその光景に、ハリーはあの空の上で見た景色がただ事ではなかったのだと徐々に理解した。

「分からない。何もかも滅茶苦茶です…。」

ハリーは顔面に近付けられたマイクとカメラを前に、頭を横に振ることしかできなかった。この時に分かったのは一つ、自分たちがみた光景と、体験したすべてのトラブルは、何かとてつもなく不吉な出来事の一部始終だった可能性があるということだけ。ぶら下げた手が少しだけ震えているのに気付く。今更になって胸騒ぎが彼の上半身を支配した。

 

カスケーディア航空はシアトルを拠点にその歴史を歩み始めた1948年以後、その長きにわたって旅客死亡事故を起こしたことがない。航空事故知らずの名門優良航空会社だった。これまで遭遇した数々の航空トラブルでも生還率100%を誇る。それは奇遇でも運命でもなく、”軍人以上”ともてはやされる日々の訓練と安全に対する努力の賜物だった。まるでこの日、12便に乗務していた3人の運航乗務員のように。

 

到着ゲートを出たところに置かれたテレビには、やはり数多くの人だかりを形成していた。人々はみな深刻な面持ちで臨時ニュースを報じるテレビ画面にくぎ付けになっている。ある者は口を押さえ、ある者は頭を抱えた。アナウンサーはこれまで体験した出来事と、あの時、コックピットから眼下に目にした光景について、分かる限り時の情報を捻り出しながら淡々と伝えている。

≪本日深夜ごろ、アラスカ州アリューシャン各諸島において大規模火災が発生した模様です。アラスカ州政府の発表によれば、アラスカ標準時午後10時20分ごろ、ウナラスカ島で大規模な爆発があり、各諸島との連絡が途絶えました。≫

テレビ画面の映像が切り替わった、画面に映るのは、スクランブル(緊急発進)した空軍戦闘機が捉えたらしい、フォックス諸島とその近海の写真を映し出していた。それは、確かにこの上空を飛行していた自分たちが、高度4万フィートから眺めたあの景色によく似ていた。その画面を見るなり、ハリーはまるで何者かに取り憑かれたかのように群集と同じくテレビに釘付けとなった。

≪アラスカ州政府は”ウナラスカ市役所から『遠洋での爆発音』についての問い合わせがあり、その後『島内全域での爆発および火災』があった”。”以後通信を何度も試みているが、現時点で返事が来ていない”という内容の情報を既に公表しており─…≫

≪また、アリューシャン列島全島住民との連絡が途絶えたとの未確認情報もあり、アラスカ州政府はさきほど、州非常事態宣言を全域に発令しました。この事象を受けホワイトハウス(アメリカ大統領府)は、明朝5時より記者会見を行います。≫

これまでただの通過点に過ぎなかった”不安”と”疑念”が、自分の目と耳を通って脳内で徐々に具現化されていく。東部時間でも山間時間でも、まだ夜明けすらしていない状況下で、各テレビ局は慌ただしく放送の使命に努めていた。「アリューシャン列島で何かが起きている」。あのとき、自分が目撃した景色の全てが、いったい何だったのかが徐々に明らかになる。

「これは間違いなくソビエトからのミサイル奇襲だ。第三次世界大戦になるぞ。」

観衆の中から一人の男が叫んだ。彼はほかの観衆と言い争いになっていたが、当時は米ソ冷戦の真っただ中である。各報道機関もその可能性を報じ、人々はますます混乱状態に陥った。

≪─先ほどこちらに届きました公式情報によれば、洋上交通センターからは50隻余りの民間船が消息不明との情報が入ってきているほか、航空管制センターでは十数機の民間旅客機と依然連絡が付かないとのことです──。≫

最新フルカラーブラウン管テレビは再びスタジオの様子を映る。超特急で特番を組んだのだろう、スタジオは現行と思しき用紙と撮影機材のコードがもろに映ったままだった。叫んだ男にあっけに取られて動転していた周囲の人々は、そのアナウンサーの言葉に催眠でもかけられたかのように一瞬の冷静さを取り戻した。信じたくもないような、聞きたくもないような─そんな言葉がふとテレビから流れる。気が付けば、その場の全員が再びテレビにくぎ付けになっていた。

「………そんな…。そんなまさか…。」

家族か親類の到着を待っていたのだろう、便名が殴り書きされたメモ帳の切れ端を持っていた1人の中年女性が、遠くでへなへなと崩れるように床に座り込んだ。そこに書かれたアンカレッジの到着時刻からは既に2時間半が経過していた。

