カフェの愛に包まれて下さい。

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マンハッタンカフェと一緒に子供を迎えに行く話

 前置きを書いて勿体ぶろうとしていたが、言葉が見つからないので、もう核心に触れていくしかない。

 

 カフェは、恋していた。自分のトレーナーに片思いしていた。

 

 でもその片思いは、なんともひたすら長くて辛いばっかりで、しかも遂に叶わなかった。

 

 

 ある晩カフェは、輸入食品店で買った多楽産の珈琲を袋に提げて、うっとりしながらトレーナー室に顔を出した。でもトレーナーはいなかった。

 

 机にマグカップが一個置いてある。中を覗くと、飲みかけの珈琲が半分くらい入っていて、その冷たい水面に自分の暗い顔が映った。

 

 カフェの脈は上がってきた。部屋の四隅をちらちら見た。

 

「急用……ですか……」

 

 とカフェは、自分の胸に手をやって、服の前立てをきゅっと握り込みながら、この得体のしれない不安を打ち消したくて、虚空へ向けて口を切った。虚空は何らこだまも返さず、誰もおらず、自分しかいない。あるいは自分さえ実はいない。

 

 が、この孤独は一旦すぐに解決へ向かう。この部屋へ歩いてくる足音があって、足音だけでトレーナーだとカフェには分かった。

 

 

 ……。

 

 

「おぉカフェただいま~!」

 

 花やかなものが一気に沢山入ってきた感じがした。それは紛れもなく自分のトレーナーなのだが、いつもと違う。着ているのを見たことがない服、カジュアルともフォーマルともつかぬ黒い服を着て、その充実してそうな明るい横顔は、自身のビジネストートを机に置く間、こちらをチラとも見てくれない。なんだか……知らない人のようだった。

 

 カフェの服を握っている手に、あたかも何かを祈るような、けんめいな強い力が加わった。それは今のマンハッタンカフェに出来る最も純粋で強い拒絶、何かに対する拒絶であった。

 

「……あの、トレーナーさん……今日は、なんだか……」

「んっ? んっ?」

「……、何か……良いことがあったんですか?」

「やっぱわかる?」

「あはっ……、ええ」

「聞きたいっ?」

「聞きましょう……」

「すごいよ……あのね……彼女出来た!」

「……ぁっ、彼女……」

「すごいでしょっ!」

「……おめっど、おめ、おむ、ぁ、……、あ、おめでとうございます」

 

 トレーナーはカフェの方を見なかった。

 

 嘘をつく必要に迫られたカフェが焦りに焦っている間、トレーナーは幸せいっぱいで周りのことに注意がいっておらず、机の上のあのマグカップを見るや、ひょいっと手に取って、あの飲み残しの冷たい珈琲をグイッと飲み干した。飲み干した後、今度はマグカップの方さえもう見なかった。

 カフェにも怒りが沸いてきた。ところが、トレーナーが自信満々に胸を誇りながら言った言葉が、カフェの怒りを吹き飛ばしてしまう。

 

 

「祝って!」

 

 

 それはいわばとどめの一撃であった。この瞬間のトレーナーの笑顔の、その歯の白い輝きを、カフェはおそらく一生忘れられない。それはある意味、呪いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 輸入食品店の袋を提げて、カフェは理科準備室へ帰ってきた。心は疲れ切っている。でもカフェの場合、そんな時でさえ他人と、それも厄介な悪友と共存してゆかねばならなかった。

 

「んん~? おやぁぁ~? なぁ~んだかいつもと様子が違うねぇ?」

 

 タキオンがソファーにいる。ゴキゲンそうである。共用リビングテーブルを、パーティー開きのスナック菓子ふたつで占領し、もしゃもしゃ食べながら、深々とソファーに座って、足を組んでくつろいでいる。

 カフェは溜息をついた。しかしその溜息はいつもの溜息とは明らかに違っていて、骨身に沁みるような痛切な悲哀と、涙由来の熱っぽさを帯びていたので、タキオンは驚いて起立した。

 

「……どうしたんだい?」

「……」

 

 カフェは何も言わず、自分のデスクの上に袋を置いた。タキオンの位置からは、その袋の中身が少し見えた。……ギフト包装が……。

 

