まちぼうけ まちぼうけ
ある日せっせと 野良かせぎ
そこへ兎が飛んで出て
ころり ころげた 木の根っこ
――北原白秋『まちぼうけ』
田中の机の引き出しには、一冊の古い手帳が入っていた。
惑星防衛軍の非戦闘部隊に所属していた父が遺した、最後の記録だ。表紙には「備忘」と記され、その下には小さく「まちぼうけ」と走り書きがある。開くことはなかったが、今日もそれを確かめるように、そっと手で触れた。
「また調和の象徴としてのニュースですね」
夜勤明けの警備員、田中は、ホログラム投影の前でコーヒーを啜っていた。
映像では、銀河連合で行われた武力放棄推進演説が放送されている。この惑星が銀河に誇る調和の理想郷としての姿勢を、キャスターが誇らしげに伝えていた。何年も前の小惑星帯紛争で「技術支援だけの貢献」を揶揄された記憶は、もう誰も口にしない。
窓の外では、星の祈り堂の光柱が朝もやに霞んでいた。かつて父と瞑想した場所。結晶の階段は淡い青色に、まるで永遠の調和を祝福するかのように輝いている。
その瞬間だった。
真昼の双子星が、突如として消えた。
「おい、何だこれは」
田中は立ち上がり、窓の外を見上げた。巨大な円盤が、まるで大気層を押しのけるように、都市の上空に現れていた。漆黒の表面が不吉な光を放っている。まるで、この惑星の調和という薄い膜を、一枚剥がすように。
ホログラムの音声が途切れ、かわりに異質な電子音が響き始めた。全てのチャンネルが同じ画面に切り替わる。
「我々は、第四銀河連合より来訪した。この惑星の査定を行う」
機械的な声が、各惑星語で繰り返される。田中は思わず通信端末を手に取った。しかし、画面は真っ暗なままだ。ホログラムの向こうでは、キャスターの声が震えている。
都市がパニックに陥るまでに、そう時間はかからなかった。浮遊車のアラームが鳴り響き、商店のエネルギーシールドが次々と展開される。異様な熱気が街を包み込んでいく。
「これまで調和を守ってきた我が惑星として、不当な侵略行為は断じて認められません」
評議長の緊急会見が行われる。しかし、その言葉とは裏腹に、惑星としての具体的な対抗手段は示されない。「調和」を掲げ続けてきた惑星に、それは望むべくもなかった。小規模な惑星防衛軍が配備されたものの、それは象徴的な意味合いでしかなかった。
田中は机の引き出しから父の手帳を取り出した。ページを開くと、そこには二行だけの文字。
「備えなき調和は、幻想に等しい」
「しかし人は、幻想を選ぶだろう」
「私たちに、できることは……」
避難所となった重力制御ドームで、田中は温度調整マントを抱えた老婆に声をかける。惑星連合独立期を生き抜いてきた世代。その彼女が、遠くを見つめたまま、ポツリとつぶやいた。
「星の意思は、私たちを見捨てないはずよ」
その言葉がドームに響いた瞬間、振動が始まった。
最初は遠くの重力波のような揺れ。それが次第に大きくなり、やがて大地そのものが震え始めた。ドームのエネルギーシールドが不安定な波動を発する。
「地殻が!見てください!」
誰かの叫び声に、避難所の人々が窓際に殺到する。
惑星の表層が盛り上がり、そこから巨大な影が立ち上がっていく。生体金属のような鱗が双子星の光を受けて輝き、太古の記憶を呼び起こすような威圧的な姿が現れた。その背後では、星の祈り堂の光柱が静かに揺れている。
巨大生命体は、ゆっくりとその首を持ち上げ、円盤を凝視した。その眼には、知性と古い憤りのようなものが宿っている。まるで、惑星そのものの意思を具現化したかのように。
「あれは……私たちの味方なのでしょうか」
老婆の問いかけに、誰も即答できなかった。文明の歴史の中で、こんな存在と出会ったことはない。しかし、次の瞬間、その答えは明確になった。
巨大生命体は、低く唸るような波動を発した。その振動は次第に大きくなり、やがて轟音となって都市全体を包み込む。そして、巨体を円盤に向けて突き進ませた。
その姿は、まるで太古の惑星が、現代の守護者として蘇ったかのようだった。
避難ドームの人々は、固唾を呑んで空を見上げている。エネルギーシールドに映る彼らの表情に、恐怖と期待が交錯していた。
田中は老婆の肩に手を置いた。彼女の目には、小さな希望の光が宿っていた。その瞬間、父の手帳に書かれた言葉が、田中の脳裏をよぎる。
