鏡餅をテーマにしたホラー短編小説です

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鏡餅

寒風吹きすさぶ年の瀬。古びた田舎の家で、一人暮らしをしている美和は、今年も誰にも会わずに新年を迎える準備をしていた。古い木造家屋の中には、煤けた畳の匂いと、冷え切った空気が漂っている。

 

「もう歳をとると、正月なんてただの日付だわね」

 

そう呟きながら、彼女は台所で小さな鏡餅を作っていた。昔は家族みんなで作っていたが、両親が亡くなり、兄弟たちもそれぞれの生活に忙しく、今やこの家に帰ってくる者はいない。美和にとって正月の準備は、ただの習慣であり、気休めのようなものだった。

 

その日の夜、美和は出来上がった鏡餅を神棚に供え、静かに寝床に入った。外では風が唸り声を上げ、木々が不気味に揺れている。だが彼女は、いつものように深く考えず、毛布にくるまり眠りについた。

 

---

 

翌朝、美和は妙な気配に目を覚ました。家全体が静まり返っているのに、どこか遠くから低いうめき声のような音が聞こえる。彼女は寝ぼけたまま台所へ向かったが、その途中で足を止めた。

 

神棚に供えたはずの鏡餅が、畳の上に落ちていた。

 

「えっ?」

 

驚いた美和は鏡餅を拾い上げた。それは昨日自分が作ったものに間違いなかった。だが、妙なことに餅の表面には、細かいひび割れが入っており、まるで誰かが爪で引っ掻いたような跡がある。

 

「風か何かで落ちたのかしら…」

 

そう呟きつつも、胸の奥に言い知れぬ不安が広がる。彼女は餅を神棚に戻し、気にしないように朝の準備を始めた。

 

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その夜、再び異変が起きた。美和が布団の中でうつらうつらしていると、家の中から微かな物音が聞こえる。それはまるで、何かが床を這いずる音だった。

 

「ネズミかしら…?」

 

彼女は耳を澄ましたが、音はやがて消え、再び静寂が戻った。しかし、不安に駆られた美和は、懐中電灯を手にして神棚を確認することにした。

 

そこには、昨日戻したはずの鏡餅が再び床に落ちていた。

 

「どうして…?」

 

彼女が餅を拾おうとした瞬間、餅のひび割れの隙間から何かが動いた。それは黒く細長いもの――毛のようなものがひょろりと飛び出し、美和の手元で蠢いたのだ。

 

「ひっ!」

 

悲鳴を上げて手を引っ込めた美和は、餅をその場に放り出した。怯えながらも光を当て続けると、餅のひび割れが次第に広がり、内部から黒い液体がじわりと滲み出してくる。

 

その瞬間、背後から低いうめき声が聞こえた。振り向くと、そこには誰かが立っていた。いや、「誰か」ではなかった。人の形をしているが、顔には目も鼻もなく、まるで鏡餅がそのまま人の姿になったかのような不気味な存在が、ゆっくりと美和に近づいてくる。

 

「お供え物を返して…」

 

その声は低く、湿り気を帯びていた。美和は息を飲み、後ずさりする。しかし足がもつれ、その場に尻餅をついてしまう。懐中電灯の光が震えながら生物のような鏡餅の姿を照らした。

 

「返して…返して…」

 

その存在は何度も同じ言葉を繰り返し、ひび割れた鏡餅の破片を拾い上げながら美和に迫る。彼女は必死に叫び声を上げたが、その声は荒れた風の音に掻き消され、家中に響くことはなかった。

 

---

 

翌朝、この家を訪れた隣人は、異様な光景を目にした。畳の上には、割れた鏡餅が散乱し、その中心には美和の姿があった。しかし、彼女の顔は何故か艶やかな白で覆われ、目や鼻、口といった人間の特徴がすべて失われていた。

 

その後、誰もこの家に近づこうとする者はいなかった。ただ、正月になるたび、風の音に紛れてどこかから「返して…」という声が聞こえるという噂だけが残った。

 

 

---

 