「……今日はもう帰ります」

「……ンッ、いやッ、まぁ、まぁ待ちたまえよ……」

「茶化されたくないだけです」

「わぁかってるともぉ……だから少しくらい身内扱いしてくれたまえ」

「十分してきましたよ……ッ」

「……カフェに愛想をつかされたら、オトモダチがわたしをいじめに来るじゃないか。……もう大切なものを燃やされるのはごめんだよ。それにいづれわたしが燃やされそうじゃないか。……」

 

 早口で言い寄ってみたが、カフェは決して自分の方を見ないので、タキオンは後ろ髪を掻きながら渋々な様子でソファーに戻っていって座った。

 

「……もっとも、燃やされたところでもう何も変わりはしないだろうがね」

 

 するとカフェの方が、感の良い鼻をヒクつかせてタキオンに振り向いた。

 

「……タキオンさん、酔ってますか?」

「きみも酔ってたんだろう?」

「……」

「カフェぇ、……正直に聞くんだがぁ……失恋したろう?」

 

 カフェは何も答えなかった。タキオンは察した。そしてそれがショックらしかった。タキオンも徐々に取り乱し始めた。

 

「……ナ、ナンセンス、ナンセンスッ。だって君たちは、ねぇ……あんなに、仲良しだったじゃあないか」

「……勝ち逃げされたんですよ」

「にッ逃げられるわけないだろわたしたちは、……ッ、……」

「……」

「……カフェ、探りを入れてすまなかった」

「……帰ります」

「だからわたしも秘密を明かそうと思ってね」

「あなたの秘密なんて飽きるほど知ってます」

「きみにしか言えそうにないんだ」

「しつこいですッ、……」

 

 タキオンはまた起立して、去っていくカフェの背中を見た。

 

「わたしの脚はもってあと半年だ」

「……」

「……だから酔おうじゃないか」

 

 ……。

 

 ふたりは黒い大きいリビングテーブルを挟んで対面した。

 

 タキオンは気怠そうな目をしながら、リビングテーブルの隅のチェス台の、そのチェスの駒と一緒に並んでいる切子細工のショットグラスを取って、カフェの目の前にゴツンと置いた。

 

「ここから先は夢さ……」

「いいでしょう……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この日、カフェのメンタルは辛うじて保った。しかしその後の日々を思えば、カフェがこの日に自分のトレーナーを心の中から完全に掃き出したとしても、カフェの心は、カフェを咎めないかもしれなかった。

 

 翌日。

 私服姿のトレーナーの服の奥から女の肌のにおいがした。

 カフェは、幸せそうでなによりですと念じながら、懸命に今まで通り接した。

 しかしいざトレーニングが始まって、駈足を終えた直後に、ジャージに着替えたトレーナーからもまだ女の肌のにおいがするのを、ふいに肺一杯に吸い込んだカフェは反射的に吐き気を催した。

 

 こんな具合の絶望が数日おきに殴りかかってきた。

 カフェの身体の中は、悔しさと寂しさと恋しさとが溢れて、吠え狂った。

 

 またある時、トレーナーは窓外の青空を背にして、何か香箱のようなのを丁寧に両手に抱えてうっとりしていた。

 

 ことにその日は見た目だけ暖かそうな冬の晴れの日であったので、窓外に青空は寂として春の夢のようにかがやき、やさしい斜光が射し込んで、この幸せな若者の背中を温めていた。例の甲箱のようなのが、日向の白い光の中にかざされた。それを包む透明なフィルムは、青空を背にして、シャボン玉のように淡いを光りを放っている。

 

 トレーナーが夢心地で眺めているのは、……つげ櫛だった。

 

「あっ、カフェ!おはよっ!」

「おはようございます……眩しいですね、それ」

「いやぁ~……あのひとに似合うかなぁってさ」

 

 

 ……カフェは、うまれてはじめて涙をこらえた。

 

 

 

 

 元来カフェは、他人から嘘ついてると言われるのが嫌いで、実際に嘘をつくのはもっと嫌いである。それでもカフェは、こんな状況では自分の本音を嘘で隠さねばならなかった。そして本音に触れられなくなった。嘘に触りたくないから。

 

 こんな思いをしても、それでもカフェは、トレーナーのことが好きだった。大好きだった。

 これは単純に好きだからというよりは、カフェの性格のあらゆる構成要素に依拠する、複雑で曖昧な、いわば意地であった。

 

