SHE'S ALWAYS A WOMAN   作:雪原 美波

7 / 9
「あるんですよね?…“深海棲艦”に対抗する、唯一無二の方策が──。」
第二次世界大戦記念碑からリフレクティング・プールを遠目に望む彼女は、私自身の心の内側を弄っているかのように自信有り気に訊ねた。
「私と先生が出会ってから1年が経ちます。その間に、私は研究者の補佐役として、貴女の最大の理解者となれるように努めてきたつもりです。」
朱色のインクを思うがままにぶちまけたように、ワシントンの西の方角の空が茜色に染まる。
ここでコクリと頷けば、もうあの美しくも儚い夕日を見る日は一生来ないだろう。そんな思いが脳裏をよぎった。──絶望とは、これ以上に世界を美しくして魅せるのだと、この時、私は初めて知ったのだった。




7th Floor "The Day She Was Born"

津久井というある種の運命の人間この場所で巡り合うまで、いくら強い酒を飲み続けても全く酔わなかったのにはれっきとした理由があった。それは、ベーリング海で”潜り”をしたあの日遭遇した出来事と、アメリカ政府からの時刻領海内であることを根拠にした”口止め”の通達。そのわずか半年後に発生した”アリューシャン列島沖事変”との関係性。

 

そして今日、またここに足を運んでみるが、やはり”彼”が居ないことにはあそこまでカクテルはうまくならないし、酔いが回ることも一切ない。護衛艦”しらね”で見たあの肌白の揚収体…やはり自衛隊から護衛艦乗員を含め全員が口止めを食らっていた、あの出来事─。それが、まるで彼女の脚に鎖で繋がれた、重たい鉛玉のように引っ張っているような感じがした。

 

それが恋する乙女のときめく心に陰りをかけていた。

 

「──ちょっと、両隣の席をお借りしますよ。」

「…なに、ナンパならお断りよ。私はもう間に合ってるわ。」

いつも山崎が座る、入り口から4番目の丸椅子。店主(マスター)の立つ前で堂々と彼女の両脇を、英語で”場所を借りる”と伝えては、すぐに山崎の右隣りを背広姿の西洋人の男が固める。明らかに怪訝な表情を浮かべ山崎は困惑の表情を浮かべていた。

「おいおい。可愛い子に手を出したくなるのは男の性だが、その子にはもうご不要だ。」

カウンターで不快感をあらわにする山崎に、店主が同じ英語話者として鋭い援護射撃を彼にに浴びせる。しかし、涼しげな笑みを浮かべる彼は一切動じるつもりもないようだった。

「まさか、俺は妻子持ちさ。あらぬ疑いは勘弁してくれよ。女房に殺されちまう。」

「──ブラッディ・メアリーとニコラシカ、お願いしようかな?」

まるで自分の家を泥の付いたままの靴で上がられたような、やけに胸を張った堂々とした態度の2人。彼らに相当な不快感と、納得のいかない感情を抱えながらも店主は頷いた。

「…強い酒をバカバカ放り込んでいる割には全く酔えていないねぇ。」

「一人だけの時間に、その隣を土足で上がり込んで来られるようじゃ、機嫌も悪くなるわよ。」

涼しげな表情を保ちながら、不審な男は横髪に隠れる山崎の表情を肘をつきながら見つめる。”この男はきっとただものではない─”。深海潜水艇の”潜り士”ならではの感覚で、山崎はとげとげしい英語の返事を横の彼に返しつつもそれを一瞬で読み取った。

「はっはは。アメリカじゃ家の中でも靴は脱がないぜ。英語堪能なお嬢さんなら知ってるだろ?」

「──…さて、そこまでカリカリして機嫌を損ねてるのは、例の”ベーリング海”と海上自衛隊(Japan Navy)が発見した”揚収体”の全データ没収と口封じが原因かな。海洋開発技研の()()()()()()()()()()。」

紅い口紅の付いたグラスに口を付ける手が思わず止まる。彼女が遭遇した二つの出来事─それは、自衛隊や各政府機関(特にアメリカ政府)からの要請で『口外無用』として、仕事の同僚にはもちろん、家族や親類などの身内にも一切伝えていない内容だった。

「残念だけど、あそこで君が唯一知っているあの景色の正体は、公にはされないぜ。」

背筋にぞっと氷の筋が走る。ベーリング海の深海調査と護衛艦“しらね”での一連の出来事…あの日以来、その出来事については米政府や米軍関係者にしっかり口止めを命じられていた。しかしその裏で、会社の人間に相談することなく、彼女が裏でその“二つの特異点”に接触しようとしていた。そのことは外部には一切知られていないはずなのに、男はそれを何故か知っていた。

「………誰ですか、あなたは。」

彼から上半身を逸らすように、肘をついて頬で頭を押さえていた手を思わず離す。ゆっくりと再び彼の顔を見返すと、図星の表情に一枚上手でも取ったかのような顔で彼は目を合わせた。やはり、この男はどうもただものではなさそうだった。

「名乗るほど大した人間じゃないさ。君が我々(俺たち)と同じ()()に乗ってくれるなら、君が幸か不幸か出くわした2つの事象とその研究に、今後君が携わる可能性を含め、全てを話す用意はある。交渉のテーブルに立つなら話を進めよう。そうでないなら、俺と君はもう赤の他人だ。ここで出会ったことも俺についても、その一切を無かったことにするんだな。俺も君を忘れるさ。」

「…掻い摘んでいえば”海洋生物学者”としての私に対する仕事のオファー…ね。だったら引き受けてもいいわよ。適切な料金と保障はしっかりと付けてもらえればだけど。」

深海潜水艇の操縦士を兼ねるようになってからは、個人から山崎個人に直接調査や研究の依頼が来ることは減ったが、それでも完全になかったという訳でもない。丸くした目を戻した彼女は、大体の内容をご自慢の倫理的思考力で要領よく汲み取り、最低限の承諾条件を彼に伝える。

