透き通る世界で魔王は何を見る? 作:いぶりがっこ
「セイアさん、体調が優れないのは何時ものことですが……いったいどうされたのでしょうか。今日は妙に様子がおかしかったような──」
ナギサは眉を下げ、言う。
〝そ、そうだね。それとナギサ、悪いけど少しセイアの様子を見に行ってもいいかな?議論については、また後に回してもらえると助かるんだけど……〟
「分かりました。先生、セイアさんのことをよろしくお願いします」
〝任せて〟
先生は頷き、その場から立ち上がる。
「行くのか?」
〝そうだね。だけど、アノスとユウカはここで待っててくれないかな?特にアノスは〟
「なぜだ?」
俺がそう問うと、先生は困ったように呟く。
〝セイアの様子がおかしかった原因が、なんとなく分かった気がしてね。だから、セイアを落ち着かせるためにもアノスには待っててほしいんだ〟
◇
扉が閉まる。
その音が、やけに大きく響いた気がした。私は数歩だけ廊下を進み──そこで限界を迎えた。
「──っ、は……」
喉が締まる。
呼吸が浅い。肺に空気が入ってこない。違う、入っているはずなのに、まるで足りない。胸の奥が潰れるように痛み、視界の端が白く揺らいだ。
壁に手をつく。
指先に力が入らない。
「はっ……ぁ……っ、は……」
乱れた呼吸が、静かな廊下に情けなく響いていた。みっともないな、と他人事のように思う。
百合園セイア。ティーパーティーの一角。トリニティの中枢に座す者が、たった一人の来訪者に当てられ、こうも無様に震えているのだから。
だが、仕方がない。
あれは、駄目だ。あれを前にして平静でいられる者など、この世に居てなるものか。
「……ぁ……っ……」
私は胸元を押さえ、必死に呼吸を整えようとする。落ち着け。落ち着くんだ。
見えたものを、直視するな。
感じ取ったものに、意味を与えるな。
そうでなければ、正気が削れる。
なのに脳裏へこびりついたそれは、まるで焼き印のように離れない。死や終焉などという表現でアレを語るには、あまりにも生ぬるい。
私は己が「直感」を、かつてない程に呪う。
なにせ、あれがその気になれば世界など簡単に崩れる。時間も、空間も、因果も、神秘も、奇跡も。このキヴォトスを成り立たせるあらゆるものが、彼にとってはただ崩せるものなのだから。
一滴だ。
たった一滴。
彼の内に渦巻く滅びの欠片が、一滴でも外へ零れれば──それだけで全てが終わる。
この世界だけではない。
今ここに在る空も、遠くの星も、重なり合う可能性も、隔てられた時の彼方も、宇宙という宇宙でさえ、世界ごと瞬く間に崩れ去る。
そんな確信が、理屈ではなく、もっと根源的なところで私を掴んで離さなかった。
「……何なんだ、君は……」
震える唇から、か細い声が漏れる。
彼は人などでは決してない。
あれは──この世の全てを超越する者だ。
絶対者。滅びの怪物。
──ああ、なるほど。
私は今、直感してしまったのだ。
決して、覗いてはいけないものを。
「……っ、は、ぁ……」
呼吸がまた乱れる。心臓が早鐘を打つ。狐耳がぴくりと震え、背筋を冷たいものが走った。
そのときだった。
〝セイアっ!〟
聞き慣れた声とともに、足音が近づいてくる。
私は咄嗟に顔を上げた。
先生が、焦った顔でこちらへ駆け寄ってくる。
〝大丈夫!? セイア、座れる?〟
「……先、生……」
〝無理に喋らなくていい。ゆっくり、私に合わせて。吸って……吐いて……そう、少しずつでいいから〟
先生は私のそばに膝をつき、落ち着いた声で呼吸を誘導する。その声音には、不思議と人を安心させる力があった。
私は壁にもたれたまま、何とか頷く。
「……は、ぁ……っ……」
〝うん、大丈夫。焦らなくていい。ここには私しかいないから〟
その言葉に、少しだけ張り詰めていたものが緩んだ。私は数度、深く呼吸を繰り返す。
まだ胸は痛む。手の震えも止まらない。
それでも先程までのように、呼吸すらままならぬほどではなくなってきた。
