SHE'S ALWAYS A WOMAN   作:雪原 美波

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人々はあの頃、我々を称賛していました。
あたかも、3億のアメリカ国民を救った大英雄かのように、
この地球全てを救った映画の戦隊ヒーローのように。

しかし、結局のところ、私は数億の命どころか──
私自身すらも救うことはできなかったのです。
私は、英雄になることなどできなかった。

I am become Death(我こそは死であり), the Destroyer of Worlds.(我こそ世界の破壊者である。)
オッペンハイマーが戦後に詠んだ、ヒンドゥー教の聖典である”バガヴァッド・ギータ(श्रीमद्भगवद्गीता)”。
今、この1節ほど、私自身の内情を詠んだ()()()()()詩はありません。

嗚呼。神様よ、世界で最も愛おしい子どもたちよ。
このような私を、どうか、どうかお許しください。






5th Floor "Mother Ocean"

シアトルのダウンタウンから西方へ約15マイル、市営の湾内横断フェリーで約1時間ほど離れた場所に位置する狭い港は、春先の薄く生暖かい朝霧に包まれている。霧をまとったピュージェット湾の水面が、朝日に照らされ銀色に輝き、夜明けを喜ぶように鳥たちは鳴きながら空を舞う。現在進行形で戦争が進んでいるとは思えないほど、平凡にあふれたごく日常的な港町の光景。そこ傍らでは、入出港を繰り返す潜水艦に巡洋艦や、いつ何度でも艦艇が出航できるよう港内で停泊する数々のタグボート…。この港湾だけが海風では吹き飛ばせないほどの重苦しくも物々しい雰囲気に覆われていた。あの日から早くも2週間、この地域は戦場へ向かう最前線の場へ姿を変えていた。

 

1890年代からの古い歴史を持つ海軍工廠を備えるこの港に集う空母に巡洋艦、駆逐艦─。それらアメリカ海軍のものとは異なる、普段は見慣れない艦影が桟橋に浮かぶ。表記された艦番号143の白文字。第一煙突上にはマスト、第二煙突上にはWM-25を添えた2基のマック型煙突。そこに添えられた回転式のOPS-12レーダーアンテナを筆頭とした多種多様なレーダー装備。艦種に備えた2基のMk42 (J) ModN-7速射砲に、ヘリ格納庫上のMk.25 GMLSミサイル発射機と艦橋前のの74式アスロックSUM8連装発射機─。”海上自衛隊の顔”と位置付けられた護衛艦であった。

 

──1982年4月25日。

日本国海上自衛隊 ヘリコプター搭載型護衛艦 しらね型一番艦”しらね”をはじめとした、護衛艦3隻の姿は、アメリカ・ワシントン州、シアトル市郊外のブレマートン港に在った。環太平洋合同演習(R I M P A C)の最中に突如として訪れたアリューシャン列島沖における無差別同時攻撃─アリューシャン列島沖事変。合同演習もその対応のために前代未聞の中止という判断が下され、既に2週間が経過しようとしていた。既に非常に優れた戦闘能力を持ちながらも、そのお国柄や国民性などの”特殊な事情”でいかなる戦闘への関与を最大限避けなければならない”海上自衛隊”という組織に置かれたこの艦。のちに”深海棲艦”と呼称されるようになる()()()()()()()()()()()()()()を相手としてでも、戦闘の危険性がある限りはそう易々とそれらが湧く海域に出ることは許されず、帰国もできないままもう長い間この港の端に停泊を続けていた。

 

自衛隊員以外の関係者向けに割り当てられた、隊員と同様の二階建てベッドの一般居住区の部屋を抜けて、とっくに電気の灯された狭く迷路のような艦内通路を歩む。

「何日もこの(フネ)に居るんじゃ、さすがに道も覚えちゃうね…。」

奥まで続く殺風景な通路を眺めてはそんな独り言を零した。急傾斜の階段の手摺にしがみ付いてへて甲板をひとつ上がる。朝日が差し込む開けっ放しの水密扉から、救命筏が横一列に連なる航空機格納庫横を経て航空甲板に抜ける。

「ん……んんーっ…。」

航空甲板からシンクレア海峡を経た対岸の島の緑豊かな丘陵を眺めつつ、朝凪に身を任せるように両腕を大きく青空に突き上げ背を伸ばす。ふと湾外から吹いてくる故郷の風に、外ハネに巻いたワンレンヘアの黒髪が揺れる。ジーパンに麻色のニットを入れ、米軍放出品のフライトジャケット”MA-1”を羽織る一人の若い女性──そのラフな格好からは想像できない”海洋生物研究者”という肩書の彼女は、航空甲板で何度目かさえ忘れた朝をのんびり迎えていた。

「……入国手続きを踏めば、シアトルでの下艦も可能ですよ。新鋭艦とはいえ、1ヶ月も艦艇に缶詰は窮屈で女性にはしんどいでしょう?」

旧帝国海軍の陸戦隊用制服の雰囲気を色濃く残す、独特のグレーカラーを纏った幹部常装第一種夏服を着こなした中年の男が、甲板で気ままに過ごす彼女に迫る。本艦の出発地である横須賀基地の出航前に挨拶を交わして以来の顔合わせとなる。護衛艦”しらね”副長の鴻池二佐の姿だった。