年が明けてから数週間後、美和の家の前を通りかかった地元の郵便配達員、健太は、奇妙な静けさに気づいた。古い家ではあったが、これまで郵便物を配達するたび、どこか生活感のある気配が感じられていた。しかし今回は何かが違う。窓もカーテンも閉ざされ、まるで家全体が人の手から離れ、時間が止まってしまったようだった。

 

「あの家、最近見かけないな…」

 

健太は家の中に何か異変があったのではないかと不安に駆られた。地元の駐在所に報告し、警官と一緒に美和の家を訪れることにした。

 

---

 

警官とともに古い玄関の戸を開けると、冷たい空気が彼らを迎えた。家の中には生活の痕跡がそのまま残っているが、人の気配は感じられない。台所の食器棚や居間の家具もそのままだ。しかし、ある一点を見た瞬間、警官の顔色が変わった。

 

「これ…なんだ…?」

 

畳の上に散乱していたのは、ひび割れた鏡餅の破片だった。その破片には奇妙な模様が浮かび上がっており、まるでそれが生き物の皮膚のように見える。模様の隙間からは乾いた血のような赤い染みが見えた。

 

「気味が悪いな…」

 

健太も同感だったが、視線を離せなかった。ふと、神棚の方に目をやると、そこには何も供えられておらず、異様な空白が広がっていた。二人が立ち尽くしていると、家の奥からかすかな音が聞こえた。それはまるで何かを引きずるような音だった。

 

「おい、聞こえるか?」

 

警官が声を潜めながら、音のする方へ懐中電灯を向けた。廊下の奥、押し入れの扉が微かに揺れているのが見える。

 

「中を見てみるぞ」

 

警官は慎重に押し入れに近づき、ゆっくりと扉を開けた。そこには、美和の姿があった――いや、正確には彼女だったはずの「何か」だ。全身が艶やかな白に覆われ、鏡餅のような滑らかな表面に変わり果てていた。目も鼻も口もなく、まるで人形のように無機質だ。

 

「うわっ…!」

 

驚いて後ずさった健太と警官。その瞬間、美和だったものが微かに動いた。体がきしむような音を立て、ゆっくりと彼らの方に顔を向ける。

 

「返して…」

 

低く湿った声が押し入れの中から響く。声の主は動かない。だが、声が家中に反響し、まるで壁や床がささやいているように感じられた。健太と警官は恐怖に駆られ、家を飛び出した。

 

---

 

その後、地元では美和の家が「呪われた家」として忌み嫌われるようになった。家の近くを通る者たちは、一様に奇妙な体験を語った。夜になると、家から微かな声が聞こえる。それは「返して…」と繰り返す声だという。

 

ある村人が恐る恐るその家を調べたとき、神棚には奇妙な新しい鏡餅が供えられていた。それは人の手で作ったものではなく、どこか自然に生まれたかのような不気味な形をしていた。誰が供えたのかはわからないが、それを動かそうとした者は皆、数日後に姿を消した。

 

---

 

数十年後、美和の家は取り壊されることになった。しかし、その跡地にはいくつもの不思議な出来事が続いた。大晦日の夜、跡地に近づいた者たちは、風の音に紛れて「返して…」という声を聞いたと語る。そしてその声を聞いた者たちは、翌日必ずどこかに鏡餅が供えられているのを目撃したという。

 

それが誰の仕業かは、いまだに謎のままだ。

 

 

 

---

 

**10年後――**

美和の家が取り壊されてから、あの土地はずっと放置されたままだった。周囲の住民たちは、あの家があった場所を「餅の家」と呼び、誰も近寄ろうとしなかった。やがて土地は草木に覆われ、薄暗い森のような姿に変わっていった。

 

しかし、その年の正月を迎える数日前、都会からやってきた若いカップルがこの地を訪れた。彼らは廃墟マニアで、美和の家についての噂をインターネットで知り、面白半分でその跡地を訪れることにしたのだ。

 

「ここが例の場所か。思ったより静かだな」

「そうね。けど、なんか空気が冷たい気がする…」

 

