ーーーその満月を見た瞬間俺の中で何かが爆発するのを感じた。
胸が熱い。 心臓が暴れる。 視界が揺れる。
骨が軋む音が聞こえた。 自分のものとは思えない声が喉から漏れる。
衣服が破れる音が聞こえた。
(…………あれ)
ーーーなんだこれ
ノイズがかかったような記憶がぼんやりと浮かんできた。
体毛の濃さや身体の形からでかい猿だと思われる化け物が、 老人を掴み、潰している。
…不思議なことにその記憶は何故かその化け物の視点の記憶だった。
その腕の太さも、 その握力も、 その“命が零れる感触”すら……鮮明に感じられた。…まるで自分自身のことであるように。
ーーーなんだよこの記憶。誰の記憶だよ。
そんなはずない。
そんなわけがない。
違うだろ。絶対に、違う。
その老人をよく見ると、それはーーー
ーーー死んだはずの悟飯じいちゃんだった。
俺が寝ている間に、獣に殺された悟飯じいちゃん。
ーーー俺が"そう死んだと思い込んでいた"悟飯じいちゃん。
「あ"あ''…そ"う"か"」
もう人の声とは思えない俺の声を聞きながら、ただ呆然と気がついた。
すると心が悲鳴を上げた。 でも記憶は止まらない。
そして俺は理解した。
ーーー俺が、殺したのか
骨が悲鳴を上げ、 筋肉が裂けるように膨張し、
意識が白く染まった。
その瞬間、俺の理性は消え去った。
ーーーーーーーーー
「な……なんじゃ……これは……!」
武天老師は思わず後ずさった。 目の前に立つ“それ”は、 ついさっきまで孫悟空だったはずの存在だ。
ブルマは震える声で名を呼んだ。
「そ、孫くん……?ねぇ……孫くん……なの?」
返事はない。 代わりに、獣のような呼吸音が響く。
クリリンは膝を震わせながら呟いた。
「悟空……なのか……? なぁ……嘘だろ……?」
大猿はゆっくりと顔を上げた。
その目は、 悟空のものではなかった。
赤く濁り、 理性の欠片もなく、 ただ“破壊”だけを求める獣の目。
次の瞬間――
大気が震えた。
「グオオオオオオオオオオオオオッ!!!!」
武舞台の石が砕け、 木々が吹き飛び、 観客席が悲鳴に包まれる。
その咆哮には、 狂気と絶望、 そして……確かな“悲しみ”が混ざっていた。
ブルマは耳を塞ぎながら叫ぶ。
「ちょっと!!孫くん!!聞こえてるの!!」
だが大猿は止まらない。
太い腕が振り下ろされ、 武舞台が粉々に砕ける。
クリリンは飛んでくる瓦礫を必死に避けながら叫んだ。
「悟空!!やめろ!! オレだよ!!クリリンだよ!!」
その声は届かない。
大猿はクリリンを見下ろし、 巨大な足をゆっくりと持ち上げた。
「……っ!!」
クリリンの顔が青ざめる。
武天老師は歯を食いしばった。
(……悟空。 お主……こんな力を……)
大猿は咆哮し、 その足を振り下ろそうとした。
その咆哮は、 ただの獣の叫びではなかった。
"もう全てどうでもいい" そう聞こえるほどの、 深い悲しみを孕んでいた。
その瞬間、 武天老師が地面を蹴った。
「そこまでじゃ!!」
亀仙人はクリリンを抱えて飛び退く。 直後、 大猿の足が武舞台を粉々に砕いた。
「グオオオオオオオッ!!」
その咆哮には、 狂気と破壊衝動だけでなく、 どこか子供が癇癪を起こしているような響きがあった。
「孫くん……暴れないでよ!!やめなさいよ!!」
大猿は観客席へ向かって腕を伸ばす。 逃げ惑う人々。 悲鳴。 混乱。
武天老師は険しい表情を浮かべる。
(……悟空。 ダメじゃもう何も聞こえておらん)
大猿は立ち上がって大きく暴れ始める。なにかを掻き消すように、なにかから逃げるように。
武天老師は悟空の顔を見た。 そこにはもう、 あの不可思議ながらも誠実な少年の面影はなかった。