「おっ。おはようございます、副長。潜水艇に比べれば断然良いですよぉ。」

「おはようございます。昨晩はよく眠れましたかね?…えぇ…っと…─。」

思い切った背伸びで狭い寝台でたまった閉塞感を吹き飛ばした彼女は、屈託のない笑みで副長に応えた。晴天に掲げていた両腕を静かに降ろし、ジャケットの襟を正す。出航時に艦長以外に名刺を渡すことを失念していたことを思い出し、胸ポケットから名刺を取り出し、副長のもとへ渡す。

「JMDTECの研究職員、山崎(やまさき) 實里(みのり)と申します。鴻池二佐。」

「これはこれは、失礼。私も年かな。近頃は名前を覚えるのが苦手でね。」

副長の鴻池二佐は目を細め、受け取った名刺を顔に近付けてはまじまじと見つめた。少し遅れて、自分が年寄りに近付いていることを思い出しては、軍人らしい硬い表情に笑みが浮かんだ。

 

アメリカ育ちの齢28歳の日本人で、まだ若々しい駆け出しの女性博士──山崎 實里。

株式会社日本海洋開発技研:略称”JMDTEC”……海洋自然環境や海洋生物の調査・研究を目的とする民間研究会社に所属する研究職員の一人である。今回は『海洋環境調査および海洋生物調査』と『軍用艦艇が自然環境に与える影響の調査研究』を目的として、この護衛艦”しらね”に2週間半の予定で乗艦していた。アリューシャン沖事変とそれに伴う合同演習の中止が重なり、彼女も隊員らと同様にここで足止めを食らっていた。

「─……ほほう、潜水艇パイロットでもありましたか。こりゃ驚いた。」

少しでも世間話のタネになれば…と、彼女は今度はパスケースから取り出した1級小型船舶操縦士の資格証と、潜水艇操縦士の会社内資格証明書を鴻池副長に手渡した。

「はい。うちじゃあ民間企業であるのを良い事に、研究者も操艇資格を取るんです。無茶苦茶ですよ。最初の1年間は本当に苦労しました…。」

認可法人『海洋科学技術センター』が所有する有人潜水調査船”しんかい2000”の姉妹船にあたる、JMDTECの保有する潜水艇”わだつみ2000”のパイロットも兼ねた研究者だった。彼女自身がパイロットまで兼任したことは訓練以外ではほぼ無いに等しいが、前者の国立法人ではこの兼任は決してありえない。民間企業が故の怠慢と効率化意識、人手不足対策の賜物だった。

「そうか…深海潜水艇か…。深海の世界なんて、ロマンスがあるなぁ。」

「そんなこともないですよ。深海2000mまで行けば、そこは私たちの命を拒む暗闇です。夏でも寒い居住区画、激しい海中海流…まさに”孤独との戦い”ってやつです。」

ジャケットのポケットに手を突っ込みながら、彼女は目を閉じて語る。瞼の裏に浮かび上がる、アナログ計器がびっしり詰まった潜水艇の操縦コンソール。手元に握るふたつの操縦装置─。船乗りとして通じる同じ感覚を、彼女は鴻池副長にも共有した。

「”孤独との戦い”か…。船乗りってやつは、波の上でも中でも同じ…だな。」

その妙に生々しい説得力を持たせた彼女の言葉に、船種は違えども同じ船乗りとしての感覚と意識に感銘を受けていた。一度洋上に出てしまえば/海中に潜ってしまえば、その船を操る人間は孤独なのだと。機械は優れていても、結局のところ扱うのは意思を持った”人間”なのだと─。

「……故郷の風を感じて、哀愁を感じるのも…ですね。」

まるでタイミングでも見計らったかのように、甲板最後尾の柵に手をかける2人の間に、再びピュージェット湾からのひんやりとした春風が吹き込む。両肩を上げて風を耐えながら、彼女は故郷の姿を見渡していた。

「艦長から聞きました。ご出身はシアトルだそうですね。」

「はい。実家は今は富山ですが、大学卒業までは家族でここに。懐かしいです。」

「それはそれは…。やっぱり”故郷は一つ”とはよく言ったもんだなぁ…。」

いつしか、世間話は自然な流れで彼女自身についての事になった。アメリカ系日本人一世の父親と日本人の母親を持つ山崎の生まれた場所こそ、今回の寄港地であるシアトルだった。ワシントン大学を卒業後、富山に戻った家族とは対照にニューヨーク大学へ進学し、国籍上は本当の故郷である日本へと戻ったのは、今の会社に就職したつい1年半前のことだった。彼女にとっての故郷は、その瞳に映る先のシアトルという素晴らしい港町だった。

「まさか、こんな形で来ることになるとは思いませんでしたけどね。」

彼女は冷たい春風に煽られながらも、その風を受ける表情には淡い喜びが感じられた。「そうですねえ」とだけ答えると、その純粋な彼女の微笑みに誘われるかのように鴻池副長も呆れた笑いの表情を横顔に見せた。しかし、その表情もすぐに消え、またこわばった表情へと転落するように戻る。そのあとに続く会話の流れを、彼女はすぐに予測できた。もう何度も色々な隊員や会社に催促されていたからだ。