彼らは軽い気持ちでカメラを手にしながら跡地を探索し始めた。彼らの足元には、苔と雑草に覆われた地面が広がり、かつての家の基礎部分がかろうじて残されているだけだった。

 

「噂では鏡餅を持ち帰ると呪われるとか言ってたよな」

男性が冗談交じりに話しかけると、女性は少し怯えたように眉を寄せた。

「やめてよ、そんなこと言わないで…。なんだか気味が悪い」

 

そのとき、二人の足元に奇妙なものが現れた。草むらの中から、ぽつんと鏡餅が顔を覗かせている。それは誰かが最近供えたようにも見えたが、餅の表面には細かなひび割れが走り、不気味な黒い染みが浮かんでいた。

 

「うわっ、本当に鏡餅がある!」

男性は面白がってそれを拾い上げた。

「これ、家に持ち帰ったらどうなるんだろうな。呪われるかな?」

「やめてよ、早く戻そうよ!」

 

しかし、男性は女性の言葉を無視し、鏡餅をリュックに押し込んだ。彼女は明らかに嫌そうな顔をしていたが、結局彼を止められなかった。

 

---

 

その夜、カップルは近くの古びた旅館に宿泊した。部屋に戻ると、男性はリュックから鏡餅を取り出し、テーブルに置いた。

「どうだ?これ、家に飾ったら面白いかもな」

「本当にやめてよ…あの土地の話、ただの噂じゃない気がする」

 

女性は真剣な表情で訴えたが、男性は気にする様子もなく餅を眺めていた。

「大丈夫だって。ただの古い伝説さ」

 

その夜、旅館の静寂を破るように、不思議な音が響き始めた。それは低いうめき声のようでもあり、何かが這いずるような音でもあった。彼女はベッドの中で目を覚まし、辺りを見回したが、部屋には誰もいない。だが、テーブルに置いていたはずの鏡餅が消えていた。

 

「…あれ?餅がない?」

 

彼女がそっと男性を起こそうとした瞬間、暗闇の中で奇妙なものが動いた。それは部屋の隅にある鏡の前だった。鏡の中に映るのは、自分たちの姿ではなく、真っ白で目鼻のない不気味な人影だった。

 

「…返して…」

 

その声に気づいた瞬間、彼女は恐怖で声を出すことができなかった。彼女の横で寝ていた男性も突然苦しげにうめき声を上げ、身体が痙攣し始めた。リュックの中に入れたはずの鏡餅が、彼の胸元からじわりと姿を現していた。それは彼の体に吸い付くように広がり、まるで彼を飲み込もうとしているようだった。

 

「やめて!やめて!」

女性は泣き叫びながら男性に駆け寄ったが、その瞬間、白い人影が彼女の背後に現れ、冷たい手で肩を掴んだ。

 

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**翌朝――**

旅館の主人が部屋を訪れると、中は無人だった。ただ、テーブルの上にはひび割れた鏡餅が供えられていた。その表面には、何かの指紋のような跡が無数に刻まれていたという。

 

その後、あのカップルの姿を見た者はいなかった。だが、地元では再び噂が広がった。正月になるたび、あの跡地に近づく者は必ず姿を消し、代わりに鏡餅が現れるのだと。

 

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あなたも年の瀬には、鏡餅に気をつけて。供えるときも、持ち帰るときも、決して軽い気持ちで扱ってはいけない。それが「餅の家」の教えだから。

 

 

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旅館の怪異からさらに数年が過ぎたころ、地元の青年、涼太が町に戻ってきた。都会での仕事に疲れ、静かな暮らしを求めて故郷に戻ることを決めたのだ。しかし、戻った彼の耳には、幼い頃の思い出とはまったく違う、不気味な噂ばかりが飛び込んできた。

 

「お前、餅の家のこと覚えてるか?」

友人の祐介が話し始めたのは、涼太が町に着いて間もない頃だった。

「ああ、なんか聞いたよ。鏡餅を持ち出したら呪われるとか?」

「それだけじゃねぇんだよ。最近また誰か行ったらしいけど、姿を消したって噂だ。まるで跡地そのものが人を飲み込んでるみたいだ」

 