「おぉハリー、こんなところに。君も店探しはやっぱり駄目だったか。」

事故対応と7時間余りのフライトの疲れも感じさせない、航空機関士は少しばかり陽気な本調子に戻ったようだった。彼は呆れ笑いを浮かべながら再びハリーのもとに寄った。

「ターミナルの店は全滅だったよ。時間も時間だしこの混雑で空いてるどの店も大繁盛だろう。……リチャードは席取り合戦の真っ最中でな。機長が同期で助かったよ。」

航空機関士はコーヒーの香りを漂わせる、蓋つきの紙コップで両手が塞がっている。その内の片方は”砂糖2分にミルク1分”。この航空機関士と乗務するときには必ず一杯飲まされることになる、鉄板オーダーのいつもの香りが漂うカップを彼は揚々と差し出した。

≪アンカレッジ航空管制および各空港から、着陸および連絡が確認されていない旅客機の便名と出発地・目的地は、現時点で次に読み上げる通りとなります。≫

≪──南韓民航007便……ニューヨーク発 アンカレッジ経由 ソウル行き≫

≪──グランシア航空17便……クアラルンプール発 大阪経由 サンフランシスコ行き≫

≪──中華北西航空655便……北京発 バンクーバー行き≫

≪──帝洋航空752便……東京発 デンバー行き──≫

最初は連絡の取れない機は数機程度で、その他はまだ通信障害を脱していないのだ─と糧に思い込んでいた。アナウンサーが一便一便の便名と発着地を一つずつ、丁寧に読み上げる。それらは、たった数機に収まる気配はまるでなかった。

「”音信不通の機が複数機”って管制は言っていたよな。本当に何事だ。」

「…………。」

「うちの運航便は今のところ無事だそうだが…。そういえば弟君はどうした?」

機関士もまた、心配そうにアナウンサーだけが映るテレビ画面を心配そうに見つめた。”早く弟と彼のジャンボを見つけ出さなくては─”そんな直感的な義務感が全身を駆け巡った。胸中を這いつくばっていた不安感が現実のものであることに気付いた。

「…ちょっとすいません。すいません!」

内に秘めたとてつもない衝動に火が付いたかのように、フライトバッグにキャリーケース…持ち込んだ荷物をその場に放棄して、彼は群衆の中から勢いよく飛び出した。

「っておい…ハリー!どうしたんだ!」

闘牛の如く自らの方向へと突っ込んでくる彼を咄嗟に半身でかわす航空機関士。淹れたてのまだ温もり覚めぬコーヒーカップを両手に携え、たちまちのうちに人混みを掻き分け消えていく彼の背中を、眺めることしかできなかった。

≪──カスケーディア航空10便……東京発 アンカレッジ経由 ニューヨーク行き──≫

彼の姿が完全にうごめく雑踏に消える頃、テレビの向こうのアナウンサーは最後の便名を読んだ。

 

全力で走りながらも、出発ゲート入口上部の到着便の到着案内板を見つめる。ずらりと縦一列に並ぶ”ARRIVED(到着済み)”の文字─大幅な遅れをもっても大多数の旅客便は既に滑走路に降りたようだった。しかし一方で、本来であれば遅延を加味してもとっくに前に到着していたはずの、カスケーディア10便の到着案内だけはまだ"DELAYED(未着)"のまま。胸騒ぎが少しずつ信じたくもない確信へと迫り行く。滑走路は全て閉鎖されていた。

「まさか…ウソだ。ウソだと言ってくれよ。」

狂ったように来た道を戻る。先ほどまで気楽に眺めていた景色が、視界の前から後ろへと勢いよく流れていく。ターミナルを人を掻き分けて進み、やがて会社の運航管理局のあるオフィスへと駆け込んだ。ここもまた、混乱の渦に包まれていた。

「すいません。すいません。運航管理者の方は?」

出発の最初のブリーフィングカウンターに押しかけ、その場のスタッフの怒号のような声の数々に埋もれずと大声で運航管理者を呼んだ。航空運航の全てをしる彼らに状況を尋ねるのが最も手っ取り早かったからだ。

「カスケーディア10便についての情報はあるか?東京発JFK行き、機材はB747-100で……レジコード(機体登録番号)は確かN754PAだったと思う…それが弟の担当便なんだが…。」

「とても気の毒だが、太平洋便の情報はあのボードに書き込んでいる内容がすべてだ…。」

何枚もの書類を抱えた彼は、無数のスタッフらで人だかりのできているホワイトボードを指差し、少しばかり申し訳なさそうな表情を浮かべつつも、足早に人混みの中へと消えていった。ホワイトボードには、行方不明となった自社の3便の便名と、そのステータスが殴り書きされていた。そのうちの一つに、彼が求めていた便名はあった。

 

 

 

 

 