 例えば、自分のものを捨てられないこと。踏ん切りの付かないこと。嘘を言いたくないこと。心のつながりを忘れないこと。そういう可愛らしさのせいで苦しむのかも知れなかった。

 

 そしてトレーナーの方は、残酷なことに、カフェへの態度を変えなかった。カフェが大切にするものを大切にし、心のつながりを保とうとし、表裏がなく、しっかりと成長を指導する。……ふたりで普通にお出かけもいく。カラオケだっていく。トレーナーの態度は変わっていない。

 ただ変わったのは、トレーナーから女の予感が漂ってくること。においは消えない。絶対に。

 カフェは最大限の敵意をもって、その女が透明な、見えない蛸のような女だと思い始めた。

 

 私の方が先に好きだったのに、それを後からいきなりやってきて、人に化けてトレーナーさんにまとわりつく、見えない蛸。臭い蛸。

 今もトレーナーさんのどこかに這って潜んで、なにかをチューチュー吸ってふやけながら、多分私を見ている。

 

 ……。

 

 そのままカフェはクラシック期に入った。

 道のりはうつろだった。闇の中で足掻き、何度も迷って、回り道した。悪友のタキオンの方は逆に明るい一本道だったが、明るすぎて、グロテスクな極彩色を帯びていた。そして本人の予測した通り、タキオンの脚は半年で壊れた。病床のタキオンを見舞ったとき、タキオンは弱り切っていた。見舞いに来たカフェに、タキオンは一言だけ、蚊の鳴くような声で「さいはてはあるよ……」とつぶやいた。ふたりは、戦友の涙を知った。

 

 クラシックは進む。タキオンが退院して、車椅子になって帰ってきた頃、ちょうどカフェの長いプラトーが終わった。いわばトンネルを抜けた。中長距離戦線にぬっと出て来て、名乗りを上げたカフェは、まずゆっくり加速し始め、最終的に規格外の黒い弾丸列車と化し、以後無敵だった。

 クラシック明けの天皇賞・春にて、マンハッタンカフェは全盛を迎えた。少なくともあの天皇賞・春の直後、カフェに勝てるであろう日本ウマ娘は一人もいなかった。カフェはこの日、敵のいないターフを、すなわち無人のターフを見た。そこは、モンゴルのあの大草原に似ていた。……

 この間、カフェは片思いの苦しみにゆっくりと慣れていった。より正しくは、苦しみの部分を思い出さないように、つまり感情コントロールの術を得て、適応し始めていた。

 

 が、まもなくカフェのほんとうの苦しみが始まった。

 

 ある日トレーナー室に顔を出すと、トレーナーさんがいつにもましてゴキゲンだったので、カフェは何か野生の勘のようなものでその不吉さに気付いた。そしてすぐ、その不吉の実体を見つけたのである。

 

 トレーナーさん。左手。薬指。嵌ってる。 

 

 笑ってる。

 

 もうこれ以上は耐えられない、と思った。

 

 この日の夜、カフェはトレーナーさんに告白する覚悟を決めた。つまりそれは自滅の覚悟であり、カフェはもう冷静でも穏和でもなくなっていた。

 それで恋に敗れたとき、カフェは自分のほんとうの望みを実行するつもりでいた。すなわち無理心中である。

 

 

 

 ……。

 

 

 数日後。夜遅く。まだトレーナー室の明かりが点いてるのを見て、カフェはトレーナー室に顔を出した。

 しかしトレーナーの姿はなかった。このところトレーナーとカフェのお休みが順々に重なって、三日も顔を合わせていなかったので、カフェはさみしかった。……しかしトレーナーは煙草でも吸いに行ったのだと思う。その証拠に、机にトレーナーの無防備なアイフォーンが置いてあった。

 

 

 蛸女の顔に興味が出た。

 

 

 そしてパスロックが掛かっていなかった。

 

 

 LANEのアプリの位置、私と同じなんですね。

 

 

 このワイングラスのアイコンから、女の肌のにおいがする。

 

 

 やっぱりそうだ。

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 カフェはだんだん血の気が引いてきた。

 

 メッセージのひとつひとつが巧妙な悪意で出来ている。

 

 自分の最も大切にしてきたものが、ここで今呪われている最中だった。

 