「もちろんだ。俺らの箱舟に乗るっていうなら、君の衣食住を含めた心身すべてを保証する。報酬も君の言い値で構わないし、国籍移転手続きも、必要とあらばすべてこちらで用意する。」

…『それならば交渉成立ってことね。』と口に出そうとする山崎の前の空間を切るようにして、男は語尾を引っ張り伸ばすように話を続けた。どこかクールでありながらも、人を見下しているかのような涼し気な表情が曇るように、彼は口角を下げて告げる。

「……でも、大切なことは本当にその報酬──”カネ”だろうか?俺は、というより俺たちは、君も来ればそれがよく分かるだろうが、皆”大切なもの”のために、その極秘プロジェクトに文字通り生命を削って取り組んでいるんだ。生半可な気持ちで参加されちゃ迷惑だし、何より心身が持たないだろう。…それほどの激務が待っているということさ。だから参加の対価も限界まで高くした。深海ダイバーであり、日本でもトップクラスの海洋学者もある…君のような天性の才能に富んだ選りすぐりの人物なんか、特に替えがきかないからな。」

山崎の手持ちのモヒートに口付けするような暇も禁じるように、彼は少し長い説得が始まった。どうもこればかりは冗談交じりではないらしい。山崎は彼の青い瞳に取り込まれたかのように、彼の声とその話を耳に注ぎ続けた。

「……これだけは君自身のために伝えておこう。いいか、これを君に話せるのは正式発足前の今日までだ。プロジェクトの俗称は─……」

男はまだまだ話を続ける。──その極秘とされる計画の名前は”ELEVEN PROJECT”。その計画が掲げる目標達成のために選ばれることとなるであろう精鋭たる人物向けに用意した、会議室の11名分の席が名前のもとであると彼は言う。どうも”海洋”と深い関係があるその鋭角における研究活動は、それにもっとも適任なメンバーとして山崎の誘致を試みたのだった。

「──改めて交渉を進めよう。箱舟の切符(チケット)は片道分だけだ。先述の通り参加の敷居は高いぞ。…一度乗ればもう元の場所には戻れなくなるだろう。国籍上の故郷であるこの国とも、国に残した家族や友人・恋人とも、お気に召しているこの店とカクテルとも全てお別れだ。”海洋生物学者”としての自分の社会的地位とも…だな。……大変気の毒ではあるが……なにより、君のような天性の才能に溢れた人間を泳がせておくような時間は、実はこの世界情勢の中ではもうないのさ。」

唐突なる不審な彼の出現に、なんだか雲がかかったようなその話の内容─、どうもその依頼は『分かりました』と頷けるほど、一筋縄で合意締結に至る代物ではないようだった。

「そこまでの条件を呑めとは、さぞ壮大な研究なんでしょうね?」

皮肉交じりで山崎は聞き返した。

「あぁ、そうだ。君がベーリング海海底で見た事象と、巡洋艦”シラネ”で目撃した揚収体……あれらはUNH…改め"Abyssal Fleet"(深海棲艦)であることが確認された。君の全てを我々は奪ってでも、その研究が今の世界に絶対的に必要となる。全てを差し出す対価が、約46億798万人の暮らすこの世界を、きっと救うことになるだろう…。」

"Abyssal Fleet"──日本語名称:深海棲艦(しんかいせいかん)。各戦闘で記録された最大速力は推定42.5ノット─時速換算で約80km/h。砲撃速度は毎分60発前後とされ、弾速は秒速900メートル…記録された最長攻撃有効範囲は25km──。人型であり、軍艦と比較すれば塵程度の大きさの身体に備わる強力な水上対戦兵器。そして大砲砲撃を容易に交わす海面上を自在に水上に動く俊敏性。人型未確認生命体でありながら、軍艦並みの戦闘能力を持つことから命名されたその名前は、アメリカ軍とNATOが正式に定めた、海中から突然現れた敵性未知生物に対する名称だった。ELEVEN PROJECTの実際の顔はその”深海棲艦”の生体的な調査・研究を進め、彼らと互角に戦い軍事的武力によって効率的かつ経済的に鎮圧する──、その実現のために秘密裏に結成されようとしている、アメリカ合衆国政府およびアメリカ軍直属軍事研究組織だった。

「し…し、”深海棲艦”……。」

まさしくそれらが現れたであろう深海を心の拠り所としていた、海洋生物学者が、その名前に飛びつかないわけが無かった。その研究のために失う代償が大きいと分かっていながらも、彼女の胸の奥に潜む内面が、それに引き付けられないわけが無かった。

「……お待たせしました。ブラッディ・メアリーとニコラシカだ。」

”これは俺からの細やかな奢りだ”とだけ笑顔で囁き、未だに怪訝そうな表情をその強張る顔面に残す店主から受け取り、テーブルに乗せた彼女の肘横にそのニコラシカのグラスを並べる。

「海洋生物学者たる君にとって、その”深海棲艦”は新たな知的生命体としても興味は尽きないだろう?…君が今の与えられた場所で職務を全うするのであれば、絶対に携わることはないだろう。国に企業…その環境を変えても…だな。そうとあるならこの夜噺も、君が今日まで太平洋で経験した出来事の記憶もここまでだ。」

「…………。」

「それとも、君が見たあの二つの光景を忘れられぬがまま、あの白肌の怪物の背中を記のまま追いかけたいというのなら…。我がプロジェクトに是非参加していただきたいと思う。選択肢はふたつのみ。その選択はどちらも重いものだが、どちらを取るも君のためになるだろう。あとは、どちらの方が世の人々のためになるかどうか…になるな。」

”世のため人のために『何か』を果たせる博士になる─。山崎が大学進学後すぐに受験したニューヨークの大学の大学院の入試面接の際に、面接官へ向けて念を押して述べたワンフレーズ。いつも自分の良心と野望に忠実に生きる…そうアメリカ時代から決めていた自分への戒めと共に、この二つの言葉がふと彼女の脳裏によぎった。