"CAS12 NRT-ANC-JFK MISSING

SOULS ON BORD 325 CREWS 15"

 

 

”カスケーディア12便 NRT-ANC-JFK 消息不明

乗客325名  乗員15名”

 

 

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

 

 

”アリューシャン列島沖事変”─。

合衆国政府がその名称を正式に確定したのは、あの事件から1ヶ月も経っていない頃だった。そんな時期に、カスケーディア12便の副操縦士──ハリー・S・ヤーネルの姿は、アンカレッジ国際空港から延びる国際空港通りを10分程度進んだ、ダウンタウンに位置するホテルに在った。

≪アラスカ州政府ならびに合衆国政府より、アラスカ州の以下の地域に避難勧告が発令されています:アンカレッジ、アラスカ半島、アリューシャン列島、ディリングハム、非自治郡全域─…≫

テレビは朝の9時・昼の12時と夜21時と、決まった時間に緊急警報放送を流し続けた。市街地の北端にあるエルメンドルフ空軍基地からは、F-15戦闘機・F-16戦闘機やA-10C/OA-10攻撃機、B-52G/H爆撃が昼夜を問わず飛来しては次々に飛び立っていく。時にはソヴィエト空軍の”怪鳥”Tu-95にMiG-29戦闘機までもがやってくる。特に東側諸国の機材の騒音は強烈だ。離発着の度にホテル全体が揺さぶられ、窓ガラスはガタガタと大きな音を立ててその轟音に共鳴していた。

政府存続計画(COG)の開始にDEFCON 1の発令…。」

「どちらも制定後初の発動ですね。敵さんは”UNH”というらしいけど、ここまでわが軍の手を手こずらせるとは…とても綿密に練られたテロ攻撃としか。」

最前線を取材するために避難勧告を無視してやってきた記者たちは、ホテルの屋上でカメラのファインダーを覗きながら、合衆国の戦後史上初となる戦争に対して、興奮気味に談笑していた。

 

Unidentified Naval Hostile(未確認海上敵性体)──通称:"UNH"。

のちにアラスカ半島で鹵獲されたその個体から行われた調査・研究で”深海棲艦”なる正式名称が与えられることとなるその()()()()。この事件の立役者は冷戦期真っ只中で激しく対立するソヴィエト連邦の仕業でも、1970年代から蔓延り始めた武装テロ組織でもなかった。

『我々は全人民と共に、人類と全国家への挑戦であるこの未曽有の攻撃に毅然と立ち向かう─。』

テレビの向こうで、ソヴィエトの最高指導者は拳を握り締めながら熱く述べた。むしろ合衆国内でこの攻撃の犯人として当初疑われていたソ連も、アリューシャン列島沖事変の僅か半月後、ベーリング海を挟んで反対側のカムチャツカ半島を同様に攻撃されたうえ、観測船や漁船を失う大規模な被害を被っていた。ほどなくして、米ソ両国による”Operation Polar Dawn(極北の夜明け作戦)──ソ連呼称:Операция Единство(統一連合作戦)”が北太平洋海域で始まった。”対深海棲艦世界大戦”の正式な幕開けの瞬間だった。アリューシャン諸島沖に、人類を前に初めて姿を現しては牙を剝いた”深海棲艦”は、人類が築いてきた歴史を大きく変えることとなる。

 

 

そして歴史を大きく変えられたのは、ハリーもまた同じだった。

彼の操縦するカスケーディア12便は、アリューシャン沖事変に巻き込まれながらも無事に着陸を果たした最後の1機だった。人類史上初の大規模未確認勢力との戦争突入という未曽有の歴史の渦中で、12便の乗客を含めた人々は彼らを英雄として褒め称えた。制御不能に等しい機体を無傷で降ろしたという事実も相まって、一時期は民間航空従事者に対する最上位賞に当たるポラリス賞の授賞まで検討中と業界で囁かれるほどだった。

 

彼自身が多くの人々の命を救ったのは言うまでもない。それは彼自身も分かっていた。しかし、その誇らしい実績をもってしてもなお、彼の胸に空いた大きな穴を塞ぐことは到底できなかった。

 

避難勧告が発令されたアンカレッジ市街全域。北端の空軍基地からは爆撃機や攻撃機に交じって、シカゴやシアトルを結ぶC-5A/B輸送機・C-130輸送機による緊急退避便が離陸していく。しかし、彼は1か月間にもわたって、この戦争の最前線となったアンカレッジを離れなかった。来ることのないカスケーディア10便の着陸をひたすらに待ち続けた。ジェット機の音が聞こえるたびにベランダへ飛び出しては、彼の操縦するB747ではないのかと何度も何度も、四六時中確認した。しかし、ダニエルの操縦するカスケーディア10便は、結局のところ太平洋上空から再び地を踏むことはなかった。彼の機は、ちょうどハリーの操縦していた12便が、大規模火災と爆発を目撃した時間に、レーダーから消失していた。機体の捜索活動は行われなかった。行うことができなかったのだ。

