一筋縄ではいかないこの出会いはどんな相乗効果を生み出すのだろうか。
暗殺者は人を殺す時に心を動かさない――なんて言葉は嘘だ。
誰にだって行動を起こした時に心が動く瞬間はある。たとえそれが喜悦だろうと嫌悪だろうと、獲物に刃を滑り込ませた時の感覚に乗って浮かび上がる物は確かに在る。
動物の解体業者が罪悪感で心を摩耗させているかの様に、死刑執行人が敬虔な神の信徒でもあるかの様に。生業とその精神は必ずしもそのイメージと合致はしない。
少なくともこの男にとっては、心が凍り付くなんて表現は嘘の塊なのだ。
「……物悲しいな、せっかくおろしたてで綺麗だったのに」
短すぎる秋に別れを告げた寒空が、冷えた空気と共に一杯に澄み渡り広がるある晴れた日のこと。
この時、今まさに職務を終えたばかりの彼が思い浮かべていた事は、返り血で汚れたコートの処理が面倒だなと言うありふれた感慨だった。行為自体にではなく、行為の結果生まれた不幸に懊悩している。
足元を見降ろしてみれば、そこにはまだホコホコと湯気を立てている出来立ての死骸。じんわりと広がる鮮血の円の中で、仰向けに倒れたその被害者の眼は今は虚ろに寒空を見上げるばかり。その出で立ちは余所行きなのか内側にベスト迄着込んだ小洒落たスーツ姿だが、今はもう溢れた体液に塗れて無惨なものである。被っていた中折れハットも倒れた拍子に地面に落ちて、折角のおめかしが血化粧で台無しだ。
この男が殺される理由は何だっただろうか。一応依頼主から説明はされた気がするが、特に興味もなかったので詳細は思い出せない。だが、そんな事よりも今はコートの汚れの方が気になって仕方がないのだ。いくら仕事着で汚れることが前提と言えど、やはり新品が台無しになる瞬間と言うのは憐憫を誘う物なのである。
「たった一度着ただけでいきなり処理行きだなんて、仕事の為とは言え悲しすぎて嫌になってくるよ……」
血油の汚れは薬品に漬けて処理をしなくてはならない。そうなれば新品と言えども、生地は痛み色もくすんでしまうだろう。汚れ避けに口元を覆う茶色のマフラーも、こうもべっとりと張り付いたこの血糊では焼却処分が妥当だ。やらなければならない後始末を考えると、殊更に陰鬱な気持ちになっていく。
そんな暗殺者らしくもない思考の乱れ。特に油断をしていたつもりもなかったのだが、そのせいか背後からのわずかな気配に反応するのが遅れてしまった。
無惨な亡骸が寒空を見上げる路地裏には似つかわしくない、鈴の転がる様な儚げな声が響いてくる。
「……叔父さん? ご用事、まだ終わらない……の?」
その気配は本当に些細な物だった。まるで足音を消して歩く猫のように微弱であり、自身の存在を極力内側に閉じ込め押し殺している。気配を消しているのかと男は警戒したが、それにしては自分から声を上げているという矛盾。所作もぎこちなく強張った様であり、これが演技なのであれば相当腕の立つ同業者であろうと男は考える。
「……(掃き溜めに鶴……か)」
それは奇妙な邂逅であった。
片や、年端もいかぬ着飾った少女が一人。生糸のように細く白い髪が印象的で、今は両サイドで赤のリボンが括られていた。どこかにお出かけの前だったのだろうか、フリルのたくさん使われた上等なおべべで着飾られている。手には白色の杖が握られており、今は不安を表すかのように胸元に抱き寄せられていた。
何よりも、見開かれているというのに虚空を見つめるような瞳には一筋も光が無い。白い頭髪と相まって、どこか幻想めいた印象を抱かせる少女であった。
「ん……、なにこの臭い。叔父さん、居ないの?」
それに対峙するのは、黒色のざんばら髪を適当に後ろに流し深緑の分厚い生地のコートで全身を包み込む一人の男。口元を茶色のマフラーで隠すように覆い、手には一仕事終えたばかりの肉厚なナイフが握りしめられている。おまけに、足元には胸にざっくりと傷痕を刻まれた新鮮な死体が一つと来た。