ただ、 苦しみと悲しみだけが残っていた。
「……悟空よ。待っておれ。」
亀仙人は静かに構えた。
両手を腰に引き、 深く息を吸い込む。
「か……」
ブルマが振り返る。
「ちょっと!?何する気なの!?」
「め……」
クリリンが叫ぶ。
「ま、待って!!悟空が死んじまう!!」
「は……」
亀仙人の目は決して揺れなかった。
(……悟空。今助けてやるぞい。)
「波ァァァァァァァァァァァァッ!!!!」
青白い光が夜空を貫いた。
その光は一直線に月へ向かい、 次の瞬間――
月が砕けた。
夜空が白く染まり、 破片が光の粒となって消えていく。
大猿の動きが止まった。
「……グ……オ……」
その巨体がゆっくりと崩れ落ちる。 苦しむように、 もがくように、…逃げるように。 最後の咆哮を上げながら。
そして――力を振り絞って武天老師に手を伸ばした。
「!!」
「武天老師様!!」
クリリンが焦燥したように叫んだ。ーーー武天老師が殺されるそう思ってしまったのだろう。
「…グ…ウゥ…ウ…」
「悟空よ…何を…」
その血に染ったような真っ赤な瞳には理性はなかった。そこに映っていたのはーーーーーー
ーーーじいちゃん
ーーー"悟飯"じいちゃん
武天老師を両手で掴んだ。まるで"何か"を再現するように。
ーーー祖父は孫悟飯は、大切な存在だった。
自身がこの世界に産まれて"役割"を与えられて、酷く絶望と孤独を味わっていた中、得た唯一の家族だった。
孫悟空じゃない、"俺"のじいちゃんだった。
ーーーそのじいちゃんを自身の手で殺した。主人公の役割も孫悟空としての役割も、関係なく殺した。
もう何もかもどうでもよかった。
あるのは初めて主人公としての役割関係なく殺した相手が、自身の祖父だったという事実。
ーーーもう限界だった。
(ごめんなさい…)
静寂。
大猿の身体は縮み、 毛が消え、 骨格が戻り、 そこにはただの少年が倒れていた。
武天老師は静かに目を閉じた。なにかを察したように。
ドラゴンボール探しの旅をしていた悟空とブルマに出会った時の初めての会話を思い出す。
『お主の祖父ーーー孫悟飯は元気か?』
『…あぁじいちゃんは死んじゃってさ。オラが寝ている間に獣に襲われちまって…』
『なんと…あの孫悟飯が…』
しかしほんの一瞬武天老師は疑問に思った。
ーーー何故寝ていたのに、獣に襲われて死んだと分かったんじゃ?
それは…悟空自身が答えを知っていたからじゃ…
「……そうか、お主が…なんと辛いものを背負ってしまったんじゃ…」
ーーー夜空にはもう、 満月はなかった。
ーーーーーーーーーーーー
意識が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
(……ここ……どこだ?)
瞼を開けると、夜空は黒く、月は――なかった。
砕け散った光の残滓だけが、空に薄く漂っている。
身体が冷たい地面に横たわっている。
息が荒い。
胸が痛い。
手が震えている。
(……なんで……震えて……)
理由は分からない。
けれど、胸の奥がひどく重い。
何か大事なものを失ったような……そんな感覚だけが残っていた。
「悟空!!」
クリリンの声が聞こえた。
顔を上げると、クリリンが泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「よかった……お前急に化け物に変身してびっくりしたんだぞ……!」
「……クリリン……?」
声が掠れていた。
自分の声なのに、自分のものじゃないように聞こえる。
その時、審判の声が響いた。
「試合続行可能と判断!
孫悟空選手、立てますか!」
(……試合……?)
