抱え込み過ぎは厳禁です。
カタカタと、先生がキーボードを鳴らしている。夜遅くのシャーレ。決して遅い時間では無いが4徹目となれば話は別だ。今日は当番がおらず、ずっと執務室には人の出入りがない。もはや時間感覚すら、先生にはない。
ふと、シャーレのドアが開かれる。
「先生、来たよ」
『ああ、カヨコか。ごめんね、手が離せなくて。用事ならまた後で......』
「はあ。」
少し不機嫌そうなため息。
「こんな時間に私事で来ると思う?」
『こんな時間って……あっ、もう暗くなってる。なら、遅くなる前にカヨコも帰りなさい』
「……」
先生の口調は急かすようで、余裕のなさを感じさせる。
一際、大きなため息をカヨコが発する。
「先生、私は先生の仕事を手伝おうと思って来たんだけど、追い返そうとするのは違うでしょ。ちゃんと厚意は素直に受け取らないと」
『え、ああ、うん……』
「ほら、私が手伝ったらダメなヤツだけ教えて。それ以外はわたしでやっちゃうから」
『ああ……』
先生はあっけにとられ、カヨコの言うままに分担する。結果、機密資料は残量の3割ほどであった。そしてさりげなく、その7割をカヨコが持ってデスクに向かう。
『ちょ、さすがにその量は……』
「さっきまで無理していた先生に言われたくない。」
『……』
気のせいではないのだろう。カヨコは明らかに不機嫌だ。いや、むしろ先生に有無を言わせないことこそが一番の有効打だと判断したのか。どちらにせよ、言葉には思慮と怒気が宿っていた。
『わかった。でも、せめてその半分、3.5割分をお願いするよ。さすがに自分よりも多くを押し付けるわけにはいかないからね』
「……うん。わかった。」
先生の方にも心に余裕ができたのだろうか。目元にくっきりと隈があるまま、笑って見せる。それにこたえてか、カヨコも少し口角が上がる。
そのまま、空間には紙が捲れる音、キーボードの音、仕事音が満たされる。
――――――――――――――――――
夜が更けてゆき、気づけば街の明かりは少し、また少しと消えてゆくころ。
「先生、一度休憩でも入れたら?」
『……』
「……せんせ?」
『……これはこっちの方が……』
先生はずっとブツブツとつぶやいたままで、カヨコの呼びかけに気づいていない。
集中力と表していいのか、熱に浮かされているというべきか、異様な雰囲気さえも感じる。キーボードは規則的になり、だんだんと先生の顔が画面に近づいていく。こんな仕事のスタイルをしていると明らかに健康を害するであろう体勢だった。
「……さすがに無視はひどいよ」
カヨコが先生にいたずら的に、先生の目を隠そうとする。
『俺が……俺がやらなきゃ……失望されないように……』
「……」
先生はうわごとのようにそうつぶやいた。徹夜というものは恐ろしいものだ。疲弊した思考はネガティブな方向に完全に寄っていき、ありもしない責任感を及ぼし、人格まで曲げる。先生なら絶対に言わないであろうこと、誰にも頼らないなんてことにはならなかったはずだ。そうでなければ当番制というものが成立しない。いや、直近で呼び出された生徒が居ないという噂が本当と信じるなら、これはやはり存在しない責任感に対する焦りによるものだろうか。
……大人というものを履き違えているような。
カヨコは息を少しのんでから先生に手を伸ばす。
『……!?うわっ!カヨコ?!どうしt……』
「黙ってて」
『いや、でもこれ、胸……』
「……小さくて悪い?」
『いや、そうじゃなく……』
カヨコは先生の頭を抱きしめていた。
「……まだ、私には大人って言うのがわからないや
「でも、絶対こうじゃない」
『……』
「キレイごとかもしれないけど、少なくとも便利屋で感じることとはかけ離れてる」
「一人で背負いたくなるほど余裕がないのは分かるけど、それとこれとは話が別だから」
『いやでも私は……』
「私は、今のあなたを尊敬していないから」
はっきりとその言葉は執務室に響く。
『カヨコ……?』
「そう、今だけ、尊敬してない。だから、カッコ悪いところをたくさん見せてもいい。甘えてもいいし、逃げてもいい。失望なんて、最初からないから。だから、もっとリラックスして。無理しないで、私に身をゆだねて」
諭すというより子守歌のように、一つ一つ言葉を選ぶように、優しく、優しくその言葉は響いた。
こわばっていた先生の体も次第に力が抜け、血流が滞り冷えた手も、カヨコを抱き返し温まっていく。徐々に彼もかすれた声を出し始める。嗚咽が混じった、震える声。少年が泣くように。大人ではない「彼」がいるだけだった。
何を吐露したのかは、誰も記憶に残すべきでないであろう。カヨコはそれを聞き、ただただ、優しく相槌を打つ。
なによりも柔らかく、なによりも寛大で、目の前の彼を受け止めるのみだ。しばらくそのままの状態でいると、彼の声もだんだんと静まってくる。
「……寝ちゃってる?」
彼からは静かな呼吸音しか聞こえない。
「……おつかれさま」
カヨコはそっと、仮眠室まで彼を運び仕事の残りに取り掛かる。
「……これ、絶対に今日中じゃ終わらないかも。」
あくびを一つしてからデスクに残る書類を眺める。2人でやったからか、量自体は多くない。
「さっきああいった手前、やりずらいなあ」
「……仕方ないか。あの人が真面目過ぎるんだから。少しぐらいなら、遅延してもいいはずなんだけどね。
さっきやった資料も、提出期限は融通利くってあったはずなのに……しょうがない。アレ、使っちゃおうかな」
――――――――――――――
翌日。
「お邪魔するわよ!先生!」
『アル!?突然どうしたの!?』
「今日は先生の依頼を受けて仕事を手伝いに来たわよ!」
アルだけでなく、ムツキにハルカ、そして後ろから手を振るカヨコが執務室に入ってくる。
『(これ、どういうこと?)』
先生が声を潜めながら問うも、カヨコは意味深に笑うのみ。
「?どうしたのかしら先生」
『ああ……うん。じゃあ、お願いするよ。お礼はたんと弾むからね』
「何を言っているの先生、私たちの仲ならこのくらいのこと、手伝うのは当たり前でしょう?お金なんていらないわ!」
『……ありがとう』
先生が、皆に聞こえるか聞こえないかというほど小さくしっかり呟いたとき。
ぐぅ~~~~
『……』
「……アルちゃん」
「社長……」
「い、いまのは決めるところだったのにぃ……」
アルが心底悔しそうな表情をする。それを見てカヨコがクスリと笑い、先生のほうに寄って来て言う。
「じゃあ、報酬として、今日はお昼ご飯おごってよ。
また、今日も仕事が始まった。けれども殺伐とした空気は微塵もなく、楽しそうな風景だった。それを見て、カヨコはまた、いつものように優しく笑った。
みなさん、わかったらさっさと寝てください。