 

 

 

 蛸女は浮気していた。それがトレーナーさんに看破された。

 

 しかし蛸女は浮気相手とラブラブで、ちょうど今日、浮気相手の家に引っ越した。

 

 そして何故か、トレーナーさんが、……散々に罵倒されていて、

 

 トレーナーさんは、……数分前、ふたりの幸せを応援します……

 

 自分よりも上手に……、……、

 

 心拍がどんどん早まっていく。もう何が何だか分からなくなってきた。

 

 スクロールしている内に、カフェは自分の視界が俄かに裂けて噴き出してきたような、新鮮な赤い怒りに直面した。

 

 

 その時ちょうど、画面の向こうの何者かが、ちょうど新たなメッセージを送って来た。どうやら動画である。

 

 その動画のサムネイルが一体何を撮ったものなのか、カフェには瞬時には分からなかった。暗い中で、光加減のよくない変な色の束子かスポンジのようなのを二つ重ねて、ドアップで映しているように見えた。そこでさらにメッセージが来て、画面が勝手にスライドされた。

 

「ほら」

「なじむって!」

 

 カフェは、にじり寄ってきた何かを反射的な恐怖心で突き飛ばすような急な動作で、アイフォーンを床に放りだした。メッセージがカギになって、カフェはサムネイルに映っているものが何か察したのである。

 

 この二名は、ふたりのヒミツが欲しい訳でもなく、慰め合いたい訳でもなく、二人で生きてゆくためにどうしてもそうするしかなかった訳でもなく、……ただ、他人への攻撃のために、……撮影していた。

 

 ……。

 

 人間とは何かが明らかに違うのに、しかし何が違うのか言葉にできない。そういう得体のしれない人型の生き物が、あのアイフォーンの画面の向こうにいる。今いる。二体もいる。すこし離れた床に転がっているアイフォーンの、その画面に向こうに。カフェの息は激しくなってきた。動悸が起こった。そしてふと、床のむこうを見たとき、そこに……トレーナーがいた。

 

「トレーナーさんッ、……ゥッ、ゥゥ、ッ」

 

 カフェは反射的に、何かに猛烈に怯えるような、悔しがるような呻き声をあげて、歯を食いしばって泣き始めた。無論それは色んな感情の決壊したようなものであったが、同時にカフェはこの時、勝手にアイフォーンを覗いたという隠し事と、心に隠している本音とが、隠し事という点を通じて混同し、隠し事一つ見られた瞬間に、隠し事すべてを見られた気がした。

 

 封印してきた自分。

 

……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

決して誰にも言わなかった本音がある。

カフェはずっと、トレーナーさんを寝取り返したかった。

つまり自分はどうだ。

寝取られた側にいると思いながら、実は寝取る側にいた。

トレーナーさんの側にいると思いながら、実は蛸女の側にいた。

 

 

 

すると、あの青空が見えてくる。

青空の中にトレーナーさんがいる。

一方自分は、対面の陰の中で涙をこらえている。

 

 

 

あの立ち位置はすべての縮図だったのではないか。

あの蛸女は自分の影に過ぎなかったのではないか。

蛸女とは何なのか。それは自己紹介ではないのか。

 

 

 

 

 

 

 

カフェはもう、消えてしまいたかった。

 

 

 

 トレーナーは、カフェのスカートを握り締めて泣いている様子に驚いてすぐ駆け寄り、カフェをさっと抱きしめて背中をさすりながら、「みちゃったか」と囁いて聞いた。カフェは声を殺して泣きながら、首を激しく横に振る。トレーナーはこの顛末が、穏和なカフェにどれ程おぞましく見えるかを思い、申し訳なさで少しもらい泣きした。

 

 かよわい乙女ではないカフェはすぐ落ち着いた。そして自分の急務に気づいて、トレーナーの胸をするっと抜け出した。呪物が床に転がっている。光っている。それをギュッと掴み上げて、ウマ娘の全身全霊の腕力で地面に叩きつけて、ぶち壊した。

 

 

