星が落ちてきた朝(ヒンメル×フリーレン) 作:海燕(オタクライター)
原作:葬送のフリーレン
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たったひとたびの恋だった。
年端もいかない幼い頃に出逢って以来、わき目もふらずあこがれた。決して手折ることのできない花、どうしても手がとどかない天上の星のようなあいてと思いながら、それでもなお気づくと目でその姿を追い求めた。
多くの人が喩えるように恋が病であるとするなら、まさにかれのそれは不治だった。何があろうと癒えることのない深い傷のような想い。実る日が来ることなど考えることもなかった。ただ切なく想っているだけでしあわせだった。少なくともそう信じ、何とか思い込もうとしていた。
そう、その、はずが――なぜかいま、彼女はもっとも上質な絹に似てなめらかなはだかの膚をさらしてかれの腕のなかにある。思いもかけず、空の上の星に手がとどいてしまったのだ。まさに望外の奇蹟。いまでも夢ではないだろうかと思うくらい。しかし、現実に目は彼女の姿を捕らえ、膚は彼女の熱を感じる。ふれあった箇所が焼けるように熱く、自分は何か途方もない罪を犯してしまったのではないかと思えてくる。むろん、たとえそうであろうと後悔などするつもりはない。このいたいけな少女のような人を手に入れるために、自分は魔王すら斃したのだから。
「フリーレン?」
ヒンメルが小声で呼びかけると、齢十五六としか見えない姿の美貌のエルフはちょっと眠たそうに顔をしかめてからうっすらと目をひらいた。世界の深遠な秘密を宿したような深い緑柱石のひとみがかれを茫然と見つめてくる。
まだ完全にはめざめ切っていないようだ。きっと疲れているのだろう――昨夜は、どうしても自分のなかのケモノを制御し切れず、激しく抱きすぎてしまったから。
フリーレンは処女だった。ヒンメルは、一千年のあいだ、だれも踏み込むことができなかった初雪の野原に入り込んだのだ。なぜ、自分にそのようなことができたのかいまでも不思議に思う。長い――少なくともかれにとってはきわめて長かった冒険の旅を終え、あたりまえのように去っていこうとした彼女の後ろ姿に呼びかけて、「行かないでほしい」といえたのは、我ながら信じられないような勇気の結果だった。
何かひとつ、たとえばその日の天候がわずかでも違っているといった差があったなら、ヒンメルはその言葉を呑み込んでいただろう。
天なる神がかれの臆病なはつ恋を嘉したもうたとまでは思わないが、なぜかは知れず、その日はすべての条件が奇跡的にととのっていた。だから、ヒンメルはふしぎと落ち着いた心でフリーレンの名を呼び、そして口にしたのだ。
好きだ、行かないでほしい、と。
彼女は何か初めて目にした奇妙なものを見るような不思議そうな目つきでかれのことを見つめた。だから、ヒンメルは次に出て来るものが拒絶の言葉であることを覚悟した。きっと自分は失恋するだろう。そして、フリーレンは何ごともなかったようにここを去っていって、二度と戻って来ることはないだろう。彼女はそういう性格だ。かれにとっては宝石のようだった十年の冒険の旅の日々も、彼女にはさしたる意味は持っていない。
だから、そのとき、ヒンメルは思わずぎゅっと両手を握り締めて、自分の失言を悔やんだのだ。いったいなぜ、こんな愚かなことをいってしまったのだろう、どんなに強くあこがれ、切なく手をのばしたところで、星に指さきがとどくことなどありえるはずがないのに、と。
しかし――次の刹那、フリーレンはふっと花がほころぶように微笑し、ちいさく頷いたのだった。わかった、と。
ヒンメルはなんと闇夜に光る一等星を射落としてしまったのだった。気づくと、かれは彼女に駈け寄り、そのあまりにも華奢な肢体を強く、強く抱きしめていた。なさけないとは思いながらも、ひとみが潤んだ。
腕のなかの少女のからだはあまりに小さく、柔らかく、この先の一生をかけて彼女を守り抜こうと思った。ほんとうは彼女は勇者である自分よりももっと知ってはいるけれど、それでも。
そして、その日の夜、ヒンメルはフリーレンと愛し合った。否。そのような表現は正しくないだろう。かれはただ、彼女に自分の積年の想いをぶつけたのだ。
