畳の敷かれた薄暗い部屋、片膝立ちのまま動かない少女は机の上に置かれた拡声器に目線だけを向ける。少女の頭よりも高い場所に置かれたそれは高圧的な声色で色々と指示を出し、締めの言葉を伝えた。
「確実に成せ」
少女は言葉で返さない。ただ一段と深く頭を低くしてスピーカーの電源が切れるのを待つだけだった。
場所は変わって生徒会室、この日珍しく非番でありながらも鉄仮面を被った世南は綺羅莉に選挙戦の勝負を申し込んだ。世南のイカサマを見破れていなかった綺羅莉にとって、ここで戦うことはかなりの不利。しかし真相に近づくチャンスが向こうからやってきたということに我慢できず飛びついてしまった。
「桃喰綺羅莉会長…治安維持委員会の長としてあなたを討ちます」
「いいわよ、それで何を何で賭けるのかしら」
「会長が賭ける者は票の全てと選挙戦からのリタイア」
その言葉を聞いた清華が懐に手を入れてスタンガンの準備をする。綺羅莉の票数は学園内で二位、やるかどうかは別として首位である定楽乃から票を直接奪わなくても他の所有者から票を巻き上げることで勝ちを狙える位置にいる。その地位を世南は一度の勝負で簒奪しようとしている。世南の持つ票は恵理美と三理とカワルの三人からの勝ち分だけ、身の丈に合わないその要求は当然それ相応のリスクが求められた。
「なら琉偉、あなたは何を賭けるのかしら」
「当然ですがまずは私の持ち票。そして…横七島の所有権」
ジュラルミン製の円筒、そこから取り出されたのは横七島の所有者を変更するために必要な記入事項が全て埋められた書類。リリカは横七島にある横七の施設が資産として運用できるようになればそれは学園の生み出す利潤の三倍にもなるのではないかと計算する。
「私にとっても会長にとっても悪くない条件でしょう。そしてやるギャンブルは…」
四人が座れる机と緑色の敷物、その上に置かれる136枚の麻雀牌。そして二つの何かしらの機械。
「電撃麻雀、とでも呼ぼう。局が終わる度に(自分の得点-相手の得点)の1/1000Vの電流が右手から右肩にかけて流れる」
「感電死の危険が出てくるのは確か42V。電流が心臓に流れない以上は死の危険はない」
世南が右の手と肩にAEDなどの電気ショックを利用する器具と同じようなパッドを貼る。死ぬことはない。かといって静電気のような痛いだけで済むものでもない。自分ではその価値を深く意識したことの無い綺羅莉の美貌、それが右腕という限られた部位であるが失われる可能性。常人であれば例え踏み込めるとしても一瞬の逡巡が発生するそれを、綺羅莉はまるで何も聞いていなかったが如く堂々と体面に座った。
「るな、あなたのところの委員を二人呼んで空席を埋めて。清華は夢子を呼んであげて、放っておいたらきっと恨まれちゃうから」
「あいよ、流すのが得意な子をすぐに呼ぶね」
そして始まった電撃麻雀、自動の麻雀卓が普及した現代に手積みで牌を混ぜるという古風な所から既に勝負は始まっていた。
「悪いが…国士無双、役満だ」
親となった綺羅莉が牌を捨てた瞬間、世南が自身の手牌を開示する。得点は32000点、最初の持ち点が25000点のため世南は勝負が始まってからわずか数分の間に57000点、綺羅莉は-7000点となる。そして役満によって局が終わったため綺羅莉の腕に取り付けられたパッドから{57000-(-7000)}÷1000=64で綺羅莉の腕に64Vの電流が流れる。綺羅莉の腕に流れた電流は右腕部分の服を焦がす。極めて短い時間だったため出血はなかったが神経が麻痺して二局目に移る前に少しの時間が設けられた。
「会長、大丈夫ですか⁉」
煙の出る右腕を駆け寄ってきた清華が触診する。次第に動くことができるようになった腕で綺羅莉はスマホを取り出すと、どこかに電話を掛けるために一度退室した。およそ30秒ほどで戻ってきた綺羅莉は席に戻る前に清華と話す。
「ねえ清華。あなたはスタンガンを自分に使ったことがある?」
