SHE'S ALWAYS A WOMAN   作:雪原 美波

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“忘れないよ みんなと暮らしたこの街”

───岩手県 陸前高田市内 震災遺構






8th Floor "Thus Spoke Zarathustra"

州間高速道路64号線を朝から夜まで矢のように駆ける、積もった埃も払われないままのカントリー・スクワイア。道中で短い一夜を明かしたリッチモンドで、なけなしの現金を抱える財布と引き換えに、金の如く高騰する最後のガソリンを車に注ぎ、手持ち資金は底を尽きた。飛行場を横目に通り過ぎ、ハンプトンの住宅街のど真ん中を超高速で抜ける。やがて運転席全体を、鬱陶しいほどに爽やかな蒼色が包み込む。車線はだだっ広い海の上へと抜けた。この時代の名車にして彼ら兄弟の愛車は、ハンプトン ローズを潜るようにして渡るハンプトンロード・ブリッジ・トンネル(HRBT)を越える。その先のノーフォーク市の中心部(ダウンタウン)北側のやや寂れた沿岸地区──チェサピーク湾岸沿いに続くオーシャン・ビュー地区で程なく力尽きた。

「あぁ、クソッ…。」

徐々にアクセルをべた踏みしても速度が出なくなり、名車はガタガタと音を立てる。燃料残量はトンネルに入る前からE(エンプティー)を指し、赤く燈りっぱなしの燃料残量表示等が次第にカチカチと点滅する。酒で感覚をおかしくした彼でも、長年の旅の相棒の燃料切れを悟ることはできた。

「必然ってやつか…それとも神の悪戯……か。」

リッチモンドを出たあたりで、運転中に嗜む酒を買う金も無くなった。アルコール不足で震える手を僅かに残した理性で押さえつけるように、やはりガス欠で機嫌を損ねた制御の効かない愛車を、ゆっくりと海辺の更地状の駐車場の隅に留めた。愛車が力尽きた場所は、かつて兄弟で何度も訪れたアズ多くの海を思い起こさせるような、見晴らしの優れた海岸沿いの場所だった。ここがノーフォーク市であり、しかも()()()()()()その地名の通り有名な娯楽リゾート地であることを、彼はまだ知らない。それは『海で死にたい─』と願ってここまで駆けてきた彼にとって、もはやどうでもいい事だった。

 

美しい海原の景色に夏らしい情緒を添える浜辺には、時々州兵や軍兵が小銃を片手に哨戒活動に努めていた。海岸に続く轍には『避難命令勧告中』『一切の立ち入りを禁ず』とペイントされた、真新しいアメリカ海軍名義の看板が行く手を阻んでいる。広大なチェサピーク湾内には、無数の海軍艦艇の艦影が浮かんでいた。近代巡洋艦や駆逐艦の姿に交じり、3連装砲を前後に2塔も抱えた弩級戦艦クラスに、アングルド・デッキ化されていない旧式空母──といった古い艦影も見える。おそらくは第二次大戦後に退役し保存していた艦艇をも駆り出されているのだろう。彼はその異様な光景に見向きもしなかったが、それはこの国が置かれた現在のじわじわと追い詰められた様を表しているかのようだった。

 

この街のほとんどの人間は避難したのであろう。先刻まで走っていた道路沿いを良く凝視してみれば、道沿いの海鮮料理屋にスーパーマーケット・リゾートホテルは軒並み荒らし尽くされ、解体現場の様相を呈している。通る民間車両はやはり無いに等しいほど少なく、それ以外の多くは軍用の装甲車やトラックが占めていた。住宅地はそれらの光景と相反して一見穏やかそうに見えたが、人の営みの影はまるでなくなっていた。軍兵や州兵の姿が無いタイミングを見計らい、ゾンビのように湧き出ては徘徊する路上生活者(ホームレス)達が、棄てられた家や店を一軒一軒虱潰(しらみつぶ)しに物色していた。

 

気が付けば、リッチモンドのガス・ステーション手に入れたひとつのサンドウィッチが、最後の食事だったことを思い出す。もう半日以上も食事を摂っていない。ここまでの絶望感と無力感を抱えるというのに、無情にも彼の腹は大きく鳴く。彼にとって取るべき行動手段は一つだけだった。

(もう、俺は人間であることを止めたのさ。)

バールで破壊された庭口から雑草が伸び切った小さなガーデンを掻き分けて進み、枯れた屋外プールを横目に粉々に割られた窓ガラスから豪華な2階建て住宅に忍び入る。そこには生々しい家族の温もりと生活の香り──彼らの記憶が、まだその空間に留まり続けていた。リビングに落ちた額縁入りの家族写真を踏み砕き、キッチンや倉庫を無情に漁りつくす。人としての温かい心も、それを持つだけの余裕も、もはや彼には一切なかった。

「………おい。持っていくんなら俺にも寄越せ。」

キッチン横のボトル棚の奥から、辛うじて他の魔の手から逃れていたウイスキーボトルの最後の2本取り出す。ボトルが当たる爽やか音に目を覚ましたかのように、リビングの窓際に置かれた小綺麗なソファ越に乾いた声が聞こえる。

