(流石に身体鈍ってるなぁ……)
早朝。湊音はトレーニングウェアを着てジョギングをしていたのだが、以前よりも早くバテてしまい、近場にあったベンチに腰を降ろす。
ライブをやるにあたって、それに耐えられるだけの体力は作っておきたかった。
それに、ここ最近はまともに身体を動かしていなかったせいで、以前より身体の締まりがなくなったような気がする。
「お腹周りが可愛くない……」
ヘソ出しスタイルのトレーニングウェアだから余計に気になる。
湊音はベンチに座ったまま、自分のお腹をつまんで小さくため息を吐く。
「もしもし、どうしたの?」
『今何してますの?』
「河川敷でジョギング中」
さっきまで落ちていた気分が浮き上がってくる。
まだまだ問題は山積みだが、祥子と和解できたことで少しずつ精神的な余裕も戻ってきていた。
『……近いですわね。コンビニで飲み物買って向かいますわ』
祥子はそれだけ言って通話を切った。
別にそんなことしなくても良いのにと思うのと同時に、今の自分ではあまり可愛く見えない気がして、少しだけ会うのを躊躇ってしまう。
「お待たせいたし、ま──」
数分後、湊音の姿を見つけた祥子の言葉が途中で止まる。
祥子が滅多に目にすることのないポニーテール。そこから露わになったうなじを伝う汗に、一瞬祥子の理性がぐらつく。
「……どうかした?」
「いえ、何でもありませんわ。ええ、こちらをどうぞ」
「ん、ありがとう」
買ってきたミネラルウォーターを湊音に渡して、その横に腰を下ろす。
このまま直視していては色んな意味で危ない。祥子は湊音から視線を逸らし、何でもないように正面を向いた。
「空の方は大丈夫ですの?」
「ちゃんとご飯は食べてるし、前の俺よりかは元気だよ」
「……湊音は大丈夫ですの?」
立ち直ったとはいえ、湊音がもう二度と舞台には立たないつもりだったことを祥子は知っている。
自分からライブをやりたいと言い出したからといって、その抵抗までなくなったとは限らない。
「うん。湊さんにもレッスンのために体力つけとけって言われてるし……」
「そういうことではなく、いえ……そうでもありますけど……」
本人が口にしないことに、今ここで無理に踏み込む必要もない。
空から拒絶されている自分では彼女のメンタルケアはできない。ならばせめて、今は湊音のことを気に掛けていたかった。
「大丈夫だよ。それよりお水ありがとう。衣装のこととかもよろしく」
湊音も察したのか、安心させるように口角を上げて立ち上がると、再び河川敷を走り出した。
追うこともできたが、祥子に割り振られたタスクは少なくはなく、一度家に帰らなければならなかった。
(……湊音の希望とはいえ、何というか、すごく嫌ですわ)
豊川の屋敷に戻った祥子は衣装のラフスケッチをしながら、指定されたブランドのことを思い出して苦い顔をした。
祥子としては、一度きりのバンドなのだから手持ちの服を組み合わせる程度でも構わないと思っていた。
が、それでは可愛くないと湊音が言い出したことが発端だった。
友希那を経由してRoseliaの衣装担当を頼ることも考えたが、事務所を通さず仕事を頼めるはずもない。
だからと言って『ANON TOKYO』が良いと言い出すとも思わなかった。
(愛音さんが嫌というより、それで調子に乗った彼女が物凄く……こう、面倒くさそうというか……)
溜め息を吐いていてもしょうがない。愛音に連絡を入れて、打ち合わせの予定を取り付ける。
湊音と仲直りできたことも付け加えると、すぐに返事が来て、そのまま喫茶店で落ち合うことになった。
祥子が喫茶店に着くと、先に着いていた愛音を見つけ、その対面に腰を下ろす。
「仲直りできたの?」
「えぇ……まぁ、おかげさまで……」
「良かったじゃん。それで今日は何?」
愛音に用件を尋ねられ、祥子の眉が僅かに動く。
ここまで来てしまえば、もう言わないわけにもいかない。
「湊音がライブ衣装をANON TOKYOに頼みたいと……」
「私に!? てか湊音くんライブやんの!?」
「声が大きいですわ……!」
既に目をキラキラと輝かせている愛音を窘めながらも、やはりこうなったことに頭を抱えたくなる。
「そんなことよりさ。別に衣装を作るのは良いけど、条件があるんだよね」
「わたくしにできることなら何でもいたしますわ……」
「よし、言質取った」
愛音がポケットからスマホを取り出して、先ほどの祥子の言葉を再生した。
「は? えっ?」
「いやー、録音してて良かったよ。ここで逃げられたらそよりんとりっきーに何言われるかわかったもんじゃないし」
思わず素っ頓狂な声を出してしまう祥子に愛音は悪い笑みを向ける。
相変わらず独特な渾名に一瞬眉を顰める。そよと立希の名前が揃って出てきたことで、祥子の中で嫌な予感が膨らんでいく。
「……何をさせるつもりですの?」
「難しいことじゃないよ。ともりんとそよりんとりっきーに会って貰おうってだけで」
「それは……」
自ら捨てたはずの
それでも、もう二度と関わりたくないと拒絶する気にはなれない。
今はライブの準備もある。だからといって、この話をいつまでも先延ばしにできるわけでもなかった。
「……いつですの?」
「いがーい。会うんだ」
「何でもする。と言いましたから」
以前なら断っていただろうことを思えば、湊音と和解できたことも少なからず影響しているのかもしれない。
「そう。じゃあ採寸の話なんだ──」
「湊音と睦の分はわたくしが測りますわ」
「いや、だか──」
「わたくしが湊音と睦の採寸をします!!」
あまりにも力強い祥子の言葉に愛音は気圧される。
それはそれとして、一つの疑問が浮かぶ。愛音は少しからかうつもりで口を開いた。
「本当は湊音くんの採寸を私にさせたくないだけだったりして~?」
「……」
「黙んないでよ。ガチっぽくなるから」
さっきまでの勢いはどこへやら。
黙り込んでしまった祥子はスマホに保存していた画像を開き、愛音に差し出す。
「……使用する素材は湊音が保管していた『桜花嵐の桜』の衣装をと指定がありました」
「さらっと重たいこと言われた気がするけど、誤魔化さないでよ」
『桜花嵐の桜』で使われていた衣装を、新しい衣装の素材にする。それだけで愛音にも湊音が半端な気持ちでライブをしようとしているわけではないと伝わる。
それは祥子にも伝わっているだろう。
だからこそ、指定されたとはいえ、たかだか自分たちの衣装を作ってきただけの素人に任せていいのかと不安にもなる。
「……本当に使っていいの?」
「ええ……お願いいたしますわ」
それからは真面目に打ち合わせをして祥子の用意してきたラフスケッチを確認しながら、衣装全体の方向性やそれぞれのデザイン案を詰めていった。
「そういやさ。湊音くんは今どうしてんの?」
「Roseliaの湊さんからボーカルレッスンを受けてますわね」
湊音の状況を尋ねられたせいか、祥子は不意に今朝の彼の姿を思い出してしまう。
本人が可愛い系の方向性のファッションを好んだり、意図して露出を減らしている都合であまりトレーニングウェアのような格好を目にすることはないせいで、余計に祥子の脳内にこびりついてしまっている。
(雑念。雑念ですわ……)