どう言い繕おうとも、完全な殺人現場。現行犯とその目撃者に相違ないだろう。
その仕事を目撃されたのならば、職業的殺人者としてはすることは一つだけだ。
「…………」
「あの……、誰か居るの? 叔父さんじゃないの?」
鮮血で彩られたナイフを逆手に持ち変え、自然に音を殺して一歩足を踏み出す。目の前の少女は焦点の合わない瞳を辺りに向け、しかし小首を傾げる様にして耳を男の方に向けてきた。これは目で探しているのではない、音を聞き取ろうとしているのだと男は気が付く。
なぜ目の前にいる男を見ようとはせず、わざわざ音を探ろうとするのだろうか。その答えは彼女が手にしている白い杖と、そのおどおどとした所作で推察することができた。
「見えていないのか……」
「っ!? あ……、やっぱり誰か居た。叔父さんの声じゃない……」
枯れ枝が擦れる様な掠れ声で男がポツリと一言漏らすと、それを聞きつけて少女の体がピクリと跳ね上がる。そして、高まった不安で杖を抱く力を強めながら、されど少しでも状況を確認しようと目を閉じて聞く事に意識を傾けているようだ。
職業的殺人者から見れば、その少女の様子は威嚇をする小動物にも等しい。むしろ、爪も牙もない分だけこの少女の方が御しやすいというものだ。
男にとって目撃者の少女のか細い首を手折るのは容易い。
「……叔父さんはどこに行ったの? この路地でご用事があるって言ってたの。でも全然帰ってこないから心配で……」
「そのオジサンなら死んだよ。今は、僕らの足元に転がっている。仕事で頼まれたから、さっくりとお亡くなりになっていただいたんだよ」
えっ?――っと少女から困惑の声が漏れる。そして、その華奢な体がぶるぶると震え、次第にそれはわなわなとした激情のこもった物へと変化して行く。人が殺されたと言う恐怖が、次第に叔父を奪われた事への怒りに移り変わっていったのだろう。
「酷い……。酷過ぎる! なんて、なんて酷い……事を!」
「あー……、まあこれも仕事の――」
「せっかく見つかった金持ちの保護者だったのに!!」
「――……え、そっち?」
涙を流しながらの糾弾に思わず弁明しようとした職業的暗殺者だったが、仕方なかったなどという言い訳は少女の裂帛の言葉に霧散させられた。命を奪った事ではなく、生活の基盤を奪われたことに対して少女は激怒していたようだ。儚げな印象とは裏腹に、隠されていた内面は中々に強かなようである。
少女は光を宿さぬ瞳からボロボロと大粒の涙を流し始め、ぐすぐすと両手で顔を覆って泣き始めた。見た目が可愛らしいので中々に罪悪感を煽り、分厚いコートを貫通して暗殺者の硝子の心臓を抉ってくる。性格はアレなのになかなかの攻撃力だ。
そうして、ひとしきり嗚咽するとずずっと鼻を啜って強引に涙を押し止め、少女は不機嫌さをじっとりと張り付けた顔を器用に作りぼそりと呟くのだった。
「……責任とって」
「……お断りし――」
「責任とって!!」
「えぇ……」
涙で腫れぼったくなった眦のままに、少女は自身の将来を脅かした者に食ってかかる。その勢いには、さしもの職業的暗殺者も押され気味だ。見えないはずなのに光の無い瞳がまっすぐに差し向けられて、職業的暗殺者は思わず顔を背けながら嫌そうな声を上げた。
「こんな可愛いだけの目の見えない女の子に、これから一人ぼっちでどうやって生きろって言うのよ! 無理よ無理! すぐに路頭に迷って路上生活だわ!! それどころか変な奴に捕まえられて、アーンなこともコーンなこともいろいろされてぐちょぐちょのドロドロにされちゃうに決まってる!! そんな夢も希望もない将来なんて嫌よ! 断固御免だわ!」
