透き通る世界で魔王は何を見る?   作:いぶりがっこ

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埒外の怪物

 

「セイアさん、体調が優れないのは何時ものことですが……いったいどうされたのでしょうか。今日は妙に様子がおかしかったような──」

 

ナギサは眉を下げ、言う。

 

〝そ、そうだね。それとナギサ、悪いけど少しセイアの様子を見に行ってもいいかな?議論については、また後に回してもらえると助かるんだけど……〟

 

「分かりました。先生、セイアさんのことをよろしくお願いします」

 

〝任せて〟

 

先生は頷き、その場から立ち上がる。

 

「行くのか?」

 

〝そうだね。だけど、アノスとユウカはここで待っててくれないかな?特にアノスは〟

 

「なぜだ?」

 

俺がそう問うと、先生は困ったように呟く。

 

〝セイアの様子がおかしかった原因が、なんとなく分かった気がしてね。だから、セイアを落ち着かせるためにもアノスには待っててほしいんだ〟

 

 

 

 

 

扉が閉まる。

 

その音が、やけに大きく響いた気がした。私は数歩だけ廊下を進み──そこで限界を迎えた。

 

「──っ、は……」

 

喉が締まる。

 

呼吸が浅い。肺に空気が入ってこない。違う、入っているはずなのに、まるで足りない。胸の奥が潰れるように痛み、視界の端が白く揺らいだ。

 

壁に手をつく。

 

指先に力が入らない。

 

「はっ……ぁ……っ、は……」

 

乱れた呼吸が、静かな廊下に情けなく響いていた。みっともないな、と他人事のように思う。

 

百合園セイア。ティーパーティーの一角。トリニティの中枢に座す者が、たった一人の来訪者に当てられ、こうも無様に震えているのだから。

 

だが、仕方がない。

 

あれは、駄目だ。あれを前にして平静でいられる者など、この世に居てなるものか。

 

「……ぁ……っ……」

 

私は胸元を押さえ、必死に呼吸を整えようとする。落ち着け。落ち着くんだ。

 

見えたものを、直視するな。

 

感じ取ったものに、意味を与えるな。

 

そうでなければ、正気が削れる。

 

なのに脳裏へこびりついたそれは、まるで焼き印のように離れない。死や終焉などという表現でアレを語るには、あまりにも生ぬるい。

 

私は己が「直感」を、かつてない程に呪う。

 

なにせ、あれがその気になれば世界など簡単に崩れる。時間も、空間も、因果も、神秘も、奇跡も。このキヴォトスを成り立たせるあらゆるものが、彼にとってはただ崩せるものなのだから。

 

一滴だ。

 

たった一滴。

 

彼の内に渦巻く滅びの欠片が、一滴でも外へ零れれば──それだけで全てが終わる。

 

この世界だけではない。

 

今ここに在る空も、遠くの星も、重なり合う可能性も、隔てられた時の彼方も、宇宙という宇宙でさえ、世界ごと瞬く間に崩れ去る。

 

そんな確信が、理屈ではなく、もっと根源的なところで私を掴んで離さなかった。

 

「……何なんだ、君は……」

 

震える唇から、か細い声が漏れる。

 

彼は人などでは決してない。

 

あれは──この世の全てを超越する者だ。

 

絶対者。滅びの怪物。

 

──ああ、なるほど。

 

私は今、直感してしまったのだ。

 

決して、覗いてはいけないものを。

 

「……っ、は、ぁ……」

 

呼吸がまた乱れる。心臓が早鐘を打つ。狐耳がぴくりと震え、背筋を冷たいものが走った。

 

そのときだった。

 

〝セイアっ!〟

 

聞き慣れた声とともに、足音が近づいてくる。

 

私は咄嗟に顔を上げた。

 

先生が、焦った顔でこちらへ駆け寄ってくる。

 

〝大丈夫!? セイア、座れる?〟

 

「……先、生……」

 

〝無理に喋らなくていい。ゆっくり、私に合わせて。吸って……吐いて……そう、少しずつでいいから〟

 

先生は私のそばに膝をつき、落ち着いた声で呼吸を誘導する。その声音には、不思議と人を安心させる力があった。

 

私は壁にもたれたまま、何とか頷く。

 

「……は、ぁ……っ……」

 

〝うん、大丈夫。焦らなくていい。ここには私しかいないから〟

 

その言葉に、少しだけ張り詰めていたものが緩んだ。私は数度、深く呼吸を繰り返す。

 

まだ胸は痛む。手の震えも止まらない。

 

それでも先程までのように、呼吸すらままならぬほどではなくなってきた。

 