「…先ほどお伝えした通り、所定の手続きを取れば()()下艦は可能です。状況が状況ですから、シアトル市内への退避と”欧州回り”での早急な帰国が賢明かと思うんですがね。」

「お気遣い感謝します。ですが、私は下艦はしないつもりです。」

ほんの少し食い気味に、彼女はその何度目かも忘れた申し出をすぐに断った。アリューシャン列島沖事変からまもなく1ヶ月も経とうとしている。アメリカ合衆国は国家緊急事態宣言を発令、太平洋上の航空路・海上路は全て閉鎖。日本でもつい先日に『海上警備行動』が発令されたばかり。事態はますます深刻化していた。

「………それは、同じ船乗りとしての意地ですかい。」

副長は洋上艦においては素人同然である彼女に釘を刺した。海上自衛隊は他国海軍と比較して、この間のような非常に優れた戦闘能力を抱えていても、自らがそれを易々と行使することは許されない。1980年から2回目となる今回の合同演習への参加も、国内から相変わらずの猛反発を受けての決行だった。

「一人の海洋生物学者として、そして何より私個人としての好奇心です。」

「出航すれば、本艦は否応なく”彼ら”と交戦する危険性がある…。それを極力避けようとしても、避けられない事態も想定しなくてはならない。本当の戦場だ。…その覚悟はあるのかね。」

護衛艦とは言え、れっきとした戦闘艦である”しらね”副長の鴻池は、より語気を強めて彼女に迫る。帰国をするにしても留まるにしても、現況のままでは必ず戦闘が近付いてくる。決して脅しでも何でもない、一人の海上自衛隊隊員としての警告だった。

「……”海”は私の人生そのものです。その海が今…彼らの出現による恐怖で支配されている。恐怖とは未知から生まれるものです。その”未知”を解剖し、社会と人々の命を救うことに少しでも貢献できるのなら、私は何だってします。」

彼女は静かに一呼吸置き、再び海峡の遠い海の先を見つめながら答えた。その口から出た言葉こそが、民間人でありながらも一人の研究者としての義務感を抱く彼女の覚悟だった。

「………なるほど、な…。全て自己責任において、この海に死ぬ覚悟があると?」

「当然です。その覚悟なくして、フネに乗る人間は一人たりともいないでしょう?」

鴻池二佐の見つめる山崎の瞳のさらに奥に、静かなる情熱の炎を感じた。自衛官と研究者…それぞれ目的や与えれた任務は異なれど、今日、背負う責務と目指す終着点は同じなのだ─と。

「自衛官よりも自衛官らしいよ…貴女は…。」

一杯食わされた…と言わんばかりに鴻池二佐は帽子を外し、少し白髪の混じる髪を掻いた。

「出航は明朝10時と決まった。真珠湾基地を経由ののち、本艦含む演習艦隊は横須賀港への帰港を目指します。これからは多忙を極めるでしょう。しっかり休息を取っていてください。」

彼女が言葉と瞳に見せた、使命に対しての大火のごとく熱く燃える情熱を目にし、艦幹部も完全に折れるしかなかった。完全なる山崎實里の戦術的勝利だった。鴻池二佐は彼女を引き連れてあの太平洋に出ることに、諦めと覚悟を決めたようだった。

 

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

 

≪出港準備 艦内警戒閉鎖─≫

出航を報せる館内放送が頻繁に流れるようになる。万一の事態に備え、艦に積める最大限の補給物資を詰め込み、護衛艦”しらね”以下、”たちかぜ””あさかぜ”を率いる合同演習艦隊は、予定よりも20分ほど早くブレマートン港を出港した。日が昇る前には点火準備に取り掛かっていたボイラー缶に火が入る感覚が、女性である山崎向けに特別に割り当てられた寝室にまで響いてくる。ベッドに寝っ転がっていると、ゴゴゴという音と振動、ひっきりなしに交錯する館内放送で、艦が離岸したのが分かった。もやい作業の喧騒もいつしか静まっていた。

≪戦闘配食。艦内通路開け─。≫

寝台を降りて服を着替え、待機場所として指示されている士官室に移動する頃、艦内天井のスピーカーから、どもったノイズ入りの声が告げる。航海中…特に今回のように戦闘警戒を厳とする場合、持ち場で食事を済ませるのが自衛隊の基本だと、シアトルで停泊中に隊員から聞いた通りだ。

「失礼します。本日の昼食をお持ちしました。」

「─シアトルでは…結局降りなかったんですね。山崎さん。」

横須賀から乗艦した関係者の”世話係り”に充てられた、まだ20歳も迎えていない若い男性隊員が、アリューシャン列島沖事変発生後から書いていなかった報告レポートに筆を立てる彼女のもとにやってきた。片腕には濃緑色の缶詰を4つ抱えていた。戦闘配置時に配られる戦闘糧食だ。