 

”ハリー。いい加減に諦めて帰ってきたらどうだ?みんなが待ってる。君まで犠牲になる必要はない。”

”まだ君はアンカレッジなんだって?心配だ。周りの皆も心配しているぞ”

 

避難が進むにつれてゴーストタウンとなるアンカレッジの街にも、ライフラインと郵便だけは維持された。ホテルのエントランスには決まって2日に1便、昼14時に軍関係者が郵便物を届けに来ていた。特に機長と航空機関士は、この地から離れることを頑なに拒む彼の身を案じ、毎日のように彼に手紙を送り続けていた。

「……。どんな形であれ、ダンが帰って来ないのに、諦められる訳ないじゃないか…。」

”帰ってこい””心配している”。2人以外の同僚からも届く手紙には、大抵こんな決まり文句がべったりと張り付いていた。この文字を見るたびに吐き気がした。

「だいたい”帰る”だと?弟を1人ぼっちにして、一体どこに帰るっていうんだよ。

遅い夏の日の入りも過ぎた頃、彼は手紙の束をつまみながらベランダに出て、薄ら笑いでそう言い捨てては片手のジッポライターに火を入れた。手紙はすぐに赤い炎に包まれた。アンカレッジから北西部のずっと先、アラスカ山脈は紅色に燃え盛る空を背景に、しっかりとした輪郭を浮かばせている。あれが敵性勢力による火災なのか、アメリカ・ソヴィエト軍の爆撃によるものかは分からないが、いずれにしても、あの山脈から先はおそらく炎の生き地獄であろう。”UNH”の魔の手足は、既にアラスカ州本土にまで達していた。

 

 

知らぬ間に真っ赤に染まっていたクック湾の海水は、ターナゲイン・アームとニック・アームの河口にまで遡上し、アンカレッジ周辺の水域という水域を深紅に染め上げる。アラスカでは毎夏恒例だった蚊や蠅の大群はどこか遠くに消え、真っ赤な水辺に近付けば得体の知れない独特な腐敗臭が漂っていた。

「”海が赤く染まって『深海の香り』がするのなら、もう敵はすぐそこまで来ている─。”先行の前線組が”敵襲来の兆候”として教えてくれました。」

「…貴方は一般人でしょう?退避便が出ているうちに早く避難した方が良い。」

アメリカ軍とソヴィエト軍の努力も虚しく、戦争の影と足跡は徐々にアンカレッジに近付いているらしい。ホテルに詰めかける戦争記者たちはハリーに警告した。彼と”目的”を同じくしてこのホテルに留まり続けていた10便乗客遺族らも、既にシカゴに避難していた。

「”UNH”は水上艦と同等の能力を持つ海上小型兵器ながら、水に潜って身を隠したり、泳いだりして自由自在に移動できるらしい。陸上型や彼らが飛ばす”艦載機”もだそうだ。」

「最初は海軍が無能に落ちぶれたのかと思っていたが、数で圧倒する相手が厄介すぎたな…。」

「タイコンデロガ級が奴らに撃沈されたって情報も耳にしたぞ…。」

がらんどうの食堂で、再び記者たちは集いミーティングを進めていた。その表情には陰や不安がしっかり浮き出ていた。やがて、アンカレッジにも敵性勢力の火の手が及ぶ。記者から警告を受けた晩の出来事だった。

 

1982年5月11日、アンカレッジ市街地─特にアンカレッジ国際空港に対して、”UNH”による”未確認敵性飛行体群”は爆撃を仕掛けた。飛行隊の総数は後の空軍発表によれば673機。幸いにも米ソ空軍の飛行隊の活躍と地対空支援もありその過半数は防げたが、圧倒的戦力を誇るアメリカ軍・ソヴィエト軍の力をもってしても、彼らの圧倒的な数には抗いきれなかった。

「おい見ろ!空港のほうが燃えているぞ…!」

「ミグとF-16が奴らとドッグファイトしている!」

いびつな球体や三角形状、怪獣のような敵性飛行体が、赤い星を尾翼に纏うソ連機や青い星に赤い帯を並べる記章をつけたアメリカ軍機に追いかけられている。記者たちは緊迫の表情を浮かべつつも、ファインダーを覗きこんではその中の世界に入り込んでいた。日付も変わってもう真夜中であるのも関わらず、夕焼けのようにアンカレッジの市街地は茜色に煌々と染まった。もはや決断の時だった。