 カフェは、いつか青空の下で、人間を愛していた若者の尊厳を守りたかった。

 自分は愛されなかったとしても……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日以来、カフェの心には奇妙な無感動の静けさがあった。それは間もなくやってくる穏やかな終焉の、その前にある静かなひとときである。ここから見る思い出は、どれもこれも有終の美の色をしている。ひとつひとつに永遠の二文字が潜んでいて、それが内側から無音の後光を放っているように感じる。輝かしい永遠、遠い銀河のような永遠。……こういう連想はもちろん荒唐無稽だが、決して荒唐無稽ではなかった戦士たちの墳墓は、そういう所にしか配置出来ないかもしれない。

 ……そしてカフェはこの頃、時々目を瞑って、脳裏に満面の銀河を思い見て、自分はどのあたりにいくさだめなのか想像し……つまりもう、引退の意志を固めていた。既にカフェは、今年の有馬記念に出る気が無かった。

 

 永遠のターフがあった。

 永遠の私がそこにいた。

 蹄跡は円環をなぞった。

 星座は一年で一巡した。

 自分はその役者だった。

 そろそろ幕を引く……。

 

 そして何故トレーナーへの片思いまでもが、一つの思い出となりつつあるのかは分からない。愛情が冷めたわけではない。カフェの愛情は冷めない。あの人を永遠に愛する。その永遠という言葉をカフェは嘘にしない。ただ、こういう姿勢を貫き通したまま、……そのまま、ゆっくり朽ちてゆく予感がある。ちょうど一つの姿勢しか取れない親指サイズのフィギュアか、何百円かの古いブリキ人形のように、一つしか知らない形を忠実に守りながら朽ちてゆく。やがて飽きられ、しまい込まれ、押し入れの闇の奥で、姿勢を崩さずにゆっくり錆びて壊れてゆく。……

 

 トレーナーさんは今恋人がいない。大チャンスである。以前なら喜んだかもしれない。……そしてその、以前なら喜べたかもしれないという事実が、カフェの心を折ってしまった。

 

 

自分から女の肌のにおいがする。……

 

 

 カフェは、自分の本心を肯定できなくなっていた。今まで通りに寄り添っているが、それが恋しているからなのかどうか、もうよく分からなかった。

 

 

 例の件でのトレーナーの傷心は限りがなかった。日を追うごとに痩せていくほどだった。トレーナーのお昼は、それまで手作りのお弁当だったのが、この頃はコンビニのパン一個しか食べない。若者が、大して美味しくもないパンを、暗い表情でもそもそ食べながら、みるみる痩せていく姿は、ほんとうに見るに堪えなかった。

 それである日の昼時、カフェはトレーナー室に顔を出して、ちょうどトレーナーが食べようとしていた黄色いパンをスっと無言で取り上げた。そして無言のまま、自分の作ってきたお弁当を渡した。

 

 とりごぼうごはん。塩鮭。汁気を切った煮物のれんこん、しいたけ、にんじん。……

 

 ほどなくカフェは、久しぶりにトレーナーの笑顔を見た。久しぶりにいただきますと言う声を聞いた。何かが戻ってきた気がする。

 

 でもトレーナーは、お弁当を一口食べるや否や、見たこともない大粒の涙をぼろぼろ流し始め、お弁当の感想は「おいしい」でも「ありがとう」でもなく、「ごめんね」だった。カフェは、嗚咽するトレーナーの背中を撫でた。でも、トレーナーの傷心は限りがなかった。トレーナーは背中を撫でてもらっていることに恥じ入り、サッと席を立って、「トイレ行ってくる」と言って独りで涙を止めに行った。カフェは言葉がなかった。

 

 

 

 その日から、カフェは休まずにトレーナーにお弁当を用意した。

 

 それが関係していたのかもしれない。あるときカフェが、怪我した。

 

 トレーニング中につまづいて、一瞬持ち直そうとしたが、それが却って良くなかった。ダメージが入った箇所に更にダメージ。カフェは急減速して転倒した。

 

 趾骨骨折。全治6週間。

 

 トレーナーは恥にまみれて泣きそうだったが、カフェの方がかなり落ち着いていたので、病床での二人の会話は涙の熱を帯びなかった。

 

「ごめんカフェ。俺が気を抜いた。……こんな目に遭わせちゃった」

「……」

「……カフェは、もしあれだったら、……担当を変えても良いよ……」

「……ッ、な、なにを……」

「俺は、……みっともないッ、……恥ずかしい、よ」

「……みっともなくありません。アナタは美しいです……」

「……、あのね、俺はね、……カフェに迷惑をかけすぎだよ……」

「いいんですよ……」

「……フゥ、……なんでッ?」

 