「仰っていることの意味が分かりませんが、今のよりも威力の低いものでしたら一度」
「こういう感じなのね、感電するというものは」
少し焼けた腕を笑顔で撫でる綺羅莉に清華は何も言わない。いや、言えない。そのままの流れで始まった第二局、この局もまた一巡目に綺羅莉の捨てた牌で緑一色を作った世南の勝利に終わった。得点は世南が89000点、綺羅莉は-39000点となった。今回流れる電流は128V、短い時間であっても死の影がチラつくその威力には流石の綺羅莉も呼吸で肩が上下している。
「会長、これ以上は!!」
ボロボロになり始めた右腕に応急処置をする清華は認めないことを承知で試合を捨てることを進める。何とか回復した綺羅莉は首を横に振った。
「そろそろ来るわ。だから待ちましょ」
スマホを雀卓の上に置いてそのまま第三局を始める綺羅莉。既に世南が何らかのイカサマをしていることは明らかな状況、なぜ綺羅莉がイカサマを指摘せずにそのまま続行しているのかが清華には分からなかった。
この局は世南が親。再び世南が役満で終わることは目に見えている。綺羅莉から直接点棒を毟るために綺羅莉の捨て牌であがることを考えれば世南は137000点、綺羅莉は-87000点となり流れる電流は224Vの高電圧になる。このまま局が続けば綺羅莉が死んでしまう。そう誰もが思っていた時、雀卓の上に置かれた綺羅莉のスマホが震えた。
「あら失礼」
伏せていたスマホを取って電話に出た綺羅莉は廊下に出ようと歩みを進めたが途中で切り返し窓を開けた。綺羅莉の奇行を誰も理解できず、窓の近くに立ったまま席に戻ろうとしない立ち姿に流石の世南も苦言を呈した。
「会長。いい加減お席に…」
「あらそう? 窓を開けてほしかったのではなくて?」
「何を」
やや怒気の篭った声が世南から漏れるが、すぐにその感情は反転することになる。
「だって、あなたがお願いしたのよ? 電話で、だけど」
耳に当てていた画面を世南に向ける。そこには通話中の文字と共に世南の名前が書かれていた。それに世南が驚愕し否定しようと椅子を引いた瞬間、綺羅莉の開けた窓から黒い影が飛び込んできた。影は窓の側で立っていた綺羅莉のすぐ横で立ち上がりその正体を見せる。
「遅かったわね、琉偉」
「これでも南国から来たので早い方だと思うんですがね」
治安維持委員会の制服ではなくその下に着ている黒のワイシャツ姿の世南。それが見るのは麻雀卓に手を着きながら立つ鉄仮面を付けた世南。この世に似た顔の人間は三人いるというが同じ人間はドッペルゲンガーを除いていない。仮にドッペルゲンガーだとしても今ここでどちらかが死ぬが本物の世南がドッペルゲンガー程度に負けるはずがないため敗死するドッペルゲンガーが見えると綺羅莉は内心ワクワクしていたが、鉄仮面の世南は自身が本物だと主張した。
水掛論になることが明白なそれを綺羅莉は時間の無駄だと斬り捨てどちらが本物の世南なのかを示すことにした。
「清華、黒のボールペンを持ってるかしら?」
「あ、はい。ここに」
胸ポケットから出した黒のボールペンを受け取った綺羅莉はそれを窓から入ってきた世南に見せる。
「琉偉、このボールペンの色を当てなさい。ただし外した場合と黒色と言った場合はあなたの婚約者を捨ててもらうわ」
まるで簡単な事務作業のように行われたそれを世南は鼻で笑った。綺羅莉のやりたいことが分かったからだ。
「閣下。答えますから私が正解した場合は二度と婚約者を賭けの対象にしないと約束してください」
「良いわよ、賭けてもいいわ。それで色は?」
「赤です」
その言葉に最も強く首を横に振ったのはボールペンを提供した清華自身だった。今日の業務でもそのボールペンを使ってサインをしたためそれの色が黒であることは分かり切っている。他の生徒たちも綺羅莉に言われたことを必ず遂行する清華が指定された色以外のボールペンを渡すはずがないと考えていた。