 

気だるげに荷物をスーツケースに詰めて、ホテルを発ったのは明朝5時。あの晩は一睡もできなかったが、ここ1カ月間まともに眠れていないことを考えれば大した問題ではなかった。

≪アラスカ州全土に強制退避命令が発令されました。対象地域に居住・滞在中の方は─…≫

ホテルのエントランスで付けっぱなしにされ放置されているテレビは告げる。昨晩の出来事を受けて、いよいよ軍関係企業や軍関係者の家族を含めた全住民・滞在者の強制避難命令が決定されたようだった。空軍基地ではC-141B型輸送機が、機体尾部の搬入口をぱっくりと開けて避難民を迎え入れる。殺風景でやたら天井の高い貨物室には、ずらりと座席が並べられていた。

「着席のままベルトを締めてお待ちください。定員になり次第すぐの出発です。」

座席に腰掛けるとすぐに迷彩服の軍人が出発準備を報せる。アンカレッジに最後まで残っていたのはほぼ軍関係者の家族のようだった。その多くが子供連れだった。彼らもまた眠れぬ夜を過ごしたに違いない。不安な顔を浮かべる子供がハリーのやつれた顔を見る、大声でなく赤ちゃんの声が機内に響く。10便の乗客も、こんな恐怖を体験していたに違いない。複雑な心境だった。機体後方の搬入口がやがて閉まり、すぐに機はエンジンを唸らせて離陸した。

「………。」

数少ない機体側面の舷窓の眼下には、黒く煤汚れたアンカレッジ国際空港が見えた。滑走路には数々のクレーターが空き、駐機場に留め置かれた旅客機の数機はことごとく破壊されていた。空港が抱える滑走路の3本ともが破壊されていた。修繕までの間は民間機の離発着は不可能な状態であることは遠目からでもよく分かった。やはりもう弟は返ってくることはないのだ─と、敵勢力がまざまざと見せつけた残酷な現実に、やっと諦めがついた気がした。そしてそれと同時に、強烈な無力感と絶望感が彼の全身を支配した。

 

 

戻った先のアメリカ本土も、また混乱を極めていた。

アメリカ全土における夜間外出禁止令と国家非常事態宣言、政府存続計画、デフコン1の発動─。それらに加えて、第一次アンカレッジ空襲は、1945年の日本軍のアメリカ本土空襲以来の本土直接攻撃となった。敵勢力はカムチャッカ半島全域とアラスカ州南西部を事実上占領し始めていた。ソヴィエトは1941年の独ソ戦以降…アメリカは1776年の建国史上初めて、自国の領土が敵勢力の手に落ちた。深海から突如現れたとされる”深海棲艦”と名付けられた、その未知の敵性勢力の襲来は、アメリカ国民とそして世界を、恐怖のどん底に陥れた。

 

アメリカ・カナダの本土上空と太平洋海域全域の空域は、安全な飛行が保障されず、依然として民間機の飛行は禁止されたままだった。降り立った先のシカゴ・オヘア国際空港も、滑走路1本を残して滑走路から誘導路、駐機場まで所狭しと埃を被った大小の旅客機が放置されていた。住居を置くインディアナポリスまでは高速バスに乗り、航空便で1時間のところを3時間かけて移動した。──荒らされた形跡が色濃くのこるスーパーマーケットの割られた窓から、ひらひらと舞うチラシや包装紙。”本日燃料売り切れ”の看板を前に根強く行列を成す人々と車列。州間高速道路ですれ違う迷彩柄の輸送トラックに装甲車、すれ違う車列のほとんどが軍用車だった。前から後ろへと遠ざかる景色には、かつてのアメリカの平穏で暖かい日常はなかった。民間機の飛ばない寂しげな空には、時々軍用ヘリの隊列が低空飛行で横切る。バス車内に流れるラジオ放送は、戦時中における国家緊急事態宣言下での”国民の心得”を繰り返し放送していた。普段なら戦争映画の中でしか見ないものが、ここではもう既に現実になっていた。

 

インディアナポリス市のダウンタウンから北端に進んだ閑静な住宅街─カーメル市に構える、兄弟でお金を出し合いながら背伸びして手に入れた自宅に戻ったのは夕方だった。幸いにも治安が比較的良い場所に持ち家を持ったことで、自宅は空き巣被害に遭わずにすんでいた。小さくも二階建ての自慢の家の郵便受けは、ありとあらゆる書類やハガキが突っ込まれて災害級のオーバーフローを起こしていた。その大根のような紙の束の根元を持って引っこ抜く。ひとつの封筒がひらひらと落ちた。