〝……落ち着いてきた?〟

 

「……ああ。少し、見苦しいところを見せてしまったね」

 

〝そんなことないよ。かなり無理してたでしょ〟

 

先生は眉を下げ、心配そうに私を見る。その視線から逃れるように、私は小さく目を伏せた。

 

「……先生。一つ、聞いてもいいかな」

 

〝うん〟

 

「君は、あの男……アノス・ヴォルディゴードを、何者だと思っている?」

 

先生は一瞬だけ、きょとんとした表情を見せた。だが、すぐに考えるように視線を上へ向ける。

 

〝何者、か……難しい質問だね〟

 

「冗談ではない。私は今、真面目に聞いているんだ」

 

〝うん、分かってるよ〟

 

先生は静かに答えた。

 

〝アノスは、すごい子だよ。とても強くて、とても優しくて……時々、常識がまるで通じなくて困るけど。でも、私にとっては信頼できる相手だ〟

 

「……信頼、か」

 

思わず、苦い笑みが漏れた。

 

それは、なんと幸福な認識だろう。

 

間違っているとは言わない。

 

おそらく、先生にとってはそれで正しいのだ。

 

実際、彼は先生に対して害意を見せていない。むしろ協力的ですらある。

 

だが、問題はそこではない。

 

「先生。君は、あれの本質を見ていない」

 

〝……セイア?〟

 

「いや、見えていないのなら、それはむしろ幸運かもしれないね」

 

私は自嘲気味に言って、息を吐いた。

 

少しだけ整った呼吸が、ひどく頼りなく感じる。

 

「あの男の内には、全てを超越した滅びがある。脅威だとか、災いだとか、そんな生易しいものでは断じてない。あれは、存在そのものが別次元のナニカだよ」

 

〝……〟

 

「仮に、だ。仮に彼がその力を制御できなかったとしよう。あるいは、その気になったとしよう。そうなれば、このトリニティも、キヴォトスも、何もかも意味を失う。抵抗も、対策も、計画も、未来も……全てだ」

 

先生は黙って聞いていた。

 

「世界が滅ぶ、という表現ですら足りないよ。世界という概念ごと崩れる。時間も空間も関係なく、あらゆる宇宙が『世界』の崩落に巻き込まれて死ぬ。私には、そうとしか思えなかった。正直に言おう」

 

そこまで言って、私は唇を噛んだ。

 

言葉にしたせいで、またあの感覚が蘇る。覗き込んだ深淵が、こちらを見返してくるような錯覚。

 

「……私は、彼が怖い」

 

ぽつりと、本音が零れた。

 

「彼を見た瞬間、理解してしまった。理解してはいけないものを、ね。トリニティの秩序だとか、ティーパーティーの責務だとか、そういうものが全部、滑稽に思えるほどに」

 

〝セイア……〟

 

「情けない話だ。私は彼の前で、ろくに言葉も紡げなかった」

 

先生はすぐには返事をしなかった。

 

ただ、静かに私の隣へ腰を下ろす。

 

そして、柔らかな声で言った。

 

〝それでもセイアは、ちゃんと踏みとどまったよ〟

 

「……何?」

 

〝本当に限界だったなら、あの場で倒れていたと思う。でも、セイアは自分で席を外した。ナギサにも私達にも配慮して、場を壊さないように配慮したんだ。それだけでも十分に凄いことだよ〟

 

私は目を瞬かせる。

 

そんな評価は予想していなかった。

 

〝それに、アノスが怖いって感じたこと自体は別に間違いじゃないと思う〟

 

先生は少しだけ苦笑した。

 

〝私だって時々、思うしね〟

 

冗談めかして言う先生に、私は小さく息を漏らした。少しだけ、肩の力が抜ける。

 

だが、それでも本質的な恐怖は消えない。

 

「先生。君は彼を信じているのだろう?」

 

〝うん〟

 

「なら、私も今はそれを信じるしかないのかもしれないね。少なくとも、彼が敵でないことを祈るしかない」

 

〝敵じゃないよ〟

 

先生は、即答した。

 

その迷いのなさに、私は思わず先生を見る。

 

〝少なくとも、私の知ってるアノスはそういう子じゃない〟

 

……本当に。

 

その在り方は、救いですらあるのだろう。

 

あの絶対的な滅びを前にしてなお、そう言い切れる者がいるということは。

 

「君という存在は、つくづく規格外だね。先生」

 

〝アノスほどじゃないかなあ〟

 

「比較対象がおかしいよ」

 

僅かに、笑みが零れた。

 

すると先生もまた、ほっとしたように笑う。

 