「なんだ、お前。ここらじゃ見慣れねえ顔だな。」

まだ清潔さを保つ屋内とは対照的に、泥と汗に薄汚れた格好のジャケットを着る、両足を豪快に広げ寛ぐ、肩幅の広い白髪の中年男。ハリーが持ち出したボトルの一本を彼の手から半ば強引に奪い取り、水を飲むようなラッパ飲みを披露しながら彼は尋ねた。

「お前さん、まだ若いな。人を殺したことはあるかい?俺はある。」

自慢げに突拍子もない噺を始める彼に、驚くことも耳も傾ける素振りすら見せずに、ハリーはもう一本のボトルを脇に抱えながらどさっと彼の隣に腰掛けた。

「ナム戦線でな、俺は敵地の民家を縦横無尽に焼いたんだ。女も赤ん坊もいた。100人は下らんだろう。嗚呼…気が狂っちまいそうだぜ。この家は、あの時と同じ香りがするんだ。

今にも骨が砕け落ちそうにガタガタと揺れる両腕を胸の前に掲げ、当時さながらの放射器を眼前にぶちまける仕草を見せながら震える声でつぶやいた。

「……この程度の火なら、ここにあるぞ。」

目を泳がせて突然全身を震わせる彼に、心配も配慮もない彼はそんなブラックジョークを返した。ポケットの中からライターを取り出し、日中でも暗いリビングを照らすように火を灯した。

「……おお、おお…気が利くな。最高だよ、兄弟。」

中年の男は即座に葉巻を取り出し、彼が掲げるライターの火でその先端を炙る。葉巻にはあっという間に火が移り、白い煙と共に安価で粗雑なマリファナ特有の飴玉を焼いたような甘い香りがすぐに空間を支配する。彼の口から吐かれる煙と香りで部屋に包まれた家族の温もりを引き裂き、禁断症状を流すようにすると、男の発作はすぐに収まった。

「──…どこの馬の骨かも分からねえ知らない男に嫁と愛娘を盗られて、両親はとうの昔に死に、社会からも使い捨ての雑巾みたいに棄てられ、社会から見放された。」

その話を左から右へと聞き流す限り、その廃れた男はベトナム戦争からの帰還兵のようだった。”英雄による非人道的行動”が発達著しいマスメディアによって取沙汰され、大きな反戦運動と帰還兵たちの印象悪化へ繋がり、最終的にはアメリカの戦略的敗戦という結果に終わる。第二次大戦のVE──ヨーロッパ戦勝記念日も、VJ──対日戦勝記念日のいずれとも異なり、歓喜の紙吹雪もパレードもない。歓迎のない静寂のアメリカへの帰国を叶えた帰還兵に対して、アメリカ社会の目は冷やかなものばかりだった。

早くもあの血塗られた”星条旗”に忘れられたんだ。俺たちは。

廃人の男は続けた。手続きが極めて複雑な帰還兵向けの社会保障さえも、生活のためにはあまりに不十分であった。五体不満足での帰国や精神疾患を抱えた帰還兵などは日常茶飯事で、その多くが自殺するか法を犯しては収監された。何とか平常を保った帰還兵らの民間就職や故郷での冷遇を受け、残された道は前者と同様となるだけだった。彼らが経験した戦争は、戦争によって壊された人間も、ぼろきれのようになりながらなんとか耐え抜いた人間も、分け隔てなく生き地獄に巻き込んでいた。戦争が終わったころ、ハリーはまだそんな戦争など知らぬ純粋無垢な高校生だった。

「……しみじみ思うんだ。俺の人生は、このシャブ(麻薬)ハッパ(マリファナ)スコッチ()だけだった。星条旗に忠誠を誓って”正義の戦い”に明け暮れた結果、残ったのは本当にこれだけだったんだ…。」

明らかに健康に害しかない香りの煙を叩きこんだその男は、話を終えて満足しきたかのような表情を浮かべる。ハリーが盗み出そうとしたスコッチのボトルを小太りの腹に抱きかかえ、やがて男は深海の世界のように静かで深い昏睡についた。その男からスコッチのボトルを取り返し、再び生存戦略のための食料確保の旅へと出向く。夕方までには常温の缶詰3缶に4本の酒ボトル…金目になりそうなものと数十枚の紙くず(ドル札)だけを拾い物のボストンバッグに詰める。愛車のカントリー・スクワイアに戻る時にはもう日は沈みきっていた。

 

月夜だけが差し込むエンジンもかからないガラクタ同然の愛車の車内に、一筋の月光だけが静かに降り注ぐ。冷えてもいない誰かの飲みかけのウィスキーボトルを開け、グラスもなく直接注ぎ口に唇をつけて胃に注いだ。やはり民家から盗んだスパゲディー缶詰をナイフでこじ開け、埃と煤汚れにまみれた手を缶詰に突っ込んで犬のように貪る。美味しいとか不味いとか、惨めとか不幸だとか、そういった感情はなかった。死に所もないので、呆然と理由もなく歩く。そんな感覚だった。