祐介の話を聞いた涼太は、興味をそそられた。幼い頃に見た家の記憶は、ただ古びた普通の民家でしかなかった。それがこんなに恐ろしい話の舞台になっているなんて信じがたい。そこで彼は決心した。

 

「一度見に行ってみるよ。昔住んでた人のこと、少し気になるし」

 

祐介は反対したが、涼太は耳を貸さなかった。彼は地図を片手に、かつての「餅の家」の跡地へ向かった。

 

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**跡地へ――**

跡地に到着した涼太は、そこに漂う異様な静けさに気づいた。風が吹いているのに、草木は揺れず、森の中は不気味なほど音がなかった。苔むした地面に足を踏み入れた瞬間、背筋に冷たい感覚が走った。

 

「こんなところが噂の発端か…」

 

涼太は慎重に周囲を見回した。すると、草むらの中にぽつんと置かれた鏡餅が目に入った。それはまるで、誰かがわざとそこに置いたかのように不自然な場所にあった。

 

「これが…?」

 

彼は足を止め、その鏡餅をじっと見つめた。近づくと、表面に無数のひび割れがあり、そのひびの隙間から黒い何かが滲み出ている。彼の脳裏に、不意に幼い頃の正月の思い出が蘇った。家族みんなで囲んだ小さな神棚、美和おばさんの微笑み。

 

「美和さん…」

 

涼太がその名前を口にした瞬間、草むらの奥から音がした。それは足音のようでもあり、何かを引きずる音のようでもあった。慌てて振り返ったが、誰もいない。ただ、風が吹いているはずなのに、空気は重く淀んでいる。

 

「誰かいるのか?」

 

涼太が声を上げた瞬間、背後で低いうめき声が響いた。

 

「…返して…」

 

その声はあまりにも近く、彼は反射的に振り向いた。そこには、真っ白で人間の形をしたものが立っていた。目鼻のない滑らかな顔、ひび割れた表面。美和の家で噂されていた「何か」が目の前にいたのだ。

 

涼太は恐怖で後ずさったが、その存在はじりじりと近づいてくる。

 

「…返して…」

 

その声はやがて幾重にも重なり、まるで地面や空気そのものがささやいているようだった。涼太は反射的に手にした地面の石を投げつけたが、それは空を切り、その存在を通り抜けてしまった。

 

「…返して…」

 

その言葉の意味が脳裏にこびりつく。返す? 何を? 涼太は自問したが、答えが出る前に足がもつれ、地面に転倒した。視界の端に、かつての美和おばさんの家の姿がちらついた。そこで、彼は気づいた。

 

「あれは…神棚…?」

 

跡地に見えるのは、確かに神棚の一部だった。鏡餅を供えるべき場所だ。涼太は震える手で近くに落ちていた鏡餅を拾い上げ、それを神棚の跡に戻した。

 

すると、低いうめき声がぴたりと止んだ。辺りに重く淀んでいた空気がふっと軽くなり、風が再び草木を揺らし始めた。涼太は、ようやく恐怖の中から解放されたような気がした。

 

---

 

**それから――**

涼太が町に戻ると、あの跡地の噂は自然と消えていった。人々は再びあの場所を通るようになり、異変も起きなくなった。ただ、涼太だけは知っている。年の瀬になるたび、遠くから聞こえるような気がする声――「返して…」というささやき。

 

彼はもう二度と、あの土地に近づこうとはしなかった。

 

 

 

---

 

涼太が鏡餅を神棚の跡に戻してから数年が経過した。その間、あの跡地で新たな異変が起こることはなく、村の人々は次第にその恐怖を忘れつつあった。しかし、涼太は忘れることができなかった。あの白い人影、耳に焼き付いた「返して…」の声――すべてが彼の記憶の底に沈み、ふとした瞬間に蘇る。

 

---

 

**ある年の大晦日――**

涼太は実家で新しい年を迎える準備をしていた。村に戻ってからは、彼も地元の伝統行事に積極的に関わるようになり、今年は家族と一緒に鏡餅を作っていた。蒸したもち米を杵でつき、丸めて重ねる。シンプルな作業だが、これをするといつも幼い頃の正月を思い出す。