〝戻れそう?〟

 

私は少し考え、それから首を横に振った。

 

「まだ駄目だ。今、彼とまともに顔を合わせれば……またみっともないところを見せる」

 

〝そっか。じゃあ、もう少しここで休もうか〟

 

「ああ。すまない、助かるよ」

 

そう言った、まさにそのときだった。

 

廊下の奥から、ゆっくりとした足音が響いてくる。規則正しく、落ち着いていて、まるでこの場の全てを把握しているかのような足取り。

 

私は反射的に息を呑んだ。

 

先生が振り向く。

 

やがて角の向こうから現れたのは──

 

「ふむ。やはりここにいたか」

 

アノス・ヴォルディゴード、その人だった。

 

「──っ」

 

全身が強張る。

 

だが彼は、そんな私の様子などすでに察していたのか、平然とした顔でこちらを見た。

 

「先生が席を立った時点で、おおよその事情は察していたがな。なるほど。なかなかどうして、随分と怯えさせてしまったらしい」

 

先生が慌てたように口を開く。

 

〝アノス、その、セイアは今──〟

 

「分かっている」

 

彼は短く言った。

 

「百合園セイア」

 

名を呼ばれ、私の肩が跳ねる。

 

彼はまっすぐに私を見据えた。

 

「お前は見たのだな?俺の内にあるものを」

 

否定できるはずもなかった。

 

私は、声にならないまま、ただ硬く唇を結ぶ。

 

すると彼は、わずかに口角を上げる。

 

「くはは。そう身構えるな。賢しいからといって、お前を敵と見做すと思ったか」

 

その一言に、私は目を見開いた。こちらの思考を、まるで当然のように見透かされる。

 

「……違うのかい」

 

搾り出すように問う。

 

アノスは答える。

 

「少なくとも今、この場で滅びを垂れ流すような真似はせぬ。そんなことをすれば先生や、この世界に生きる者達が困るだろう」

 

「君は……本当に……」

 

「ふむ。怪物、とでも言いたいか?」

 

「……ああ」

 

正直に答えると、彼は楽しげに笑った。

 

「ならばそれで構わぬ。だがな、セイア。覚えておけ。怪物だからといって、理性がないとでも思ったか」

 

私は息を止める。

 

彼は一歩、こちらへ近づいた。

 

ただそれだけで、空気が重くなる錯覚を覚える。

 

「俺は俺の意思でここに在る。いかにこの身が滅びに塗れていようとも、それに呑まれるほど俺は脆弱ではない」

 

「……そう、か」

 

ようやく、私は言葉を返す。

 

「ならば私が怯えるべきは、君そのものではなく……君を知らぬまま、判断を誤ることなのかもしれないね」

 

「ほう」

 

アノスは愉快そうに目を細めた。

 

「少しは落ち着いたようだな」

 

「君が言うと、少々癪だよ」

 

「くはは」

 

先生が胸を撫で下ろす気配がした。

 

〝よかった……二人とも、ちゃんと話せそうで〟

 

私は立ち上がる。まだ足は少し震えていたが、先程のような無様さではない。

 

そしてアノスへ向き直り、言った。

 

「見苦しいところを見せた。謝罪しよう、アノス・ヴォルディゴード」

 

「気にするな」

 

彼はあっさりと言う。

 

「お前ほどの感受性があれば、そうなるのも無理はない。なに、初めて俺の本質に触れた者が平然としていられるほうが珍しい」

 

「慰めになっているのかどうか、微妙なところだね」

 

「なるほど。ならばこう言い換えるか。お前は壊れなかった。それで十分だ」

 

その言葉に、私はほんの少しだけ目を伏せた。

 

……まったく。

 

どこまでも規格外で、どこまでも傲慢で、そして奇妙なほどに筋が通っている。

 

「先生」

 

私は呼びかける。

 

「もう戻ろう。ナギサをあまり待たせるのも悪い」

 

〝うん。行こうか〟

 

そうして私達は、再び会議室へ向けて歩き始めた。

 

先頭を行く先生。その後ろに私。

 

さらにその後ろを、まるで何事もなかったかのようにアノスが歩く。

 

背後にその気配を感じるたび、まだ心臓は少しだけ強く脈打った。だが、先程とは違う。

 

あれは恐怖だけではない。

 

理解不能な絶対を前にした、畏れ。

 

そして、その絶対が今は味方側に立っているという、どうしようもなく不安定な安堵。

 

私は静かに息を吐いた。

 

──ああ、本当に。

 

先生はとんでもないものを、キヴォトスへ連れてきてしまったらしい。

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