〝……落ち着いてきた?〟
「……ああ。少し、見苦しいところを見せてしまったね」
〝そんなことないよ。かなり無理してたでしょ〟
先生は眉を下げ、心配そうに私を見る。その視線から逃れるように、私は小さく目を伏せた。
「……先生。一つ、聞いてもいいかな」
〝うん〟
「君は、あの男……アノス・ヴォルディゴードを、何者だと思っている?」
先生は一瞬だけ、きょとんとした表情を見せた。だが、すぐに考えるように視線を上へ向ける。
〝何者、か……難しい質問だね〟
「冗談ではない。私は今、真面目に聞いているんだ」
〝うん、分かってるよ〟
先生は静かに答えた。
〝アノスは、すごい子だよ。とても強くて、とても優しくて……時々、常識がまるで通じなくて困るけど。でも、私にとっては信頼できる相手だ〟
「……信頼、か」
思わず、苦い笑みが漏れた。
それは、なんと幸福な認識だろう。
間違っているとは言わない。
おそらく、先生にとってはそれで正しいのだ。
実際、彼は先生に対して害意を見せていない。むしろ協力的ですらある。
だが、問題はそこではない。
「先生。君は、あれの本質を見ていない」
〝……セイア?〟
「いや、見えていないのなら、それはむしろ幸運かもしれないね」
私は自嘲気味に言って、息を吐いた。
少しだけ整った呼吸が、ひどく頼りなく感じる。
「あの男の内には、全てを超越した滅びがある。脅威だとか、災いだとか、そんな生易しいものでは断じてない。あれは、存在そのものが別次元のナニカだよ」
〝……〟
「仮に、だ。仮に彼がその力を制御できなかったとしよう。あるいは、その気になったとしよう。そうなれば、このトリニティも、キヴォトスも、何もかも意味を失う。抵抗も、対策も、計画も、未来も……全てだ」
先生は黙って聞いていた。
「世界が滅ぶ、という表現ですら足りないよ。世界という概念ごと崩れる。時間も空間も関係なく、あらゆる宇宙が『世界』の崩落に巻き込まれて死ぬ。私には、そうとしか思えなかった。正直に言おう」
そこまで言って、私は唇を噛んだ。
言葉にしたせいで、またあの感覚が蘇る。覗き込んだ深淵が、こちらを見返してくるような錯覚。
「……私は、彼が怖い」
ぽつりと、本音が零れた。
「彼を見た瞬間、理解してしまった。理解してはいけないものを、ね。トリニティの秩序だとか、ティーパーティーの責務だとか、そういうものが全部、滑稽に思えるほどに」
〝セイア……〟
「情けない話だ。私は彼の前で、ろくに言葉も紡げなかった」
先生はすぐには返事をしなかった。
ただ、静かに私の隣へ腰を下ろす。
そして、柔らかな声で言った。
〝それでもセイアは、ちゃんと踏みとどまったよ〟
「……何?」
〝本当に限界だったなら、あの場で倒れていたと思う。でも、セイアは自分で席を外した。ナギサにも私達にも配慮して、場を壊さないように配慮したんだ。それだけでも十分に凄いことだよ〟
私は目を瞬かせる。
そんな評価は予想していなかった。
〝それに、アノスが怖いって感じたこと自体は別に間違いじゃないと思う〟
先生は少しだけ苦笑した。
〝私だって時々、思うしね〟
冗談めかして言う先生に、私は小さく息を漏らした。少しだけ、肩の力が抜ける。
だが、それでも本質的な恐怖は消えない。
「先生。君は彼を信じているのだろう?」
〝うん〟
「なら、私も今はそれを信じるしかないのかもしれないね。少なくとも、彼が敵でないことを祈るしかない」
〝敵じゃないよ〟
先生は、即答した。
その迷いのなさに、私は思わず先生を見る。
〝少なくとも、私の知ってるアノスはそういう子じゃない〟
……本当に。
その在り方は、救いですらあるのだろう。
あの絶対的な滅びを前にしてなお、そう言い切れる者がいるということは。
「君という存在は、つくづく規格外だね。先生」
〝アノスほどじゃないかなあ〟
「比較対象がおかしいよ」
僅かに、笑みが零れた。
すると先生もまた、ほっとしたように笑う。