「………これは君にとっては”毒”であり、世界にとっては人々を救う”薬”だ。執行猶予は1週間。この毒を飲むかどうかは、君に託そう。」

その名前と新たなる未知の生命体の可能性に山崎は動揺を隠せないままでいた。背広姿の男はそんな彼女に目もくれず、ブラッディ・メアリーをぐいぐいと口の中に放り込む。気が付けば彼は数枚のドル紙幣だけを置い店内から消え去っていた。そんな彼が風のように消えるまでの短い間に呟いたその言葉の数々。それが、山崎の脳裏へばり付くかのように漂っていた。

「…変な男だったな。お嬢さん(ドクター・ヤマサキ)、変なことはされなかったかい。」

「え?…えぇ。大丈夫よ。ボーっとして聞き流していたわ。」

その混乱を喉奥にぐっと流し込むように、彼からプレゼントされたニコラシカを一気に飲み干す。ふと、グラスの底に薄っぺらいメモ用紙が湿り気で引っ付いているのに気付いた。

 

 

”5月29日 新東京国際空港(NRT)

成田空港駅改札内のコインロッカー11番内に、

おあつらえの翼を用意している。”

 

 

英語の筆記体で記されたメモ用紙の文章を理解するのは容易かった。丁寧に折りたたまれた紙には、持ち手のない鍵本体部─芯とも呼ぶべきか─が同封されていたからだ。しばらくその二つをじっと見つめ、彼女は周囲に隠すようにそっとジャケットの内ポケットにそれを仕舞った。

やはりこの夜も、彼女に酒の酔いが回ることはなかった。

 

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

 

与えられた短い執行猶予付きの”毒”を呑む覚悟を決めた山崎が会社に辞職届を提出したのは、週明けの忙しい業務もひと段落が付いた水曜日の事だった。

「優秀な人材が価格競争に巻き込まれるのは、いつの時代もどの分野も同じ…か。」

彼女の所属長は肩を落とし、大きなため息をついた。執務室の隅で涙をにじませてその様子をただ無言で眺めるのは、自ら副操縦士役を買って出ていた山崎の右腕─の助手だった。

”海外からの潜水オファーを承諾したため──。”

理由欄にはそう記されていた。もっとも、この内容はあながち間違いではないのだが、いずれにしても、それがこの会社を去るにはもっともらしい噓だったからだ。更衣室のロッカーに業務室に与えられたオフィステーブル、潜水艇の操縦室に残した私物に自前で購入した工具をそそくさと片付ける。

「ごめんね”わだつみ”。どんな時も一緒にいてくれて、ありがとう…。」

片付けを終えた山崎は、夕日の差し込む格納庫に鎮座するその白い艇体に静かに触れる。沈黙で別れを告げる彼女にとっての”王子様の馬車”は、いつもよりも更に寂し気に映った。

「先生…短い間でしたが、ありがとうございました。…寂しくなります。」

「おい、山崎くん、帰ってきたら今度こそ”飲み比べ”勝つからな!」

「世界のどこに行っても俺たちはチーム”わだつみ”だ。貴女を誇りに思うよ…。」

操艇技術に海洋生物学の知識量…その二面から日本一とも、世界一とも称された学者兼”わだつみ”操縦士の山崎實里は、助手に本部長、研究所長に母船の船長──、携わった会社のほぼ全ての人間に見送られながら、夕方までには背中を向けて会社を後にした。

 

残る一日半で美容室に出向いて髪を整え、不動産屋に退去の連絡を入れる。急ピッチでモノに溢れた家の各部屋を片付け、数十袋に分けて家財のほぼすべてを玄関に放り出す。女性には骨の折れる作業だが、それでも一度山崎自身が決めたことなら、実行に移すしかなかった。

「……なんだかもう懐かしいな、これ。」

片付けの最中にふと何かを思い出したかのように、リビングから玄関に繋がる廊下の壁に貼り付けられたコルクボードに目を配る。そこに丁寧に画鋲で止められた…あの日、津久井が山崎に渡した彼の所在地と連絡先が丁寧に記された、一枚の紙だった。

「………。」

アメリカ合衆国政府主導の、おそらく秘密裏に実行・進展しているであろう”深海棲艦”に関わる調査・研究。それに彼女自身が参加することを”毒”であり”薬”と言ったあの男のその言葉の意味が、憎たらしくもしみじみと伝わてくる。

「…私がこの世界から消える代わりに、きっと、君の人生も守れるんだよね?」

深海棲艦が果たして人類にどのような悪影響を及ぼすのか、それはアリューシャン列島沖事変以降の数々の出来事に見出せる”敵対の精神”から十二分に伝わることだ。それらを知り、そして学ぶことは、まさしくそれらの脅威から人類を護ることに繋がるだろう。『。恐怖いうのは未知からくるもの。だからこそ私たちは”知る”必要がある──』、かつて彼に投げかけた言葉が、自分に跳ね返ってきたような、そんな気がした。

「……。」

その紙切れを、彼女はゴミ袋に突っ込めぬまま数分が経った。まだ電話線をつないだままだったことを思い出しては、電話台に佇むプッシュ式電話機に手を伸ばす。モノ云えぬ速さでボタンを深く押し続け、受話器を耳に当てる。

「………、何を、何を期待しちゃってんのよ、私。」

その夜、呼び出し先の彼が受話器を手に取ることは遂になかった。何度も電話をかけ直しては沈黙の世界に飛び込み、ふと我に返って彼が自分と同じ”船乗り”であったことをすぐに思い出す山崎。起こってほしい”何か”に叶いもしない未来に淡い期待を見出した自分に怒り露わに、乱暴に受話器を投げ置いた。電話機の根元から電話線を引っこ抜くと、電話機が着信ベルを鳴らすこともなかった。

 

