スランプに陥った主人公に訪れた、奇妙な出来事。


スランプ中の筆者「俺自身が題材になることだ…!」
で出来た小説です。

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寒空に釦を敲き原稿を書く指の動きが鈍る。
しかし、僕の文筆の運命が閉ざされたと言うわけではないらしい。


筆まめな珈琲

恥ずかしながら、僕は所謂「スランプ」とやらに陥っている。

 

何をするにも既視感を感じ、思考は坩堝に嵌り、筆など動く筈も勿い。

文筆を生業として日夜を過ごしているのだから、僕のモノクロームな脳細胞から引き絞るようにしてアイディアを捻じり出すべきなのだろうが、如何せんそういう好いものが出て来ないのである。

ところで僕は京都に棲んでおり、繊細な味を楽しむことが能う料亭にお邪魔したり、燻る紫煙と共に時間の流れを楽しむカフェーに行ったりとしているのだが、近ごろ奇妙なうわさを聞く。

なんでも、「そのカフェーが出すエスプレッソを飲めば、忽ちに頭脳が軍師諸葛亮の如くに冴えわたり、筆の走り様は弘法の墨の尽きぬ迅速な筆致に同じきものとなる」というのだ。

流石にそんなことはないだろうと思いつつも、丁度やろうとしている逼迫した火急の用も勿い僕は、寺町通にあると云うカフェーに、内心高揚を覚えながら新鮮な心持で外出をした。

 

ぎぎいと音を立てて、暖色系の灯火に照らされた店内に入る。

革地の座卓に座って、件のエスプレッソを注文してみる。

初老の店主が少し口角を動かしながら、その注文に応対し、程なくして珈琲が出来上がった。

実に充実した、完成された、美しい流れである。

普段の重圧に疲れ切った僕の感受性を擽るような、素晴らしい要素を、間違いなくそこに見いだせたのだ。

それを感じて、少々おやと思ったのだが、さておき兎にも角にもそのエスプレッソを飲んでみなければ始まらない。

口を茶褐色の液体につける。

ぐいとカップを傾け、口の中で少し転がしてみる。

…矢張りというべきか。

エスプレッソというものは、とても脳髄を澄渡らせる好い味をしているものだと思う。

脳内分泌されるホルモンの迸るその様が厭が応にも伝わってくる。

このように、僕の脳細胞が鋭敏な熱運動をしていることもこの飲料の作用なのかしらとも思いつつ、噂の検証をしたくなった僕は、そのまま思惟にふけることにした。

 

さて、僕にとってのアイディアの源泉とは、即ち身の回りの環境で突発的・必然的・偶発的・演繹的に起こる、出来事の数々である。

その出来事が起こる切欠、その出来事そのものの感触、その出来事によって周囲に起こる変化の有様。

出来事というのは様々に、僕の意識活動を刺激してくれるのである。

しかしながら、あるいは日々の業務による疲労が祟っているのであろうか、あるいは自らの想起に配管詰まりが起こっているのであろうか。

僕は出来事へのアンテナーが摩耗してしまっているのである。

特効薬的用法として、作文指導を珈琲に乞うとかいうそういうファンタジィな目的でこの喫茶店を訪れたわけでは断じてない。

だがしかし、自分の思惟の行く先がダイダロス迷宮を彷徨っているのは間違いないがゆえに、藁にも蜘蛛にもすがるような思いで、アリアドネーを求めていたというのは、どうやっても否むことができないだろう。

現に、僕はこのカフェーに向かう道中、視界の色彩はパステリッシュになっていたように思えるし、住処の戸に鍵をかける段階から、ここのソファーに腰を掛けるに至るまで、ありとある情景を捥ぎたての果実の瑞々しさの如き鮮やかさで今に至っても反省することができる。

ここの珈琲の効能というのは、利用者の知覚の想起を扶けるものなのかもしれない。

以上のように感じた僕は、更に喉に黒色の液体を嚥下させていく。

 

と、近頃では中々に得られなかったような思惟の安寧の下で僕が飲料の苦みを味わっていたところ。

つまりは、僕の心に思惟を齷齪ような焦りが一切合切淘汰されて、身を癒すような心地よい余裕が心身を支配した最中である。

一つの、これまでの思惟が凭れ掛かっていた前提を覆すような、疑問が鎌首を擡げたのである。

即ち、「果たして、これまでの思惟はこの珈琲在りきのものであるのか」という疑問である。

思惟をくぐらせたが故の迷走であるのかもしれない。

だがしかし、その疑問は、これまでの思惟に深い刺激をもたらして、新たな見解を産んだ。

確かに、この場面において、見た目上「珈琲を飲む。即ち思惟が鋭くめぐる」というプロセスが成立しているように見えるだろう。

しかし、その実情は少々ズレている。

「珈琲を飲む」、「心が落ち着く」、「心に余裕ができる」、「落ち着いて思惟を巡らせられる」。

このような形態移行が起こっているのである。

ここの珈琲はとても味わい深い。

それこそ、ささくれ立った神経がその珈琲への期待感だけでワクワクと高揚するような心地へと変わる程に。

 

僕は後日、すっかりその店のリピーターとなってしまった後に、店主に「筆まめなエスプレッソ」について尋ねてみた。

「ふふ、この問を投げられるのはいつぶりでしょうか。確かに当店の珈琲は私の精力を傾けて淹れているものでありました。しかしながら、斯様な目的で作っている珈琲という訳ではないのです。噂を聞いて、心の触角を敏感にさせたお客様が、普段の生活では見過ごすような世界のうつくしさに感動しなさる。それが、噂が噂を呼ぶ構造になったのでありましょう。…おや、ともすればこの言は真ともいえるのやもしれませぬな」

店主はそのように、訳知り顔で嘯いた。




畢竟気分の転換とは自らの気付けとして丁度良い塩梅の安牌なのやもしれない。
糾える二重螺旋のように、私の筆から生まれる線は途切れてもまた繋ぎ直されるようだ。

コーヒーは?

  • 好き
  • 好きじゃない
  • 好きの反対は無関心…(誤謬)

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