 

「お兄ちゃん、これどうするの?」

妹の真奈が、小さな橙を手にして涼太に尋ねた。

「ああ、それを上に乗せて完成だよ。そうすれば神様も喜ぶからな」

 

涼太は笑って答えたが、その笑顔の裏には微かな不安があった。鏡餅を神棚に供える行為が、あの恐怖の夜と繋がっているような気がしてならなかったのだ。

 

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**その夜――**

家族が寝静まった頃、涼太はふと目を覚ました。どこかで微かな音がする。耳を澄ますと、それは廊下の方から聞こえてきた。コツコツと何かを引きずるような音。その音に覚えがあった。忘れるはずもない。

 

「まさか…」

 

涼太は恐怖を押し殺し、そっと布団を抜け出した。暗い廊下を懐中電灯で照らしながら音のする方へ向かう。音は次第に近づき、やがて彼を家の神棚へと導いた。

 

そこには――

 

神棚に供えたはずの鏡餅が、床に落ちていた。いや、それだけではない。餅の表面には無数のひびが入り、その隙間から黒い液体がじわりと染み出している。涼太は震える手で懐中電灯を握りしめ、後ずさった。

 

「返して…」

 

その声が再び聞こえた。あのときと同じ湿った声。振り向くと、白い人影が廊下の奥に立っていた。目鼻のない顔、ひび割れた肌、そしてゆっくりとこちらに向かってくる動き。涼太の胸は恐怖で締め付けられた。

 

「また…なのか…?」

 

涼太は咄嗟に鏡餅を拾い上げ、神棚に戻そうとした。だが、餅は重く、冷たく、まるで自分自身がそれを拒んでいるかのようだった。人影はますます近づき、その存在感が部屋の空気を支配していく。

 

「どうすればいい…」

 

涼太は思考を巡らせた。前回は鏡餅を神棚に戻して異変が収まった。しかし、今回はそれだけでは済まない気がした。声がささやき続ける――「返して…返して…」。だが、何を返せばいいのか、涼太にはわからなかった。

 

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**謎の箱――**

ふと、涼太は神棚の隅にある古びた木箱に気づいた。それは彼が幼い頃から見慣れたものだったが、開けたことは一度もなかった。急なひらめきに駆られ、彼は箱を取り出して蓋を開けた。

 

中には古い手紙が数通と、小さな紙人形が入っていた。紙人形は赤い糸で縛られ、まるで何かを封印するための道具のように見えた。そして手紙には、震えるような字でこう書かれていた。

 

---

 

**「供えるものを怠れば、災いが降りかかる」**

**「餅はただの供物ではない。魂を繋ぎ止める役割を持つ」**

 

---

 

涼太はその言葉に愕然とした。鏡餅は単なる正月の飾りではなく、何かを封じるための道具だったのだ。そして、その役割を怠ったことがすべての発端だった。

 

「そうか…返すべきなのは、餅そのものじゃない…」

 

涼太は急いで紙人形を取り出し、それを鏡餅の上に置いた。すると、家全体が微かに揺れるような感覚に包まれた。白い人影は動きを止め、じっとその場に立ち尽くした。

 

「返して…」

最後の声が静かに響き、やがて人影は消えた。鏡餅のひび割れも消え、元の滑らかな姿に戻っていた。

 

---

 

**それから――**

翌朝、涼太は家族に昨晩の出来事を話すことはなかった。ただ、神棚の手入れを怠らないようにしようと心に決めた。餅の家の呪いは終わったのか、それともまだ潜んでいるのか――それは誰にもわからない。

 

しかし、涼太は気づいていた。年の瀬に響くあの声が、どこかで再び耳に届く日が来るかもしれないということを。

 

---

 

涼太が神棚の手入れを怠らなくなってから数年が経ち、村には平穏が戻ったように見えた。だが、心のどこかで涼太は感じていた。完全に終わったわけではない、と。夜の静けさの中で、風に混じって聞こえるかすかな声――それは「返して」という言葉のようにも聞こえた。