日暮里駅からの私鉄が走らせる空港連絡特急に、スーツケースと体一つだけで乗り込む。新東京国際空港までは鉄道で1時間の道のりだ。ガラガラの車内から過ぎゆく夕暮れ時の車窓を、彼女は何も考えずにただぼんやりと眺めていた。車窓に流れる上総地区の田園地帯の光景にそろそろ見飽きてきたころ、列車は静かにトンネルをくぐり、終着の成田空港駅に滑り込んだ。あの日読んだメモ用紙通り、駅改札内の改札口手前に置かれたコインロッカーを、持ち手が取られた芯だけの鍵で開ける。

「ちょっと、こんな時になぞなぞクイズのつもり?」

中には、照合と潜水艇の無線交信で用いられる暗号がびっしりと詰まる。タイプライターで打ち込まれたその文字を、おそらくはポケベルに入力して送信するのだろう。まさに”潜り屋”である彼女にとって、その内容は理解に困るほどの難度ではなかった。

”ニューヨーク・ニューヨーク。今夜のジミー公演は5分遅れ──。”

≪…確認した。改札外の喫茶店”エクレール”前に来い。≫

無造作にロッカーに置かれた黒塗りの通信機─ポケットベルS型 RC-13を手に取り、コンコースの通行人が落ち付くタイミングで無線を呼び出す。数分も待たずして、呼び出し相手からの短い返信が、ポケベル画面に流れるように表示された。指示通りに駅構内の閑散とした喫茶店の前に立つと、すぐに店内からジャケット姿の姿勢の良い西洋人男性が彼女の背後を取る。

「ミス・ヤマサキ…”ELEVEN PROJECT”参加の意思表明、心から感謝するよ。」

金髪を掻き分けたそのヘアスタイルにゆったりとしたブラウンジャケット。革ベルトを腰に巻いた黒地のズボンのポケットに突っ込んだ両手…聞き馴染みのある、その声とその姿──。それは、まさしく横須賀で出会ったあの男だった。

「私が私の全部を捧げるっていうんだから、貴方もいい加減名乗ったら?」

山崎の全てを知った気で居る──というよりも、実際には本当に理解してもおかしくないであろう。、ただならぬ気配に気づいていた彼女は、先日のバーと同じような不機嫌さを分かりやすく表面に出しながら尋ねる。

「……それは、こういう公の場じゃあ言えないのさ。”不審な男”でないことの証明として、アメリカ合衆国の公的行政機関の人間…ということだけは知らせておくよ。」

その鋭い洞察力と果てしなく長けた調査力。つまるところ、彼はおそらくアメリカ連邦捜査局(FBI)合衆国中央情報局(CIA)所属か…アメリカ軍直属の参謀か──…その関係者で間違いないだろうなと、長年の時をアメリカで過ごした彼女の身体が反応する。

「はじめまして、ヤマサキさん。」

「……うっひゃあ!ビックリした!」

潜水艇操縦士は、異常なほど敏感かつ繊細な三次元感覚を持つと言われる。そんな彼女でも思わず恐怖のあまり仰け反ってしまうその様こそ、帰っらがやはり”一般的”な一般人でないことはすぐに気づくことができた。背後に潜んでいたのは、山崎と同じ身長で同い年─むしろ若く見える、ブラウンヘアをストレートにブローし、毛先を少しはねさせたロックなヘアスタイルの西洋人女性。彼女が通り魔殺人鬼なら、自分はもうとっくに背後を刺されていたに違いない。そのくらいの距離感だった。

「いつまでも名前も知らぬ男に付けられるようじゃ不快だと思ってな。世話係として女性の相棒も連れてきた。名前は…そうだな、”レイ”ってことにしておこうか。」

「えぇ。まぁ、お好きなように呼んでください。」

一見すればホテルのフロント係りのようなその可憐な姿は、傍から見れば一切の違和感のないただの”外国人美女”だが、やはりその歩き方や仕草は自然なように見えてどこか言語化できない微妙な違和感を、山崎はお得意のイマジネーションですぐに感じ取った。

「……ちょっと待って。追けてたって…これまでもずっと?」

「”例の事件”以後はほぼずっとさ。海を見渡す丘の上の赤い屋根の平屋建ても、好きな特注カクテルも例のイケメン海上自衛官(水兵)の横で酔いつぶれていた姿は、実に可愛らしかったなぁ…。」

「最っ低。こんな()()()()()のクソ男が妻子持ちなら、私はもう明日には挙式を挙げているわ。」

アメリカ在住歴25年という文面が内包する、トゲの効いた皮肉交じりのブラックジョークを、”レイ”と名乗る彼女に吐き捨てるように彼女は交える。

「……あぁ。”毒”を飲んだ君の明日が、希望に満ち溢れているならな…。」

レイと2人、男女で山崎を挟むようにして先を行く彼は、振り返ることもなく、まっすぐと正面に眼差しを向けてそう口を零した。山崎は返事の声を失った。その沈黙も、活気あふれる空港ターミナルビルに入ってしまえば一切気にはならなかった。

「……以前からお付き合いしている男性がいらっしゃるとお聞きしました。その彼は?」

「…お別れを伝えに電話したけど、出なかったな。彼も私も船乗りだから、タイミングが難しいことはお互いよく分かっていたけれど…本音を言えば、せめて引き留めて欲しかったね…。」

過去から今日に至るまでに自分で縛ってしまったその全身に従うかのように、スーツケースを引いて進む彼女の脚が一瞬止まる。わずか1週間という短い中で、彼女自身の人生を大きく左右するであろう決断。その決断はほぼ即決のように見えて、彼女自身の様々な思惑に後悔・複雑な感情の数々との葛藤が無いわけでは決してなかったのだった。

 

 

 

 

配員状況の都合で急遽命じられた、停泊中の当直士官勤務を終えた三等海尉の津久井。彼がしばらく出港の様子もない護衛艦を後に、横須賀市役所に近い日ノ出町に構える下宿に一旦戻ったのは夜が明けた昼前の頃だった。公休日に入ったのも束の間、翌昼には鹿嶋に住んでいた高校生時代から乗り回していた愛車の原付に跨り、津久井は疲れを癒すことも知らず馬堀海岸の通りを駆けた。駆け出した理由は、やんちゃしていた時代の記憶を思い出したからでも、外の海風に当たっていたかったからでもない。ただ彼女に会いたかったからだった。