 

ハリー・S・ヤーネル──

優秀な民間若手パイロットは、異国ともいえるこのノーフォークという湾口都市の外れのゴーストタウンの海岸で、崩れ落ちるように人間として腐っていった。その姿は、かつての彼であれば軽蔑して見放していたであろうあの廃人のホームレスと恐ろしいほどによく似ていた。

 

兄弟で共に夢見た空の世界を追うことに明け暮れた男の人生の末路は、結局のところ体内に叩き込むスコッチボトルと乱暴に食い散らかすそのスパゲティ缶だけだったのだ。

 

 

 

 

     *    *    *

 

 

 

 

アリューシャン列島沖事変から1年足らずで、いつしか深海棲艦と名付けられたその未確認海上敵性生体(UNH)の勢いは衰えることを知らなかった。彼らのアラスカ州西部上陸に北アメリカ主要都市(アンカレッジ・バンクーバー・シアトル)への大空襲・ソヴィエトの千島列島上陸占領・日本での北海道北部での大空襲(根室・釧路・帯広三都市同時爆撃)──と、米ソ両国の強大な軍事力をもってしても、彼らの暴走を止めることは不可能に等しかった。それどころか、彼らに強大な力で抵抗しようとすればするほど、深海棲艦とやらの力と勢いはますます強大化した。深海棲艦のデンマーク領グリーンランド上陸占領とアイスランド(レイキャビク)砲撃事件、ノルウェー(ベルゲン)市街地爆撃・イギリス(グラスゴー)大空襲・カナダ(ハリファクス)砲撃事件・アゾレス諸島占領上陸事件は、北太平洋での異常事態を対岸の火事と捉え、あくまで日常の生活を続けていた環大西洋各諸国をも当事者へと変え、否応なく戦火と戦慄の渦に巻き込んでいった。

 

海の深くまでを深海魚の如く潜り、突如として水面上に現れては人間めがけて容赦なく鉛球(なまりだま)と炎の大雨を地に注ぐ。ニンジャ・スタイル(忍者的戦法)とも呼ばれたその未知なる攻撃的戦術で、世界は瞬く間に深海により生み出された恐怖に覆われた。ベトナム戦争終結時にはあと100年は続くだろうと言われた冷戦は、深海棲艦の登場とそれによる米ソ共同戦線の開始で二次的な問題となった。その一方で、太平洋に続いて大西洋もついに航空・海上航路の全てが閉鎖され、人類最大の文明である『移動』のための足が世界で外された。各国の代表株価指数は瞬く間に急落した。世界経済成長率は世界恐慌時の予想数値をも上回るマイナス成長を叩き出し、先進国を中心に加熱していた経済と社会は瞬く間に氷河期に包まれた。各国の市街地には失業者と就職難民で溢れかえり、世界で増え続ける深海棲艦災害による軍民累計死者約925万人の背中を追うように、世界中で自殺者が急増した。

 

西側諸国のトップリーダーとしても、世界の警察としても、もはや判断を迷っているだけの時間的余裕は残されていなかった。もはや決断の時だった。世界中が覆われたその混沌の影で、アメリカ政府主導の対深海棲艦FG兵器戦略──Fleet Girls(艦娘)開発計画は、国防総省における倫理規定協議委員会を速やかに(そして半ば強引に)通過し、静かに急ピッチで進められた。

 

キューバ危機時代に基地の地下に建設された地下核シェルターを急遽改装し造られた、コンクリート打ちっぱなしの独特な匂いが漂う地下研究施設。ランプに照らされたテーブルに広げた用紙に明け暮れる彼は男は、昼も夜も関係ないこの地下空間で、新たに開発中の未曽有の新型兵器──対深海用FG兵器の施策図面に向き合っていた。

「……お疲れ様です。トーマス技術主任。」

自分好みの香りがするコーヒーの香りが、心を陰らせるようなそのコンクリート臭の立ち込めた空間を吹き飛ばす。腰を上げて男が振り返ると、いつも付き添いの部下の一人が、湯気の立つカップを両手に持って立っていた。

「あぁ、ありがとう。悪いな。いつも気を遣わせてしまって。」

「砂糖2分にミルク1分──でしたよね?もう覚えちゃいました。」

まだ30代の彼は、そう笑いながら相手好みにブレンドしたカップを手渡す。彼が口ずさんだ語呂の良いその数字は、まさしく主任技術者である彼の好みのブレンド配分だった。彼らが参加する極秘プロジェクトは世界規模の未曽有の敵対勢力と対峙するために、アメリカア政府内で最も急がれるべき計画だった。故に朝から晩まで数十時間の作業や業務がひっきりなしに続く。休日など存在せず、週の半分ほどは睡眠時間はほぼ設けられていないに等しかった。