 

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**ある年の冬――**

その年は記録的な寒波が村を襲い、深い雪が一面を覆った。村人たちは家にこもり、外に出ることを避けていた。そんな中、涼太は再び奇妙な出来事に巻き込まれる。

 

大晦日の夜、家の外から妙な物音が聞こえてきた。それは遠くから、何かを引きずるような音だった。涼太は布団の中で耳を澄ませたが、風の音に紛れてそれ以上は聞き取れなかった。だが、音は次第に近づいてきた。

 

「…また、か…?」

 

彼は懐中電灯を手に家の外へ出た。寒気が肌を刺す中、足跡一つない雪原を照らすと、そこにはぽつんと鏡餅が置かれていた。涼太の胸は恐怖で締め付けられた。以前と同じだ。しかし、何かが違う――餅のひび割れからは、今度は黒ではなく赤い液体が滲み出ていた。

 

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**新たな手がかり――**

鏡餅を前にして涼太は考えた。以前の手紙や紙人形は役に立ったが、それ以上の情報がなければ、次に何が起こるかわからない。神棚の木箱にはもう手がかりは残っていない。彼は思い切って村の年配者に話を聞くことにした。

 

次の日、村一番の古老、茂吉の家を訪れた。茂吉は涼太の話を聞き、しばらく沈黙した後、ゆっくりと語り始めた。

 

「…お前が見たもの、それはただの餅ではない。あれは、この土地に封じられていた『穢れ』だ。昔、この村では飢饉や疫病が続いた。人々は災いの元凶を探し、ついにそれを封じる術を見つけた。鏡餅を通じてな」

 

茂吉の言葉に、涼太は愕然とした。鏡餅は単なる供物ではなく、災厄を封じ込める「鍵」だったのだ。そして、その封印が弱まったとき、災いが再び解き放たれる。

 

「だがな…」

茂吉は低い声で続けた。

「本当の問題は、封じられたものの正体だ。誰も、それを完全には知らん。ただ、これだけは覚えておけ。『穢れ』は返されることを望んでいる」

 

---

 

**不吉な夢――**

その夜、涼太は奇妙な夢を見た。夢の中で彼は深い森を彷徨い、古びた祠の前に立っていた。祠の中には、無数の鏡餅が積み上げられ、その中心に血のように赤い餅が鎮座していた。

 

「返して…」

 

夢の中でも、あの声が響いた。だが今回は、それに続く別の声が聞こえた。

 

「返すな…」

 

目を覚ました涼太は、冷や汗で全身が濡れていた。夢の意味を考える余裕もなく、彼の心は不安に支配されていた。どちらを信じるべきなのか?「返して」という声の願いを聞き入れるべきか、それともそれに抗うべきか。

 

---

 

**決断の夜――**

大晦日の夜、涼太は再び神棚の前に座っていた。彼の手には、雪原から拾い上げた赤いひび割れた鏡餅があった。胸の中では恐怖と葛藤が渦巻いている。

 

「どうすればいい…」

 

ふと、外から風の音が止み、静寂が訪れた。その瞬間、家の周りで何かが動く音が聞こえた。それは無数の足音のようであり、何かが地面を這う音のようでもあった。涼太は意を決して立ち上がり、神棚に鏡餅を捧げた。

 

その瞬間、家全体が微かに揺れ、空気が歪んだように感じた。鏡餅は光を放ち、ひび割れが消えていく。だが、それと同時に外から低いうめき声が聞こえた。

 

「返して…」

 

その声はこれまで以上に大きく、そして苦しそうだった。

 

涼太は神棚の前で手を合わせ、祈った。自分が正しい選択をしていることを願いながら。

 

---

 

**その後――**

夜が明けると、家の周りは静まり返り、雪の上には何の痕跡も残っていなかった。鏡餅はそのまま神棚に鎮座し、穏やかな輝きを放っていた。だが涼太はわかっていた。これで完全に終わったわけではない。あの声が再び響く日が来るかもしれない。

 

彼は決意を固めた。自分の代で、この土地の封印を守り抜く。そして、次の世代にその役目を託すのだと。

 