 

海上自衛隊横須賀基地──吉倉桟橋で無駄足だったアメリカ出張の疲れを癒す護衛艦”しらね”。日中の通常停泊勤務の最中、無人の士官室には副長の鴻池と新入りの津久井の2人の姿があった。

「──津久井、こいつは俺の妄言と独り言だ。無視してくれ。」

艦橋で操舵機器や航海装置の整備に勤しんでいた、口も義理もダイヤの如く硬い彼をわざわざ呼びつけた鴻池は、そう前付けを加えて語り出した。

「─…UNH──おそらく、俺らが太平洋で見たあの怪物が、カムチャツカ半島沖でも出没したそうだ。赤軍(ソ連軍)艦艇5隻損害、2隻撃沈…航空機10機撃墜の大激戦だったとな。ペトロパブロフスク・カムチャツキー市街──1982年時点でソ連海軍太平洋艦隊の基地が置かれる、カムチャツカ半島南部の都市。冷戦期突入時には原潜基地が新設されたばかりで、その事情から外国人の立ち入りが厳しく規制されることで知られる──にも大規模空襲。どちらもやっとで追い返すことはできたそうだが……。」

テレビで30秒程度報じられるか、新聞の一面の隅に載る程度で片付けられたその第二の事件──。日本人特有の平和ボケか…それとも異常事態の中で通常通り生活することで正気を保とうとするバイアスか、世論はアリューシャンの時ほどに過剰にその報道を過熱させることはなかった。しかし、彼はいち海上自衛官として無視できなかった。UNH──未確認敵性海上生体が、日本の領海から1000キロに満たない目と鼻の先に現れ、哨戒中のソ連海軍艦隊と大規模な海戦に突入していた。その事実を他人事として捉えることはできなかった。

「今後の状況次第では、海上警備行動のその先─防衛出動も視野に入れて考えねばならん。」

防衛…出動、ですか……。」

机上に両腕と共に置いた報告書に視線を落としていた副長の鴻池は、白いクロスの敷かれたテーブルを這うように視線を持ち上げ、覚悟を決めた武士ような厳しいまなざしで津久井を見つめる。

「あくまで俺の妄想だ。…妄想だが、護衛艦隊を北へ送り出すという話を小耳にはさんだ。まだ噂話程度だが、これは認めざるを得ない事実だ。市ヶ谷(防衛庁)もその方針で動くだろう。」

防衛出動──、現在の海自衛隊が発足して以降、治安出動と併せてまだ一度も発出されたことのないそれは、自衛隊法第6章「自衛隊の行動」第76条に規定されている。外部から国内領土への武力攻撃を排除すべく、自衛権に則り必要な「全武力の行使」が認められる、1980年の法整備時点で自衛隊の防衛行動の最大水準である。それが”日本国政府の最後の切り札”と云われる所以だ。

「まぁ、その覚悟で居てくれってことさ。この噺は他言無用だ、忘れてくれ。」

艦内で艦長に続いて誰よりも現実主義者である──だからこそ副長という座に選ばれた鴻池が、ここまで踏み込んだ話を持ち出したことに、津久井は身の震える思いだった。そう遠くないうちに、その日はきっとやってくる。今のうちに腹を括ってそれに備えておけ、という彼なりのサインだった。

 

別に衝動的にあの人─山崎という女性に会いたくなったわけではない。津久井は彼なりに、あと何日と残されているか分からない時間の猶予の中で、どれだけ格好悪くともみっともなくても、伝えるべきことをしっかりと伝え、彼なりにケジメをつけておきたかった。ただその一心だった。

 

” ↑ 日本海洋開発技術研究所(Japan Marine Development Technologies, Ltd.) 800m ”

 

走水の峠を抜けて観音崎の山をトンネルで潜る。平時ならばゆっくり見惚れていたい程美しい海原の景色を横目に観音崎大橋を渡り終える頃、潮風を浴びてところどころに錆に喰われた青看板が彼を迎える。遠目に見えるクレーンと青色の格納庫の丸屋根。目指すのはあの女性の居場所だ。

 

正門前と職員用駐車場を横目に通り過ぎて、敷地の東端の防波堤に面した路地に、原付を縫うように滑り込ませて駐輪する。半分ほど開かれたシャッターの奥にひょっこりと顔だけ出す”わだつみ”。そこに探し求めるあの女性──山崎實里の姿は無かった。

「……山崎先生なら、つい先日ここを退職なされましたよ。」

獲物を探す猛獣のように金網に両手をかけてしがみ付く彼の姿を放っておけるわけもなく、格納庫脇のプレハブの小さな作業事務所から近付く一人の男性。見知った顔の彼が出てくるなり、津久井にこう告げた。

「退職…?」

山崎の助手にして”わだつみ”の副操縦士──池田と名乗った、その男性が冷たく言い放ったその一言に、津久井は面食らったかのように思わず硬直した。返事を考える術もなく、彼は聞いたその単語をオウム返しするしかなかった。若干の緊張に揺れていた心臓が、胸騒ぎに変わるさまを胸の奥に感じ取った気がした。

「本人からお聞きになってはいないかな?海外から潜りのオファーが来たんだとかで……。今週末までには日本を出国する、と仰っていたけど─…。」

「出発の日時とかって……。」

「いいや。特に何も聞いていない。何より急な決定だったみたいでね…。」

食い気味で金網越しに質問を投げかける津久井。それに対して、胸に抱える底なしの寂しさを吐き出すように、山崎の助手であった彼は冷たいため息とともに首を横に振った。そこから踵を返すかのように再び愛車の原付に跨り、空港を目指したのはその後すぐの事だった。申し訳ないという気持ちを抱えつつも、処分覚悟で住宅街の路地をフルスロットルでかっ飛ばし、浦賀駅前のロータリーでキーさえも抜かずに原付を乗り捨てる。駅前の銀行支店に駆け込んでは、なけなしの貯金をキャッシュディスペンサーで全て引き出す。駅前で客を捕まえられずに、ボンネットに足を乗っけて煙草を吹かす運転手を叩き起こすようにタクシーの窓を叩く。