「自意識がドデカい上に、想像力が逞しいねー……。とりあえず、チョーっと落ち着こうかお嬢さん」
初見では死にかけの文鳥の様な儚げな印象があったのだが、泣きながら詰め寄ってくる少女は最早小鬼のようですらある。ぎゃあぎゃあと喚いて実に喧しい。
そんな彼女を空いた手で制するが、そのおかげで暗殺者の位置が分かったのか更にぐいぐいと詰め寄る勢いが強まった。大の男に肩を掴まれても委縮するどころか、逆にその手を掴んでズイズイと迫ってくるとは豪胆なものだ。
「これが落ち着いてられる状況な訳ないでしょう!? そっちはどうか知らないけど、この男には私の人生が掛かってたのよ!? 爪に火を点す様な思いでの孤児院暮らしを耐えて、やっとこさ探してもらえた金持ちの叔父さんに引き取られる事が決まったのに! それが新しい毎日が始まる前に終了してるじゃないの、どうしてくれるってのよ!!」
「それを僕に言われてもなぁ……」
落ち着かせようとしたら再発火した。取り付く島もないとはまさにこれ、思わず職業的殺人者もボヤくという物だ。思わず空を仰いでみれば、晴れ渡っていたはずのそこも薄ぼんやりと曇り始めていた。まるで誰かの気分のように。
そもそもこの場合の責任とは何だろうか。責任感を発揮した場合、職業的殺人者として取るべき行動とは如何なる物になるのだろう。
ぎゃいぎゃい騒がれつつも少しだけ思案して、そして殺人者の男はフムと独り言ちた。自分にできる一番の責任の取り方を思いついたのだ。
「じゃあ取りましょうか、責任」
「……えっ?」
ぽんと男の手袋をした掌が、再び少女の肩に乗せられる。同時に声を掛けられたことにより、男の気配がいつの間にか背後にあるという事にも気が付いた。腕を掴んで縋りついていたはずで、放したつもりも無いのに本当に一瞬にしてだ。
たとえ見えなくとも分かるその異常性に、盲目少女の背筋に冷えた汗が伝う。
「僕にできる責任の取り方なんて、一つしかないんだよ。それ以外は知らないから。それ以外はできないから……」
「なん……、あ……? なに……、言って……?」
心に纏わりつくモノのせいで、先ほど迄饒舌だったはずの口が回らない。見えないからこそダイレクトに背後から感じられるそれは、心根から全身へと広がる恐怖という名の枷だった。
主導権を奪い返した形となった職業的殺人者は、そのまま少女の耳元に唇を寄せて囁きかける。
「責任持ってオジサンと同じ所に送ってあげる。これ位しかできないけど、何時もやって慣れてるから直ぐに終わるよ」
「……なん、なんで……?」
「見られてしまったから……。決まり事なんですよ、目撃者は消さなきゃいけないんです」
落ち着いた声色が耳朶を叩くだけだというのに、湧き上がる恐怖で心の奥底が酷く冷やされて行く。震える唇で何とか紡ぎだした問いかけに、背後からの声は緊張を解き解すかのように優しく答えている。まるで泣いている幼子をあやすかの様に。
しかしてそれは、優しい声色とは真逆の死の宣告の数々であった。混じりっ気なしに、地獄への道を舗装する百パーセントの善意から来る言葉である。
「だから……、ごめんね? せめて痛みを知らず安らかに――」
「…………わけ……」
「ん? なにか最後の言葉でも残しますか?」
いよいよ逆手に持ったナイフが役目を果たさんとした時に、ぶるぶると全身を震えさせる盲目少女がぼそりと言葉を漏らした。それを聞き取り損ねた男が身を屈めて、俯き身を震わせる少女の顔を後ろから覗き込む。
それは無論の事、末期の言葉を聞き逃さない為。だが、その行動はあまりにも無警戒が過ぎた。
「目撃なんて出来る訳ないじゃないの!! こちとら全盲なんだから!!」
「ゴハァ!? ご、ごもっとも……」