 しばらく返事はなかった。

 

「それは……」

 

椅子に座っているトレーナーは、上体をやや突っ伏して、自分の疲れた手を虚ろに見ていた。もう何も指に嵌めていない左手も。

 

「アナタに、……ずっと、恋、していたから……」

「……、えっ、……えっ?」

「二回目に会ったときから、ずっと、……」

 

 トレーナーは言葉に詰まった。二回目に会ったときから今までに何があったか。色々な出来事があったが、その時にカフェは何を思ったか。どうしたか。何故そうしたか。答え合わせのあと、トレーナーは「こんなに愛されたことはない」と言って、両手で顔を隠して、上体を突っ伏した。

 

 涙に震えているトレーナーの肩を、白い繊細な指の連なりがそっと来て、また慰めた。その手のぬくもりを通じて、トレーナーはやっと、カフェがぼろぼろになろうとも貫き通してきた約二年分の無窮の愛を受け取った。

 やさしい時間が終わった後、トレーナーの胸に「報いねば」という志が芽生えた。カフェが萌芽させてくれた志である。

 

 この日を境に、ふたりは急速に持ち直した。カフェの怪我は順調に回復し、リハビリも苦にならず、夏合宿までに戦列に復帰した。まるで何かがカフェを守っているかのようだった。

 

 ふたりの精神的復活と、マンハッタンカフェという優駿の完成とは、アークウィークエンドの一点に重なって立派な終止符を打つが、このマンハッタンカフェの最後の戦いについては、本作の扱う範囲ではない。……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……帰国後。

 

 

 ある晩カフェは、輸入食品店で買った多楽産の珈琲を袋に提げて、すこし緊張しながらトレーナー室に顔を出した。トレーナーはデスクにいて、カフェと目が合うと笑顔を見せた。カフェの強張っていた緊張は緩んだ。

 

「……トレーナーさん」

「んん?」

「……これ、わたしから、……プレゼントです」

「えっ、えっ、ほんと? いいの?」

「……わたしのお気に入、……とっておきで、……どうぞ」

「ありがとっ!」

 

 トレーナーは、ヤッタヤッタと小声で騒ぎながら受け取った。

 ギフト包装にトレーナーの目は輝いた。包装を開くと、今度はひょうきんなおちゃらけた顔でパッケージの裏表を物色し、何か考えてから口を切った。

 

「……ベトナムっ??」

「フフ。……そうです。……ずっと、渡したかったんです」

「ずっと?」

「……そうですよ……ずっとです……」

 

 カフェは柔らかく首をかしげて、両手を胸の下に置いて、腰を左右交互に微かにひねった。トレーナーは言葉がなかった。カフェが色っぽくて。

 

「カ、カフェ、あの……」

「……っ!」

「明日、デートしてっ」

 

 

 カフェはもじもじして、なかなか返事をくれなかった。

くれなかったが、カフェの表情には既に、奥深い許諾の微笑みがあった。

 

「迎えに来て下さいね。……」

 

 カフェは、声帯を使わないささやき声で微笑みながら、ふわっと、そっぽを向いてしまった。

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

―――私はこの日をずっと、何十年も、待っていた気がします。……

 

 

 

 

 

 

 迎えに来て下さいね。……

 

 

 

 

 いつかアナタが 青空の下で

 

 やさしい夢を見ていたとき

 

 

 向こうの陰で

 

 アナタをみて

 

 泣いていた

 

 わたしを

 

 

 

 

 連れ出してくださいね

 

 

 

 青空の下に……

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 カフェが涙をこらえるのはこれが二度目だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 デートは横浜でした。

 

 中華街と、みなとみらいに行きました。

 

 最後はベンチで、埠頭の夜の光る水を見ていました。

 

 

 そうして、そこで、……

 

 トレーナーさんが告白してくれました。

 

 

 例の話です。

 

 改めて、告白させてと。……ええ。

 

 

 そこでわたしも、……とっておきのキス、あげました。

 

 

 それでデートのあと、一緒にトレーナーさんの家に帰りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その年の冬。

 

