設定とか甘い気がしたので少しね練る時間と修正する時間をいただきます。
たとえば、大昔に埋めたタイムカプセル。
掘り起こしたものに付着した砂粒の一つひとつ。
色褪せた思い出が、記憶のなかで蘇るように。
俺は昔の夢を見た。
俺が物心ついたころ、母親は病床から起き上がれず、クソ親父は世界中を飛び回っていた。
外界とロクに接触できない母親に対して、一箇所に留まることが出来ない父親。
時折親父が居るニューヨークのチェルシーと、母親の居る日本を行ったり来たりする息子。
絵に書いたようなあべこべ家族が俺の生活環境だった。
そのことを、不幸に感じたことはない。
現在ではベッドに横たわるクソ親父も、一箇所に留まらないのは母親のためだった。
母親はよく笑うひとだった。
その笑顔は曇りのない青空というよりは、雨が降ったあとの晴天を思わせる独特の湿っぽさを漂わせるもの。俺はその笑顔が好きで、嫌いだった。
当時の俺には母親の笑みが酷く儚くて尊いものに見えたが、その笑顔を運ばれてくるのはいつだって父親が居るとき。
嫉妬にも満たない感情を抱きながら子どもとして純粋に甘えることが出来なかった。
今にも息絶えそうな木に向かって寄りかかることが出来ないように、いつの間にか心が妙な論理武装をしていくのは時間の問題なことを自分自身でもぼんやり感じたことをよく覚えている。
大人ぶりたい年頃だった俺は誰かの理解者に成りたくて仕方がなかったのも手伝って、俺は親父の教えで絵をよく描いていた。
母親を救うためにそれなりに大きな額が必要で、子どもが出来ることは限られる。
絵画というのは年齢を問わない。問われるのは絵画を生み出すに至った経緯だけ。
幸いにも、それなりの才能に恵まれ父親に仕込まれたこともあって、国内の公募展に絵画を出せばそれなりの金額をもらえた。
ただ、新人賞だったこともあって父親の獲得金額には遠く及ばない。
学校で浮くほど人間関係を疎かにすることはなかったものの、授業が終われば絵画に打ち込み、長期休みは必ずチェルシーに行く。
そんな生活を繰り返していることを母親が心配したことで紹介されたのが長崎、当時の
同年代の子供を紹介されなかったのは、それなりに上手くやって距離を置こうとする心理を見透かされていたからだと思う。
歳下と歳上という明確な役割を用意してやれば自分から関わる。
実際に、俺は長崎によく構ったし好かれるためにあの手この手で気を引こうとした。
結局は自分の得意分野の絵画を教えることに落ち着いたのは不器用だったな、なんて自分で笑ってしまうが。
そんな日常は、高校に入りたてのころに母親が亡くなったことで容易に瓦解する。
俺の人生にもしターニングポイントがあるとするのなら、間違いなくその時期だった。
あれがなければ、俺はまだ筆を握っていたのだろうから。
がばっと、毛布を跳ね除けるようにして飛び上がる。
いま認識している世界が現実か、それとも夢なのか分からず何度か目を瞬かせる。
曖昧に溶かされた記憶をなぞるように、室内にあるものを確認していく。
年季の入ったゲーム機、壁一面を埋め尽くす本棚、部屋の角に押し込んである段ボール、自分の見慣れた部屋。
絵画道具のない、あの日の地続きの部屋。
「……………………はぁ」
胸のなかにある熾火にも満たない熱を逃がすために大きなため息を吐く。
最近長崎とよく会っているからか、別の要因があるのか分からないが、妙な夢を見た。夢と分かる夢はどうにも座りが悪い。
その証拠に寝巻き代わりのスウェットが汗を吸ってじっとりと湿っている。
机のうえにあるスマートフォンを付けてみれば土曜日。
大学は休みで、睦も家に1日中居る日で……つまりは、朝早く起きるには不適当な日だ。
睦を起こさないようゆっくりとした足取りで洗濯かごにスウェットを放って軽く汗を拭い、外行きの格好に着替える。
その勢いで洗面所で洗顔して歯を磨いたところで、やっとぼんやりと水底にあった意識があがってきた。微かに開いた窓から風がそよそよと身を躍らせてくる優雅な朝に反して心は酷く憂鬱だ。
からからに乾いた口をゆすいでみると微かに血が混ざっているのを一瞥して水を口に含んでからゆっくりと飲み込む。
それを何度か繰り返して、ようやくいつもの朝準備に戻る。
朝食は……適当にボイルウィンナーとスクランブルエッグ、あとは昨日残しておいたご飯をチンすればいいだろう。
「……空?」
「ああ、睦。おはよう」
てきぱきと台所で食材が踊り始めたころに睦が目を覚ましてくる。
寝癖がない真っ直ぐな髪は室内を凱旋する風にあてられてさらさらとダンスをした。
「……コーヒー淹れないの?」
「ん、コーヒーなら……」
あれ、と声が出る。
いつもなら用意してあるコーヒーカップがないことに、指摘されてようやく気がついた。