---

 

涼太が神棚に鏡餅を捧げた後、不思議と家の中は穏やかになり、あの声も足音も聞こえなくなった。村の生活は何事もなかったかのように続き、跡地の噂もいつしか消えていった。しかし涼太の心には、まだ拭いきれない不安が残っていた。

 

---

 

**春――新たな異変**

雪が溶け、春の暖かい風が村を包む頃、涼太の家にまた異変が起こり始めた。最初は小さなことだった。神棚に供えた鏡餅の表面に、小さなひびが入る。理由はわからなかったが、涼太は供え直せば問題ないと信じていた。

 

しかし、ある日彼が仕事から帰ると、神棚の前に奇妙なものが置かれていた。それは古びた小さな包みだった。包みの中には黒ずんだ鏡餅と、巻物のような古い文書が入っていた。

 

巻物には、涼太が以前見つけた手紙と同じような震える筆跡で書かれていた。

 

---

 

**「封印は続けねばならぬ」**

**「穢れを祠へ戻せ。さもなくば、村は滅びる」**

 

---

 

「祠へ戻せ…?」

 

涼太は困惑した。この村に祠があったという話は聞いたことがない。だが、以前見た夢の中で、彼は祠の存在を目にしていた。古びた祠、無数の鏡餅――それがどこかに実在するのではないかという予感が胸をよぎった。

 

---

 

**祠の探索――**

巻物を手がかりに涼太は村の山中を探索し始めた。古老の茂吉に話を聞くと、「かつて山の奥深くに古い祠があった」と語った。だが、それはもう何十年も人が訪れていない場所であり、祠の正確な場所を知る者はいなかった。

 

涼太は村人に頼らず、自力で祠を探す決意を固めた。雪解け水が流れる山を歩き続け、ついに彼は鬱蒼とした森の中に隠された祠を見つけた。祠は完全に朽ち果て、苔とツタに覆われていたが、かつてここが何か重要な場所だったことは明らかだった。

 

祠の中には、いくつかの古い鏡餅が散乱していた。それらはすべて黒ずみ、ひび割れ、まるで長い間放置されていた怨念のようだった。涼太は震える手で包みを開き、黒ずんだ鏡餅を祠の中心に置いた。

 

---

 

**解き放たれる穢れ――**

鏡餅を置いた瞬間、空気が震えた。森全体が揺れるような感覚に包まれ、冷たい風が涼太の頬を刺した。祠の奥から、かすかな声が聞こえてくる。

 

「返して…」

 

涼太は咄嗟に後ずさった。その声は次第に大きくなり、祠の中から白い人影が浮かび上がった。それは以前、彼の家に現れたものと同じだったが、さらに禍々しい雰囲気をまとっていた。

 

「返すべきものを…返せ…」

 

その声が涼太を包み込むように響いた。彼は叫びたい衝動を必死に抑え、祠の中にあった別の鏡餅を拾い上げた。それを手に、涼太は問いかけた。

 

「これが…お前の望みなのか?」

 

白い影はしばらく動かなかったが、やがてゆっくりとうなずいたかのように見えた。涼太は鏡餅を祠の中心に戻し、再び手を合わせた。すると、白い影は静かに消え、森の空気が元に戻った。

 

---

 

**村の平穏――**

涼太が祠を訪れた後、村では不思議なことに作物の実りが良くなり、病気も減った。村人たちはこれを「ご先祖様のご加護」と喜んだが、涼太だけはそれが「穢れを正しい場所に戻した結果」だと理解していた。

 

彼は誰にもこのことを話さなかった。ただ、祠を見つけた山道だけは自ら整備し、定期的に訪れるようになった。祠が再び忘れられることがないように。

 

---

 

**数年後――**

ある年の大晦日、涼太は初めて家族を連れて祠を訪れた。神聖な場所として伝えることで、次の世代にも守らせるためだ。祠の前で静かに手を合わせると、かすかに聞こえたのは「返して」という声ではなく、安らぎを感じさせる風の音だった。

 

穢れは、ようやく眠りについたのかもしれない――。


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