「えぇ。どうしても自分の目で確かめたい事があって。その時が来るか、まだ分からないけどね…。これが”戦闘糧食”ってやつかしら?ありがとうね。」

主食缶と副菜缶の2缶を彼から受け取り、山崎は下艦しなかった理由を簡潔に述べた。

「……怖くは、ないんですか。」

「…きのう、鴻池副長にも話したわ。恐怖というのは未知からくるもの。だからこそ私たちは”知る”必要がある。これは、私たちに課せられた試練だと思ってる。」

報告用のレポートを書きまとめるノートの上でボールペンの先を滑らせながら、山崎は隊員に目を合わせることもなく淡々と答える。ふと落した視界の中に缶詰が映り、もう昼時を過ぎたのだという時間間隔を取り戻す。

「先日、アラスカ沖に展開した米海軍の第五艦隊がやられたと聞きました。最新鋭のイージス艦が撃沈されたと─……。……自分たちは、彼らに遭遇した時、果たして戦えるのでしょうか。」

青い迷彩柄の作業着を着こなした”世話係り”の男性隊員は続けた。声を少し震わせ、他の隊員や上司にはまずいうことができないであろう本音を吐露するのであった。

「自分すら護れない人間に、国を護れるとはそうそう思えないわ。」

”そんなに弱弱しくって、よく自衛隊に入れたわね─”と言いたかった本音をなんとか胸の内側に押しとどめ、山崎は再びペンを動かした。ペン先が少し乱れ、若干文字が揺れた。

─”知識こそ最大の武器である。探求心の無い人間に、豊かな人生は送れない”─。

「……大学院時代の、私の恩師の台詞よ。」

目を丸める隊員に山崎はやっと目を合わせた。不安そうな眼差しを向ける彼を鼓舞するような言葉を投げかけるつもりだったが、彼女自身も恐怖を感じていないわけではなかった。これは、自分自身を振るいあがらせるために吐き捨てた台詞だったのだ。

 

日没を迎えて完全に冷え切った洋上を艦は進む。艦全体が初春の凍るような冷たい風にあおられる。その頃、”しらね”の先を単縦陣を組んで前方を進む護衛艦”たちかぜ”の、艦橋構造部の両絃に突き出る張り出し部(ウイング)から、鉄帽をつけ双眼鏡を覗く見張りの航海科隊員らが何かを発見した。

「なっ…なんだ、ありゃあ…。」

「ん。どうした、何か見つかったか?」

この日の月齢はおおよそ1.5…月に照らされぬ海は星空だけが漂う。双眼鏡の狭い視野の中で、航海科の隊員はそれを見逃さなかった」。

「何か、黒い塊のようなものが見えた気が…。」

「……航海長!艦首前方、洋上に障害物を視認!ただし距離不明!」

もう一人の航海科員が駆け付け、発見者の横で同じように双眼鏡を覗きこむ。水平線と思しき星の散らばる空と漆黒の闇の間で、なにやら星が見え隠れする”影”が確かに見えた。隊員は大声で艦橋に佇む航海長に内容を伝えた。

「了解。両舷前進微速!対水上警戒を厳となせ!艦橋より戦闘指揮所(CIC)、艦首前方に感はないか!」

戦闘指揮所(CIC)より艦橋、後方の僚艦を除き、感はありません!」

「旗艦”しらね”に本件を通達!……両舷見張り員は探照灯用意!」

障害物回避の訓練通り、蜂の巣をつついたかのように対応が進む。まずは前方の障害物が他の艦艇などではないことを確認し、ウイングにはわらわらと見張り員が駆け付け、大急ぎで前方の洋上を照らし出す。探照灯の照射角度を少しずつ上にあげると、見慣れない銀色の岩のような物体がいくつか映り込んだ。

「クジラ…の死体かね。洋上に姿を見せるのは、珍しいが…。」

「イキが良ければ捕鯨して、隊員総出でかっ喰らえますね。」

やや座面の高い艦長席に座る艦長の推測に、副長を兼任する航海長は冗談を交えた。が、そこに笑顔はなかった、この海域を北へ進めば、未確認海上生命体とアメリカ軍艦艇が戦火を交えている戦闘海域がある。故に何が起こるか分からなかったからだ。冗談は、自分自身を緊張で束縛しないためのおまじないのようなものだった。

「ウ…ワ……!ひ…ひと、人だ!人がいるぞ!」

右舷に大量に押しかけた見張り員や艦橋要員らの頭上を、突風のようなそんな声が通過した。思わず全員の身体が硬直した。その声に応答するように、探照灯は右舷前方250メートル先を捉えた。大きな鉄を、アルミホイルのようにくしゃくしゃに変形して固めたような、鉄の塊が漂流する。付近には大きな油膜が海面を這っていて、そのすぐそばには確かに人の影も浮いていた。

「い、生きては、ないよな…。」

水死体を見るのは全乗組員が当然初めてだ。肌は漂白したかのように青白く、胸元から顔にかけては完全に海中に没して沈黙している。生きていない人間でないことは確かだった。

「全員、女だな…。」

最微速で徐々にそれらが浮かぶ方向に寄ると、よりその姿はくっきりと見えるようになった。浮かぶのは合計で5体ほど。その全部の肩幅や体型からも、女性であることは一目瞭然だった。