「……どうぞ。お客さん、どちらまで?」

「千葉県成田市、新東京国際空港まで。」

「………あぁ?」

「成田の新東京空港です。大至急。」

気怠げにもっさりと後部扉を開ける運転手に、飛び乗った津久井は気迫あふれる声で急かすように告げた。1978年の新東京国際空港開港後は、日本を発着するすべての国際航空便は新空港に移管されている。ならば目指す行先は一つ。彼女が海外へ発つのに使うであろう空港も一つであろうことは、交通の便に疎い津久井でも容易に判断が付いた。

 

逗子のインターチェンジから迷うこともなく高速自動車道に合流し、そこから東名高速自動車道・首都高速道路・新空港自動車道を休憩時間の間もなく突っ走る。安煙草の香りが濃く残る車内で、高速道路の継ぎ目を越える音と振動だけが、時を刻む秒針の如く車内に響いた。

「…ったくよ、なんだってこんな日に大特急の長距離運転やんなきゃならねえんだよ。」

愚痴を垂れながらも、お世辞にも態度が良いとは言えない中年運転手は、見事なハンドル捌きで追い越し車線で全開走行を続け、トラックや乗用車を右目に悠々と追い抜いてゆく。成田空港の厳しい保安検問を大急ぎで抜け、ターミナルビルにタクシーが滑り込んだのは、浦賀を経ってから2時間少々の事だった。

「─ありがとう。おつりは貰ってください。」

運転手が正式な会計額を算出するのを待たずして、57,500円と表示された電子式メーターの数字から余裕を持った7万円を会計台の上に叩くように置き、檻から放たれた野鳥のように後部座席から飛び出す。

「……くっそ、みんな、どいてくれ…。」

昨今の情勢から次々とこの島国から避難せんとごった返す、カウンターにずらりと並ぶ外国人の面々がまるで津久井の目的を妨げる壁のように眼前の景色を覆う。それらを丁寧に掻き分けるようにして、全ての出国者が通ることとなる保安検査場ゲートを目指して駆ける。

「──ここで、ここで山崎さんにもし会えなかったら…!」

津久井があの女性に会うがためにここまで胸騒ぎに駆り立てられるのは、結局のところを記せばこの複雑な思いが強くなったからだった。今後の情勢次第では、これまでの日常を送ることも、誰かを愛し愛されることもますます難しくなる。正直な気持ちを伝えたり、感謝やお別れもせずに好きな者や親類と離れなければならない日が必ずやってくる。それは確信だった。

 

数多くの外国人が絶え間なく吸い込まれるように保安検査場ゲートへ続くエスカレーターに消えてゆく。少しばかり切らした息を整えながら、津久井はそれらの人々の顔の一つ一つを目に取り入れては、求める”あの女性”を探し出し始めた。日本とそこに暮らす日本人がまだ日常の維持に勤しんでいる頃、既に諸外国は環太平洋各国──日本・アメリカ東海岸と中部を除く全域・オーストラリア・ニュージーランド・オセアニア各国全域──に在留する自国民に対して、退避勧告を次々に出し始めていた。日常は、こんなところから既に狂い出し始めていたのだった。

 

昼過ぎにターミナルビルについてから狂ったように時間は流れ、ターミナルの壁面全体を覆うように設けられた全面ガラス外から日の入りを報せる夕日が差し込む。

「何をやってるんだろう、俺は……。」

ふと我に返り、右腕に普段なら付けている腕時計を艦内に忘れたことを思い出した。その代わりにと空港の出発便情報を掲げる反転フラップ式の出発便案内表示機を見上げる。全便欠航となった太平洋航空路線の表示と、大陸南回りに航路が変更された欧州方面行きの満席表示だけがずらりと並んでいた。時刻は18時過ぎを指した。

 

 

 

 

比較的空いているビジネスクラス・ファーストクラス用のこぢんまりとしたチェックイン・カウンターの列に並び、諸々の搭乗手続きを彼は素早く済ませるべく自分たちの番を迎えるのを待つ。

「へえ。ビジネスクラスで連れてってくれるんだ。」

彼から与えられた航空券に記される行先はアブダビ経由のロンドン行き。印字された航空会社の基本運賃番号は”JXH11OWJP”で先頭の英字は”J”。ビジネスクラスを示す記号であることを、幾度も航空便に乗ってきた彼女は一瞬で見抜いた。

「お気に召しませんかね、お嬢さま。」

「…いいや。ただ、こんな情勢下でよく席取れたなぁ、って。」

彼は航空券を扇子のように宙で仰ぎ、鼻高らかに告げた。エコノミー席でも今日では退避する外国人同士で争奪戦が始まっているというのに、座席数も限られたビジネス席を予約していたことに、山崎は感嘆していた。

「君には休めるときは身体をしっかり労わってもらわなきゃ困るのさ。先日も話したが、いまのところ”山崎”という研究者兼潜水艇操縦士(ダイバー)の替えが効く人間が、この世に居ないからな…。」

空港ターミナルは山崎自身がアメリカから”帰国”したときとは比較にならないほどの活況を呈していた。しかし、それは決して景気の良いものではなかった。殺伐とした西洋人やアジア大陸系の人々は皆、一刻も早くこの「危ない国」を脱出しなくてはという焦燥感と、やっと自国に戻ることができるのだという安心感の二面性を兼ね備えた、複雑な表情を浮かべていた。彼女が退職するわずか数日前に会社を離れ帰国した”わだつみ”のフランス人エンジニアも、別れ際にはそんな表情だったことをふと思い出した。