「じゃあ、答えを見てみましょうか」
紙の端切れに綺羅莉が筆先を滑らせる。黒色と書かれた字の色は文字通りの色ではなく世南の言った赤色だった。この場にいた誰もが琉偉がペンに触れていないことを見ている。電子顕微鏡でようやく観測することのできる粒が世南の血を纏ってペン先を覆っていたことなど確認できない観衆は、絶対という二文字を打ち破った彼こそが本物の世南であると認めた。
「これで明白ね、どちらが本物の琉偉なのか。それで…あなたは誰なのかしら? 鉄仮面を被った誰かさん?」
徐々に迫る綺羅莉と世南というこの学園内で敵に回してはいけないツートップが迫ってきても尚怯まない偽世南は懐から大型のアーミーナイフを取り出すと二人に向かって突撃してきた。周囲から悲鳴が挙がる中、綺羅莉を庇うように世南は前に出ると、鉄仮面を強く押し出し頭部に衝撃を与える。常人であれば気絶するその一撃に何とか耐えた偽世南は自身の頭部を叩いた世南の右腕にナイフを深く突き立てるとたたらを踏みながら距離を取る。しかし数歩下がったところでナイフを抜かずに追撃を掛けてきた世南によって足が手刀で切断され鉄仮面も奪われた。
「見覚えがないわね。あなた、誰」
仮面の下に隠された偽物の素顔を見た綺羅莉は頭の中にある記憶を全て漁っても目の前の人物と同じ顔を持つ人物がいないことにますます興味を持つ。足…いや、正確には足に偽装した竹馬を失って世南の姿を保つことができなくなった偽物は治安維持委員会の制服を脱ぎ捨て己を現した。
「私の名は影喰。成り代わりを家業とする影喰家の者」
黒い髪を短く切って整えているその少女は背が小さく140㎝ほどでまだ成熟していない体と低い声に似合わない可愛らしい顔も相まって中性的に見えた。影喰と名乗る百喰一族の者であるため世南は綺羅莉に目線を向けた。
「知らないわ。影喰という家の存在は聞いたことがない」
「それは当然だ、桃喰綺羅莉。影喰家は上役様によって存在を秘匿されている。百喰家の暗部であり上役様に従わない当主を排除する隠し玉」
「へえ。つまらない人間の集まりとばかり思っていたけれど、悪くないわね。それであなた、名前は?」
「影喰だ」
少しの間も置かずに返された綺羅莉の望んだものではない返答。内心でやはりつまらない人間のやることかと思いながらも再度名前を聞いた。
「あなたがまず最初に貰ったものよ。下の名前は何かしら?」
「私に名前など無い。影喰家にとって、名前など成り代わった相手が持っていたものに過ぎない。私が一族から貰ったものは、仕事道具とこの体に叩き込まれた技術のみ」
「…はあ、もういいわ。ギャンブルを再開しましょう」
影喰の返しに興醒めてしまった綺羅莉は席に着くと倒していた手牌を起き上がらせる。それは影喰や参加していた選挙管理委員も同じだったが、全員が目を見開いた。
「牌が…変わっている⁉」
綺羅莉が席を立ってからの時間の間に、四人の手牌が全て入れ替わっていた。全員が倒した手牌から目を離したのは世南が現れたときと影喰がナイフで二人に迫った時の僅かな時間しかない。いいや、監視をしていた黄泉月は世南に視線を向けながらも注意は常に卓から逸らしていなかった。その中で全ての牌をすり替えることなど、どれだけ訓練を積んだ雀士でもできるはずがない。だがこの場にいる者はみな、これができる人物を知っている。世南という男ならば、この程度のことなどできることは予測できる。
綺羅莉は世南が無意味に手牌を変えることなどしないことは知っていた。自身の手牌を眺め、世南が望んだことを考える。そして舞い降りたのは一つの答え。圧倒的に不利な現状を脱却する一手。
「オープンリーチ」
自身の手牌を公開して綺羅莉は宣言する。他の三人はもちろん、麻雀の知識がある人間は何が危険牌なのかを理解しそれを避けて捨てる。影喰も当然のことながら手中にある危険牌は当然切らず安牌を通した…はずだった。
「ツモ和了よ、それ」