「”しらね”に大至急連絡!直ちにHSS-2A/B(艦載ヘリ)発艦を要請! 」

≪二号内火艇、発進準備用意。乗員は直ちに甲板中部に集合せよ。≫

護衛艦”たちかぜ”艦内は再び大騒ぎとなった。今度は蜘蛛の子を散らすかのようにわらわら集まっていた乗組員らが持ち場へ戻り、”揚収”*1を始めるべく行動を始めた。皆の頭の中によぎるのは、この世界規模の異常事態が始まる引き金…”アリューシャン列島沖事変”に巻き込まれた、民間人1万の命だった。潮流に流されればここまで運ばれてくる可能性も十分考えられる。自分たちもあの事変に巻き込まれた”当事者”であるのだという実感を与えるには、十分すぎる衝撃だった。

 

 

海域時間にして深夜2時。これまで静まり返っていた護衛艦”しらね”。その艦内が徐々に騒がしくなっているのことに、一般科員寝室で眠りについていた山崎は気付いていた。完全にアメリカ西部時間に慣れてしまった、重い瞼を不機嫌そうに開け、上段ベッドに当たらぬように訛りの如く重たい上半身を持ち上げる。怒号に近い艦内放送に叩き起こされた形だった。

≪艦載機”ちどり”発艦準備用意。飛行要員は至急、航空機格納庫へ集合せよ─。≫

陰鬱に薄暗く艦内通路を照らす赤色灯の灯りを頼りに、山崎は階段を上り、外甲板へとつながる通路を寝惚けながらも歩いた。フライトジャケットを着こなしていたこと、艦内が薄暗いことが幸いし、すれ違う隊員らに制止されることもなかった。

「ったく、こんな深夜に一体何だってんだ!」

「鉄の塊と人が見つかったんだとさ。あの事変で撃ち落とされた旅客機の乗客かもな。」

「アラスカ沖のやつか、こんなところまで海流に流されるもんなんだな。」

外部見張りのためか、駆け足で身体を半身にすれ違った隊員が、しびれを切らしたかのようにそんな会話をしていた。まだ半分眠っている山崎の脳が、なんとなくこの騒ぎの要因を理解した。

「うぐぐっ…!これ、重っっも!」

外甲板に繋がる水密扉は、航海中であり当然にして固く閉ざされていた。何度も試行錯誤を繰り返しながらも、全ての力を出し尽くすつもりで、やっと扉が開いた。一度開けたら扉は締めなくてはならないことを彼女は知っていた。”これは面倒だな”と思いつつ、やっと目が覚めた気がした。

「うひゃ、さっむ…。」

外甲板から見える景色は、映画やドラマでも見たことが無い、初めて見る光景だった。三隻の護衛艦が探照灯を総出で焚き、それでも足りぬと艦外部の電気を全て灯したり、艦橋横のウイングからは懐中電灯で隊員らが海を照らす─。外は確かに暗く寒かったが、それでも艦内と同じ程度の明るさにはなっていた。

「…。」

海洋生物観測用に持ち込んでいた折り畳み式の双眼鏡を拡げては目を凝らして覗く。右舷800メートル程度先に停まる護衛艦”たちかぜ”周辺には、確かに鉄塊が海面上を浮遊していた。

「ううっ…。ちょっと匂うな…。」

なぜだか、遠洋の凪に乗って腐乱臭のような、磯の香りのような、何とも言えない香りに思わずジャケットで口回りを覆った。ふと、このにおいをどこかで嗅いだことを思い出す─。それは、かつて深海潜水艇”わだつみ2000”で、海底土砂を採集した時の、その採取物からほんのり香るあの匂いに酷似していた。

≪艦載機”ちどり”発艦。現場海域へと向かう。≫

艦内放送が再度かかる。舷側通路の先の航空甲板から、本艦の艦載機であるHSS-2B哨戒ヘリコプターが山崎の真上を轟音を巻き散らかしながら通過した。艦載ヘリが本艦に戻ってくるまでは、そう大して時間を要することはなかった。目的は救助ではなく揚収だった。

 

”たちかぜ”の全乗員が固唾を飲んで見守る中、内火艇2艇と紹介ヘリによる揚収・捜索が始まった。水死体を見るのにやっと目が慣れて、頭の理解が追い付くようになるころには、次第に混乱も落ち着いていた。

1号内火艇(ボート・ワン)より”たちかぜ”(ボート・ポート)。これより揚収を開始する。オーバー。≫

トランシーバ片手に飛び交う、いわゆる”海自イングリッシュ”を含んだ無線通信。内火艇に乗り込んだ隊員が本艦に揚収作業の開始を冷淡に報せる。

「うっっ!くっせえ!」

「おい、しっかり持って引き上げろよ!転覆するぞ!」

「い、いくぞ!せぇーのっっ!!」

男5人がかりで持ち上げる”水死体”。たっぷりと海水を含んでいるのか、150キロ以上は優にあるであろう重さを感じながら、それを一気に引き上げた。大きく揺れる内火艇、その”水死体”の全貌が明らかとなったとき、その場にいた隊員ら全員が思わず腰を抜かしそうになった。

「うわぁぁ!」

突然、あまりに情けのない声が轟く。しかしそれもそのはず、引き上げたその”水死体”が、少なくとも”ヒト”でないことは、その全貌を見るなりすぐに理解できるほどだったからだ。