好きだ、愛している、どこへも行かないでくれ、と彼女のその長くのびた耳に向かって不実な情人がよく口にするような言葉をくり返し投げかけた。フリーレンは小さく笑いながらどこへも行ったりしないよといってくれた。
ヒンメルは彼女の痩せた裸身を抱き締めながら、自分はきっともう長くは生きられないだろうと思った。あしたには死んでいるかもしれない、このような奇蹟はそれくらいの代償なしには成り立たないだろうから。
それとも、これは神さまが魔王を斃した褒美にくれた贈り物なのだろうか。そうだとしたら、神は意外に悪い奴ではないのかもしれない。神はかれから多くのものを奪い取ったが、たったひとつ、ほんとうに欲しかったものだけはくれたのだ。
ヒンメルはときに無欲といわれることもある自分がほんとうはひどい欲張りであることを知っている。いったん手に入れた以上、もう決して離さない。フリーレンは愛する自由な旅に戻っていくことはできないだろう。少なくとも、かれが生きているあいだは。かれの愛が縄のように鎖のように彼女を縛りつける。それほどにヒンメルの執着は強い。
「ああ、だれかと思ったら、ヒンメルか」
フリーレンはそういって大きくあくびをすると、白磁のてのひらで口を覆った。
ヒンメルはいまさらにそのほそい指に見惚れた。美しい人はじつに指さきのその爪までも美しい。彼女の指はかれの目にはどのような巧みな宝飾品よりもなお綺麗に見える。じっさい、いつか人間の技巧がこれほどまで美しい品を生み出す日が来るだろうか。かれには永遠のその日は来るはずもないと思える。
そして、また、この瑕ひとつない透明な爪が昨夜、かれの背中に長いひっかき傷をつけたのだ。その痛みは何ともいえず甘美だった。彼女のほうは、かれどころではない痛みを耐えているとわかっていたのに。
愛し合った? いや、自分はただ彼女をむさぼっただけだ。ほんとうに何と重い罪を犯してしまったのだろう。だれもがその清廉な美しさをまえに侵入をあきらめる処女雪の野原に荒々しく分け入り、そこを踏み荒らしてしまった。
長いあいだ抱え込んできた恋ごころなどいい訳になるはずもない。この罪は一生をかけて償っていくよりほかはない。彼女への愛の奉仕というかたちで。
ヒンメルはまだ眠そうに目もとをこする彼女の指を優しく取り、そこにそっとくちづけた。誓約のキス。この先、何があろうと、たとえ死んだはずの魔王が十倍強大になってよみがえってきても、彼女だけは自分が守る。勇者の名にかけて、そのことを誓う。ただ心のなかだけでかれはそう考えた。
フリーレンはきょとんとして、いかにも不思議そうにかれのことを見つめた。思わず微笑が漏れる。彼女は自分の想いなど知らない。魔法については天才的に聡明であるにもかかわらず恋に関しては何とも鈍感なのだ。そんなアンバランスなところも愛おしい。
フリーレン、ぼくの花、ぼくの星、ぼくの宝石。
離さない。
「どうしたんだ、ヒンメル? 何だか酢でも呑み込んだようなしかめ面をしているぞ」
その、いかにも怪訝そうな言葉に、ヒンメルは大きなため息を吐き出した。
「やれやれ、台無しだよ。せっかくぼくが真剣に考えているのに、きみという奴は」
「わたしだって真剣にいっている。どうしたんだ? おなかが痛いんじゃないだろうな。ハイターに頼んだら何とかしてくれるかもしれないぞ」
「違う。どうしてそういう発想になるんだ、まったく。きみはいつも通りだな。昨晩はあんなに可愛かったのに」
「ばか」
フリーレンは照れたように顔を背けた。長いつきあいだが、初めて見る顔だった。それでは、彼女にも、少女のような恥じらいなどというあたりまえに過ぎる感情があったのだ。
そう思うと、心臓のあたりを切ない感情が締めつけた。こんな時が来るなんて思ってもいなかった。ただ、眺めているだけで満たされていたそのはずだったのに、いったん手に入れてしまったら、どうしてももっと欲が深くなる。自分が想っている十分の一でもいい、彼女にも自分のことを想ってもらいたいと願ってしまいたくなる。
自分はどうしてしまったのだろう、いつも何か奇妙な魔法ばかり追いかけていて、人並みの恋ごころなど歯牙にもかけないフリーレンが好きだった、そのはずなのに。
ヒンメルは布団のなかでフリーレンのかぼそい肢体を抱き寄せた。彼女のささやかな、しかしたしかに柔らかな乳房がかれのたくましい胸板で潰れた。そこから彼女の体温が火のように伝わってくる。