 

”CASCADIA AIRLINES”

 

A4版の封筒に、左下に描かれた見覚えのある会社名とロゴマーク。在籍しているシアトル本社からハリー宛てで送られてきた書類だった。抱えていた書類の束をすぐに芝生の上に降ろし、半ば強引に封筒をこじ開けた。書類の天面には淡々と題名が記されていた。

 

 

 

 

 

 

”Subject: Termination of Employment”

”当社における雇用終了に係るお知らせ”

 

 

Dear Mr. Yarnell,

 

We regret to inform you that, as part of the company-wide reduction in force resulting from the economic consequences of the Aleutian Incident and the subsequent suspension of All operations, your employment with Cascadia Airlines will be terminated effective Jun 15, 1983.*1

 

Your final paycheck, including unused vacation pay, will be mailed separately.*2

Please contact the Human Resources Department regarding continuation of health benefits under COBRA provisions.*3

 

We appreciate your service to the company and regret that these circumstances have made this action necessary.*4

 

Sincerely,

 

 

John A. Mitchell

Vice President, Human Resources

Cascadia Airlines

 

 

 

 

 

 

タイプ打ちされた10行と少しばかりの定型文と署名が添えられた封書には、つまるところ解雇通知についての内容が記載されていた。アメリカ国内および太平洋路線が閉鎖され、大西洋でも運航路線と旅客数が大幅に減少したことによる大打撃は、当然にしてカスケーディア航空をも襲った。全便の運航停止を命じられ、突然にして梯子を外されていたのだ。1か月間の無断欠勤を繰り返した彼は、第一次人員整理で真っ先に候補に挙がったのだろう。送られてきたもう一つの封筒には、弟の死に関しての保障について記載されたものだった。

「…これでもう終わりだな。終わった、これですべて……。」

心の声をそのまま口からこぼす様に、感情のない表情で独り言を零しては、とぼとぼと重い足取りで玄関を開ける。家の中は、最後に兄弟で共に休暇を過ごした3月ごろの残り香が残ったままだった。まるで弟の名前を呼びさえすれば、2回から階段を下りて彼が顔を出してくれるのではないか─。そう感じてしまうほどだった。しかし、この家に彼はもういない。整然と整理されたままの2階のダニエルの部屋は、彼の香りが立ち込めていた。弟のデスクの家に置かれた写真立て。そこに収められた、入社祝いで2人で観光に行ったシアトルのスペース・ニードル展望台で撮影した思い出のツーショットが、冷酷な現実をハリーにまざまざと見せつける。

 

3か月近く家を離れていても、冷蔵庫は兄弟そろっての愉しみだった酒瓶を大切に守り続けていた。お互いの誕生日に贈り合ったマッカランとグレンフィデック─。2本のスコッチ・ウイスキーを取り出しては、表面に埃を被ったリビングのテーブルに置いた。キッチンとテレビ台を挟んだ、部屋の中央に置かれた煉瓦造りの暖炉。その上には写真立てに収められた、家族写真や兄弟の写真が飾られていた。常温のグラスに氷も入れず、雑に注いだウィスキーを次々体内に放りこんだ。いくらショットで飲んでも、自分の中にうずめく絶望感や虚無感を埋められなかった。

 

ヤーネル家ではハリーが5歳になる前の頃、軍に徴兵された父をベトナム戦争で亡くしていた。兄弟はほとんど母1人の手によって育て上げられた。ダニエルは父の顔を覚えていないまま成人した。ハリーも父の顔をはっきりとは思い出せなかった。二人が高校を卒業したころ、今度は母が病に倒れた。肺癌だった。ステージは最末期で、治療は不可能と言われた。航空大学校に通う傍らで、毎日のように兄弟で母のお見舞いに行った。母に繋げられる管は日に日に増えていき、痛みのために鎮痛剤の投与が増え、次第に母の眠る時間が増えていった。大学1年生の夏休み、父の背中を追うようにして母はこの世から旅立ってしまった。一人前になるまで生きれないと知った母は、お見舞いに来る2人に首を垂れ、”不甲斐ない”と口にしていた。母は強かった。そんな強い母でも、病にまで勝ち切ることは出来なかった。2人で寝る間も惜しんでアルバイトと勉強を続け、お互いの学費を出し合い、航空大学校を無事に卒業した。カスケーディア航空に兄弟そろっての双子入社を叶えた。唯一残された家族である弟ダニエルは、どれだけ不幸の中で苦しくも、互いに手を取り合って、地を這って共に生きた家族としての絆以上で繋がれた大切な戦友であった。