「こ、こいつ…人間じゃねえぞ!」

水面下に隠れていた人間の頭に当たる部分には、鮫の頭のような異形のバイザーのように覆われている。その部分につく口は明らかにヒトのものより大きく、その周囲にはこぶし大の大きな歯がずらりと並ぶ。その開きっぱなしの口は、人間の頭程度なら簡単に飲み込めそうな大きさだった。足の付け根と胸元から首にかけて纏う黒い布地の裏には、青白い肌とへそが見え、ぶら下がる両腕には人間の上半身ぐらいの大きさはある真っ黒な手がぶら下がっていた。

≪”たちかぜ”より”しらね”へ。現在海上に浮遊する人と思しき遺体を揚収。……ですが…。≫

護衛艦”しらね”艦橋に、声の張りが無い無線が、艦橋のスピーカーから流れる。あまりにみっともない声に、鴻池副長は怒りを抑えながら応えた。

「こちら”しらね”。揚収した遺体がどうした。」

≪…よ、揚収遺体…ですが、明らかに”人間”のものではありません…。≫

「……言っている意味が分からないが。」

≪人の形こそしていますが、頭部異形のほか、両腕両手の大型異形が認められます…。≫

HSS-2A/B(”ちどり”)より”しらね”。揚収完了なるも、揚収体に相当の異形あり!≫

伝える内容の詳細を訊き返す間もなく、今度は”しらね”艦載の哨戒ヘリからも同様の無線が飛び込む。艦橋に居る全員が、頬に汗を垂らしながら思わず目を合わせた。

≪─また、揚収作業にて直接揚収体に触れた者の皮膚が腫れ上がる等の体調不良の現象あり!着艦時に防毒マスク等の準備と除染作業を要請します!エマージェンシー・コール(緊急事態を宣言する)!≫

緊迫感がスピーカー越しからも溢れんばかりに伝わった。何が起こっているのかは定かにはならないが、それでも”何かが起こっている”という事実だけで十分だった。無線を担当する鴻池二佐は直ちに受話器を手に取り、甲板要員に次々に指示を出し始めた。

「了解した!─…艦橋より航空甲板要員へ!揚収機が緊急着艦する。その際、防毒マスクと防水手袋、防護服と防水シートをありったけ用意!揚収体は大至急”第二浴場”に突っ込んで閉鎖しろ!()()()には絶対に直に接触しないこと!ヘリと移動経路は全て除染!ヘリ乗員は大至急医務室へ!

≪こちら航空甲板、了解しました。CBRNE災害*2事案相当で対応します!≫

艦載機からの緊急事態宣言を皮切りに、副長である鴻池二佐は怒涛の無線交信で、冷静に現状に見合った対応を次々に指示する。

「”しらね”より全艦へ!揚収作業は中止!揚収体には決して直接触れるな!繰り返す!─……」

その熱気に背中を押されるように、艦長もマイクを片手に揚収作業の中止を宣言した。現時点で何が起こっているのか、それを理解できる人間はこの艦にはいないが、まずは揚収要員として繰り出した隊員たちの保護が先決だった。

「艦長……こいつはもしかして…。」

「あぁ。噂の未確認海上敵性体─”UNH”ってやつかもわからん。」

慌ただしいやり取りが背後で飛び交う闇夜の艦橋で、鴻池二佐は艦長と顔を合わせる。艦長は深くかぶった制帽の柄を少し持ち上げた。眼差しは真珠湾を向く艦首を見つめていた。

「だとすれば…。」

「そうだ。本艦は”UNH”を鹵獲した、世界で初めての軍艦ということになるな…。」

UNHとの戦闘は大変激しく、これまでに主に彼らとの本格戦闘に臨んだアメリカ海軍・カナダ海軍ではまだ鹵獲の実績はない。揚収した彼らが本当に人間ではなく”UNH”ならば、艦長の告げる通り、世界で初めてそれを鹵獲したこととなる。

「これは、真珠湾への入港後も一つ揉めそうだな。」

揚収したそれらが正式に”UNH”と認められれば、本艦は全てが謎に包まれる彼らの改名に大きく貢献するだろう。うまくいけば、きっと彼らに抵抗できるだけの手段を見出せるかもしれない。鴻池二佐は、自らが歴史の当事者となることを実感し、手に汗を握った。長いはずの夜が狂ったように進んでいくのを実感した。

 

”緊急時を除き士官室と寝室以外からは出ないように─”という言いつけを守ることもなく、無許可で艦のあちこちを廻ることに悪びれる様子もなく、若い女性博士はペンライトで足許を照らしながら、階段を昇り、シースパローIBPDMS 8連装発射機が鎮座する格納庫上部にたどり着いた。

「ありゃ、もう帰ってきちゃったか。」

遠くで聞こえていた”バラバラ”と空気を切り裂く音が、徐々に近づいてくる。サーチライトを彼女の方角に照らし、ヘリは緩やかに降下しては航空甲板に着地した。

「─まずは救護班だ!乗員を全員医務室に運ぶぞ!」

物々しい防毒マスクと保護メガネを着用した隊員らが、まだエンジンの冷めきらぬHSS-2B艦載ヘリコプターに集う。どういった状況なのかは、全艦放送に流れる交信内容から大枠は掴んでいた。ヘリの乗員は皆自力で歩ける様子だった。しかしその内の何人かは腕を捲り、苦悶の表情を浮かべながら深紅に腫れ上がった腕を露出させている。彼らの全周を包囲した”救護班”の付き添いのもと、乗組員らの姿は大急ぎで格納庫奥へと消えていった。