「しかし人は、幻想を選ぶだろう」
誰も予想だにしなかった救世主。その出現に、都市は奇妙な静寂に包まれていた。希望と不安が入り混じる中、人々は息を潜めて、これから起こる出来事を見守っていた。
その時、誰も気付かなかった。
星の祈り堂の結晶柱に、最初のヴォイドクラックが走り始めていたことを。
そこに都市があった。
守護者を称える巨大ホログラムに囲まれ、無数の祈りの場が立ち並ぶ街。かつて「調和の理想郷」と呼ばれた誇りは、今や「守護された惑星」という新しい幻想に取って代わられていた。
ヴォイドに侵食された星の祈り堂の境内で、一人の少女が古びた手帳を拾う。表紙には「備忘」の文字。中を開くと、走り書きで詩が書かれている。
まちぼうけ まちぼうけ
ある日せっせと 野良かせぎ
そこへ兎が飛んで出て
ころり ころげた 木の根っこ
「美咲、何を見てるの?」
老婆の声に、少女は手帳を落とした。それは結晶の階段を転がり、「備えよ常に」と刻まれた記憶石の前で止まる。
それは、最後の侵略者を撃退してから一年後のことだった。都市には巨大な祈祷施設が建ち並び、教育ポッドでは「守護者讃歌」が教えられている。ホログラム放送では毎日のように「再臨」の予言が報じられ、反対意見を述べる者は「不信者」として排斥されていた。
突如として、大気圏が割れた。
今度は、前例のない規模の侵略船団。数百もの円盤が、まるで暗黒物質の雲のように空を覆い尽くす。それは、かつて経験したことのない規模の影だった。
「守護者様!」
都市中から祈りの声が湧き上がる。新しい祈祷施設に人々が殺到し、古い星の祈り堂はひっそりと佇んでいた。惑星評議会からの避難指示など、誰も耳を貸さない。人々の目は、ただ地殻を見つめている。
「来る、必ず来る」
上原評議長が、惑星放送網で断言していた。彼の背後では、巨大生命体を描いた立体投影が不気味に輝いている。その表情には、もはや理性の光を見ることはできなかった。
地殻深層、極秘の研究施設で、山岡は震える手で一枚のデータクリスタルを広げた。彼は表向き退職したことになっているが、実は惑星科学院の極秘プロジェクトチームのリーダーだった。その目的は、巨大生命体の真実を解明することにあった。
「地殻からの波動は、半年前に完全に消失している」
傍らには、他惑星に派遣されていた田中の姿。彼の手には、銀河系全域の地殻観測データが握られている。
「あの生命体たちは……死んだのか?」
「いや」山岡は首を振った。「きっと、彼らの使命は終わったんだ」
田中は手帳の内容を思い出す。
『人は幻想を選ぶ。しかし、幻想に守られることはない』
円盤からの攻撃が始まった。
都市は光の渦となり、守護者を象った巨大なホログラムが次々と消滅していく。しかし人々は、まだ祈り続けていた。
「待ちましょう」
「きっと来る」
「信じて」
地殻は静かなままだった。美咲は記憶石の前で拾った手帳を胸に抱きしめている。
研究施設で、田中は最後の分析結果に目を通していた。
「巨大生命体の出現には、規則性があった。彼らは……この惑星の防衛システムだったんです」
「防衛システム?」
「はい。惑星が外敵から身を守るための……でも、私たちがそれに依存し過ぎた。必要以上の期待を……」
轟音が施設を揺らした。地上では、最後の祈祷施設が崩れ落ちる。そして、ヴォイドに侵食された記憶石の文字が、今になってようやく、はっきりと浮かび上がった。
「備えよ常に」
「皮肉だな」山岡は苦笑した。「備えを怠ったのは、私たちの方だった」
「評議長、避難を!」
中枢施設で側近たちが叫ぶ。しかし、上原評議長は動かない。
「待つんです」
彼は虚ろな目で空を見上げていた。
「これは、私たちの信仰を試す試練なのです」
都市は崩壊していった。
信仰は、現実の前に脆くも崩れ去る。
最後まで地殻を見つめていた老婆は、初めて目を背けた。その瞬間、彼女の手から祈りの結晶が零れ落ちる。それは、まるで解けていく幻のようだった。
美咲は手帳を開いた。最後のページには、走り書きの詩が続いていた。
まちぼうけ まちぼうけ
もとはすずしい きび畑
いまは荒れ野の ほうき草
さむい北風 木の根っこ
「……お母さん、まだ待つの?」
返事はない。
ただ、暗い地殻が、静かにうねっているだけだった。