「………あぁ?…あぁ、畜生。」

思い出のウィスキー・ボトルは瞬く間に空っぽになっていった。酒にへべれけに酔ってはフローリングに倒れこみ、ベッドにも入らずそのまま昼夜問わず眠りにつく─。そんな生活が続いた。やがて電気代とガス代すらも支払えなくなり、電球切れを起こす前に部屋の電気は使えなくなった。ろくに浴びていなかったシャワーも遂に使えなくなり、冬場は酒で暖まりコートと毛布にくるまってソファに眠る日々が続いた。”人道的理由”で規制されないままだった水道もついに止められた。

「………俺の楽園も、そろそろ終焉かな。」

公園の蛇口に水を汲みに久々に外へ出ると、郵便受けにはFINAL NOTICE(最終通告)と赤文字で印字された封筒が届いた。以前まで弟と共同で支払っていた家のローンの滞納と、それに伴う強制退去の警告を報せる封筒だった。中身は開けないまま、帰るや否や、火をつけた暖炉にそれを投げ捨てた。

 

ある日の、いつも通りの週一度の外出の機会。酒と食料の調達を済ませたあと、コインランドリーでの洗濯待ちをしていた時だった。洗濯機と乾燥機の二段構えの壁に四方を覆われたベンチに、読み捨てられた新聞が転がっていた。新聞の一面に踊る見出しが目に飛び込んでくる。植えた猛獣のようにハリーはベンチに落ちた新聞にかじりついた。

【カリフォルニア海流がもたらした”航空史上最悪の惨劇”の証拠】

【アリューシャンで()()()()4,257名 1年経っても叶わない捜索活動─】

気付けば、あの事件から1年という月日が経過していた。事件現場から2,400マイルも離れたサンフランシスコのオーシャン・ビーチで、各旅客機の機体の一部や座席などの多数の部品が漂着したらしい。それらの解析によって、弟の操縦していたJFK行きの10便を含む17機の墜落が公式に認定されたようだった。前乗員・乗客の死因は”深海棲艦による殺人”と記載されていた。彼の弟であるダニエルもその一人だった。これを機に、正式に一連の航空事件についての調査は行われず、現場が戦闘海域であることもあり機体の大部分やブラックボックス*5、遺体の捜索はついに叶わずじまいとなった。現場は深海棲艦の手に落ちたままだった。

 

裁判所によるフォークロージャー(財産差し押さえ)がやがてはじまった。州から派遣された保安官が、自宅の木製ドアに”Sheriff’s Sale(競売告知)”の文字が印刷された紙を貼り付けた。残された短い時間で荷物をまとめて、いよいよ兄弟の思い出の家とも決別の時がやってきた。

「…なぁ、ダニー。もう、もういいさ……。」

2階にある兄弟それぞれの2部屋の荷物を埃にまみれながら漁る。時々出てくる思い出の品々。大昔に行ったインディ500観戦で買った、F1カーの様子が描かれたされたタペストリー。まだ中学生の時のラクガキ帳とそこに描かれた数々の飛行機。すっかり古びてひびの入った革のグローブ──。兄弟でよくラジオを聞いた小さなラジカセは、スイッチはもう入らなかった。苛立ち交じりにコードを引きちぎり、乱暴にゴミ袋の中へとそれらを叩きつけた。兄弟の思い出の品々が出るたび、ごみ袋へ放り投げようとする手が止まる。弟のものをこうも簡単に捨ててしまう自分に嫌気と苛立ちが差した。

「いずれにしても、どうせ誰かに捨てられるだけか……。」

中古のギターに航空学校の卒業アルバム、漫画や小説、航空学校の教科書が詰まった本棚に、週末はよく2人で乗ったロードバイク─…遺された大きなものは、どう頑張ってもひとりでは持ち出すことはできなかった。。やむなく置き去りにした。一気に手を離し大物を頬り出すたび、煙のように埃が舞った。それはまるで、彼を失ってから今日まで過ぎ去った年月を表すかのようだった。

 

寝床だったソファーに腰掛けて靴ひもを結び直し、生活に最低限のものだけを詰めたボストンバッグとリュックを背負う。諦めなどつくはずがなかった。未練など消え去ることはなかった。1時間くらいにはなるだろうか、何度も玄関とリビングを往復した。中途半端にさっぱりした部屋とは相反して、彼のバッグのポケットは思い出の品々でパンパンに膨れ上がっていた。