「防水シートを展開してくれ。揚収体を引っ張り出すぞ。」

揚収班のリーダーと思しき隊員が、手下たちに指示を与える。3メートル四方程度のビニールシートが甲板に広げられ、次々にヘリ内部に突入した隊員らが、腰を低くしながら”収容体”をその上に運び出した。

「あ、あれは…。」

山崎は再び折り畳み式の双眼鏡を掲げ、死体を上から見下ろすことにだけは申し訳なく思いつつも、その姿を目撃すべく夢中になっていた。不気味なほど青白い唇と肌、ズタボロの首から下げる漆黒のマントー。帽子のように被った歯がむき出しの口を持つ黒い構造物、セミショートの青色がかった銀髪、今にも目が覚めそうな眠り姫のような表情──運び出されたその”収容体”は、確かに人間のものではないことは火を見るよりも明らかだった。

「急いで”第二浴室”まで運ぶぞ。除染班も続いてくれ。通ったところは除染液で洗浄だ。」

一瞬だけ見えたその色白の”亡骸”は、すぐに10人程度の自衛官らに囲まれ、手際よく防水シートに包まれた。足に力を込めながら一歩一歩踏ん張り進む彼らの跡には、除染液が入っているのだろうか、リュックとそこから伸びる散水ホースのようなものを手にした隊員3名が続いていた。学者として、そして山崎という一人の人間として、その光景を五感で感じとる。胸の奥の心拍が少しづつ大きく波打ち、体温が上がって呼吸が早くなるのを感じた。冷たい海風にあたりながら、落ち着くまではしばらく時間がかかった。

 

 

シアトル周辺海域から真珠湾のあるハワイまでは、航海速力20ノット程度なら約6泊7日の道のりだ。残された時間的猶予はその数字以上に少ないだろう。生物学者──それも海洋生物を専攻とする博士が、あのとても人間とは思えない”新種生物”を見逃すわけにはいかない。虎視眈々とそれに対面する機会を狙う山崎は、”揚収体”に接触すべく、2日後には艦内幹部にコンタクトを迫った。

「─…ですから、その”揚収体”が一体何であるのかを、この目で確かめたいのです。別手に触れたいとか、ましてや解剖などするわけでは当然にしてありません。」

航海3日目の夜が明け、通常照明に戻された横長の木のテーブルが鎮座する士官室。その空間には、コーヒーと紅茶の香りが混ざり威勢を利かせあっていた。二人の前に置かれたティーカップ。鴻池二佐がコーヒーが苦手なことは、横須賀出港前に下士官が教えてくれた。その通りだった。

「残念ですが、それは絶対に許可することができない。いくら学者さんであってもね。」

副長の鴻池二佐は、鼻から息を吐いて一呼吸置き、決して譲らないと言わんばかりの堅苦しい表情のまま首を横に振り告げる。まだ湯気の立つティーカップを静かに口元に運んだ。

「…先日の揚収作業では、揚収体に触れた隊員数名が体調不良を訴えた。奴は例の”海上敵性生体”ではないかという声も少なくない。原因は不明だが…いずれにしても、そんな危険な代物を、いち自衛官として、一般人の貴女に近付けるわけにはいかないんですよ。」

苛立ちを少しずつ露わに、机の上で指をトントン鳴らす鴻池二佐。語り出しに少し唸り、眉間にしわを寄せた彼ながら、彼はその反論の根拠を好奇心旺盛な山崎に伝えた。

「…であれば、せめてその”揚収体”の検分を日本海洋開発研究(わが社)にて引き受けさせてはいただけないでしょうか。研究所も基地と同じ横須賀市内に在りますし、何より──…」

「お嬢さん、我が艦内での営利活動は一切禁止だ。あまりにも与えられたルールを守ってもらえないようじゃ、一般の人間でも太平洋のど真ん中に降りてもらうことになるぞ。

鴻池二佐はこの護衛艦の責任者の一人として、彼女の発言を遮っては語気を強めて彼女に警告した。”それが出来るのであればやってみなさい”と、自衛隊員の幹部である彼に言い返す勇気は、いくら学会発表の数々を乗り越えたメンタルを持つ山崎でも無かった。ルールを全て護るという、この”しらね”乗艦の条件に同意したのはほかならぬ彼女自身だったからだ。

「……それに、”揚収体”は真珠湾入港後、アメリカ側に引き渡すよう要請が出ている。いずれにしても、日本国内に持ち込むことはできない。国民も市ヶ谷もそれを許さないだろう…。」

彼の気迫と鉄壁の頑固さにぶち当たった山崎は、分かりやすく肩を落としてカップに淹れられたコーヒーの表面に映る自分の表情を見つめる。鴻池二佐は躊躇することなく、最後のトドメを刺した。山崎はその絶望感に打ちひしがれ、口から出せる言葉を完全に失った。