「…これは、何を?」

試作艤装を横から見た図に、びっしりとひしめき合う黒線がその隙間という隙間を埋め尽くす。素人目で見れば重機の設計図にしか見えないそれを見つめて、彼は男に尋ねた。

「あぁ…艤装の稼働に必要な生体電流を取り入れるための微弱電流回路の設計だ。これで艦娘の『本体』と艤装部分のバイタル・パート(生命殻)とをパットと弱電配線で電気的に繋げて、スイッチ操作なしで可動域を稼働できるようにするのさ。」

「へえ、すごい技術ですね。SF映画みたいだ…。」

彼は曲げていた姿勢を再び伸ばし、彼の解説にうっすら生えた顎髭をなぞりながら思わず頷いた。

「法律に世論に倫理的問題…大人なりの事情でそれが出来ないってだけで、実は人造人間ってのは今の技術でも分開発可能なんだぜ。その簡単な応用みたいなものだ。」

技術主任者の男も彼にならって曲げていた腰をゆっくりと伸ばし、自慢げな表情で彼の顔を覗き込むようにして見つめた。彼らはまさしく人造人間と呼べるに相応しい『兵器』を、彼の言う『大人なりの事情』を乗り越えた世界で初めての存在だった。それを一日でも早く生み出さんと、男たちは皆この地下施設であくせくと働き続けていたのだった。

 

やがて試作1号艦の図面は完成し、次なる艤装建造のフェーズへと計画は目まぐるしく移った。技術主任者のうちで設計担当だった彼には、そのタイミングでやっと満足のいく睡眠時間と休日が与えられたのだった。しごとがひと段落着いたと同時に部屋を静かに退出し、軍施設内に置かれた兵士向けの公衆電話へと走ってしがみ付き、財布からあるだけの50セント全てを放り込んだ。

「……もしもし、俺だ。トーマスだ…久しぶりだな。なかなか電話できなくて済まなかった。」

もう久しく家族の温かい声を聞いていない。腕時計は9時を示している。それが朝の9時か夜の9時かは地上に出るまでは分からなかった。黒くずっしりとした受話器を手に取り、ダイヤルを押すとすぐに愛妻の声が受話器に押し付けた耳に届いた。

「…あぁ…そうだ。今の部隊は激務だよ。寝る暇もないくらいだ。でも何とか上手くやってる。ジェームスは?あの子は元気にしてるか?」

最後に電話したのは今の計画に参加する直前だった。言うまでもなく計画へ参加していることはおろか、その計画の存在自体も身内であっても漏らすことは許されない。あくまで所属する部隊の配置換えという前提で、嘘をつくことに後ろめたさを感じながらも、お互いがその前提で話す。

「そうか、そりゃ良かった。……今頃じゃもう寝てる時間だな。」

最後にまだ生まれて1年にも満たない愛息子に電話を繋げるか相談したが、どうも腕時計の指す9時は夜だったらしい。彼はもう母乳を吸い終えて穏やかな表情で眠っている時間だ。昼夜が分からなかったことをうまい具合に誤魔化し、愛息子に声を届けられないことを心底残念そうにしながら彼は自然な会話を続けた。

「……OK、そうしたらまた今度、落ち着いたときに電話する。愛してるよ。おやすみ。」

ちょうど別れを惜しみながらも受話器を置く頃、最後の50セントが電話内に転がり落ちる音が静かなフロアに響いた。彼らは忠誠を誓う国のために、なによりも愛する家族や恋人・友人を守るために、それらと遠く長い間離れることを余儀なくしながらも、地下のあの極秘の部屋で懸命に働き続けていた。このわずかな休日や休憩時間が、家族とコミュニケーションを図る唯一の時間だった。

 

やっとの思いで地上へと上がり、多くの戦闘機が肩を寄せ合う駐機場のど真ん中でぐっと背を伸ばす。愛する家族の声を聞けて疲れを癒した半面、何カ月間も休息を取ることなくあの狭い地下空間で働き続けると、溜まるものもかなり溜まってくるのは致し方ない。すぐに外出に必要な荷物だけ持ち、受付で外出許可証を提示して数カ月ぶりの『シャバの空気』を吸いに、無人と化した市街地に繰り出した。今夜はとにかく(燃料)を放り込みたい気分だった。

 

この市街地(ダウンタウン)の北側の海辺沿いに、この辺りで唯一営業している闇酒場があるのだと、以前施設が位置しているこの空軍基地の空挺兵から聞いたことがある。それを思い出してしまえばもはや行くしかない。すぐに基地建物の扉を開け、気圧差による風の壁に逆らい外に出る。

「こいつは海軍基地行きか?…悪いが、パインウェルまで便乗させてほしい。」

ちょうど基地のゲートで出発の手続きを取るM939トラックが目につく。ALICE装備で身を包んだウッドランド迷彩BDU姿の兵士の群れを満載した、キャブ後部の荷台に勢いよく飛び乗る。基地からは朝昼夕夜の1日8便、もう一つの軍事拠点のノーフォーク海軍基地への輸送便が出る。このトラックに乗れば、酒場までは30分足らずの最短ルートだ。