影喰の指に隠れた牌を指さす綺羅莉。あがれるはずがないと思いながら自身の捨てた牌を見た影喰は、自身の眼を疑うほどの衝撃を覚えた。
「危険牌を、捨てていた⁉」
切ってはいけない、故に他の牌を捨てた。そのはずだったが、いつの間にか安牌は危険牌となって川に並んでいた。それを認識した影喰は次に綺羅莉の役と点数を計算する。親切なことに綺羅莉が役を読み上げ黄泉月が点数を計算したため非常に楽だったその確認作業は、しかし影喰の息の根を止めかける。
「大四喜・字一色・スーアンコータンキ待ち・スーカンツ・八連荘。オープンリーチの振り込みもあるわ」
「凄いね会長、9倍役満で432000点だよ」
つい先ほどまでは世南137000点、綺羅莉-87000点で224000の点差があったというのにも関わらず、たかが一局で綺羅莉が345000点、世南が-295000点とひっくり返った。そして当然、綺羅莉のあがりで局が終了したため影喰の右腕に電流が流れる。その電圧は、640V。人体どころか電化製品にすら流してはいけないそれが、鉄仮面を騙った影喰に流れる
「ゴゲガヴァァーーーーッ⁉」
悲鳴とすら捉えることができないほどの絶叫。家につけられた修練かそれとも運の良さか、どちらかは分からないが腕が爆ぜ感電死することなく第四局を迎えることができた影喰は回復した両腕で積み込みを行う。
「ま…だ、終わって…」
肩に貼り付けた電極から逸れた電撃によって焼かれてしまった喉が唸り声にも聞こえる怨嗟の声を発する。
第三局の敗北は牌から目を逸らしたからすり替えをやられて敗北した。それならば常に見張っておけばいい。問題の世南が綺羅莉の後ろに立ったため二人を同時に監視することができる影喰は開いてしまった点差を埋めるため少し現実的ではないが攻めの姿勢で牌を積み上げた。
「こう…さん、する」
自身の手牌を見てすぐに出てしまった影喰の言葉。親かも怪しい一族の者たちによる虐待と同義の厳しい訓練によって身に着けた技術の一つである麻雀の積み込み。それの結晶がまるで波に攫われた砂の城のように跡形もなく消えている牌を見たときの影喰の絶望は、人生の全てを否定されたのと同じだった。
悔しさと恐怖に震える手が当たって倒れてしまった影喰の手牌。攻めの姿勢で積み上げた牌は、いつのまにか身動きすらできないほどに窮屈な弱い牌となっていた。牌を手で混ぜていたときに見えて確実に自分の手元に来るよう積んだ牌すら消えていたとき、影喰はこのギャンブルに敗北する運命であることを理解してしまったのだ。
「世南君改め影喰ちゃんの降参でギャンブルは終了ー…なんだけど、これの清算ってどうする?」
片手を高く掲げて終わりを宣言した黄泉月だったが、言葉の歯切れは悪い。というのも今回のギャンブル、影喰が負けた場合は持ち票と横七島を譲渡することが決められていたが、それらは世南の物。変装によって世南に化けていた影喰に世南の資産を左右する権限がない以上、今回のギャンブルは無い物を賭けて行われていたため無効にするしかないがそれを腕が電気で焼かれた綺羅莉の許す所かは話が違う。
「今回のギャンブルは正式に申し込まれ受理された以上、票と島の譲渡は認めなければならないと私は思いますが」
「でも世南君、今回の件に君は巻き込まれただけでそこまでする必要は…」
「いいじゃないるな。琉偉がこう言っているんだし」
そうして世南は影喰が用意していた完全に本物な偽物の島の譲渡を行う書類にサインを行う。この世に二つとあってはならない物が出来上がり綺羅莉に渡される。後は受取人の欄に綺羅莉の名前が書かれるだけで横七島の所有権が横七から百喰家に移る。