俯いていた頭を思い切り伸びあげて盲目の少女があらんかぎりに声を張り上げる。その拍子に覗き込んでいた殺人者の顎はかち上げられ、それはもういてーの何のと目の奥に星が瞬いた。痛恨の一撃だ。
不意打ちを受けて思わず顎を抑えた殺人者に向けて、盲目の少女は更に声をぶつけて行く。こうなればもう、辞められない止まらない。会心の一撃でぶつけた頭の痛みなど、湧きだす怒りで忘れてしまっているようだ。
「ふっざけんじゃないわよ!! ふっざけんじゃねーわよホント!! 責任取るために殺しますとか今世紀最大級のクソワードだわ! 何なのその聞いた端から耳が腐り落ちそうなゴミクソな責任感!? 目が見えるなら逆に縊り殺してやりたくなるわ、こんちくしょうが!!」
叫ぶ叫ぶ、それはもう沸騰した薬缶の如くピーピー叫ぶ。さすがに事なかれ主義の裏路地の住人達でさえ、何事だろうかとチラチラ物陰から伺い始めるほどに少女は騒音をまき散らしていた。
さすがに騒ぎ過ぎたかと、殺人者の男はマフラーをぐいと押し上げて顔を改めて隠す。そうしている間に何もかもが面倒くさくなってきて、職業的殺人者は顔を覆うマフラーを内側から溜息で膨らませた。
こうなったらもう望みどおりの責任とやらを取ってやるしかないかな、なんて思ったのだ。
「はあぁぁぁぁぁ……。見てないんじゃあ、しょうがないよねぇ……」
「えっ!? ちょっ、まっ、待ちなさ――きゃあああああああああ!?」
次の瞬間には、職業的殺人者の男は盲目の少女を横抱きにして跳躍していた。トントントンと軽い足音を響かせて、建物の外壁を蹴り上げて一気に屋上まで飛び上がる。何階建てなんだか分らない様な違法建築の上に降り立って、そのまま驚愕で固まってしまった少女を連れて灰色の空の中を駆け出した。
タッタッタッタッと軽やかな足取りで、鉄錆臭い路地裏に在りえた筈の明日を置き去りにして。
「軽いなぁ、あんまり食べてないでしょうお嬢さん。アジトに着いたら何か温まる食事でも作りましょう。焦がし煮のパスタはお好きですか? あれ得意なんですよ」
「いやー!? 怖い怖い怖い!! 上下の振動が怖いし風の音が怖い! つーか、人殺しが得意だから得意料理は暗殺者のパスタってか!? やかましいわ!!」
打てば響くような喧しさが耳に楽しい。気が付けば足取りも跳ねるようにして軽快になっていた。マフラーの隙間から零れる白い息も、弾む様に楽しげに流れて行くではないか。
職業的殺人者の憂鬱は、もはや微塵も跡形が無くなっていた。胸の内に沸いた何かに、ポンと押し出されて消えてしまったのだ。
「あ、ごめんね? せっかくの白い服に血がべったりついちゃった。あとで僕のコートと一緒にお薬で洗浄しないとねぇ」
「ぎゃああああ、私のとっておきの一張羅があああああ!? 最悪最悪、さいっあく!! 孤児院の先生が奮発して持たせてくれた服なのにぃ!!」
食事に洗濯に、寝床も誂えなければならないだろう。しばらくは憂鬱に浸る暇もないかもしれない。胸の内で心臓の他にも何かが跳ね暴れるのを、職業的殺人者の男は自覚する。
これはきっと、期待という感情に違いない。久しく忘れていた様な、初めて味わう様な曖昧な心持ちだ。
「ほらほら、しっかり捕まらないと落っこちてトマトパスタになっちゃいますよ」
「ちくしょう、ちくしょう! この野郎ぶっ殺してやるぅうううううううううっ!!」
職業的殺人者を殺してやるとはよく言ったものだ。盲目の少女は良い耳をしている為、案外そう言った仕事の素質があるのかもしれない。ならば自身の知っている事を学ばせるのも良いのかもしれないと殺人者の男は思い描く。実に憂鬱が吹き飛びそうな企みではないか。
少女の長く長く響いた怨嗟の声と共に、二人にとって在り得ない日々が幕を開けるのであった。
続かない