「……俺は、何をやってるんだか。」

扉を開ければもうこの家に戻ることは許されない。でも、この家に居ることはもう許されない。それぞれの葛藤を、彼は心の中で何度も反復していた。

「もう終わりだよ。すべて、終わったんだ。」

玄関のドア横に立掛けられた姿見に映る自分にでも言い聞かせるかのように、彼は首を横に振りながら真顔で小さく呟いた。半年以上もの間髪も切らず、髭もそらずに廃人同然の生活ばかり繰り返していた。髪は胸のあたりまで長く伸び、髭は顎の周囲からサンタクロースのように首周りをすっかり覆う程度まで伸びきっていた。姿見に映る瘦せこけた男は、自分自身が知っている自分さえすっかり別人になったさえ感じさせるほどだった。

 

薄暗くカビの香りがうっすら漂うガレージは、もう1年近く時が止まったままだった。薄く埃を被った1980年代の名車─フォード・カントリー・スクワイアが一台だけ、目覚めの時を待ち続けるようにして横たわる。正式にパイロットになってから、兄弟で給与とボーナスを貯めるに貯めて買った庶民にとっては喉から手が出るほど欲しい高級車だった。震える手で埃を叩き、後部座席を倒して荷物を名一杯詰めた。

「こうやって、2人でよくロング・ビーチに出掛けたよな……。」

ドアを開け、運転席には航空学校の卒業祝いで撮った弟の写真をクリップで止める。注油もせず、今にも引っかかって動かなくなりそうなほど錆びついて軋む音を出しながら、シャッターを徐々に開ける。夜はあっという間に明け、その先の世界には雲一つない快晴の天気に照らされる住宅街が、普段見ていた景色とは思えないほど眩く映る。”絶望とは、この世界を明るく見せるのだな”なんてことを考えながら、愛車と共に離れる故郷の景色を見つめた。

「……さて。その旅も、今回で終わりだ。」

エンジンキーを乱暴に突っ込み、勢いよく掛けた手を時計回りに動かす。丸1年以上はかけていないエンジンが、今にも爆発しそうなほど大きな唸りとともに機嫌悪く目覚める。オイルもガソリンもしばらく入れてはいなかったが、兄弟の愛車は駆けだす準備を整えた。

≪─昨晩の衝撃的速報です。連邦倒産法の適用を宣言していた大手航空会社─カスケーディア航空が、昨日付で全ての航空便の運航を取り止め、全事業の終了を発表しました…。≫

エンジンを入れると同時に流れるカーラジオは、かつて2人が揃って籍を置いていた会社の倒産を伝えていた。何度もブレーキペダルを押して車を飛び降りたい心境を殺しながら、バックミラーに映るかつての住まいに振り返ることも、別れの言葉を駆けるわけでもなく、チェンジレバーを入れ変えてアクセルを踏み続けた。今となってはもはやどうでもいい、耳障りでしかないカーラジオ。スイッチを切り替えると、兄弟そろって旅に出かけていた時に良く流した、シティ・ポップ調の曲が流れる。今の彼にとってもはやそれはただの騒音でしかなかった。彼は苛立ち露わにスイッチを切った。

 

” ↑ Norfolk 150 ”

 

何時間アクセルを踏み続けただろうか。弟が遺していったわずかな貯金で最後の給油を済ませ、またアクセルを踏み続けるだけの道のり。飛行機乗りとして必須スキルである天測航法から、青空に漂う太陽や星々から自分が東海岸方面へと向かっているのは分かっていた。”ノーフォーク市まで150マイル─”の看板がふと目に入る。

「どうせならダニエルと同じように海で死にたいな─。」

心の声が理性に抑えられることもなく、無人のセダンの中に消えていく。

「なぁ、ダン。首も名声も人望もない俺でも、あの世で迎え入れてくれるか?」

全米で発令されたらしい国家非常事態宣言の影響か、走り放題と化した州間高速道路を一台のセダンが猛スピードて突っ切ってゆく。もはや起床時間帯の必需品となったアルコールを片手に、給油の支払いの余裕すら失った彼は、ガス欠を迎えるまで狂ったかのように車を転がし続けていた。

*1
誠に遺憾ながら、アリューシャン諸島における同時多発事件による経済的影響及びそれに続く全路線運休に伴う全社的な人員削減の一環として、貴殿のカスケーディア航空における雇用は1983年6月15日付で終了いたします。

*2
未使用の休暇手当を含む最終給与は別途郵送いたします。

*3
COBRA 規定(雇用者家族扶養法)に基づく健康保険の継続等ついては、人事部にお問い合わせください。

*4
御社でのご尽力に感謝するとともに、このような状況により本措置を講じざるを得なくなったことをお詫び申し上げます。

*5
飛行データを記録するフライトレコーダー(FDR,Flight Data Recorder)と操縦室の会話・音声を記録するボイスレコーダー(CVR,Cockpit Voice Recorder)が収められた頑丈なボックスのこと。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。