学園を離れていた世南の登場という想定外があったものの影喰が…いや、正確には影喰を送り込んだ百喰家の上役たちが考えたシナリオ通りの展開となっていた。上役たちにとって、このギャンブルは勝ち負けなどどうでもよかった。勝てば綺羅莉が当主の座を追われ、最高の場合は命を落としてくれる可能性があった。逆に負ければ世南というダークホースがいなくなることに加えて横七の所有する重要拠点を手に入れることができる。失う物が下っ端のガキ一人というダメージにすらならないダメージで計画が終わることも好都合だった。
「でもね琉偉。私はあなたと最高の舞台で戦いたいの」
そこまで完璧な計画を立てることができた上役たちが最後の最後で外したことは二つ。一つは綺羅莉が世南と選挙戦で争うために戦利品の受け取りを拒否したこと。
「それに、無人島なんていらないわ」
もう一つは世南が横七島の受け渡しに備えて島にある施設を全て解体、今の横七島はただの太平洋に浮かぶ無人島になっていたこと。もちろん綺羅莉は世南が下した判断について知らない。だが世南という綺羅莉が認めた男がそう易々と自身のテリトリーに侵入しようとした外敵を許すはずがないことは知っていた。そして横七島がハワイのすぐ近くにあり日本の政財界を支配する百喰家が進出すれば国家間の緊張を生むという地政学的なリスク。これらを考えれば受け取ることは敗北を越えて死に直結していた。
「じゃあじゃあ、このギャンブルは影喰ちゃんの降伏で会長の勝利だけど受け取りは無しってことでいいね?」
「それでいいわ。だからあなたの委員会よりも先に影喰と話をさせて。琉偉もいいわよね?」
「お家騒動であるというならば部外者の私が関与する余地はないです」
「ありがとう。リリカ、影喰を運んで」
「承知した」
リリカに担がれて運ばれる影喰はサレンダーを宣言した後に意識を失っていた。電流による腕の火傷は酷く処置する者が誰もいなかったという悲劇によって燃えなかった上着で隠すことしかできていない。色々と聞きたいことがある綺羅莉だったが意識が戻ることがスタート地点であるため上役たちに奪われないよう影喰を横七大学病院に運び込んだ。
後日、影喰が意識を回復したという一報を聞いた綺羅莉は単身病院へと飛んだ。横七島の譲渡に関する偽物の書類を完璧に用意した人物ということだけあって厳重な警備がされている病室のベットで横になっていた影喰はギャンブルをしていたときのような気迫は無かった。
「何の用だ」
清潔な白い天井を見たまま入室した綺羅莉に発した影喰の言葉に感情はない。ただ機械的な発話が行われていた。
「あなたのことが知りたくて」
好奇心の強い綺羅莉らしい来訪理由を影喰は受け入れる。体に流れた電流は脊髄の神経も一部焼いてしまったため四肢が揃っていても十全に動かすことはできない。仮にそうでなかったとしても暴れればプライバシーという概念を知らないのかと疑ってしまうほどに取り付けられたカメラを見た横七の戦闘員が飛んでくる。拒否権というものは影喰には無かった。
「私は何者でもない。影喰家に生まれた私は何者にでも成れるよう教育された」
「名前も無いのよね」
「そうだ。私にとって名前など成り代わった相手が持っていた物に過ぎない。そして時期が来れば私はその名を捨て再び名無しの影喰に戻る」
「好きな物は?」
「ない。相手が酒が好きなら酒を飲み、賭け事が好きなら賭け事に興じる。私にある物は影喰という家とそれから授けられた技術だけだ」
その容姿と学園内での姿から自然と同年代であると感じてしまう綺羅莉だったが、事前に横七から渡されていたカルテから実年齢が自分よりも片手分は年が上であることを知らされていた。しかしそうと知っていても前述の感覚が抜けないのはいつまでも全盛期の肉体を保とうとする影喰の努力の賜物か、或いは一族の強要か。少なくとも自分のように喜びを知らない人生であることは察しがついた。
事前に聞きたいと思ったことを大方知ることができた綺羅莉は更に影喰を知るために、ある提案をする。
「ねえあなた、今度は私のために働かないかしら」
ヘッドハンティング。勝負師としての技は疑いようがなく、ボディーガードとしても世南に一撃喰らっても倒れず逆に反撃することに成功した身体能力は学園を越えて一族の中でもトップクラスのものだった。