「なんだ。()()()()()()()()()()()ならとっくに廃業したぜ。」

「なぁに、()()()()()にするだけさ。」

隣にバッグを抱えて座る、上官と思しき陸軍兵士が物知り気な表情を浮かべて冗談を言う。現場の最前線を務める兵士であるからこそ、ゴーストタウンの途中で降りるその事情を彼は黙認しているようだった。トラックはやがて基地を繰り出し、無人の州間高速64号線をひた走る。ハンプトンロード・ブリッジ・トンネルを渡り、273番出口を一旦降りたところで荷台から飛び降りた。

「ありがとう、助かったよ。皆もこの先気をつけてな。」

「気をつけるのはお前もだ。この辺りは昼夜ゾンビが出るってもっぱらの噂だぜ。」

手の甲を地面に下げ、舌を出すジェスチャーをする兵士たち。その表情は明るい笑顔に満たされながらも、どこか不安げな感情が混ざっているように見えた。避難指示区域の市街地(ダウンタウン)からは警察機関は大多数が撤退しており、治安は悪化の一途をたどっていた。だから兵士らの不安も当然だった。

「ははっ。そりゃ笑えないな。俺も気をつけるよ。」

海岸沿いから吹き付ける冷たい海風に流されるように、トラックはすぐに基地のある西側へとハンドルを切る。荷台に満載の兵士らと気分の緩んだ軽い敬礼を交わした。男は海軍基地とは真反対方向の、停電と灯火規制の影響で街灯の灯り1つすらない住宅街へと消えた。

 

この住宅街に『平時』であった過去の情景は既に失われた。道端には生きているのか、死んでいるのすら分からないコート姿の路上生活者が横たわり、辺りには注射針と吐瀉物が無数に転がる。食事の支度の香りは小綺麗だった住宅街から消え、残るのは本能的な嫌悪感を感じる獣のような異臭と、下水道のようなすえた臭いにマリファナの煙の香りばかりだった。

「─……おい、おっさん。お前のは()()()だ?」

背後から突如として声がかかる。軍人としての本能で銃も構えずに勢いよく振り返ると、まだ20~30代程度のやや小柄な猫背の男。フードを深く頭に被りながら手を差し出していた。定期的に街に来るのだろうか、薬売りの男と勘違いしている様子だった。

「あぁ、悪いが俺はそういうん(シャブ売り)じゃないんだ。」

「クソ…くたばれ!早くここから出て行けよ。

相手を過度に刺激しないように、両手を大きく広げて明るくふるまう彼に、おそらく路上生活者の1人であろう小柄な男は罵声を浴びせながら、闇の奥の廃屋へと姿を眩ました。

(少しコアな所を紹介されてしまったな…。)

つい数か月前にはまだぎりぎり平穏を保っていたこの街も、まだその頃を思い返せないほどにすっかりと変貌してしまった。護身用のM1911(自動拳銃)を持ち出しているとはいえ、こんな治安では自分の命がどうなるかは分からない。技術主任者の男は安易に酒場を求めたことを心の内で後悔しながら、戻ることも出来ずに頭を掻きながら闇夜の道を進んだ。

(………教会に、灯りが…?)

高速道路のジャンクションから海岸通りめがけて進む道中に交差する州道に出ると、平屋建てのモダンな教会の建物のエントランスから温かみのある眩しい光が漏れている。久々に見るような人工的な灯りに眩さを感じながらも、走光性をもつ蛾が街頭に導かれるように、男もその光に徐々に寄るっていく。扉の先にはその教会の建物にはあまり似つかわしくない笑い声と喧騒が聞こえた。酒場特有の熱気とほんのアルコール臭が扉から漏れている。先ほどまで感じていた不快な香りは無かった。

 

祈りの場のある地下へ続く階段を降りると、確かにかつての教会としての面影を残しつつも、綺麗に改装されたバーがその空間には広がっていた。時折点滅するネオン管の卑しい光に、棚に並べられたグラスたちが星のような瞬きを眼に返す。その空間には、まだ『人間』を保っている薄汚れた路上生活者に、退役軍人や現役軍人であろう屈強な男たちが入り乱れ、酒場の各席は盛況の様子だった。こんな罰当たりなことがあって良いのかとクリスチャンたる彼は思いながらも、久々に人の営みを感じる場所に来れたことに安堵を覚えた。

「『カミカゼ』1杯を頼めるかな。」

切れ味の鋭さ故にかつて米軍が恐れた神風特攻隊から名を取る、ロングドリンクを一杯頼み、唯一席が空いていた座面の高いカウンター席に腰掛ける。よく見るとカウンター席はキリスト式の祭壇を繋ぎ合わせた簡素な改造が施されたものだった。