(私は、どっちの表情を浮かべているんだろうか。)

富山県は富山市に暮らす家族には、海外に拠点を移すとい旨の短い手紙を送った。退職手続きも住宅の退去に係る手続きもすべて終えたし、二度と戻って来れないなら…と、富山の実家から引き継いだ幼少期の思い出の品の数々も全て捨ててきてしまった。通されたラウンジで軽食と少々の酒を嗜みながら、山崎は出発に向けた”精神の再調整”をしていた。

「………出発2時間半前。そろそろ保安検査場を通過(パス)するとするか。……これでもうこの国にも、この国で知り合ったすべての人々にも…後悔はないね?お嬢さん。」

どんなルートで手に入れたのかも知れないチケットと出入国に必要な諸々の書類を手に、上級席利用者向けのラウンジでのんびり寛ぐ”レイ”と山崎に声をかける。

「……後悔なんてあったら、こんなところに来てないわ。早く行きましょう。」

首を横に振り、その言葉を自分自身に言い聞かせるように、山崎は革張りのソファからすっと立ち上がった。胸の奥に煮凝りのように張り付いた一握の後悔を、時間の流れにその解決を任せるかのように蓋をして覆い隠した。

 

保安検査場はフロアを一つ降りた場所に位置する。そのアクセスのために設けられたエスカレーターは、昨今のテレビドラマや映画における海外旅行や出張の見送りのシーンでよく登場した、いわば日本人にとっては”別れの精神”の象徴的な場所だ。

「やれやれ。これだけ各国が日本からの退避勧告を出してから連日この騒ぎだ。」

「──それに比べて、この国の人々の”正常な日常”への執着は凄まじいものだな。混乱の一つさえ起らない。さすが、いくつもの戦火と自然の災禍を”破壊と創造(Scrap & Build)”で幾度も乗り越えた種族だな。」

確かに日本国内ではまだ大きな混乱は見られない。人々は連日報道されるUNHに関わる報道を憂慮しつつも、あくまで普段通りの生活を続けている。それは彼の言う通り、人種としての長い経験の中で培われた”慣れ”なのか、それとも”どうすることもできないが為、この海の孤島で日常を送らざる得ない”のか…。いずれにしても、”深海棲艦”なる未確認海上敵性生体の存在が連日報じられる、その期間が長期化するにつれて、その”深海棲艦”と一連の戦禍も徐々にこの国の”日常”の一部となってしまっているような気がした。

 

 

 

 

おとらくはあと2時間程度もすれば、上野駅までは出れても横須賀へと戻る国鉄線は終車を迎えることになるだろう。銀行で下ろした10万のうち7万はタクシー代に消えた。帰るにはもう電車しか手段はない。翌日は通常通り基地出勤日となる。こんなところで長居をしている場合では──。徐々に冷えてきた頭に、津久井は首を傾げながら髪を掻いた。空港に降り立ってから既に半日以上が経過していた。

(…そもそも、この大群から一人の女性を見つけること自体が、半ば無謀…か。)

銀河系の星の数から小さく輝く新星を見つけ出す。そんな高難易度のミッションは自衛隊でもめったに経験したことはない。到底無理な話なのだ──と、徐々に彼自身の中で”諦め”に説得を持たせるような、そんな思いが胸中を交錯しだした、そんな頃だった。

「………?」

2メーター近くはあるであろう高身長の西洋人と、彼女と同じ身長の華奢な女性に挟まれるようにして、保安検査場へ向かうべく進む一人の女性の姿に目が移る。他人を振り切らんとばかりに早い足に、両手を豪快に突っ込んだフライト・ジャケット。いつも猫背の気すらない正しくピンと伸びた背中に、胸を張って堂々と歩く一人の女性が、他の喧騒の合間を縫うようにして近付く。その姿が徐々に近づくと同時に、その希望的観測は確信に変わった。

「──…山崎さんっ!」

公衆の面前などという環境下に自分が居ることさえ忘れて、津久井は喧騒の中で考えるよりも先に声帯を震わせ叫んだ。豆鉄砲を食らったかのように、声の発した方向をその女性は向いた。山崎實里──奇跡かそれとも必然か、彼女は探し求めていたあの女性だった。

「つ、津久井くん……!」

ハマトラ系のコーデに身を包んだその男性が誰か、その女性にもしっかり理解した。機内に持ち込む荷物を詰めたショルダーバッグを肩から捨て、身軽となった身で彼女は導かれるようにまっすぐと駆け寄った。

「ヤマサキさん、ちょっと、待って─……!」

「いいや。良いんだよ、レイ。彼女にとって大切な人なんだだろう…。」

突拍子もなく駆けだす”お客様”を引き留めようと咄嗟に山崎のジャケットに伸ばすその手を、優しくつかんだのは彼女を誘ったその男だった。重なる人影が織りなす”高い壁”の向こうから、二人の男女はその景色を遠目に見守った。

「……ごめんなさい。君に何も連絡できずに。私…やっぱり()()()だったね。」

コップの水にインクを数滴浸したような後悔の念が、山崎の胸中にはまだ渦巻いていた。面伏せな気持ちを抱えながらも、凍てつく寂寞感と暗雲のような悲しさろ表情に浮かべる山崎に、津久井は目を強く瞑り、惑うことなく山崎を鷲づかみにするように強く抱擁した。

「俺は……‥俺は、あなたの全てが好きです──。」

空気の通る隙間すらないほど接した上半身が二人だけの温もりに包まれる。山崎は突然の出来事に困惑しながらも、津久井が伝えるべくしてここまで伝えに来たその事実と、耳元で告げる率直なその一言に、涙を目頭で堪えながら応えた。

「うん……。うん、ありがとう。でも、私、もう行かなくっちゃ。」

軍人らしく筋肉の張った背中を2回、優しく叩きながら山崎は彼を宥めた。この心地の良い空間と人間関係を捨てて、遠い異国の地に飛び立たなくてはならない。自分が決めたその残酷な世界を彼女は責任をもって受け入れるしかなかった。