「いいだろう。任務に失敗した私は家からは追われる身。行く宛先がないのなら、お前に仕えるのが百喰家の人間として自然というもの」
「そう。ならこれからよろしくね、奈夜」
「…奈夜?」
告げられた名前に影喰は困惑を隠せない。自身には名前はなく、この部屋には自分と綺羅莉以外に人はいない。もちろん外にいる横七の人間に該当する名前の人物がいるかもしれないが、綺羅莉は自分を見てその名を口にしていた。
「あなたの名前よ。横七が調べたの。検査であなたが20年前に海難事故で亡くなった三人家族の一人っ子だったことが分かったの。その子供の名前が、奈夜」
「…」
綺羅莉の言葉からストーリーを出力するのなら、唯一の生き残りであり身寄りの無かった子供を影喰家が洗脳、教育して一族の人間として生まれ変わらせたとするのが妥当だろう。だが影喰には真偽が分からない。最も古い最初の記憶が水に溺れる苦しみであるが、それが本当に海難事故のものなのか一族の教育のものなのか見分けることができなかった。だがそれは些細な問題である。重要なことは、奈夜という名前が与えられたことである。今までは影喰家の何者でもあり何者でもなかった存在が奈夜という確固たる輪郭を持った一人の人間になったのだから。
「なぜ私が偽物であると分かった」
代わりに奈夜が返した言葉は、あの日の綺羅莉の行動。目の前に世南がいるというのに世南に電話をしたということは、あの時点で対戦しているのが偽物であると分かっていた以外に考えられなかった。それに対する綺羅莉の答えは至ってシンプル。それは奈夜の勉強不足の指摘だった。
「理由は二つあるわ。一つ目は私の呼び方。琉偉は私のことを閣下と呼ぶの」
一つ目の失敗に、奈夜は思わず臍を嚙む。事前の調査で世南が綺羅莉のことを名前や役職ではなく閣下と呼ぶことは知っていた。だが上役たちから植え付けられた綺羅莉に対する敵愾心が敬った言い方をさせることを許さなかったのだ。
「そして二つ目は、私があの勝負を運に任せたのに奈夜は積み込みをしたこと」
「は、はい?」
「琉偉は報復主義者。彼はイカサマをすればそれの100倍は強力なイカサマを行う。でも彼は進んでイカサマはしない。彼が唯一先手を打ったのは
虚無を抱いた綺羅莉は恍惚としながらも残念そうな表情で奈夜に語る。
「私と彼は被害者と加害者の関係。だからこそ彼は私を敬い、そして従う。だからこそ私は距離感を感じ、彼を追い込むの。これ以上、距離を取られないように」
その後、綺羅莉は奈夜が考える世南のイカサマについて詰問した。無論分かるはずがないそれに対する追及は、面会時間を超過して警備員に注意されるまで続くのだった。
奈夜(オリジナルキャラ)
成り代わりを家業とする影喰家に育てられた。家業の関係で必要となる肉体や技術などは虐待を越えた教育によって身に着け、世南には劣るものの地球規模でも稀有な強者となり綺羅莉の護衛に抜擢される。影喰家の血を継いでいると確信しているが、綺羅莉の言葉を信じるのも悪くないと思い出自については調べないことに決めた。
描写されなかった設定として、持てる物は技術と成り代わった相手の持っていた物という所から成り代わり相手の交友関係に羨ましさを覚え、友達という存在に憧れを感じているというものがある。思いついたはいいものの本編に活かすことができない己の不出来さを呪った。
影喰家(オリジナル設定)
百喰家を影で支える暗部的存在(ふわふわ)。桃喰家が暴走した際の上役たちのカウンターとして存在が秘匿されてきた。家業は成り代わりで敵対的な組織の人間はもちろん、骨肉の争いが起これば一族の人間であろうと成り代わった。成り代わられた相手はもちろん、秘密裏に処分されている。世南も当然消そうとしていたが、不在だったことと仮面を被れば成り代われるという簡単さから戦わずに済んだ。