「…………なんでもないよ」
頭を振って否定する。
一人暮らしとしては多いコンロに残った口で湯を沸かし始めてぼんやりと中空を眺める。
「……そうじゃない」
睦が逃げるなと言わんばかりにすかさず服の裾を引っ張られた。
ルーティン化された行動が出来ていないというのは、確実になにかあった証拠であり指摘されてもおかしくはない。ただ、睦がそれをすることに驚く。
俺が彼女のちょっとした仕草からやりたいことが少し分かるように、彼女も俺の行動から妙な感触を覚えたのかもしれない。
睦はゆっくりと考えながら、まるで傷付いてほしくないと願うように口を開いた。
「空、無理してる……」
そこまで指摘されたら、誤魔化しようがない。
「少し離れていた絵に触れてるからな……ちょっと、疲れてる」
「……そよのせい」
俯きがちに確かめるように呟く睦の表情は朝の暗がりのせいもあって読み取れずどうしたものか悩む。
無闇矢鱈に決めつけて、必要のない悪意を抱く必要はない。
ゆっくりと糸を解くように否定していく。
「なんでそうなるんだ……別にそうじゃない。ただ、やっぱり一回離れたものにまた触れるのって新しく始めるのとはちょっと違うんだよ」
たとえ創作意欲の有無という仕様がない理由があったにせよ、自分の意思で離れたものに再び触れることは過去を引きずっているようで、そんな自分に嫌気が差す。
「だから、長崎のことをそう悪く思うな。あれで特別悪い人間じゃないんだ」
少しだけ捻くれてて、臆病で、なにも捨てられないような人間性をしているだけで。
「そよは、特別?」
「あー……そういう話になるのか」
睦に長崎と話している様子を見られたのはたった一瞬のはずなのによく読み取れたものだ。
「ちょっとした幼馴染というだけだ。お前と豊川嬢みたいなのとも少し違う」
特別な関係性を築けていたなら今も交流が続いて、長崎も妙に突っかかってこなかっただろう。
もしくは、拒んでこの状況が出来上がったのか。
「…………」
ため息を吐きそうになるのをこらえてから苦笑する。朝見た夢にでもやられたのか、今日はアンニュイな一日になりそうなことをうっすらと意識した。
ぼんやりの前回の提携授業で見た長崎の姿を思い浮かべる。
あれは楽しげだっただろうか。油絵を触った、新しい技法を覚えた、一回完成品を生み出せた……それだけで昔は楽しかったのに、今では筆を握ることすらなくなった。
一度手に収めたら叩いて磨いて鋭くしたくなる。
限られた期間の限られた情熱の限られた血潮。
そうやって諦めるには打ち込んできた時間が長い絵画という道は悪霊の佇む地獄のようだ。
やめた理由に長崎が居ないというには、少しだけあいつのことが──
「特別ではない。でも、きっと大切ではあるんだろうなぁ」
自分から離れておいてどの口が言っているのだろう。
「…………私は?」
微かに下げられた眉尻から寂しいという感情が見える。
睦がこんな表情をするのは珍しい。
傷付けないよう、慎重に言葉を選ぶ。彼女は自分にとってなんだろう。
単なる同居人とも少し違う気はするが、身内というには時間も心も共有していない。
「大切じゃなかったらここまで構ってない」
結局ひねり出せたのはどっちつかずの答えだけ。
泡を吹き始めたフライパンがかたかたと楽しげに笑った。
かちゃん、と置かれた食器が寂しげな音を立てて。
心がしゃりしゃりと粟立って、それは違うよと主張する。
中途半端に働く頭は主を置いてけぼりにして強制的に考えを働かせる。
自分のなかでなにが大きいのかを正確に推し量ることは難しい。
宙ぶらりんの感情は顔が見えない朝日にも似た空虚だけがある。
今は心のうちを言葉にするだけの理由を持っていないのだけは確かだ。
「…………一緒に生活して、居心地がいいってのはきっとなかなかないからさ。それじゃだめか?」
「……だめじゃない」
理由があるから、一緒に居られる。
彼女が雛鳥から成長するために生家を離れる必要があったという免罪符は、ゆっくりと俺を侵食して楔になっている。
ふぅ、とため息が漏れる。
びゅう、と風が吹き込んできた。
「……飯にしよう」
「……うん」
今朝どんな夢を見たのか、睦に話す気にはなれない。
ずっと抱え続けている絵を描くことをやめた理由はいまの俺にとって一番弱い部分で、それを明け渡すことはきっと俺たちの関係性を変えるだろう。
だから、誤魔化すようにわざとらしく口の端を上げる。
「納豆でも食えば目も覚める」
「……納豆嫌い」
「好き嫌いしちゃめーでしょ……」
げんなりとした表情を見て小言を言う。ちょっとだけ妹が出来た気持ちだ。
長崎もそういうところがあったが、あいつはしっかりしていたからな……。
視界の端で、スポッとスマホが鳴った。