「おうよ。君は初見だな。見る限り現役軍人さんってとこか?」

忙しなくスリーピースシェーカーを振り続けるバーテンダーが彼の注文に応えた。両腕に派手な刺青(タトゥー)で埋め尽くし、茶髪に隠れた額にはいくつもの傷を入れる彼。その風貌こそ威圧感がありおっかないが、目を合わせて口を開けば父親のように優しい性格の持ち主だった。

「一度引退したんだがね……就職先の会社が潰れて、今は海軍に戻ったんだ。複雑だよ。」

その独特の環境に不慣ながらも男は高い椅子に腰かけ、カウンターテーブルの上で両腕を組んでは、少しばかりバーテンダーに自らの出自を明かした。

「そうか…時代が時代だからな。俺らみたいにならなくて良かったと思えよ。」

バーテンダーの男性も元々はノーフォーク海軍基地所属の海軍兵だったらしい。年は同じか少し上といったところだろうか。そんな彼も海軍退役後は飲食店を経営していたが、深海棲艦世界大戦の勃発後にはその職も失い、路頭に迷っているところでここで酒商売を始めたのだった。

「そうだな…。ただ、こういう罰当たりは程々にしておくといい。信仰者として心が痛む。」

「なぁに。ここを拠り所にする人間はもう神に見放されてんだ。今更あたる罰なんてないさ。」

現役の軍人らしき屈強な姿も周りにはいくつか見受けられるが、テーブル席にもカウンター席にも、腰掛ける猫背のほとんどは退役後に路頭に迷った元軍人か、深海棲艦に職や家族を奪われて、帰る当ても行く当てもなくした者たちばかりだとバーテンダーは話した。店内の明るい雰囲気には、そうした人々の闇夜よりも暗い人生を内包しながら成り立っているのだった。

「君の左隣もその一人さ。まだ若いのに。神もそれを信じる社会も本当に残酷だ。」

その見た目とは想像がつかない繊細でかつ優しい手つきで、静かにシェーカーからロンググラスにカクテルを注ぐ。ずっとカウンターの上で突っ伏している若い路上生活者と思しき男の前に、グラスを静かに置くなりバーテンダーはその彼と自分を指差して笑った。

「お前さん、会社では何をやってたんだ。」

ドリンクが出るまでの束の間の間に、右隣に座るみすぼらしい恰好の老人も会話に加わった。ロングドリンクをじっくり嗜むには十分な、過去の経歴についての話に花が咲く。

「民間航空の航空エンジニアだ。飛行隊時代の経験を活かして航空機関士の仕事を。」

「…こりゃあ奇遇だな。あんたの左隣の廃人も元凄腕パイロットだぜ。何せ例の“事変”の時、深海の野郎共に撃墜されかけながらも、制御不能の機体をアンカレッジに無傷で降ろしたんだとか。

バーテンダーは首を一瞬男の左隣に伸ばし、ロックグラスに注いだライム入りの“カミカゼ”を男に手渡した。男はグラスを受け取るや否や、その言葉を呪文に魔法でも欠けられたかのように固まった。グラスを持つ手から力が抜け、危うくグラスごと地面に叩き落としそうになる。

 

深海棲艦が最初に陸上の人類に対して牙を剥いた、アリューシャン列島沖事変──。

その災禍がもたらされたあの日、アリューシャン列島周辺の空域から生還できた民間旅客機は1機のみだった。それは、東京発アンカレッジ経由ヒューストン行き。当時名乗っていた便名は“カスケーディア12便”。目を丸めながら左隣に突っ伏す白髪交じりの若人を見つめるその男の名前は、トーマス・キャラハン──。その航空便の航空機関士として乗務していた張本人だった。

 

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

 

もはや何杯の酒を体内に放り込んでいったのかは覚えていない。次に頼んだ酒が何かも既に記憶にないし、ましてやどれくらいのツケをオーナーに負わせているのかも、もはや自分の気には留めてなどいなかった。突っ伏した先と瞼の奥の暗闇。今ここで目を覚まして、今までの出来事全てが仮にも夢だったならばどれだけ良かっただろうか。ハリーには起き上がる勇気も気力も無かった。

 

空を飛ぶ悪夢は何度も見た。あのアラスカ沖の上空をもう夢の中で何百回と飛んだだろう。客室乗務員(キャビンクルー)機長(キャプテン)、そして航空機関士(エンジニア)の懐かしい声が聞こえた。コックピットの窓の先には、無数のジャンボ機が火の玉となって落ちていく。

『なぜ、自分だけが助かってしまったのか──。』

そんなことを思いながら、もはや見慣れたその悪夢を映画館(シアター)で鑑賞するような落ち着き様で眺めた。“ハリー。おいハリー──”と、その空間で航空機関士が何度か名前を呼ぶ。その声は、あいまいな世界になりがちな夢の中で、妙に鮮明で生暖かい感じがした。