〝戻れそう?〟
私は少し考え、それから首を横に振った。
「まだ駄目だ。今、彼とまともに顔を合わせれば……またみっともないところを見せる」
〝そっか。じゃあ、もう少しここで休もうか〟
「ああ。すまない、助かるよ」
そう言った、まさにそのときだった。
廊下の奥から、ゆっくりとした足音が響いてくる。規則正しく、落ち着いていて、まるでこの場の全てを把握しているかのような足取り。
私は反射的に息を呑んだ。
先生が振り向く。
やがて角の向こうから現れたのは──
「ふむ。やはりここにいたか」
アノス・ヴォルディゴード、その人だった。
「──っ」
全身が強張る。
だが彼は、そんな私の様子などすでに察していたのか、平然とした顔でこちらを見た。
「先生が席を立った時点で、おおよその事情は察していたがな。なるほど。なかなかどうして、随分と怯えさせてしまったらしい」
先生が慌てたように口を開く。
〝アノス、その、セイアは今──〟
「分かっている」
彼は短く言った。
「百合園セイア」
名を呼ばれ、私の肩が跳ねる。
彼はまっすぐに私を見据えた。
「お前は見たのだな?俺の内にあるものを」
否定できるはずもなかった。
私は、声にならないまま、ただ硬く唇を結ぶ。
すると彼は、わずかに口角を上げる。
「くはは。そう身構えるな。賢しいからといって、お前を敵と見做すと思ったか」
その一言に、私は目を見開いた。こちらの思考を、まるで当然のように見透かされる。
「……違うのかい」
搾り出すように問う。
アノスは答える。
「少なくとも今、この場で滅びを垂れ流すような真似はせぬ。そんなことをすれば先生や、この世界に生きる者達が困るだろう」
「君は……本当に……」
「ふむ。怪物、とでも言いたいか?」
「……ああ」
正直に答えると、彼は楽しげに笑った。
「ならばそれで構わぬ。だがな、セイア。覚えておけ。怪物だからといって、理性がないとでも思ったか」
私は息を止める。
彼は一歩、こちらへ近づいた。
ただそれだけで、空気が重くなる錯覚を覚える。
「俺は俺の意思でここに在る。いかにこの身が滅びに塗れていようとも、それに呑まれるほど俺は脆弱ではない」
「……そう、か」
ようやく、私は言葉を返す。
「ならば私が怯えるべきは、君そのものではなく……君を知らぬまま、判断を誤ることなのかもしれないね」
「ほう」
アノスは愉快そうに目を細めた。
「少しは落ち着いたようだな」
「君が言うと、少々癪だよ」
「くはは」
先生が胸を撫で下ろす気配がした。
〝よかった……二人とも、ちゃんと話せそうで〟
私は立ち上がる。まだ足は少し震えていたが、先程のような無様さではない。
そしてアノスへ向き直り、言った。
「見苦しいところを見せた。謝罪しよう、アノス・ヴォルディゴード」
「気にするな」
彼はあっさりと言う。
「お前ほどの感受性があれば、そうなるのも無理はない。なに、初めて俺の本質に触れた者が平然としていられるほうが珍しい」
「慰めになっているのかどうか、微妙なところだね」
「なるほど。ならばこう言い換えるか。お前は壊れなかった。それで十分だ」
その言葉に、私はほんの少しだけ目を伏せた。
……まったく。
どこまでも規格外で、どこまでも傲慢で、そして奇妙なほどに筋が通っている。
「先生」
私は呼びかける。
「もう戻ろう。ナギサをあまり待たせるのも悪い」
〝うん。行こうか〟
そうして私達は、再び会議室へ向けて歩き始めた。
先頭を行く先生。その後ろに私。
さらにその後ろを、まるで何事もなかったかのようにアノスが歩く。
背後にその気配を感じるたび、まだ心臓は少しだけ強く脈打った。だが、先程とは違う。
あれは恐怖だけではない。
理解不能な絶対を前にした、畏れ。
そして、その絶対が今は味方側に立っているという、どうしようもなく不安定な安堵。
私は静かに息を吐いた。
──ああ、本当に。
先生はとんでもないものを、キヴォトスへ連れてきてしまったらしい。