なんて小さい、なんて柔らかいからだなのだろう。そして、それに比べて自分はなんと大きく強いのだろう。昨夜、この小ぶりな乳房を自分はこれでもかと蹂躙したのだ。それが愛のためだったのか、それとも単なる欲望ゆえだったのか、自分でもわからない。
ただ、思ったよりも敏感に反応する彼女の姿がかわいく、指で、舌で、くちびるでくり返しくり返しそこをもてあそんでしまった。彼女が初めてであることはわかっていたし、もっと優しくしたかったのに、止められなかった。
人は自分を勇者だというが、ほんとうはそこらの盗賊にも劣る卑しさなのかもしれない。そうでないとしたら、そのくらい、恋は人を野蛮にしてしまうのだろうか。
ぼくの女神。ぼくの恋びと。
「ヒンメル?」
「何だい、フリーレン?」
「また、するの? きのう、あんなにしたのに」
ほのかに頬を紅潮させてそう口にしたフリーレンに向かって、ヒンメルはくすりと笑った。
「いくらしてもまだ足りないよ。この先もう千年を生きても忘れられなくなるくらい深く、きみのからだにぼくを刻み込んでやる」
「ばかだな」
フリーレンはかれが好きでならないあの顔で笑った。
「もうとっくにそうなっているよ」
ヒンメルはふと、疼痛のように胸を撞かれた。
かれは星を落としてしまったが、地上でのかれの寿命はあまりにも短い。かれが亡きあともフリーレンは永遠に等しい長い時を生きることになる。そのことを思うと、切なくてたまらなかった。
かれはほんとうに犯してはならない罪を犯してしまったのかもしれない。いつか、フリーレンの心を傷つけることになってしまうという罪を。
しかし、それでもヒンメルはフリーレンが欲しかった。以前、かれは彼女の指に鏡蓮華の意匠が施された指輪を嵌めたことがある。鏡蓮華の花言葉は「久遠の愛情」。われながら随分と重たいものを贈ってしまったものだ。
だが、その指輪に込めた想いに偽りはない。かれはフリーレンを愛している。だれよりも強く。何よりも深く。生きているあいだ、自分のすべてを彼女に奉げよう。そのくらいのことでは星を落とした償いにはならないかもしれないが、そのほかにできることはない。
「どうした、ヒンメル?」
「何でもない。そうだ、フリーレン。ひとついい忘れていたことがある」
「何?」
ヒンメルはいまではかれの恋びとになった永遠の少女の目を正面からのぞき込んだ。そこにはかれの端正に整った顔が映り込んでいた。
さあ、いえ、ヒンメル、決していわないつもりでいたその言葉を。
「きみのこれからの五十年を、ぼくにちょうだい。フリーレン、ぼくと、結婚してください」
そのとき、フリーレンの表情が、いかにも泣き出しそうに歪んだ。ヒンメルは他人ごとのように冷静に考えた。ああ、これも見たことがない表情だな、と。
この先、自分はいくつの新しいフリーレンを知っていくのだろう。知るほどにもっと好きになる。まるで深く心にめり込んでどうしても取れなくなっていくトゲのように。もし彼女が拒絶したなら、自分は彼女を閉じ込めてそこから出さないかもしれない。
ぼくの運命。そして、ぼくの永遠。
しかし、フリーレンはその切なげなひとみのまま、そっとかれのくちびるに自分のそれをかさねたのだった。そのことの意味はヒンメルにもわかった。どこまでも甘く、優しい、誓いのキス。
「――はい」
その小さな声が、かれの耳に祝福の鐘の音の響きのように大きくとどいた。
ヒンメルはフリーレンの子供のようなからだをさらに強く抱き締めた。たとえどんなに重い罪だとしても、もう逃げない。
「しあわせにする。絶対にしあわせにしてみせるから!」
「もうしあわせだよ。ヒンメルはほんとうに、ばかだなあ」
ヒンメルの目から、後から後からとめどもなく涙がこぼれて落ちた。
これが、幸福ということなのだ。たとえこの先、どんな絶望に沈むことがあるとしても、自分は一生を奉げるに値する恋をした。もう何も望みはしない。久遠の愛情――ぼくのその想いをきみに、フリーレン。
どこか遠くから朝を告げる小鳥たちの歌声が聴こえる。
最強の勇者ヒンメルといわれた男は、そっと目をつむり、かつて葬送のフリーレンと呼ばれたかれの永遠の恋びとにもういちど優しくキスをしながら、全身をひたす甘やかな陶酔にひたった。窓から入り込んできた朝焼けの光が、いまでは決して離れられなくなってしまった恋びとたちを暖かく包み込み、ふたりは、いつまでもいつまでもそのまま分かれることがなかったのだった。
【完】