「──…。──…おい、ハリー。…君なんだろう?私だ、トーマスだ。元航空機関士の──。」

美しくヘアバームで丁寧に整えていた髪は胸のあたりまですっかり伸び切り、ストレスや栄養不足の影響か白髪が無数に混じる。すっかり細くなった全身両腕に隠す顔は、確かに最後に共に仕事をしたあの日のハリー・S・ヤーネルの面影を十二分に残していた。再開の歓喜と、変わり果てた彼の姿に対しての衝撃が絡んだ感情を孕んだ声で、トーマスは何度も名前を呼び続けた。

「うるせえ。放っておいてくれ!…俺はあの日に、もう死んでんだよ。」

煤に汚れて傷だらけになったレザーコートに添えた、トーマスの手を彼は右腕で勢いよく跳ね除けた。変わり果てたハリーは侵入者を見つけた番犬の如く呂律のうまく回らない声を荒げる。周囲の喧騒は一瞬だけ静まり返ったような気がした。

 

あまりに変わり果ててしまった、かつての部下であり同僚の彼に姿にトーマスは愕然とした。彼が荒げたその乾ききった声を耳に、それが彼本人の当時を知る人間として相違はなかった。だからこそその衝撃はあまりに大きかった。

「兄貴、手出しはやめとけ。面倒に巻き込まれるだけだ。」

「こいつは俺が会社勤めだった頃の部下だ。勝手は分かってる、しばらく時間が欲しい。」

先ほどまでの明るい表情とは一変、突然左隣の廃人にコミュニケーションを取るトーマスに、バーテンダーは顔面の筋肉を強張らせて厳しい面持ちを浮かべながら呟く。トーマスが即答したその言葉を耳に入れ、そんなまさか…と言いたげな驚きで目を見張る表情を浮かべるバーテンダーの男。

「あぁ、あと、彼のツケは俺が代わりに払うよ。ついでに後で“カイピロスカ”一杯も。」

バーテンダーは2人の事情を少しづつ呑み込めたのか、彼は一息置くと右手の親指を突き出して、一息つこうとカウンターの奥へと消えた。ハリーがなぜこの場所に居るのか、今日まで何があったのか?…聞きたいことは山積みだったが、その複雑な心持ちを抱えずにはいられない。

「なぁ、ハリー。最後の一杯は俺が奢る。ちょっと話がしたいんだ。」

「……ったく、とっとと失せてくれよ…。何の用だ。」

元上司に対しての敬語の口調すらないことに対しての苛立ちをも棄てて、トーマスは変わり果てたハリーに口を開き続けた。廃人は首を横に振りながらも、重たい腰を持ち上げる老爺のように、突っ伏していた顔面を持ち上げた。その瞬間を、トーマスは覚悟を決めて彼の横顔を見つめた。

 

細く開いた瞳の下にはどす黒いくまができ、まだ20代中ごろとは思えない皺の入った痩せこけた顔面。弟の喪失に精神的病、会社の解雇、“生者の罪悪感(サバイバーズ・ギルト)”──。安息の場所も精神の拠り所すら失い、最後の足で行きついたこの街で、盗みと逃避行の堕落を繰り返す。それはまるで死に処を失い、歩き続けてはひたすらに殺しを乞う、死にかけの老兵のようだった。その結果に行きついたのは、金のない無数の路上生活者がたむろするこの酒場だった。

 

目の前での弟の死、崩壊した日常、全国単位で機能不全に陥った公的支援、リストラ、会社の倒産──。あそこまで立派で高い能力を持つ好青年が、ここまで堕落した背景を、同じ組織に属していたトーマスはよく分かっていた。そのことは、長い事彼と何度も乗務したトーマスにとって、理解に難いものではなかったのだ。

 

「へぇ、驚いたな。こんな場所で会うとは思わなかったよ。」

「……。」

「しばらくだな。元気にしてたか?」

「……。」

「バーの趣味は変わってないみたいだな。こういう裏路地の店、好きだったろ?」

「……。」

 

なるべくトゲの立った相手を刺激しないように平静を保つ。会話の糸口をつかむべく、何度も見知った横顔の彼に話しかけるも返答はない。今の彼の状況と弟の死についての気の毒さを会話にも、その表情にも一切浮かべないのは、彼の上司としてのトーマス・キャラハンという男の優しさに在った。

 

「…酒、変わったな。前はバーボン派じゃなかっただろう。」

「……うるせえ、余計なお世話なんだよ。」

「……ああ、話しかけてほしくなかったなら済まない。ただ久々に見た顔が君で、ついな。」

 

やっと口を開いたと思えば、彼が嗜む酒についての話だった。どうも彼自身も好きでここまで酒を体内に突っ込んでいるわけではないらしい。たとえ乱暴でも、敬意(リスペクト)がなくとも、その口から出る乾いた声はやはり彼のものだった。

 

ただし、どうしても会話は進まない。彼が自ら進んで孤独になったのか、それとも孤独にならざるを得なかったのか──。そこまでは彼にも分からなかった。一つ確かなのは、天性の才能と技術に富んだ彼をこのまま野に飼い殺しにしていてはあまりに危険であることと、もったいないということだけ。トーマスは口を開いて、最後の切り札を彼に呈示した。