 

”こんな不気味な積み荷など早く降ろしてしまいたい”と言わんばかりに、護衛艦”しらね”以下計三隻がハワイ・真珠湾基地に駆け込むように入港したのは、予定より半日近い6日目の夕方の事だった。近付くリゾート・ビーチには観光客の姿は一切なく、時々小銃を片手に抱える兵士が哨戒に当たっている。入港時に右舷に見るホノルル国際空港には、全米領空の無期限閉鎖で行き場を失った日韓やアメリカの航空会社のジャンボジェットが、来ることのない出発の時を待ち続けていた。

≪入港用意。各作業要員配置につけ。≫

護衛艦”しらね”は、海上自衛隊の旗艦として、堂々と真珠湾のブラボー・桟橋に着岸した。

「山崎さん。本艦は真珠湾に入港しました。ここでは一時下艦・上陸が可能です。」

扉の向こうで入港要員が忙しなく動き回る中、再び世話係の若い男性隊員が声をかける。全米にて緊急事態宣言が全米で発出されているにも関わらず、真珠湾ではごく限定された範囲内での半舷上陸が許可されたようだった。

≪こちら航空甲板、目標物資の陸揚げ準備完了。≫

全身を防護服に包んだ米兵とフェイスマスクと防護服の代わりの防”火”服を着用し、後部航空甲板にずらりと並ぶ自衛官らの物々しい対峙が、接岸した岸壁を柵越しに見つめてもよく分かった。

「はえぇ…。おまえ、あのハーフ美人の世話係りなんだって?」

「千載一遇の大チャンスじゃねえか…。ヤったか?ヤったのかよ…?」

「シッ!んなこと出来るわけないだろう…。」

「…だ、だっせえな、お前…。」

「根性なし。ちゃんと”ブツ”付いてんだろうな?」

無事に補給地点まで辿り着けたことに安堵してか、背後を歩く自衛官らで交わされる青々しくも大変不快な小声のやり取りを気に留めることもなく、山崎は網状のフェンスにつかみかかるように、”しらね”を眺めていた。ひとりの生物学者として、ほぼ間違いなく未知の生命体である”揚収体”を間近に見れなかったこと─。そしてそれに触れることが叶わなかったことに、やり場のない怒りと悔しさがこみ上げる。防水シートに包まれた”それ”がアメリカ陸軍のM939トラックに積まれる。それを山崎は、さも指をくわえる子供のような眼差しで見つめるしかなかった。

 

 

横須賀港に入港したのは、真珠湾での約2日に及ぶ補給を終えてからさらに1週間後のことだった。入港は真珠湾出港時の予定通りとなる昼下がりの14時。そこから退艦に係る所定の手続きを終え、基地正門を出たのはそこから2時間半も後の事だった。基地には”アリューシャン列島沖事変”以降、艦の隊員らの安否を心配していた両親や家族でごった返していた。歓喜にあふれる帰港のなかで、山崎はその歓喜の波に乗れないままでいた。地平の国鉄横須賀駅を横目に、逸見岸壁を望む臨海公園と旧海軍時代の横須賀線に繋がる貨物線跡を跨ぎ、汐入駅から赤塗りの京浜電車に揺られる。

≪普通浦賀行きです。終点まで先に参ります。≫

あの物々しい雰囲気に包まれていたアメリカの陸地とは相反するように、日本の景色はこの横須賀港を出港する前から一切変わっていないようだった。車内の横一列のロングシートには、帰路につく学生にサラリーマン、そして買い物終わりの主婦が、各々の時間を過ごしていた。

(良くも悪くも、相変わらず変わらないね。この国は…。)

その平和ボケの象徴とも思える今まで見てきた景色との対比に、ため息を漏らしつつもそんなことを考えてばかりだった。重い瞼が落ちるのをなんとかこらえながら、帰り時を進んだ。

≪まもなく…馬堀海岸、馬堀海岸です。≫

普通列車の浦賀行きに乗り6駅で着く最寄り駅には、片開の大きなドアが開くと同時に、懐かしさを感じる住み慣れた町の香りを、海風に載せて車内に運び入れた。春先だというのに刺すように冷たく感じる海風に逆らうように坂をのぼる。丘の上にある彼女の住む平屋建ての小さくもかわいらしい家につく頃には、これまでに蓄積していた疲労感が全身を乗っ取っていた。

「ただいま………。」

玄関の照明スイッチを押すと同時に、無人の家に寂しげに暖色が燈る。シャワーにも入らず手も洗わず、彼女は導かれるように寝室に沈み、持っていたバックを投棄し、そのまま柔らかいベッドに沈んだ。

「もう、だめだ…。」

一連の航海でのあの”悔しさ”とやり場のない”怒り”、その不快感を抱えながらも襲う睡眠欲に従うしかない自分を呪いながら、山崎は照明も消すことなく泥のように深く眠ってしまった。時計の針は18時を指していた。

 

 

 

 

 

 

 

*1
遺体を収容すること。海上保安庁で主に用いられる用語。

*2
化学 (Chemical)・生物 (Biological)・放射性物質 (Radiological)・核 (Nuclear)・爆発物 (Explosive)のいずれかを要因とする危険または事故等の災害

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