 白く煮詰まって靉靆する冬の雲の、どこか陰鬱な白い光を窓枠に嵌め込んだトレーナー室のソファーに、膝掛けをした温かいカフェが座っていて、その小さい白い指先が、蕾のように連なってマグカップに並ぶその上の方に、珈琲の湯気が時々ちらりと上がっていた。

 

 少ししてトレーナーがきた。でもカフェは特にトレーナーの方を見たりはせず、自分の座っている位置をそっと、隅に移した。カフェはこういう、自分と相手の定位置を作るのが好きだった。しかしその定位置に、トレーナーはいつまで経ってもやって来ず、何か只事ではない様子だった。

 何事かとトレーナーを見てみれば、なんとも顔面蒼白で、何か言葉を出そうにも出てこないような様子である。カフェはマグカップを置いて立ち上がり、トレーナーの背中に手をやって、ソファーに導いた。

 

「あの……さっき、友達伝いに、連絡、きて、……、あの、昔の、……婚約者の件で、ッ、……」

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 あの女は、浮気相手と同棲を始めた。

 

 その一か月後、妊娠が発覚した。

 

 事実関係や時系列からして、その子は「どっちの子か分からない子」。

 

 しかしあの女は、絶対に浮気相手との子だからと、出産に前向きだった。

 

 浮気相手はその信念が嬉しかったらしく、一緒に「わたしたちの子」だと信じ始めた。

 

 ふたりは子供を楽しみにして同棲を続けていた。

 

 ところが……、あの女がいよいよ身重になってセックスできなくなった頃、

 

 浮気相手の方が意見を翻して、出産間近のあの女を家から追い出した。

 

 

 

 ……あの女は、シェルターで出産した。その直後に、産褥熱で死んだ。

 

 浮気相手は、ほぼ蒸発するような具合で引っ越していて行方が分からない。

 

 赤ちゃんだけが残った。

 

 そして、赤ちゃんは今病院にいる。

 

 

 

 

 

 

 ……カフェは徐々に恐慌をきたした。何故そんなことになるのか理解が及ばない。ただ、暗い部屋の中で、山姥のようなあの女が血まみれになって死んでいて、その隣に、胎盤のつながったままの新生児が、その小さな手足を虚空に踠いている姿を思った。

 

 しかしカフェは、かつて抑圧の時代、あの女に抱いてきた、見えない蛸女の肖像が、今はもう遠ざかって消えていることにふと気付く。あの女を蛸女と思うのはいかにも敵意の顕われであったが、今度の山姥というのはまず人間で、それも、仲間外れにされた人間である。……

 

 醜いという印象は、醜いと思いたい事情から生まれてくる。醜いとは反対の、美しいという印象にしても同じ仕組みで、美しいと思いたい事情から生まれる。事情というのは気分である。そして美しいものを美しいと思う時の、そう思いたい自分の事情は、美しい物的投影を通じて、胸に迎えられてゆく。

 

 愛すること。……

 

「……どうして、そんな……成り行きに……」

「……美のせいだ。美のせいで妊娠したんだ。産んだんだ。……」

「美……」

 

 カフェはその言い方が、あの女の名誉を傷つけず、あの女の愛した男の名誉さえ傷つけず、さらには子供の名誉さえも傷つけない、すべての人間の名誉を守ろうとする言葉であるとすぐ気付いた。

 

「でないと、命懸けなんて無理なんだもんさ、……」

 

 そして、命懸けという言葉には即座に合点がいった。カフェは命懸けという言葉の意味を少しは知っている。アグネスタキオンならもっと知っている。皆知っている。それはウマ娘たちにおいては、あの明るい自信に顕われる。それから実は、笑顔にもよく顕われる。

 

 カフェは微笑みながら自分のおなかに指で円を書いた。

 

「赤ちゃんは、……その子は、生まれるおなかを、間違えちゃったんですね」

 

 トレーナーはカフェを見た。そのあと、生物的な勘によって何かに気付いたらしく、ソファーをたって、床に正座して、頭を下げた。

 

 そのトレーナーの行動を茶化してしまわないように、カフェはしばらくそれを制止せずにいたが、だんだんむず痒くなってきて、首を垂れるトレーナーのうなじをくすぐって、顔を上げさせようとした。だが、トレーナーは鈍ったく亀のように首を少し引っ込めるだけで、頑なに頭を上げない。