「実は、俺はいま海軍に戻っててな。ある計画に参加しているんだ。詳細はまだ話せないが、俺の隣のポストが1人分空いている。……ハリー、君も海軍に来ないか?」

トーマスが自らの口から出した一言、それは掻い摘んでいえば海軍入隊のお誘いだった。対深海棲艦戦線の拡大に伴い、海軍は特に慢性的な人手不足に喘いでいる(トーマスの所属する極秘プロジェクトはその最たる例とも言えようか)。それ故にベトナム戦争の時と同様、軍入隊への敷居は低い状態にあった。なおかつ軍に知り合いがいればなお優位だった。軍に入隊すれば給与の発生は勿論、生活に必要な最低限度の衣食住は保障してもらえる。端的ではあったが、トーマスの目で見ても間違いなく路上生活を余儀なくされているであろう、彼はこのままではいずれ薬や酒に侵されて殺されるか、自ら死んでしまう。トーマスが提示した最後の切り札は、ハリーの生存を考える上では最も現実的な考えだった。

 

トーマスのその誘いは、いわば暗雲の隙間から差し込む希望の光だった。タンブラーの縁を触り続けていた手を、静かにテーブルの上に戻し、ハリーは重く閉ざしていた口を開いた。

「とある…計画……か。」

釣り針にかかった大魚をリールで引っ張るが如く、トーマスは続けざまに口を開く。

「計画は…そうだな…。“海の神”に代わる者を造っている、とでも言っておこう。」

入社当時に2人が上下関係を持つ知り合いとなってから、ハリーの口の堅さをトーマスはよく分かっていた。それを踏まえて更に口火を切る。彼はまだこの地上世界には一切出回っていないであろう“海の神の代わり”──“Fleet Girls(対深海艦娘兵器)計画”を、ハリーに耳打ちするように小声で語った。

「……神の代わりを造る平民こそ、神よりも残酷なことをするんだな。興味なんてない。」

「──だったらまだ何もしないで、そのまま弟のいる海に死んでいった方がマシです。」

もはや何もかもを投げ捨ててすべてを失った彼こそ、この店に足を運ぶ大半の客と同様に“神に見放された”人間の一人だった。そんな“神”への信用などとうに底を尽きた彼に、その代わりを作るほどの根を張った動機は必要ない。ハリーは震える手でタンブラーを縁をなぞりながら冷笑した。

「それは“深海勢力に対抗できる唯一無二の手段”だ。どうせ海で死ぬんなら、せめて俺たちと共に戦って死んでいかないか?」

ハリーのその冷やかな態度に憤りを感じていない訳ではなかった。彼の元上司として、というよりも元同僚として冷静さに努めたトーマスは、机を叩いてあえて語気を強めて彼に迫った。

「──常に冷静沈着を求められる軍人…いや、元航空マンとして、私情や疑念を持ち込むのはあまり相応しくはないが……。()()()()()()()()、最後に君の大切なものを奪った“奴ら”に、一矢報いたいとは思わないか?それでもこれを拒むかね?

そのトーマスの言葉に思わず我に返るように、ハリーははっと目を開いた。乾いた瞳の奥で、何かがかすかに疼いた。彼は自分の旨の奥底の乾いた心の奥底で、その挑発的な言葉を着火剤として燃え盛る静かな“炎”を感じた。それは怒りとも哀しみともつかぬ熱――長いあいだ灰の下でくすぶっていたものが、トーマスの一言をきっかけに、再び微かな火を灯したようだった。自分でも気づかぬうちに、拳が膝の上で小さく震えていた。

「……2日後、ここから少し北のハンプトン、ラングレー基地に来てくれ。そのままの格好で構わない。“トーマス・キャラハンに呼ばれた”と衛兵に言えば、通してくれるはずだ。」

トーマスは指先でカウンターを軽く叩き、奥へと引っ込んだバーテンダーを呼び戻す。待ちくたびれた様子の1つすら見せずに、彼はハリーへの“カイピロスカ”を片手に軽い足取りでやってきた。

「チェックを頼む。」

トーマスは手書きで書かれた皺の寄った即席の勘定書を一瞥し、黙って札を十枚程度抜き取る。そのうち一枚を、ハリーの古いツケの帳面の上にそっと重ねた。

「あいつの分もだ。これで帳消しにしてやってくれ。」

まだタンブラーの底に残っていたロングドリンクを一気に喉奥に流し込むと、トーマスはそう言ってグラスを伏せた。少ない荷物をまとめて退店の準備をそそくさと進める。

 

()()()()()って言うのはな、借りたものをしっかりと返せるようになることさ。」

 

ハリーの前に小さく折りたたまれた伝票だけが残った。伝票には彼がハリーを呼んだことを衛兵に証明するために直筆のサインが書かれていた。勘定を終えたトーマスは立ち上がり、勢いよくコートを羽織って静かにその襟を立てた。その刹那に彼は一度振り返り、この言葉を残したのだった。

 

 

 

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