「……山崎さん。あの夜に俺が伝えた言葉、覚えていますか。」

「──俺は、ずっとここであなたを待ち続けます。もし戻れないのなら、俺が必ず迎えに行きます。絶対に約束します。俺を信じてくれますか…?」

津久井が彼女を抱えながら、告げるその言葉は、初めて二人だけの時間を過ごしたあの日、朧気ながらも酔いつぶれた山崎を横に彼が伝えたものだった。

「ちょっと…止めてよ…。そんなこと…言われちゃったらさ……。」

山崎はやっと彼の背中に両手を交わした。津久井の両手に収まるその小さな背中は、小刻みに震えていた。小さな嗚咽を耳元で感じながら、人目も憚らず二人は互いの身を寄せ合っていた。

「やれやれ…。『世が世なら…』なんて、つい口にしてしまいそうだよ。」

「はい…。今回の事象があの二人達と一切関係なければ、どれほど良かったか…。」

まだ山崎に明かせられていないその本性──在日中央情報局(JCIA)・東京支部に在籍するその男も、アメリカ国防情報局(DIA──通称:ダイア)の情報担当である”レイ”と名乗る彼女も、数々の名誉ある肩書を持ちながらも、結局は一人の人生を抱える人間である彼女──山崎實里から、突如としてその日常を取り上げることに、負い目を感じていない訳ではなかった。

「實里さん。どうかお気をつけて。」

「……えへへ、やっと名前で呼んでくれたね。……ばいばい、亨輔。」

その先に待ち受ける出来事を既に把握する彼女は、”またね”とは口が裂けても言えなかった。短い2人だけの時間を終え、山崎は保安検査場へと流れる人の川に再び混ざり、他の2人の男女とエスカレーターを下り、保安検査場ゲートの奥へと徐々に遠ざかってゆく。彼女はその姿を人混みに眩ますまで、背後を振り返ることはついになかった。

 

 

≪アブダビ経由ロンドン行き…アエロ・ユーロ55便は、只今よりご搭乗を開始いたします─。≫

大行列の保安検査をやっとの思いで通過し、ゲートで待ちぼうける暇もなく搭乗案内はすぐに始まった。優先搭乗の列の流れに乗って、搭乗橋を渡った先に大きく口を開けて待ち受ける重厚な扉。もう二度と踏みしめられないかもしれない日本の土地を踏みしめるようにして、彼女は跨るように大股で同行者の2人に続いて機内に乗り込んだ。

 

 

便名を訪ねなかったことを悔やみつつ、津久井はターミナルビル最上階の展望デッキにその姿を映した。ボイラー式の護衛艦乗りにはまだ嗅ぎ慣れない軽油のケロシンの香り漂うデッキから、次々に列を形成しては我先に離陸してゆくジャンボジェットの姿を、時間の許す限り見送る。

 

彼女を載せたアエロ・ユーロのB747もゲートを離れ、エンジンを温めながら出発便の離陸待機列に続いた。やがて離陸の順番が回り、甲高いエンジンの爆音を夜空に轟かせながら、重い腰を上げるように滑走路から飛び立った。そこに恋人が乗っているとは知らず、津久井は飛び立つそれら一機一機を愛でるように眺めていた。

 

 

 

深海棲艦の突如の出現をもってして閉鎖された太平洋上空と、西側諸国との政治的軋轢から領空が閉ざされた欧州航路。アンカレッジ経由の北回り航路も全てその道を失い、残された道は日本海と朝鮮半島の先の黄海を渡り、中東諸国の経由地で給油を済ませて欧州へ飛ぶ──いわゆる”南回り航路”しか残されていない。飛行時間は従来の倍以上の20時間。そこからさらに最終目的地のアメリカ東海岸に至るまで、2日近くの時間を要した。

 

ロンドンからは太平洋航路に乗り換え、ニューヨーク・JFK空港へ。そこからはアメリカ空軍保有の要人輸送機C-20の歓迎を受け、その機体でノーフォークに隣接する都市──ニューポート・ニューズのラングレー空軍基地に直接乗りつける。実に19,000キロに及ぶ旅路であった。途方もない長旅にくたびれた身体を癒す間もなく、正式なプロジェクト参加の諸々の手続きを進める。

「 ”ミノル(Minoru)ヤマサキ(Yamasaki)”か…。響きは男性名のようだが?”」

同意書面に設けられた”新氏名”の欄に彼女が記したのは、読み仮名にして一文字違い、感じ氏名に”里”の文字を引いた、女性としてはあまり似つかわしいとは言えない名前に、思わず受付担当と思しき軍服の調査官は尋ねた。

「日本人としての”山崎實里”はあの日、()()()()新東京空港へ置いてきたつもりです。」

「………それが聞けて心底安心したよ。ミノル・ヤマサキくん。」

1人用のデスクに座る山崎の横に立つ、例の男は胸をなでおろした。最後に署名欄にアメリカ式のサインを記し、その同意書面一式を調査官に突き返すように渡した。實里という名前から”里”の字を抜いたのは、彼女が故郷を捨てた事の証左であり、そして彼女なりの覚悟の表れだった。

 

 

──この日、この瞬間をもってして、日本海洋開発技術研究所に属した海洋生物学者・潜水艇操縦士の肩書を持つ日本人、”山崎實里”の姿は、完全にこの世界から消えることとなった。

 

 

 

 

それから程なくして、アメリカ政府主導の対深海棲艦戦争に際しての軍事的プロジェクト”ELEVEN PROJECT”11名分全ての席は埋まった。地上の人々が知ることなく、やがてそれは秘密裏に発足する。最新鋭人型対深海棲艦兵器──通称:”Fleet Girl(艦娘)”の本格的な開発研究が始まるのは、このプロジェクト発足からもうしばらく時間をおいてからとなる。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。