そうだ。
俺は――戦っていた。
ジャッキーチュンと。
そうだ、そうだよ俺は勝たねえと
クリリンからもらった新しい道着に着替えながらリングの向こうを見ると、じいさんが肩で息をしていた。
その顔には疲労が滲んでいる。
何があったか知らねえがひどく消耗しているらしい。
(……勝てる……かもしれねぇ)
身体は……まだ動く。
筋肉は悲鳴を上げているが、力は残っている。
勝機はある。
そう思い、拳を構えようとした瞬間――
膝が、折れた。
―――否。なにかが折れた気がした。
(……あれ?)
立ち上がろうとした。
でも膝が笑う。
力が入らない。
「悟空!大丈夫か!?」
クリリンがそう呼びかけてくるが、俺は手を振った。
「……大丈夫だ……オラは……戦える……まだまだ元気いっぱいだぞ…」
そう言った。
言ったはずなのに――
身体が微動だにしなかった。
「…なんでそんな顔してるのよ孫くん」
そう呟くブルマは、頭の中でいまだにあの大猿の咆哮が反響していた。
――それは恐怖からではない
あの赤子が泣き叫ぶような悲しみを感じる咆哮が頭に染み付いて離れない。
あの暴れているはずなのにどこかへ逃避するような苦しそうな姿が忘れられない。
――そして今、必死に空っぽな心を奮い立たせて立ち上がろうとする孫くんの姿から目を離せない。
そうブルマは気づいていた。
―――乗り物自体の性能がどれだけ良くてもガソリンがなければ動かないように
肉体からいくら力が溢れ出しても、それを動かす原動力―――心が折れてしまえば意味はない。
…今の悟空は胸の奥が、空っぽだった。
(……なんで……?)
身体は動くはずだ。
肉体から力が迸る感覚はあるんだ。
力は残っている。
勝てるはずだ。
なのに――
(……怖い……?)
違う。
怖いんじゃない。
(……もう……戦いたくねぇ……)
その感情が、胸の奥からじわりと滲み出てきた。
理由は分からない。
でも、心が拒絶していた。
拳を握ろうとすると、手が震える。
足に力を入れようとすると、膝が抜ける。
(……なんでだよ……動けよ……!)
必死に命じても、身体は動かない。
いや――
身体は動ける。
動かないのは“心”だ。
「悟空……」
ジャッキーチュンが静かに言った。
「もう……ええんじゃ」
その声は優しかった。
優しすぎて、胸が痛んだ。
「……立てんのじゃろう?」
「……っ……」
悔しい。
情けない。
でも――立てない。
「カウント開始!」
審判の声が響く。
「ワン!」
(……立たねぇと……)
「ツー!」
(……立たねぇと……俺は……)
「スリー!」
(……主人公じゃ……)
「フォー!」
(……主人公じゃ……なくなる……)
「ファイブ!」
(……死ぬ……)
手のひらから血が溢れ出すほど必死に食いしばる。
―――俺はこんなところで立ち止まれないと
「シックス!」
(……立て……立てよ……!)
「セブン!」
足に力を込める。
震える。
上がらない。
「エイト!」
視界が滲む。―――何もわからないはずなのに、“わからないふり”をしているはずなのに、俺の口から自然と言葉が零れた。
「……じい……ちゃん……」
その言葉が漏れた瞬間――
胸の奥で何かが崩れ落ちた。
「ナイン!」
(……あぁ…)
「テン!!
勝者、ジャッキーチュン選手!!」
歓声が上がる。
でも俺には何も聞こえなかった。
ただ、地面に倒れたまま、空を見上げた。
月のない空を。
(……ごめんなさい……)
誰に向けた言葉かも分からない。
でも、その言葉だけが、胸の奥から零れ落ちた。
ジャッキーチュン――いや、亀仙人が静かに呟いた。
「悟空……
お主はよう戦った。
もう……休んでええんじゃ……」
その声は、どこまでも優しかった。
そして俺は――
初めて心の奥底から“敗北した”。