 カフェもやがて素直な心で向き合うしかなくなった。

 

 

 

 

 冷たい床に土下座している、切ない父親の姿があった。

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 男たち……。

 

 

 

 

 

 この世のすべての男たちが一体どこから生まれてくるのか、カフェは悟った。

 

 だからカフェは、歴史をゆるした。

 

 

 

「……おとこの子、ですよね?」

「うん……えっ、えっ、えッ? な、なんでわかったの?」

「……勘ですよっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しんしんと、雪が降っている。

 

 雪をくゆらす微風に、何かしっとりとした、高貴なものが満ちている。

 

 そうして雪の降るなかを、カフェとトレーナーとが、ひとつがいの親となって、子供の待つ場所へ向かって歩いている。

 

 

 あれから二人は忙しくなった。色々な所へ行き、色々な人に会い、色々な書類を書き、色々な取り決めをした。

 それでもまだまだやることは山積みで、二人が指輪を用意して嵌め合うのは当面先になる。

 

 戦友たちは、ふたりの決定を喜び、大いに助けになってくれた。

 学園理事長はとくに大喜びだった。

 ふたりの生活や地位は決して脅かされることはなく、むしろ祝福された。

 

 そういう慌ただしい、喧しい日が続いたぶん、今ふたりがゆく雪の街は、ふたりの耳にはこの上なく静かに聞かれ、二人を自然に無口にしている。

 

 

 道の向こうが粉っぽい雪で淀んでいるのを見ながら、カフェはふと思った。

 

 自分たちは、たくさんの人に助けられてきた。最終的に人を支えてくれるのは社会や共同体であったとほんとうに痛感する。

 

 だからこそ、……思うことがある。

 それで一方、どうだったのか……

 

 

 

 

 

 あの女には助けてくれる人はいたのだろうか。相談相手はいたのだろうか。

 男の方はどうか、どんな人生の中にいたのだろうか。……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 良人が建物の中に入った。

 

 

 

 

 少しして出てきた。

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 良人の胸に、息子が抱かれている。

 

 黒い防寒ケープでモコモコになっている。

 

 カフェはそっちへ向かいながら、自分の黒い手袋を脱いだ。

 

 

 

 

 

 カフェの手は、人を人として抱きかかえる感覚を忠実に覚えていた。

 

 

 息子はモコモコのなかでちょこんと顔を出して眠っている。

 

 カフェは、安心した。……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんにちは」

 

 

 

 微笑みかけてみた。

 

 

 

 ……。

 

 

 

 涙があふれてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 涙をぬぐった

 

 

 母の指でぬぐった

 

 

 

 

 

 

 指先が

 

 確かめた温度

 

 

 

 生きて、熱を放って

 

 そのせいですぐ

 雪のように解けてゆくだけの

 わたしたちの

 

 

 

 

 死にゆくために生きているわたしたちの

 

 その、すべての命の

 

 あるいは奥底から

 あるいは最果てから

 

 ひしと輝き出た

 赤い熱が確かにあった

 

 

 

 

 

 

 この涙は

 

 誰のものでもない

 

 ただ この子に

 流されたはずの

 

 したがって今、

 

 時を超えて

 

 個を超えて

 

 流される

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 子供のほっぺに

 ひとひらの雪が

 降りてきた

 

 

 降りてきた雪は

 すぐにとけて

 消えていった

 

 

 それは親だった

 

 

 

 

 そうしてあるとき

 

 個がほどけて

 

 抜け落ちた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あなたのお母さんは、良い人だったんですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――だって、あなたを産んでくれたから……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 女の肌のにおいが消えていった。

 

 雪と共に消えていった。

 

 人として消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 雪が降っている。

 

 

 雪が降っている。

 

 

 雪が降っている。

 

 

 

 

 わたしはあなたを父と呼ぶ。

 

 

 古い言葉しか知らないから。……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――終―――

 

 

 

 

原作

無形文化遺産・大衆競馬

ウマ娘プリティーダービー

 

 

 

 




「キサマも作家の端くれなら、まだ誰も見たことないような新しいシチュを作ってみせろ!」
それが今回のお題でした。
そうして新しいシチュとして【逆処女懐胎】を作って、
そのモデル作品として、実話を基に今作を書いてみました。
いかがでしたか?

それではまたいつかお会いしましょう。


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